連なる

増田朋美

連なる

その日も寒い日であった。杉ちゃんと蘭は、身延線に乗って、富士宮市にあるお菓子屋さんへ出かけていた。お菓子を買って、電車に乗り、二人は富士駅で駅員におろしてもらうと、なんだか向かい側の東海道線がすごい人垣になっている。

「あれれ、どうしたんだろう。」

杉ちゃんがそう言うと、ふいにこんなアナウンスが聞こえてきた。

「東海道線ご利用のお客様にご案内申し上げます。本日東海道線は、沼津駅付近で、人が線路に立ち入りました影響で、ただいま運転を見合わせております。運転再開の目処は立っておりません。今しばらくお待ち下さい。」

「はあ、自殺か。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。蘭は、そんなこと言ってはだめだろうと、杉ちゃんに言ったのであるが、駅員と他の客が騒いでいるので、それは聞こえなかったようだ。

杉ちゃんたちはとりあえず、駅員に手伝ってもらって、エレベーターに乗せてもらい、改札口を出させてもらった。すると、改札口の前で、一人の若い女性が、急に力が抜けてしまったようで、杉ちゃんたちの前で座り込んでしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

蘭が急いでそう言うと、女性は肩で大きな息をした。素人の杉ちゃんと蘭にも、パニック発作を起こしていることはすぐわかった。

「発作が起きてしまったら、飴でも舐めると良いって、影浦先生が言ってました。味が合わないかもしれないけど、よろしかったらどうぞ。」

蘭は、そう言って、持っていた巾着の中から黒飴を一つ取り出し、彼女に渡した。彼女は、急いでそれを舐めた。それをしてくれると、少し気持ちが楽になってくれたようだ。

「お前さんパニック障害か?」

杉ちゃんが聞くと女性は小さくうなづいた。

「そうか。じゃあ、この騒がしいところにいても困るだろう。僕が駅長に言ってあげるから、静かな場所で休ませてもらえ。」

杉ちゃんは、駅事務室の扉を叩いた。

「おい、ここに、パニック障害で苦しんでいる女性がいるから、ちょっと静かな場所へ連れて行ってやってくれ。」

そう言うと、駅事務室のドアがあいて、年を取った駅長さんが出てきた。富士駅の駅長さんは親切だった。女性の手を取って、彼女を駅構内のカフェへ連れて行ってくれ、静かな奥の席に座らせてくれた。

「どうもありがとうございました。」

女性は駅長さんに言うと、

「せっかくだからなんか食べようぜ。えーと僕は、サンドイッチと、」

「僕は、コーンスープもお願いします。」

と、杉ちゃんと蘭は、カフェのメニューをながめながら言った。駅長さんは、あとは杉ちゃんたちに任せると言って、駅事務室に戻っていった。

「ほら、お前さんもなんか暖かいもの飲みや。腹が減っては戦はできないぞ。」

杉ちゃんに言われて女性は、ホットコーヒーと言った。蘭は、すぐにウエイトレスにホットコーヒーを追加させた。

「で、お前さんの名前はなんていうの?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい、藤木結と申します。」

と彼女は答えた。

「まあここであったのも何かの縁だから、そういう塩は大事にしたいじゃない。それで、どっから来てどこへ向かうつもりだったんだ?」

「ええ。身延線に乗るつもりでした。そこで、芝川駅まで乗っていこうと思ったんです。」

杉ちゃんがそうきくと、彼女は答えた。

「でも、こんなにたくさん人がいるんだったらとても乗れませんよね。どうしても人の多い場所は苦手で。」

「そうなんですか。芝川にはなんの用事で?」

蘭が言うと、

「ええ、実家に帰るつもりでした。もう生活していけなくなったから、実家に帰れと言われていまして。」

と、結さんは答えた。

「生活していけなくなった。つまり、働けなくなったということですか?」

蘭がそう言うと、結さんは黙ってうなづいた。

「そうですか。職場でパワーハラスメントでもされたんですか?」

蘭はそう聞いてしまう。

「ええ、そうかも知れません。もう何があったかを自分で言うこともできないくらい。それを話したら、自分が辛くなってしまって、とても言えないんです。」

「はあ、なるほどね。」

杉ちゃんが言った。

「まあ確かに、気持ちを成分化するのは、精神疾患の人は苦手だといいますね。そこから始まるんですけどね。でも無理して、言わせようとすると、また病気が悪化してしまうと思いますから、強制的に言うことはしませんよ。それで、ご実家に帰ることは、ご家族にはお伝えしてるんですか?」

