伍の夜
壱
久留の守る山は、彼が帰るなり生き物たちが大騒ぎして迎えました。
「雉子さんの言った通り、本当に賑やかな山なんだね!」
桃子まで気持ちがウキウキしてきます。
「その中でも1番騒がしいのが、きっと久留でしょう」
「……聞こえてるよー。分かってねぇな〜、アイツラが騒がしいのを、俺が抑えてやってんじゃねぇか」
久留は懐にしまっていたお酒を取り出しました。
「久留、その酒は鬼たちの……」
「にひひーん!盗って来たんじゃねぇよ。うまい酒だなって本音で褒めたら、仲良くなった鬼のおっさんがくれたのさ。山のみんなへのお土産だ!」
「これで更に騒がしくなりそうだ。近いのだからあまり過ぎないでくれよ。私は静かな場所が好きなのだ」
「たぁ〜っ。だからおめぇんとこは人も寄っつかねぇんだよ。暗い!不気味!寂し〜い!」
「余計なお世話だ。山の静けさを荒らす者は立ち入らぬ方が良い」
この二人は本当は仲が良いのか悪いのか。桃子はいつもの二人を笑いながら見ています。
久留は最後まで、いつもの様に明るく賑やかにしてくれました。
「じゃあ、またな桃子」
「うん」
またな、と言う言葉は桃子を元気づけました。
「俺の山に来たら必ず迎えに出っからよ。猿の姿して、一番大きくて一番格好いいのが俺様だ」
久留はニッコリして桃子たちを見送りました。
桃子と織流は二人で歩いています。
この旅が始まった時、こうして一緒に歩いていました。でも今桃子は、行く時のわくわくではなく寂しさに胸がしおれそうでした。
もうすぐそこに見えている山。そこが織流の山です。
すごく遠く長い旅だったのに、帰りは驚くほど早く感じます。旅の色々な事が頭に思い浮かびました。
木の実や穀物しか食べなかった桃子に、命をありがたく頂く事を教えてくれたのも織流でした。
ケガをした犬を見つけ、着物の裾で手当てをして木の実をあげた、それが織流でした。
あれからずっと、彼は桃子の傍にいてくれました。守り、共に歩き、川を渡り、色んな事を教えてくれた。
歩きながら、桃子はたまらずグスングスンと泣いてしまいます。
織流は立ち止まり、「少し疲れましたか」と言って桃子の前にしゃがみます。そして、
「どうぞ」
と背中におぶさるように促します。
「うぇぇ…」
この旅で初めて、桃子は甘えました。
明るく元気なオンノコでも、まだ歳は12にも満たない幼子です。そして間もなく、オンノコではなく完全な人間になります。そうして鬼の力を失くし、共に旅した彼らと言葉を交わすこともなくなるのです。
まるでお兄ちゃんの様な頼りがいのある、温かい背中におんぶされ、桃子は大切な最後の時間を織流と一緒に過ごします。
お互い何もしゃべらなくても、同じ気持ちであるような、そんな気がしました。
弐
いつの間にか眠ってた様で、辺りは夕焼け色に染まっていました。
織流の足ではとっくに山のてっぺんに着いているはずですが、ゆっくり歩いてくれたのでしょうか、まだ登っている途中でした。
「ねえ、オル」
おんぶされたまま桃子が話し掛けます。
「なんでしょう」
いつもの落ち着いた、安心させる声で織流が返事をします。
「織流は。織流たちはいつから山の神様になったの?生まれた時からもう神様だったの?」
考えてみたこともなかった事を聞かれて、織流は考えました。
「……さぁ、いつからでしょうか。
我々はそもそも、自分たちのことを神だとは思ってはいません。自分たちの山を、生き物たちを守りたい。そう願っているだけです。
長く生き、他とは少し違う力を持っている。
それこそ神様が、我々にその使命を果たすためにお与えになられたのかも知れませんね。
神も鬼も、人が名付けて振り分けたもの。
自分たちとは違う何かを、畏れ敬うために。
