小さな淑女と平凡な大学院生の壊滅的な日常
雨庭モチ
短編集
壊滅的な料理
「ねえ、アリィ」
その声で、その名を呼ばれるのは嫌いじゃない。
本当の名前はアレクサンドラだけれど。
「起きてる?」
温かなパーカーのフードの中で、彼の緩やかな歩調に揺られて微睡むのも気持ち良い。
「……ええ」
自然と落ちる瞼をこすって目を開き、何とか相づちを打つ。
地盤の不安定なフードの中、彼のうなじを隠すチェックのマフラーにつかまって姿勢を正すと、彼が首を後ろへ回して片目で覗き込んできた。
小さなアレクサンドラの視界を占領する大きなブラウンの瞳。長い睫毛がゆっくりと瞬く様子をぼんやりと見ているうちに、頭上から声が降ってくる。
「家に帰ったら、昨日作りかけてたアレを仕上げようと思うんだけど」
後ろを向きながらよく平然と歩けるものだ、と思う。
違う。
彼ならそんなことは難しい事でも何でもない。
そうじゃなくて……。
眠くて、いつものように頭が回らない。
今、一番に訊くべき事は——、
そう。
「アレって……、何のことだったかしら?」
小さな淑女と大学院生の壊滅的な日常
—壊滅的な料理—
まただ。
また彼がアレを着ている。
出会った頃、給仕するならメイド服がアレクサンドラの国の伝統だと言ったら、時代錯誤だと一笑された気がするけれど。料理をするのに、わざわざガスマスクと耐火服を着込むほうが何倍も珍妙だと感じるのは、この密室ではアレクサンドラだけのようだ。
そんな珍妙な重装備姿の人物は、機嫌良さげに鼻歌を口ずさみながらシンク下の棚に手を伸ばし、作りかけて不必要に一晩寝かせてしまった鍋を取り出す。
「よし、昨日の続きといこう」
壁際のキッチンと小さなカウンターとの間に立ち、彼が呟く。
アレクサンドラはこれから起こるだろう大惨事を遠巻きに眺めるべく、彼女の為にカウンターへ敷かれたランチョンマットの上に立って、宝石のような丸い瞳をコンロへと向けた。
一番に目に入ったのは、コンロの上に置かれた鍋の蓋にこびり付く、茶色のゴム管のような物体。
彼が昨日作ろうとしていたのは、確か『チキンとペンネのトマトパスタ』のはずだから、ペンネがゴム管に見える時点で明らかにおかしい。
というか、パスタを2日がかりで仕上げるという考えが根本から間違っている。
そこはかとなく、開けるのが怖い。
そう思っているのもアレクサンドラだけで、彼はためらいも無く蓋をパカッと開けた。
「…………」
「…………」
まず、異臭。
嗅覚を犠牲にして近づく勇気は無かったので、カウンターテーブルの上から見える分しか鍋内の状況は判らない。
視覚から確認できるのは、一様に焦茶色っぽいということだけ。
「……うーん」
唸った彼が、重そうな蓋を片手で軽々と持ち上げたまま、お料理教室の先生みたいな笑顔で振り向いた。
「始める前から既に失敗?」
「だと思うわ」
「おかしいなぁ」
どれだけ試みても、彼の味覚と料理音痴は治らないようだ。3ヶ月前の出会いから変わらない。
「ハイ、先生質問」
無邪気な高校生さながらの顔の横に、上げた掌が並ぶ。
「どうぞ、生徒のヒイロ君」
ふざけた調子に合わせてアレクサンドラが答えると、カウンターに近づいたヒイロは紳士のように指先を差し出して、彼女を掌の上へエスコートした。
彼がそのまま肩に乗せてくれたので、ボリュームのあるスカートを押さえて腰を降ろす。耐火服のごわごわした感触は、あまり心地良いとは言えない。
アレクサンドラは鼻を摘んで口で息をしながら、彼の視線を追って鍋の中を覗き込んだ。
「ほら。何でトマトソースが無くなってるんだろう」
「……ペンネが水分を吸ったのではなくて? 」
