お掃除娘小雨のお仕事

宵宮祀花

近道

 この街は、絶えず変異している。

 天を衝く廃墟の群。くすんだ灰色で埋め尽くされた廃墟街の住人は、排気と排水に塗れながらも澱んだ日常を謳歌していた。殿上人が住む上層から、ヤクザや浮浪者の棲む下層まで、縦にも横にも広いこの廃墟街。誰が呼んだか、廃頽城市。迷宮の如く入り組んだ裏路地には浮浪者が石塊のように転がり、繁華街の裏には料理屋が出した家畜の骨とヤクザが捨てた死者の骨が、古く汚れたポリバケツに雑多に詰め込まれ、ジャンク屋の庭には中層の民が投げ落としたガラクタが降り注ぐ。

 繁華街には日本とも中国ともつかない雑多な『アジア風』の店が建ち並び、昼夜を問わず、国籍不祥の娼婦が香水の匂いを纏って競い合うように客を引き込んでいる。

 彼女たちを『身を売るしか能のない売女』だと侮った男が路地裏に捨てられても、誰も見向きもしなければ弔いもしない。仮に衣服が残っていれば浮浪者がこれ幸いと剥ぎ取っていくだけだ。


 廃頽城市このまちには、暗黙がある。

 一つ。裏の暗黙を知らぬ者は、八層の繁華街に降りてはならない。

 一つ。下層に生まれたならば、中層以上の世界を夢みるべからず。

 一つ。怪異に遭遇せし場合は、命ある限り掃除屋へ駆け込むべし。

 然もなくば、その命自ら投げ出すものと思え。


 闇に蠢くもの。路地裏を這うもの。堕ちたる魂の残滓。

 それらを纏めて怪異と呼び、人は暗闇を恐れながらも離れ難い隣人として生活していた。


 * * *


 排気と霧に煙る灰色の街を、下校中と思しき少年と少女が歩いていた。

 城市街地第五層燈籠高校の制服を着て、合成食品だけで作られたワッフルサンドを片手に、雑談に花を咲かせながら。


「――――でさあ、夏組の春鈴がこないだ六層でヤバい怪異に遭ったらしくて」

「えぇ? そんなの、六層なんかに降りるからだろ。なにしに行ったんだよ」

「わかんないけど、いつも春鈴と絡んでる子は肝試しだって言ってたかな。ほんとに行くとは思ってなかったとか」

「あり得ねえ馬鹿だな。入るなって言われてる場所に入ったんなら自業自得じゃん。ざまあでしかなくね?」

「……うん、そうだよね」


 少女は表情を曇らせつつも、少年に同意する。下手に反論すると、苛立ちを乗せて何倍にもなって返ってくることを知っているからだ。

 話しながらも勝手知ったる通学路と、足は自然と通い慣れた路地へ向かう。

 が、いつもと違う“モノ”に気付き、二人は足を止めた。


「清掃中? ンだよこれ」

「人がいるのかな。すいませーん!」


 少年が足元を封鎖している黄色い『清掃中』と書かれた看板を見下ろして、少女が路地の奥へ声をかける。


「はいはーい」


 暫くして、暗がりの奥から幼い少女が駆けてきた。

 その少女は、長い黒髪を頭上で二つのお団子にして、其処から細い三つ編みを二本垂らした髪型に、チャイナ襟と白エプロンとふわりと広がるスカートで構成された、風変わりなメイド服を纏い、彼女の身長を上回る長さのモップを手にしており、小柄ながら何処にいても目立つ姿をしていた。大きな丸い瞳は星屑を鏤めた夜空のように煌めき、手押し車に積まれた掃除用具が、伴奏が如く軽やかに金属音を奏でている。

 少女の持つモップには不思議な紋様が刻まれており、水の入ったバケツには朱墨で妙な文言がびっしり書かれた術札が隙間なく張られ、路地の入口を塞いでいる黄色い清掃中の置き看板には、赤い文字で大きく『進入禁止』とある。


