書くことが生きがいになるまでの、長いようで短い話

カンジョウ

書くことが生きがいになるまで

こんにちは。

エッセイに挑戦しようと思って何を書くか迷いました。

プライベートな話をするのは少し気が引けるのですが、少しだけお付き合いいただけると嬉しいです。


私自身がこれまでどんなふうに生きてきて、どうやって今の「書くことが生きがい」みたいな状態にたどり着いたのかを、読者の方にちょっと聞いてほしいんです。雑談の延長くらいの感覚で読んでいただけたらと思います。


 そもそも、私が若いころ――20代の頃って、職場ではいわゆる「パワハラ」ってものが今よりずっと当たり前のように存在していました。(職場によりますが、、、)

上司からきつく当たられるのは「普通」で、怒鳴られたり、人格を否定されるような言葉を浴びせられたりすることも、蹴られることだってありました。


「まあ、これが社会というものか」と飲み込んでいたんですよね。今振り返ると不思議なんですが、その当時は自分が感じる苦痛よりも、「ここで音を上げるのは甘えかもしれない」みたいな固定観念が先に立っていたんです。それで傷つきながらも耐えて、「厳しくされることで成長できる」と自分に言い聞かせていました。もちろん、厳しい指導を全否定するわけではありません。でも、今となっては「そんなふうに無理する必要、なかったのかな、、、」とも思うんですよね。


 今の社会は、少なくとも私が20代だった頃よりは、パワハラに対する認識が進んでいます。(10年くらいしか経っていませんが、、)

世間的にも「怒鳴られて当たり前」みたいな空気は、ほぼなくなった気がします。もちろん、まだまだ理不尽な環境は残っていると思いますが、それでも「厳しくすれば人が育つ」という単純な図式は、徐々に崩れ始めている。

厳しくすることが優しさなんてことも言われましたし、私自身、後輩や部下に厳しくすることがなかったので、厳しくできない自分にも戸惑っていました。というか嫌われたくなかったんですけどね。


指導法で言えば少なくとも、怒りや恐怖で相手を動かそうとする方法が有効どころか、むしろ逆効果だというデータや意見は増えているそうですね。


 たとえば、仕事や教育に関する心理学の研究では、叱責や過度な緊張状態が創造性や学習意欲を削ぐ可能性があると指摘されることがあります。人は安心感があってはじめて自分を伸ばしたり、新しいことに挑戦したりできるものです。

私が20代の頃、そんな当たり前のことが自分の中になかったのは、当時の社会通念や私自身の視野の狭さによるものでしょう。今は「怒られてばかりで成長する」のではなく、「適度に認められ、対話しながら伸びていく」ことのほうが、より持続的な成長につながると考える人が増えているように思います。


私も、そのほうが人は育つと思っていますが、なかなか自分が思うようには相手が成長してくれないことの方が多いですよね。以前の私は、「私の教え方が悪いんだろうな」と沈みがちでした。相手に関与できる部分なんてあまりないし、相手の習熟度やモチベーションにはいろんな要因があるのに、それを自分の至らなさだけで測って苦しんでいた時期もありました。


 ただ、それも少しずつ考え方を変えられるようになってきました。なぜかというと、私自身が「実は内向的な人間」で、あまり人前で堂々と何かをするのが得意ではないから、相手の側にもその人なりのタイミングやペースがあるはずだと気づいたからです。私たちはそれぞれ異なる環境や体験を経て、異なるペースで成長していくものだと、知識では知っていても、どこかそれを認められない自分がいたんです。

それに気付くまでに随分かかってしまいましたが、「成長には人それぞれのルートがある」という当たり前のことを理解できたのは、私が少し年齢を重ね、過去を振り返る余裕が出たからかもしれません。


 その過程で私が見つけた、というか「気づいた」楽しさが、創作なんですよ。創作というと、絵を描く人、音楽を作る人、クラフトやアクセサリーを自作する人、いろんな方がいますが、私の場合は文章を書くことです。もともと妄想することは好きだったんです。日常生活でも「もし、今自分がいるこのカフェが異世界の入り口だったら?」とか「スーパーで並んでいるこの人には、何かすごい秘密があるんじゃないか?」なんて、どうでもいい空想をしていました。皆さんも、そんな経験が少しはあるのではないでしょうか?