そうして分け隔てることで安心しているのではないでしょうか。
私はそう考えます」
「そっか…」
人が人の暮らしを安心して続けていくため
に。時には神様に願い、時に鬼の怒りに触れ
ないように。
得体の知れないものより、「何か」として分か
る方が、人間は安心するのかも知れない。
だとすればやっぱり、姿かたちが違うからといってあの洞窟に棲む存在を恐れて忌み嫌うのは、少し勿体ないような、どちらにも可哀想な気が、桃子にはするのでした。
「私はついこの間まで、ただの山犬でした」
「えっ!そうなの?!」
「ただ自分の居る山を愛し、生き物たちを愛し、互いに穏やかに生きていく事を望んでいた」
「……それが、どうして神様になっちゃったの?」
「先ほども申したように、私は自分を神だとは思っていません。ただ、命を救われた時、その澄んだ優しさに触れた時、それまでよりもっと強く思いました。
" 守りたい ”、と」
織流は桃子を降ろして袖をめくります。桃子が手当ての時に破いた花柄の裾が、まだそこに大事に巻かれています。
「その思いを、形にしていただけたのかも知れません。あなたをお守りして、旅を共にするため。人間の姿を成す特別な力が備わったのは、あなたの報いなき愛のおかげです」
織流は腕に巻かれた花柄の布をそっと外しました。
「今まで守って頂いて、ありがとうございます。この布に触れると、不思議と力が湧いてきました。そしていつも、あなたの優しさを、無垢な笑顔を、思い浮かべて乗り越えられました」
桃子は手渡された布をしっかりと握って、織流にしがみつきました。
「私の方こそ、織流に何度も助けられたよ。忘れない。ずっとずっと忘れないよ」
夕暮れが迫っています。
人と人でないものとの境目があやふやになる薄暗い時間。その前にはここを離れなければいけないと、何となくそんな気が桃子はしました。
人間として人生を生きて、それを全うする事を選んだ桃子。自分の選んだ事に後悔はありませんでした。が、寂しさは絶えません。
「必ず…。必ずまた会いに来るから」
「ええ、いつでも。いつまでも待っていますよ」
織流はこれまでで一番優しい笑顔で頷きました。
「私、織流が好き。……久留も、雉子さんも、鬼さんたちも、みんな大好きだよ」
「分かっていますよ。……私もです」
しっかりその顔を目に焼き付けて、彼の傍を離れます。そして次の山に向かって歩き出したら、もう振り返りませんでした。
振り返れば、また離れられなくなる気がしたからです。
遠く遠く、見えなくなる所まで歩いた時、後ろの山から「オオーン」
と犬の遠吠えが聞こえました。
何と言っているのか分かりません。言葉ではなかったのかも知れません。
でも、桃子も同じように、言葉にはならない声で泣きながら、ただひたすら一心に山を登りました。
参
最後の山を越えて、村の外れにあるあの集落の入り口に近づきました。林をくぐると、集落の中の一軒にわずかに光が灯っています。中へ入ってみると油壺の炎がゆらゆら揺れていました。
全てはここから始まりました。そして今、ここで旅の最後を迎えようとしています。
鬼の力を失う時。本当の人間になる時。
何か変わった事があるのかなとも思っていましたが、特に何も無いようです。
でも旅の全てを、織流や久留、雉子たちのこと、そして鬼の村のみんなの事は全て覚えています。決して忘れる事のない、忘れてはならない大切な事、全てを。
「良かった…」
桃子は安心しました。
外で誰かが林をくぐり抜けて歩いて来る音がします。
開いている戸口で足音が止まり、桃子は戸口を振り返りました。
「…お、おおぉ…!」
声をあげたのは、一緒に着いてきてくれた村のあのおじさんでした。
「…ただいま、戻りました」
桃子は笑顔でおじさんに言います。