「あの、こんなとこほんとに掃除してるんですか?」

「はいっ。実は、迷い込んだ酔っ払いさんがゲロ吐き散らかしちゃっててですねー。避けて通るにはちょーっと範囲が広いので、お通し出来ないんですー」

「えー? そうなんだ、残念。近道なのに……」

「時間かかりそうなので、ごめんなさいですけど回り道お願いしますねー」


 二人組に向けてぺこりと頭を下げると、メイド姿の少女は忙しそうに暗がりの奥へ駆け戻っていった。

 路地の入口に取り残された二人は暫し路地を眺めていたが、少年が「行こうぜ」と言って別の回り道ではなく通れないと言われたばかりの昏い路地を指した。


「えっ、掃除中って言ってたよ?」

「別にいいだろ、靴くらい洗えばいいんだし」

「でも……」


 少女の視線が手元のワッフルサンドに落ちる。折角スイーツを楽しみながら帰っているのに、誰かの吐瀉物を見て食欲が失せるのは嫌だとその目が語っていた。


「じゃ、掃除してるところが見えてきたら俺が抱えてやるよ。お前は通りすぎるまで目ぇ瞑ってれば?」

「ホントに抱えられるの? あ……あたし、結構重いよ?」

「女一人くらい余裕だって。お前小さいし。ほら、いいからもう行こうぜ。さっさと帰ってゲームしたいんだよ」


 本音はそれか、と思いながらも、彼の小さいし余裕という言葉を小さくて可愛いと都合良く脳内で変換した少女は、少しだけ上機嫌に少年のあとに続いた。


「昼間から酔っ払いが出るなんてやだね……暴れてないだけマシだけど」

「ホントだよな。大人のくせにマジ迷惑。つーかちんたら掃除してるアイツもうぜーけどな」

「そんな言い方……」


 掃除してくれていなかったら、知らないうちに踏んでいたかも知れないのにという少女に対し、少年はゲロくらいどうでもいい、近道出来ないほうが迷惑だ、と言って憚らない。少女はこれ以上追求しても不機嫌になるだけだと諦め、小さくそうだねと呟いた。

 入り込んだ裏路地はいつもより暗くどんよりとしている気がして、喋っていないと気が滅入ってしまいそうだった。ただ、二人は気付いていなかったが、吐瀉物独特の酸い臭いは漂っておらず、いつもの城市らしい、排気と埃の臭いだけがわだかまっていることに。


 数十メートル進んだところで見覚えのある後ろ姿が見え、二人は一度足を止めた。もしかしたら勝手に入り込んで怒られるかもと思ったからだ。


「え……?」


 だがそれ以上に、二人の目を引きつけて止まないものがあった。

 巨大な異形。黒いタールに人間のパーツを雑多に投げ込んで混ぜたような悍ましい形の化物が、狭い路地を塞いでいた。表面に張り付いた無数の眼球が忙しなく辺りを見回しているが、そのどれ一つとして同じ方向を向いていない。乱雑に生えた手足は下手くそな生け花のように、乱雑にタール状の体から突き出て垂れ下がっている。

 それと向き合う格好で裏路地の中央に立っていたメイド服姿の少女が、ふと背後の二人に気付いて振り向いた。


「もー。酔っ払いさんの吐瀉物があるから来ちゃダメって言ったじゃないですかぁ」


 怪異を前にしているにしては、あまりにも暢気で悠長な声でメイド娘が言う。

 少女は呆然と異形を見上げていたかと思うと力が抜けた右手からワッフルサンドを取り落とし、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。そして、意気込んでいた少年はというと。


「う、うあ、うわあぁあああああああ――――!!?」


 大声を上げて狂乱し、少女を置いて来た道を駆け戻っていった。

 一人取り残された少女は「待って」とも「置いて行かないで」とも声に出すことが出来ず、ひたすら呆然と目の前にある異常を見上げることしか出来ない。

 ああ、もうすぐあの化物に食べられちゃう。殺されちゃう。ちゃんと女の子の言うことを聞いていれば良かった。少女の心は後悔と恐怖に塗り潰され、置き去りにした少年のことを考える余裕もなくしていた。

 ゆらりと、異形が揺れた。かと思えば、水に石を落としたような「どぷん」という鈍い音を残し、沈み込むようにして目の前から消えた。


「大きい声は二日酔いに効きますからねぇ」


 そう、メイド娘が暢気に零した直後。


「ぎゃぶっ!?」

「ヒッ!」


 少女の後方から、聞き覚えのある声で聞いたこともない悲鳴が聞こえた。

 震えが止まらない。歯の根が合わない。彼がどうなったかなんて考えたくもない。けれど、次は自分の番だという確信だけは消えてくれない。後悔と恐怖が、頭の中を真っ黒に塗り潰していく。いっそ気絶できたら楽なのに、体も意識も張り付いたまま指先一つ自由にならなかった。

 あんなもの、下層にしか存在しないと思っていたのに。中層にもいるなんてただの都市伝説だと思っていたのに。


「じっとしていてくださいね? 声も出しちゃだめです」


 メイド娘が前屈みになって顔を覗き込みながら言うと、少女はガタガタ震えながら何度も頷いた。まるで今度こそは言うことを聞いてくれないと本当に死にますよ、と言われた心地だった。そして実際にそうなるのだろうという確信が少女にはあった。

 首肯を確かめると、メイド娘はモップの先をバケツに突っ込み、少女の周りを囲うような軌跡を描いてモップを振り回した。軌跡に倣い、少女の周囲一メートルほどの円が水で描かれる。

