第4話
驚き見上げる視線の数々をものともせずに、北瀬が飛び来た先。天井付近から見下ろす彼の視界に入ったのは、ナイフを持つ男と、腕から血を流して倒れる女性店員だった。男は再度ナイフを振り上げているが、その切っ先は倒れた女性へ向かっている。押し合い圧し合い、恐怖に逃げ惑う周囲の者など見向きもしていない。相手を定めた凶行――。
(ストーカー……かな?)
冷えた頭の片隅で、ひとまずの予測と対処を考えつつ、北瀬は男の刃物と女性の間に滑り込んだ。
白いコートが翼のように翻り、金糸の髪が煌めきなびいて、一瞬その場のすべての視線を奪う。突如頭上から舞い降りてきた相手に、刃の先はどうしようもなく鈍り、その隙をついて、北瀬は瞬時に男の腕を捻り上げ、床に引き倒した。
取り落とされたナイフが甲高い音を立てて床を滑り、拘束した片腕ごと背を押さえ込まれた男の喉から、くぐもった声が漏れる。が、まだ自由な男の片手は、床をさ迷った。取り落としたナイフ。それを暗く淀んだまなこで捉えたのだ。
足掻いた男の指先がナイフの柄に触れ、かさついた唇が歪んで引き上がる。しかし、男がそれを引き寄せ掴む前に――振り下ろされた黒い靴の足先が、ナイフの刃を蹴り、宙へ跳ねあげた。ナイフは男の指先をすり抜け――そのまま、黒コートの涼やかな男の手に収まった。
「油断か?」
「信頼」
見下ろす怜悧な黒の双眸に、北瀬は笑う。
「那世が走り寄る、香りがしたからね」
〈あやかし〉と契約者は互いにしか感じ取れない、心地よい香りを相手に感じる。彼らの絆は、香りで示されるのだ。だからそれは、人々のごった返すこの催事場でも瑞々しく空気を裂いて匂いたち、北瀬に相棒がすぐに来ることを伝えてくれた。
「君が来るなら、そうなるって決まってるだろ?」
そう得意気に、北瀬は那世の手の内のナイフを指し示した。
+
その後男はしばし抵抗を見せたが、外見からは予想もできない北瀬の
女性は軽傷ではあったが救急車で病院へ。何度も何度もふたりに頭を下げて礼を述べていた。
だが、大事にならず、事もなし――とは、残念なことにならなかった。犯行現場は人で溢れた催事場。売場は騒然とした空気がしばらく収まらず、おまけに警察の現場検証もあるとのことで、本日は閉鎖とあいなり、チョコレートの祭典は散々な結果となってしまったのだ。那世の目当てのチョコレートも、大半が未購入のまま終わってしまった。
「御愁傷様。ま、人生こんなこともあるよ」
ぽんと北瀬は会場外へ追いやられた相棒の肩を叩いた。
「ま、なにも成果がなかったわけじゃないしさ」
那世の手にはショーケースの端から端まで買ったチョコレートたちと、北瀬の詫びチョコの紙袋がさがっていた。これが片手にあったのもあって、先ほど足癖悪くナイフを蹴り上げたのだ。
「俺のチョコの保護、ありがとね」
「お前、なにも言わずに投げ出していったろう? 俺が受け取り損ねたらどうするつもりだった?」
「俺、那世のこと信じてるからさぁ」
にこにこと、一見たおやかな微笑みは、そうと分かる身からすれば実にふてぶてしく見上げてきた。これは、悪い方の信頼だ。
ゆえに那世は、自分の詫びチョコへと伸ばされた北瀬の手を、すっと避けた。
「――信頼に、応えあうのがバディだな?」
那世の低い声が、いやにゆったりと穏やかに紡ぐ。あ、これまずいヤツだ、と悟った北瀬がそろりとその青い視線を持ち上げたのと、那世の口端が笑みを含ませたのは同時だった。
「別にここじゃなくても、都心のど真ん中だ。似たような催事場は山ほどある」
がしりと那世が、北瀬の腕を掴んだ。この手はどれほど彼が力を込めても、きっと絶対に振り払えない。
「次の狩場に行くぞ。荷物持ちが必要だ。お前も来い」
「たまのオフだし、俺、もうおうちでゆっくりしたいかな⁉」
「そう言うな、相棒」
わずか意地の悪さを滲ませた低音とともに、薄く笑んだ黒い瞳が振り返る。瞬間、いまだあたりに漂う甘いチョコレートの香りの中、ひときわ鮮やかな別の匂いが北瀬の鼻先をくすぐった。彼だけにしか分からない、何よりも好ましい、絆の香り――
「お前なら、付き合ってくれると信じてる」
「それ、禁じ手じゃない……?」
かすかな反論も抵抗にはならず、哀れ北瀬は、ずるずると無力に那世に引きずられていった。
バレンタインの買い物は、まだまだこれからだ。
Bonne Saint Valentin かける @kakerururu
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