おじさんは駆け寄ってきて抱き締めました。
「おお…おぉ…!よう無事で…よう戻ってくれたのう」
おじさんは泣きながら強く抱きしめます。
たまたま来たのでは無いのでしょう。きっと毎日、桃子がいつ戻っても良いように、この油の火を灯してくれてたに違いありません。桃子には分かりました。
「置いてっちゃって、心配かけて、ごめんなさい」
「いんやぁ、いんやぁ…」
おじさんは桃子の頭を大事にそうに何度も撫でました。
「ちっと見んうちに立派になって、無事に戻ってくれて、ほんに、ありがとう。ありがとう」
おじさんが先に歩いて、桃子と村へ帰ります。
桃子は廃屋を振り返り、油火が小さくゆらゆらしているのを見て、ふっと、思いつく事がありました。
それからおじさんに追いつくように、林のヤブをくぐり抜けて村へ続く道へ出ました。
おじさんは桃子の家の前にたって、ダンダンと元気に戸を叩いて二人を呼びます。
「はいなー」と中から声がして、おじさんは桃子の後ろに下がりました。
「待ちわびとるわい。元気な顔を見せてやっとくれ」と声を掛けます。
桃子は「うん!」と言って、戸の開くのを待ちました。
戸が開いて姿を見せたおっ母さんに、桃子は元気よく大きな声を出そうと思っていましたが「………お、おっ母さん。ただいま…」
と、涙ぐんでしまいました。
おっ母さんは桃子を力いっぱい抱きしめて
「ああぁ……っ!よう帰ったね、よう帰ったね!」と泣きながら言いました。
声を聞きつけたおっ父が奥から出てきて、元気な我が子に目をみはります。その目からもまた涙がこぼれました。
「よぉ元気で帰ったのう…!おかえり、桃子や」
そう言っておっ父も桃子とおっ母を一緒に抱きしめて、おいおい泣きました。
無事に帰り着いた様子を見届けて、そっと離れようとしたおじさんでしたが、おっ父が気づいて声を掛けます。
「無事に連れて帰ってくれたのう。ありがとう。ほんに、ご苦労さんじゃった…!」
そう言って両手でおじさんの手を握りました。
「やっと、連れて帰れたじゃ…。やっと…。
無事で帰って来なすって、ほんに良かった…」
おじさんも一緒に涙をこぼしながら、おっ父と肩を抱き合いました。
もう夜でしたが、あちこちから村人たちやその子供たちが出できて、桃子の無事な帰りを喜びました。
四
おっ父さんが急いで湯を沸かし、疲れた桃子の体は久しぶりの我が家の風呂でゆっくりと癒されました。
風呂を上がった桃子に、おっ母さんが「あるもんだけですまなんだけど、腹減ったじゃろ?今山菜を温めとるからね」と囲炉裏に灯った火にかけました。
「おっ母さん。桃子、魚もお肉も食べれるようになっただよ」
娘の言葉におっ母は驚き、それから優しい笑顔で言いました。
「そっかぁ、そっかね。立派になったねぇ。ほんじゃ朝採れた魚も焼いて食わせるでの」
と嬉しそうに支度を始めました。
「うん!」
囲炉裏に棒で立てられた川魚が良おく焼けるのを、桃子は楽しみに待ちながら「いただきます」と両手を合わせて山菜汁とご飯をかきこみました。
おっ父とおっ母はそのたくましい食べっぷりに、顔を見合わせて微笑みました。
「桃子ねぇ、色んな所を見て来たんだよ。すごくたくさん話したい事があって、一晩じゃ足りないくらい」
添い寝するおっ母さんに、桃子はたくさん話したくてうずうずします。
「そうかねぇ。そんなら楽しみに聞かせてもらおうかね。今夜はくたびれたじゃろうて、ゆっくりおやすみ」
「うん」
桃子はおっ母さんにしがみついて、すぐに眠りました。
愛しい我が子の寝顔を、おっ母は飽きることなくいつまでも眺めながら背中をトントンと優しく叩いてくれました。
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