暇だから

綿来乙伽|小説と脚本

目覚まし時計が目を覚ました。

 午前三時に起きた。まだ暗い中、僕は洗面所の電気を付けて歯ブラシを手に取った。洗顔は水だけで行なった方が良いらしいし、ぬるま湯を使った方が良いらしいし、熱湯が一番効果があるらしい。洗顔料は出来るだけ多く使うと汚れが落ちて良いらしいし、ごく少量で優しく触れると良いらしいし、洗顔料は使わない方が良いらしい。だから俺は、顔を洗うのをやめて、クローゼットに向かった。


 服を選ぶ時間が人生で一番無駄だと思っている。それは今僕が生きている世界線のせいもあるかもしれない。どうせ目的地に着けば正装に着替えなければいけないし、休日は二日しかない。月に八回しかない機会に数分の「今日は何を着ようかな」を使う必要を感じない。だから今日も、早めに正装を着られるように前開きの白いパーカーを着た。


 外に出ると案の定暗かった。もうすぐ冬になることを伝えている現在の気温。少し肌寒く、少し怖い。冬という寒さのラスボスが攻め入って来る予兆が見えるからだ。全部の敵を倒したと思って安心していたら、後ろから大きな足音が聞こえてくるあの感じ。まだあるのってあの感じ。少し前に「暑さ」という敵と戦ったばかりなのに、休憩を三日程挟んで冬到来。あり得ない。世界が人間のことを過大評価し過ぎである。人間が、特に日本人が「神は乗り越えれる課題しか与えない」と唱えている人が多いから天気も神も信じているのだ。他国なら体調が少しでも悪かったら仕事も学校も休むものを、エナジードリンクや漢方やギリギリ合法の錠剤などで対応して必死に「普通の人間」であろうとする。僕はそれが酷く滑稽に思えて、この生活を志望した。


 右の角を曲がると、自転車から降りた警察官が立っていた。彼はいつもそこに立っている。職務質問されるのかと思いながら前を通るが、いつも何もされない。話しかけられない、動かない。だから僕はただ通り過ぎる。こんにちは、とか、今日も精が出ますね、とか、知らない人に話しかけても犯罪にはならなかった良い時代だった時の挨拶はしない。この人は僕だけが見えている幽霊警察官か、午前三時に警察官コスプレをしている変態か、どちらかだと思っている。僕はこの時間にこの道を歩く時、この人がいなくなれば冬の寒さや夏の暑さから感じる「恐怖」が少しだけ無くなるのにな、と思っている。


 大通りに出た。午前四時を回った頃なのに、もう既にたくさんの車が世界を照らしていた。この時間に起きて行動している人を心から尊敬する場所だ。信号を待つ僕の前を横切るように大型トラックが通る時は、海外から取り寄せた可もなく不可もないただ色の濃いだけのグミのことを思い出す。あんなもの一つの為に、配達界隈のたくさんの人間の人生が動いていると思ったら心底申し訳なくなる。だがあんなもの一つで経済が回っていると思えば、それもまた乙である。


 僕が早く起きているのは、目的地が自宅から少し遠い場所にあるからだ。引っ越せば済む話なのかもしれないが、引っ越してしまうとこの生活が出来なくなる。あの家があってこその今の生活なのだ。だから、どれだけ遠くても僕は引っ越さずに徒歩で目的地に向かう。というより、目的地に近い場所に住むほど、今から行く場所に興味がない。

 

 『きっかけはなんですか?』

 『きっかけ……そうですね……暇だったからです』

 『ちょっと、持田さん』

 『ああ、すみません。これには続きがあります。暇で暇で散歩をしている時、ここに辿り着いたんです。敷地ギリギリに立って、こんなに真っ白なビルは初めて見たなあと天まで昇る塔を見つめてしまいました。じっと見ていると、真っ白な服、ああ僕達の正装になりますが、それを着ている方々が続々と塔から出て来たんです。僕はその時思いました。この人達、忙しいんだろうなって』


 午前四時を回った頃、やっと目的地に到着した。真っ白で大きな塔は、少し雲がかった午前四時では厳かな雰囲気は伝わらない。それが本性を見せるのは、日が昇って影が逆さに現れる時なのだ。


 「持田さん、おはようございます」

 「どうも。今日も早いんですね」

 「ええ。私はここに住んでいますから」

 「そうでした忘れてました」

 「またそれを着て来たの?これを着て自宅から来たら良いのに」

 「そんなことしたら、ここに来るまでに職質くらっちゃいますよ」


 僕はいるかいないかよく分からない程影が薄い三島さんと影の薄い話をして玄関を歩いた。


 僕がドアを開けると、朝食を済ませた信者達が道を阻むように蠢いていた。僕の歩く音に気付いて全員が除けていく。これは僕が彼らとは違う服を着て、違う場所からやってきているからである。僕が彼らと同じ正装を着ない限り、彼らは僕のことを仲間だと認めないのだ。


 「おはよう、もっち」

 「おはよう。今日も早起きで偉いね」

 「早起き?早起きって何?」

 「ごめんなんでもない」


 そんな僕に唯一話しかけてくれるのが、親が信者である、信者二世の「トオル」だ。彼は人間で言うと小学三年生ほどであるが、小学校や幼稚園には行ったことがない。教会の知識はあっても外に出れば非常識な人間である。まあ外に出ることがないのだから、それにすら気付けないのだが。彼は僕に話しかける度に母親に叱られている。だがそれを諸共せずに果敢に話しかける。その勇敢さを買って会話に応じている。