 放心する少女が事態を把握するより先に、メイド娘がモップを構えて飛び出した。反射的に目で追えば、数メートル背後まであの異形が迫っていたのに気付き、少女は両手で自身の口を塞いだ。それは、最早本能に等しい恐怖に対する反射であり、頭はとっくに思考を放棄していた。


「穢れは小雨が許しませんっ!」


 メイド娘――――小雨が傍の壁を蹴りながら怪異の頭上を跳び越えて、三階の窓と同じ高さまで飛び上がったかと思うと、握り締めたモップを思い切り振り下ろした。


『ギャアァアアアアアア!!』

「ッ!」


 少女は塞いだ口の奥、喉の深いところが引き攣ったのを感じた。

 絶望、怨嗟、憎悪、恐怖……この世の全ての悪感情を煮詰めて叩きつけるような、悪意そのものの悲鳴が路地に響き渡ったのだ。地面にぺたりと座り込んだ内ももに、生暖かい液体がじんわり染みる。

 しかし、それに恥じらう余裕もない。己の状況に気付くことすら出来ない。そんな余裕、あるはずもない。正気を、意識を保っているだけで精一杯だった。


「お掃除完了ですっ!」


 トン、と地面にモップを下ろして、メイド娘は明るく言った。

 いつの間にか、暗闇そのものであった路地に僅かな灯りが灯っていた。先ほどまで黒いインクで塗り潰したかのようだったのに。それが異常だと気付けない程度には、この街は普段から昏い。


「おねーさん、大丈夫ですかぁ?」


 目の前で小さな手がひらひらと振られ、少女は遅れてハッとなった。


「……だ、いじょ、うぶ……です…………けど……」


 怖々と背後を振り返る。

 逃げ去った彼は、いったいどうなったのか。訊ねたいのに、言葉にならない。心が引き留めようとする。震える少女の内心を察したのか、メイド娘は路地の入口方面を見ながら言った。


「忘れたほうがいいですよ。それよりおねーさん、そのままで帰れるです?」

「え……?」


 言われて、ふと気付く。自分の下着が生ぬるく濡れていることに。

 高校生にもなってお漏らしをしただなんて知られたら、明日から学校で笑いものにされてしまう。帰路の最中、道行く人の視線だって突き刺さるだろう。


「……ッ、あ……やだ、どうしよう……」

「それじゃあ、これで我慢してもらいますねぇ」


 鷹揚に言いながら、メイド娘はバケツを少女の頭上でひっくり返した。


「きゃあ!?」

「お家に帰ったら、掃除屋に引っかけられたと言ってくださいですよ」


 手のひらで顔を拭い、ふらふらと立ち上がって少女はメイド娘を見下ろす。確かにこれだけ全身ずぶ濡れで帰れば失禁の跡は隠せるだろう。荒っぽいが、他にどうすることも出来なかったのだし仕方ない。

 不思議なことに、今し方さかさまにひっくり返したはずのバケツはたっぷりの水で満たされていて。先ほどまで胸の内をぐちゃぐちゃに塗り潰していた恐怖が、僅かに薄らいでいるような気もした。

 少なくとも、自分の行いを改めて反省する程度の余裕は出来た。


「あの……お仕事の邪魔してごめんなさい。あたし、帰りますね」

「お気をつけてお帰りなさいですー」


 にこやかに手を振るメイド娘に一度頭を下げ、少女は路地を抜けていった。少年が逃げたほうへ行く勇気はなかったので、本来の近道を使う形で路地を抜け、表通りに出る。

 道行く人は時折好奇の目で少女を追うが、吐瀉物まみれのサラリーマンや、拉麺のスープを頭から被った浮気男などを見かけるのも此処の日常なので、制服姿の少女がずぶ濡れでも「そういうこともある」と思うだけであとを追いかけてまで訊ねる者はいなかった。


 家に帰り着いた少女は、何事かと訊ねる母親に「掃除屋さんの傍を通り抜けようとしてバケツをひっくり返したの。ちゃんと謝ったから大丈夫」と告げて、そそくさと制服や下着を脱いで洗濯機に放り込み、今日の出来事を頭から追い出そうと努めたのだった。


 * * *


 この街には、暗黙がある。

 怪異に遭遇して生き延びたら、一日も早く忘れること。

 たとえ家族や友人が目の前で殺されても――――否、殺されたなら尚のこと、疾く忘れること。然もなくば、忘却という名の救済を得られなかった死者が、次の怪異として暗闇の淵に棲み着いてしまうから。


 だからあたしは、早くアイツのことを忘れなければならない。早く。早く。


『ナァ、近 ミ  チ、しよ ゥ  ぜ』


 あの路地の前を通りかかる度、暗い路地へと誘う声に、耳を塞ぎながら。

 あたしは後悔に蓋をして生きていく。

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