走るのが嫌いだった私は、学生時代に走らされることがあると、いつも「どこでもドアがあれば楽なのに」と、ありえないことを走りながら考えていました。


 でも、それを形にして誰かに見せるなんて、正直考えたこともなかったんです。なぜなら、「そんなくだらない妄想を誰が面白がってくれるのだろう?」と思っていたから。ところが、ある時ちょっとしたきっかけで、文章投稿サイトに短いお話を書いてアップしてみたんですね。内容は、大したものではありませんでした。本当に短い空想物語の断片みたいなものだったんです。でも、何人かが読んでくれて、「面白かったです」とか「続きが気になります」といったコメントをつけてくれたんですよ。それは私にとって驚きでした。自分一人で楽しんでいた妄想が、誰かの中でもほんの少し息づいた。それだけで、私は「書くこと」への見方がガラッと変わりました。


 心理学的にも、創造的な行為はストレス軽減や自己肯定感の向上に役立つと言われることがあります。データとして明確な数字を示すのは難しいですが、例えば日記を書く習慣が精神面のバランスに良い影響を与えることは比較的知られていますよね。

また、アイデアを形にする過程で、脳内は活性化するという研究も存在します。脳科学の観点からは、新しい発想を生み出そうとするプロセス自体が、脳内でドーパミンやセロトニンなど、ポジティブな感情に関係する神経伝達物質を適度に刺激すると考えられるそうです。執筆という行為も、まさにそうした「内なる世界を外に解放する」行動と言えますから、没頭すればするほど、気分が落ち込んでいたとしても少しずつ浮上できる可能性があるんです。


 そして何より、書くことは自由なんです。仕事という枠から離れて、自分が思いつくままに世界を紡げる。それがどんなに奇妙な設定であっても、どんなに風変わりなキャラクターを登場させても、誰にも文句を言われない(もちろん公序良俗を守ることは前提ですが)。

その自由さは、私が20代だった頃、周囲の評価や厳しい視線を恐れて過ごしていたときには得られなかったものです。あの頃の私に「今度は自分が創作する側になって、しかもその行為に救われるよ」と教えてあげたいくらいです。


 もちろん、創作をはじめたからといって、すべての悩みが消えるわけではありません。職場の人間関係が急に改善することもなければ、嫌な業務が消えるわけでもありません。朝起きて、「仕事行きたくないな」と思うことだって、しょっちゅうあります。でも、それはそれでいいと思うんです。むしろ、仕事や生活のモヤモヤを、その日の夜にちょっとした短いお話として書き出してみると、不思議と心が軽くなったりします。変な例かもしれませんが、自分の悩みの元凶になっている上司を、物語の中で全然違うキャラクターにして、愛嬌のある脇役として登場させてみたり。現実にはない解決策を妄想の中で試すことで、心の整理ができることもあるんです。


 実際、言語化することでストレスを消化しやすくなるという研究報告もあります。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の研究チームが行った実験では、感情を言語化すると脳の扁桃体(感情処理に関わる部位)の活動が落ち着くという結果もあったそうです。つまり、書くことは自分の感情に「名前」をつけて整理する行為でもあるんですね。モヤモヤした不安を、物語のひとコマにしてしまうことで、「ああ、私はこう感じていたんだな」と理解でき、それが少しずつ気持ちを楽にしてくれます。


 さらに、書いたものを公開すれば、誰かが読んでくれます。もちろん、思ったような反応が来ないことも多々あります。自分ではこれは絶対面白いと思ったネタが全然反響を呼ばなかったり、逆に軽い気持ちで書いた短い文章に不思議と多くの反応が集まったり。評価や反応はコントロール不能な領域ですが、それも含めて面白いんです。誰かの反応を見ることで、自分がどんな部分を人と共有できたか、どんなところがまだ伝わりづらいかがわかってくる。それは創作という行為の中に自然と「学びのサイクル」があることを意味しています。