 僕はロッカールームに向かった。ここは信者が使うことはまず無く、外部講師や、新しい入信する方が正装に着替えるための場所である。いわば、この部屋に入ってしまえば、この教会の仲間入りなのである。そんな噂をしている信者達を見たことがあるが、僕がいつも使うロッカールームをそんな呪いの部屋のように扱われては少し気分が悪い。それに正装に着替えるだけでその気になってしまようような人間は、ロッカールームに来なくたって、着替えなくたって、ここの信者になれるはずだ。


 『持田さんがその「暇」になったのには何かわけが?』

 『ばあちゃんが死んだんです。僕が物心つく前に両親とじいちゃんが死んで、ずっとばあちゃんと暮らしてきました。学校に入学した時も、就職が決まった時も、一番に喜んでくれたのはばあちゃんでした。そんなばあちゃんが死んで、人一人が死ぬまで暮らしていけるほどの資産とその全てが僕に相続されることを知ったんです。僕がブラック企業で働いていることを知って、ずっと貯めてくれていたんですね。そういえば、ばあちゃんは節約家だったよなあと思い出したり。ああ、話が逸れてすみません。だから僕は暇なんです。少しでも時間が潰れたらと思って、入信しました』


 僕が着替え終わり講堂に向かった時には、ほとんどの信者が着席し談話していた。


 午前五時。朝礼が始まる。朝礼は複数人いる幹部が交代制でステージに上がり、教本を読み上げたり、礼拝をしたりする。大体メニューは決められているが、今日は少し違う。


 「田畑さんと、一宮さん。前へ」


 月に一回、成績優秀者への授賞式が行われる。今日はその日だった。成績優秀者、というのは「信者の大切さを重んじた人」に当てられる称号である。最初に呼ばれた田畑さんは、今月誰よりも布教活動を行なっていた。それも違法にならないギリギリを責めて、約三十人もの信者を作り上げたらしい。一方、一宮さんは多くの「脱信者」を引き留めた者として表彰された。悪く言うと、逃げる信者を捕まえた量が多かったのだ。一宮さんは毎日のように裏玄関やトイレの小窓を見回って脱獄する信者を捕まえている姿があった。田畑さんと違い、割とブラックなやり方であるが、この教会で行なわれていることを、人間の法律で裁くことは難しいので、ここでは一宮さんよりも脱獄犯の方が悪になる。


 「お母さん」


 僕の隣にはトオルが座っていた。彼の母親は、小窓見守りの一宮さんだ。一宮さんは、トオルが起きる前に脱獄犯を捕まえていると思っているが、トオルはそれを全て知っていて、母親が「小窓守りの一宮」と呼ばれていることも知っている。


 「母親が表彰されて嬉しくないのか」

「良いことをしていたら嬉しいけど、お母さんがしていることは良いことなのかな」


 お前鋭いな。この言葉を発しようとして止めた。


「どうしてそう思う?」

「田畑さんが連れて来た信者の人達はみんな楽しそうだけど、お母さんが守った人達はみんな苦しい顔をしているから」


 お前、鋭いな。


「僕、全部間違ってると思ってる」


 彼の言葉を聞いて、僕は喉を鳴らした。


 僕は暇だ。ばあちゃんが残してくれた遺産と共に、働かなくても生きられる人生を送れるようになった。だから時間が出来て、金が出来て、その代わりに人生における刺激や喜びを失ってしまった。だからこうして、興味もない朝礼をじっと眺めて、今日一日行う宗教活動をまるで信者のように行なっているのだ。それに比べて彼はどうだ。一宮トオルはこの教会で生まれ、真っ白な正装しか身に纏えず、たくさんの信者という大人に囲まれ、学校にも行ったことがなく、信者以外の人間に触れる機会は少ない。彼には刺激や喜びと称した何かがいつもあるかもしれないが、彼自身の自由がない。彼に信者であること以外の人権がないのだ。僕は彼に対する言葉で喉を詰まらせた。僕の人生と彼の人生は、全てが違ってどこかで同じなのだ。


「外に出てみたいか?」

「外?外って何?」

「俺がいつもどこから来ていると思ってる?」

「もっちは宇宙人だから空から宇宙船で来てるってお母さんが」

「じゃあそう思ってくれて良い。でもなトオル。人間は、真っ白な服を着ている生き物のことを言うんじゃない。講堂に集まって朝礼をしたり、礼拝をしたり、熱湯を浴びて大やけどを負ったりしない。ましてや成績優秀者が一か月教祖と同じ部屋で過ごすこともないし、成績優秀者なんて概念がない」


 僕は暇になる前、ブラック企業にいた。お前は一言余計なんだ。告発しようと証拠を揃えていた時にそう言われた。同僚も誰も庇ってくれなくて、日課のように行なわれていたいじめに耐えていた。でもそれは僕が一言多いから、人のことを考えすぎて自分を後回しにしてしまうから、自分のことなんて気にせず人の幸せばかり考えてしまうから、自分を無碍にしてしまうから。そう自責の念に苛まれていた。それが悪い事だとも思っていた。でもやっぱり、悪い事ではない。人の幸せを願って何が悪い。


「トオル」

「何?」

「友達にならないか」

「友達って何?」

「友達っていうのはさ、一緒に遊んだり、話したり、出掛けたりするんだ」

「なんか楽しそう」

「だろ?」

「でももっち、忙しいんでしょ?もっちは忙しいからあまり関わるんじゃないって」

「俺が忙しい?この世界で、俺が一番暇だよ。だから一緒に、遊びに行こう」


 僕はトオルと一緒に、教会を出た。

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暇だから 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21

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