蘭はすぐ、彼女に言った。

「ええ。一応帰るとは言ってあるんですけど、まあ一度成人して家を出てしまった娘が帰ってくるというのは、嬉しくないようです。」

結さんがそう言うと、杉ちゃんと蘭は確かにそうだねえと顔を見合わせた。

「まあ、実家に帰るのは良いのかもしれないですけど、そこで何もすることは無いんでしょう?」

「そうそう。それに自分のことばっかり考えていると、気持ちも落ち込んで余計に悪くなるぞ。それなら、どこかに居場所を作ったほうが良い。僕らも、ここで知り合えたわけだし、そういうことなら、別の場所に行ってみないか。そこへ行ったほうが、少なくとも気持ちは楽になると思うんだ。だから、行ってみようよ。」

蘭がそう言うと、杉ちゃんがつけ加えるように行った。杉ちゃんという人は、すぐに本題を話してしまうのであるが、こういうときは、ありがたいなと思ってしまうのである。

「そうですね。僕もそのほうが良いと思います。人間関係を完全に断ち切ってしまうのではなく、新しい関係を持ったほうが良いです。僕らは、悪いようにはしませんよ。だから、一緒に来てみませんか?もし芝川から通うことになっても、タクシーで行けるところです。」

蘭は優しくそう彼女に言った。彼女はそうですかと考え込む顔をしたが、

「大丈夫だよ。世の中は、良いやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでもないって誰かの歌詞にあったじゃないか。まさしくそのとおりだ。だから大丈夫。」

と、杉ちゃんに言われて、結論が出たらしい。

「わかりました。じゃあ行ってみます。」

と藤木結さんは、そう言ってくれた。杉ちゃんたちは、出された食べ物を急いで食べて、カフェにお金を払い、そして駅長にお礼も言ってタクシーに乗って富士駅を出た。

「随分山の方まで行くんですね。」

結さんは、タクシーの中でそう言ってしまうほど、富士市は広かった。30分ほど駅からタクシーに乗って、杉ちゃんたちが到着したのは、山の中にある、日本旅館のような建物。正門には、模造紙に毛筆で「せいてつじょ」と書かれた貼り紙が貼られていた。

「ここはなんの施設なんですか?」

結さんがそう言うと、

「だからお前さんのような訳アリの女性が、いっぱいいるところ。」

杉ちゃんがすぐ答えた。製鉄所の玄関には、引き戸しかなくインターフォンが設置されていないので、杉ちゃんはなんの迷いもなく引き戸を開け、こんにちはどでかい声で挨拶をした。すると建物内から聞こえてきたのは、ゴーンガーンギーンという、不思議な音だった。

「はいはい。今、クリスタルボウルのセッションをやっているのですよ。どうされたんですか?」

製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんが杉ちゃんたちの前に現れた。蘭にしてみればどうもこの人は苦手意識のある人であるが、今回ばかりはそうはいかなかった。

「あのな、駅の中でパニック障害のある女性を拾った。何でも、居場所をなくして、芝川へ帰るところだったらしい。そこに閉じ込めるよりも、こっちへ通わせたほうが良いんじゃないかなと思って連れてきた。名前はえーと、」

「藤木結です。」

杉ちゃんが説明すると、結さんはすぐ自己紹介した。

「ああわかりました。今利用者さんも少ないので、新規で利用してくださっても良いですよ。今、セッションをやっているので、それが終わり次第、建物に入ってくれますか?」

ジョチさんがそう言うと、

「そんな事言わないで、こんな寒い中だから、部屋へ入れてやれ。」

蘭は、思わずジョチさんに言ってしまう。どうも、蘭は、この人が苦手であった。彼の前ではどうしてもぶっきらぼうになってしまう。

「そうですか、わかりました。でも竹村さんが、セッションをしているときにはあまり音を立てないようにと言っているんですがね。」

ジョチさんがそう言うと、

「じゃあ、セッションを見学させてやればいいじゃないか。」

蘭はすぐに言った。ジョチさんはわかりましたと言って、三人を建物の中へ入れてあげた。とりあえず、長い廊下を歩かせて、一番奥の部屋に連れて行った。そこにある縁側で竹村さんが、7つの風呂桶みたいなものを眼の前に置き、マレットと呼ばれる撥で、叩いたり擦ったりしていた。不思議な音はそこからなるのである。それを、二人の女性と、水穂さんが布団に座って聞いていた。女性の中には眠ってしまいそうな顔をした人もいる。