 私はそのサイクルに魅了されました。仕事は仕事で頑張りますが、創作を通して私という人間が世界に何かを発信できること、それを受け止めてくれる人がいることが、心の救いになっています。それは、まさに生きがいになりつつあると言っていいでしょう。特別な才能があるわけではありませんが、それでも続けることで「もう少し上手く書けるようになりたい」「次はこういう展開にしたい」と思えるようになったんです。


 また、不思議なことに、創作を楽しむ中で、他の人に対しても少しずつ寛容になれている気がします。自分が自由に妄想を紡ぎ、試行錯誤できることを実感すると、相手が何かに躓いていても、「きっとこの人も、自分なりのペースで何か表現しようとしているんだろうな」と思えるようになってきました。創作をやっていると、自分が自由に動き回れる「内なるフィールド」を知ることになり、その分、他人にもそうした「内なるフィールド」があるのだろう、と想像しやすくなるのかもしれません。


 今や、インターネット上にはたくさんの創作者がいて、上手な人もいれば、独特な感性をぶつける人もいます。みなさんそれぞれが自分の物語を紡いでいる。それを眺めていると、「こんな世界もあったのか」と視野が広がります。書き手も読み手も、境界があいまいな場所で、ゆるやかにつながっている。そのネットワークは、私たちがかつて経験した「怒りで縛られる職場」や「一方向からの評価」だけが支配する世界とは、まるで違う豊かさを持っているように思えます。


 おそらく、あなたも何かしら好きなことがあるでしょう。それが料理でも絵でも、写真でも散歩でも、何でもいいんです。もし、まだ言語化したことがなければ、その「好き」を文章にしてみるのも面白いかもしれません。自分の心の中を旅するように、好きなものの魅力を書いてみると、「ああ、私はこれが好きなんだ」と再確認できます。そこに誰かが共感してくれたら、一緒にその世界を楽しむ仲間が増えますし、共感がなかったとしても、その過程自体があなたを豊かにしてくれます。


 もちろん、書くことが合わない人もいるでしょう。私の場合はたまたま執筆が「自分らしさ」を表現するツールになっただけで、それが万人に有効とは限りません。ただ、もし少しでも興味があれば、紙とペンでもスマホでもパソコンでもかまわないので、言葉を紡いでみてほしいんです。最初は本当に些細な一文でいい。今日は仕事が辛かった、でも帰りに食べたアイスがおいしかった。そんな小さな出来事からでも、あなたの中に小さな物語の芽が息づくかもしれません。

このエッセイのコメント欄に書いていただいても構いませんしね。


 私は、このエッセイを通して、20代の頃に感じていた苦しさや、「怒られて成長する」しか方法がないと思い込んでいた頃の自分にも話しかけている気分です。その頃の私に、もし今こうやって「書くこと」の素晴らしさを伝えられるなら、どんなに救われただろうと思います。でも、遅すぎることはありません。今こうして、私が手探りのまま書いて、伝えて、それをあなたが読んでくださっている。その奇跡みたいな出来事が、ほんの少しだけ世界を優しくしてくれるように感じます。


 本日はこうして私の話を聞いてくださりありがとうございます。あなたにとって書くことが有意義かどうかは分かりませんが、もし何か趣味を探しているなら、選択肢の一つとして「書く」という行為を心の片隅に置いておいていただけたら嬉しいです。


 仕事に行きたくない日も、気が滅入る日も、私たちの人生には織り込まれています。でも、その合間合間に、私たちは自由な空想の翼を広げることができます。創作は、誰にでも開かれた小さな扉のようなものです。その扉を開けた先に、私が感じたような不思議な救いと喜びが待っているかもしれません。



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以上です。

ご精読くださりありがとうございました。

拙著を連載中ですので、よろしければご精読いただき★、感想いただけたら、とても嬉しいです。


またお会いしましょう。


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