それでなくても昨日の時点で蒸発しそうな兆候はあったけれど。実りのない料理実験を一刻も早く止めてもらいたくて、ひとまず無難に答えておく。
「そっか。一日置いたのがいけなかったかなぁ……。また失敗だ」
言うまでもない真当な推論を導きだした彼の声は、あくまで真剣。
「パスタを一日置くなんて作り方、聞いたことがないわ。まさかレシピには書いていないでしょう?」
「うん、でも『一日置くな』とも書いてなかったよ」
そう言いながらガスマスクを外した途端、無表情だった顔が一瞬歪む。漂っていた悪臭に、やっと気付いてくれたようだ。
換気扇のスイッチに手が伸びる。
「ちなみに塩は『少々』、ハーブ類は『適量』だって。料理本って曖昧過ぎるよね。もう少し読者のことを考えて書いて欲しいな」
彼は特有の持論を展開しながら、鍋の中を占有する干からびた物体——たぶん元は鶏肉だったもの——を菜箸で器用に摘んだ。
「貴方って、つくづく理系思考なのね」
「そう?」
大学院生の彼が行う研究室での実験は、料理と似ているのに差し支えない。その理由が分かった気がして、アレクサンドラは色々な意味で納得した。
実験では分量や時間が明記されていて、精確さが大事になってくる。
ならば、パスタの塩も『水分量に対するパーセンテージ』を書いておけば成功するのだろうか。ただし分量の問題をクリアした後には、曖昧な火加減と、さらに曖昧な火を通す時間という難関が待っている。
とにかく。幼子の顔で未だ首を傾げるヒイロを説得するのが先決である。このままでは、また新たに作りなおすなどと言いかねない。
アレクサンドラは後ろを振り向いて、テーブルに置かれた数種の皿を見渡した。
「大人しく諦めて、そこにある素敵な料理を頂きましょうよ」
ラップに包まれて並んでいるのは、見るからに彩りの良い品々。
鰆の西京焼きと海老マヨ大根サラダ。彼の友人、咲良が作り置きしてくれた料理だ。
シェフ顔負けとは言わないけれど、咲良の作った料理は丁寧で美味しい。たまに作るお菓子も絶品だった。
この間ヒイロに分けてもらったココアクッキーの味を思い出しながら、アレクサンドラは視線を彼の横顔へ戻す。
と、箸で摘んでいたチキンの切れ端が、彼の口元に寄せられていた。続いてゴム管のような茶色いペンネを箸で取り上げて、また口に放り込む。
無表情で10回ほど噛む。
喉仏が下がり、飲み下したことが分かった。
数秒後。
彼が眉を寄せるのと同時に、思わず見開かれたのはアレクサンドラの瞳。
なんと、食べた。信じられない。
あまりにも動作がさり気なくて、彼女はそれを視界に入れつつも流してしまった。
「ヒイロ……大丈夫なの?」
彼は、小さく舌を出す。
「僕の味覚をもってしてもNGだ」
「味覚以上に嗅覚が問題だと思うわ」
「この鼻は厄介事以外には利かないんだ。仕方ない、咲良が見つける前に捨てておかないと。アリィ」
ヒイロは肩に寄せた掌にアレクサンドラを乗り移らせると、そっとテーブルの上に降ろした。
「食事の準備をお願いできる?」
移動の風圧で乱れてしまった彼女の金髪を、ヒイロの指が整えてから離れる。
「もちろん、喜んで」
お互いに、可愛らしく作った笑みを合わせた。
彼の手には鍋、足下にはゴミ箱。
背中を屈めてしゃがむ後ろ姿をほっとした心持ちで見届けてから、アレクサンドラは皿にかかったラップを、15センチ強の小柄な身体で丁寧に剥がし始めた。
咲良がアレクサンドラの存在を知ることになるのは、もう少し先のこと。
魔法が解けて元の大きさに戻り、ちょっとした事件が起こるのは——
また、別のお話。
小さな淑女と平凡な大学院生の壊滅的な日常 雨庭モチ @scarlet100
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