「はい、これで終了です。」

竹村さんはマレットをおいた。

「ありがとうございました。お収めください。」

水穂さんが、封筒を彼に渡すと、竹村さんは、それを受け取った。そして、すぐにクリスタルボウルと呼ばれる風呂桶のようなものを台車に乗せ始めた。クリスタルボウルはとても重いのである。竹村さんでも結構大変そうだった。でも、その音はとても重厚で、聴き応えのある音だった。

「本来クリスタルボウルというものは、3種類あるのですが、症状が重い水穂さんの場合、クリスタルボウルの中で、一番古いクラシックフロステッドボウルを使っています。長時間聞いていると辛くなるという方もたまにいますが、鬱などを緩和させるためには、これが一番良いのですよ。」

クリスタルボウルを片付けながらそう説明した竹村さんに、

「それは、うつの人だけのセッションなんですか?」

と、結さんは思わず聞いた。

「診断名は問題ではありません。どんな心の病気の人でも、気持ちを落ち着けてもらったりするのに効果があります。中にはがんの治療が辛いので、楽にしてほしいと言われたこともございます。」

竹村さんが結さんに言った。

「それに、20分間聞いただけでも、8時間眠ったのと同じくらいのリラックス効果が得られることもわかっています。」

「そうなんですか。それはすごいですね。あたしも、緊張しすぎてパニック発作があるけれど、それを聞けば、楽になれるかな。」

結さんは竹村さんの話にそう聞いてしまった。

「ええ。なれますよ。クリスタルボウルは、不安の緩和にも効果がありますから。それに、症状の強い弱いに応じて、クリスタルボウルの種類を使い分けることもできます。」

竹村さんは、にこやかに笑っていった。

「そうなんですか。それは誰でも簡単にできるんですか?」

結さんがそう言うと、

「ええ、じゃあまず、一度演奏を体験してみますか?」

竹村さんはそう聞いた。

「ええ。してみたいです。」

結さんは即答する。

「了解です。ちょっと音を聞いてみてください。それで、どんな楽器なのか、見てみてください。」

竹村さんはそう言ってまたマレットを取り、まだ縁側に残っている、クリスタルボウルを叩き始めた。本当に、お寺の鐘にドレミ音がくっついたような、不思議な音である。文字にするとゴーンガーンギーンという音になるんだと思われるが、叩くだけではなくクリスタルボウルを擦ることによって、また独特な重低音を生み出すのである。

「わあすごい。」

結さんは、竹村さんの演奏が終わると拍手をした。

「私も、クリスタルボウルを叩いてみたい。」

「そういうことなら、竹村さんに入門したらどう?結構お弟子さんもいるし、しっかり指導してくれるぜ。」

杉ちゃんがそう言うが、結さんはちょっと躊躇してしまった。入門するというのは、良いことなのかもしれないがちょっと、怖い面がある。

「なんか、音楽することが怖いんです。ごめんなさい。」

「いえ、良いんですよ。あなたが、あなたのペースで回復していくことが大事ですから。」

ジョチさんがそう言ってくれたので、結さんはホッとしたような顔をした。

「お前さん、教えられることになんかトラウマがあるの?」

杉ちゃんが言うと、

「それが口に出して言えたら、苦労しないですよね。」

と水穂さんが優しく言った。

「こんなやさしい人たちに初めて会いました。今まで私の周りにいた人は、みんな怒鳴ったり、大声で騒ぐ割には無責任で身勝手で、そういう人ばかりだったんですが、こんな優しい人達がいるとは思わなかった。」

結さんは思わず涙をこぼしてそう言ってしまう。

「本当はね、これで当たり前なんですけどね。それでは、こちらを新規利用ということでよろしいですか?それなら、入会申込書を一応書いてもらいたいんですが?」

ジョチさんが、そう言って、画板を結さんに渡した。もちろん、この入会申込書は、利用者になるために学歴や職歴などを書くものであるが、結さんはそれをすべて書くことができなかった。

「ああ、全部埋めようとしなくて結構です。だんだんわかってくることですし。ここでは、勉強をしてもいいですし、なにか仕事になるようなことをしてもいいです。あるいは、ハンドメイド製品を作っている方もいます。」

