海辺で

けいりん

海辺で

「お一人ですか」

 不意に声をかけられて、僕は振り向いた。

 見上げると、朝日に照らされ、その男の顔は、均質に輝き、妙にのっぺりと凹凸に乏しく見えた。

「隣、いいですか」

 さらに続けて問われ、僕は頷いた。

「ええ。ちょうど暇にしていたところです」

 海の方に向き直ると、隣に男が腰を下ろすのが感じられた。

 波打ち際からは少し離れた、低い堤防の上。

 冬の海風は冷たく、顔の表面が凍りつきそうだ。

「近くにお住まいの方ですか」

 男は尋ねる。僕は首を振った。

「いいえ。旅行ですよ。少し言ったところに、ホテルがありまして。朝食前に、散歩に来たところです」

「旅行にしちゃ妙な時期ですね。お一人で?」

「いえ、妻と。置いてきましたが」

「なるほど」

「海水浴場のイメージが強いですが、冬は冬で、魚がうまいんですよ。漁港からは少し離れちゃいますが、この辺りでも十分味わえます」

「ほう、それは、ぜひどこかで食べて帰らないと」

「あなたは? ご旅行じゃないんですか」

「旅行、というか」

 男は少し口籠った。

「ドライブですよ。夜中に、急に彼女が、海を見たい、と言い出して」

「彼女?」

「恋人です。車の中ですよ。眠ってしまいましてね。ほら、あそこ」

 男が後ろを指差す。振り返ると、確かにそこには一台の青い車がこちらを向いて停まっていて、助手席には人影らしきものが見えた。

「起こさなくていいんですか。エンジンを止めた車の中じゃ寒いでしょうし、海が見たいとおっしゃっていたのなら」

「いいんです。毛布をかけてありますし、別に急いで帰る用事があるわけじゃありませんし」

 男は言って、わずかに苦笑した。

「まあ、自分で見たいと言ったくせに、とは思いますけどね。もう慣れました」

「苦労されてらっしゃるようで」

「まあ、初めての方にお話しするようなことでもありませんが……」

「いいじゃないですか。これも何かの縁だ。言いたいことがあるなら聞きますよ」

 男はしばらく、白い息を吐きながら黙って海の方を眺めていた。僕も海へと視線を戻す。朝日の中で青の間に金色の波がキラキラ光り、それが砂浜で砕けて白い泡に変わっていく。ざーっ、ざーっという波の音は、高く低く変化しながら、風景の全てに浸透していた。

「最初は、良かったんです」

 男は語り出した。

「アバタもエクボ、ってやつですかね。気まぐれなところも、わがままなところも、可愛らしく思えたし、そのいちいちに応えることにも喜びを感じました。デートの場所に細かく注文をつけるくせに、いざとなると全然別のことを言い出す、なんてことは日常茶飯事で。しまいには、行きたいと言われてイタリアンを予約したのに当日になって中華が食べたくなったとか、映画を見るはずだったのに遊園地に行こうとか、そんなことまで言うようになって。こりゃまともに取り合ってたら無駄が多いなと思って、チケットの手配や店の予約などはしないようにすると、今度は何も準備してないって怒りだすんです。でもね、不思議と嫌じゃなかった。勘弁してくれよ、とは何度も思いましたけど、それで彼女自身が嫌になることは一切なかったんです」

「寛容な方なんですね」

「そういうわけでは……いや、そうなのかな。でも、そうだとしても、それ以上に、僕にとっては、喜んでいる時の彼女の笑顔が、魅力的だったんです。要求に応えることができて、彼女が嬉しそうにしているのを見た瞬間、それまでの苦労が全て報われるのを感じました。その笑顔を引き出すためなら、多少のことは受け入れられた。それだけの輝きを、彼女は持っていました」

「好きなんですね」

「……はい。そうですね。ただ」

 男は言い淀んだ。瞼が細められ、わずかな苦悩が顔をのぞかせる。

「ただ、ひとつだけ、どうしても、許容できないことがありました。どんなに彼女がそれを望んだとしても、どれほどそれが彼女の幸せのためだとしても、僕は……それだけは、どうしても、認めることができなかったんです」

 いつしか彼の顔は苦悩に歪み、歯は噛み締められ、寒さのためだけではない赤みが全体を覆いはじめた。そのまま、しばらく黙り込む。僕は息を飲んでその横顔を見つめることしかできなかった。

 やがて彼は、食いしばった歯の間から、切れ切れに、言葉を漏らした。

「それだけは……彼女を、手放すなんて……他の男のところに行ってしまうなんて、そんなこと……それだけは……僕は……」

 思わず、身震いした。一つの予感、いや、疑惑が、生じていた。

 僕は立ち上がった。

「すみません、トイレに行ってきます」

 できるだけさりげない風を装って言い、その場を後にする。

 道路側にある公衆トイレに向かう途中、僕はわざと、わずかに右にルートを逸れた。彼が乗ってきたという、あの青い車の停まっている方へ。

 彼女は……彼の言う通り、彼女が他の男のもとへ行こうとし、彼がそれを認められなかったんだとしたら……一緒にドライブに来たという、彼女は……。

 助手席の影はぴくりとも動かない。 

 恐怖が喉元へと迫り上がってくる。まさか。僕の思いつきは、もしかしたら本当に。

 本当に、彼は、彼女を。

 堤防の方へ視線を走らせる。男は向こうを見ている。よし、大丈夫だ。

 生唾を一つ飲み、僕は素早く、車の中を覗き込んだ。

 そこに座っているのは……体に毛布をかけられ、前を見ているその人影は、一体のマネキンだった。


 男が去ったあとも、僕はしばらく海を見ていた。

 彼の精神は、恋人が去ってしまったことに耐えられなかったのだろう。それで、マネキンを彼女の身代わりに、架空の……あるいは、過去に実際に彼女が言ったわがままを聞いて、夜通しドライブをして、早朝の海辺にやってきたのだ。

 そうして無理を聞くことこそが、彼の理想だったのに違いない。

「さて」

 僕は口に出していい、冷え切った体で伸びをした。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。残してきた妻を、どうにかしなければ。

 ホテルにチェックインしてから一晩悩み続け、ヒントを求めるように海岸に出てきてみたが、ようやく決心が固まった。

 俺は彼とは違う。いつまでも言いなりになってはいられないし、思い出と一緒に生きていくつもりもない。

 早々にチェックアウトをして、最後のドライブと洒落込もう。行き先は山か、それとも人気のない崖の上か。

 なあ、お前はどこがいい?

 頭の中で、俺は妻に語りかけた。

 昨夜と変わらず、今も車のトランクの中で静かに眠っているはずの、妻へ。

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海辺で けいりん @k-ring

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