水穂さんが優しくそう言うと、結さんはありがとうございますと言った。そして、ジョチさんに入会申込書を渡して、結さんは製鉄所を利用することになった。

一応、結さんは、製鉄所に来て、勉強をするということになったが、結さんには勉強するものも無ければ、仕事もなかった。他の利用者さんたちは、みんな通信制の高校などに通っている人が多く、製鉄所で宿題をしたりしているが、結さんはそれすらもいけていなかった。それに、もう高校は卒業しているため、再度学校に入ることはできなかった。ジョチさんは彼女に、何もすることがなければ、床を水拭きするなりしてくれと頼んだ。結さんは、すぐにそれを実行してくれて丁寧に床を拭いてくれた。結さんが縁側の床を拭いていると、ピアノを弾いている音がした。それが、またなんとも言えない技巧的な曲で結さんも驚いてしまう。こっそりふすまを開けて覗いてみると、水穂さんが、ピアノを弾いているのであった。結さんはこっそり覗くつもりであったが、水穂さんはすぐ演奏の手を止めて、

「何を覗いているのですか?」

と、聞いた。

「ご、ごめんなさい。ただ、なんの曲だったのかなと思って。」

結さんは、そう言ってしまうが、

「ゴドフスキーのショパンの主題による練習曲ですよ。」

水穂さんはそう答えた。

「そうだったんですか。私にはとても弾けそうもありません。そんなすごいのが弾けるなんてすごいですね。」

結さんがそう言うと、

「たいしたことないですよ。ピアノを弾くのが仕事なら、このくらいの曲を弾くのは当たり前ですよ。」

と、水穂さんは優しく言った。

「そうなんですか。私は、働くという当たり前のこともできないんですね。そんなことができないで、これからどうやって生きていけば良いんでしょう。パニック障害も、医者に見せても薬もらうだけで何も変わりませんし。医者には、それだけ決め手となる治療法は無いって言われましたが、、、。」

結さんは、自分の思っていることを正直に言った。

「それに、自分で思っていることを、口に出せないんです。それが病気っていうことだと思いますが、自分が過去にあったことを、もう一回言ってみろと言われても、あたしは、どうしてもできないんですよ。」

「できないならできなくてもいいじゃありませんか。それは事実なんですから。それよりも、どうやって、回復するかが先でしょ。」

水穂さんは結さんにそういった。

「よく、過去を忘れることとか、捨てることとか言われるんですけど、それを話すこともできないし。それも、捨てることもできないんですよ。」

結さんは、正直に言った。

「良いんじゃないですか。言えないことを、言えと言われたら、それだって苦しいと思いますよ。そうですね。幸い、こちらでは、竹村さんもいますし、癒やしのしごとをしている方も何人か知っていますから、そういう方の治療を受けるのもいいと思います。遠回りしているように見えるけど、それは、大事なことでもあると思うんですね。」

水穂さんがそう言うと、

「精神科の先生は、民間療法で、発作が軽減することは無いってはっきり仰っていましたけど。」

結さんはそういった。

「それは、やってくれる人の腕次第ではないですか?そういう腕のある人に日本ではなかなか出会えないってことが、一番つらいところではあると思います。でもそれをとおして新たな人に出会えたら、また嬉しいことでもあると思うんですね。」

水穂さんは、結さんを励ますように言った。

「また、竹村さんは、セッションに来てくださるそうですよ。もし、何回かセッションを受けてみて、本当に竹村さんのところに入門してみたいなら、そうしてみたらいかがですか?決して、あなたは、世間から切り離されたわけでは無いんです。そうやって、他の人とつながろうとするきっかけがあるんですから。」

「そうなんですか。私、完全に切り離されてしまったのではないかと思ってしまいました。そうですよね、新しく何かにつながることもできますよね。」

「そうですよ。そういうことができるから、生きてるんじゃないかな。」

水穂さんは、そう言った結さんに、にこやかに言った。

「ありがとうございます。そう言ってくれたら、水拭きの仕事も、心を込めて実行していきたくなりますね。ほんと、人間、人の間って書いて、本当にすごいことやってるんですね。」

結さんはそう言って、また水拭きの仕事に戻った。なんだか、水穂さんが自分を見ていてくれれば、きっと居場所は見つかるのではないかという気がしてきた。それはもしかしたら、水穂さんのことを好きになったということかもしれないが、とにかく、結さんは、そう思ったのだ。そうやって、人は連なって生きている。決して、その中から、切り離したり、切り離されたりしてはいけない。逆にそこさえ保持しておけば、人間は人間のままでいられるのである。それが、一番大切なんだと思った。

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連なる 増田朋美 @masubuchi4996

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