伍の昼
壱
戻りは下りが多いこともあり、仙人の小屋まで難無く歩いて来れました。
開けてある裏口から中に入り、大きな木の根の御神体に話し掛けます。
「おじいちゃん、今戻りました」
桃子が声を掛けると
「うぉっほっほっほ〜」と愉快そうな笑い声が聞こえてきます。
「ちょっと見ぬ間に、随分と成長したようじゃのう。それほどの経験をしてきたと見えるわい」
仙人の言葉に桃子はしっかりと頷きました。
「それではお主たちを来た時の姿に戻すとするかの。心配は要らぬ。記憶までは消したりせぬからの」
そう言って木の根がまた眩く光りました。
やっぱり目を開けてはいられず、ぎゅっと目を閉じます。
少しずつゆっくり瞼を開くと、織流、久留、雉子の、人を成した姿がありました。
「……なんかすごい、久しぶりな気がする」
桃子はみんなを見渡して言いました。
「本当に。何故かあなたの前ではこの方が落ち着きます」
落ち着いた声の織流に
「オルって、こんなに男前だったっけ」と桃子が呟きました。
「きっと桃子の人間を見る目が培われたのですよ」
美しい雉子が美しい声で応えます。
「俺は?おれ!来た時よりいい男になった?」
「クルは……あんまり変わんないや」
「アタッ。あんだそれ〜」
「ふふっ、冗談だよ。でもこっちのクルが私は好きだよ」
桃子にそう言われて「お、おう。う、嬉しいぜ」と、久留は少し照れました。
木の根の仙人が語りかけます。
「何よりお前さんが一番成長しておる。その目も、心ものう」
「そ、そうかな」
「自分の事は自分では良う分からんものじゃ。これから少しずつ気づいていくじゃろう」
桃子は自分の成長が楽しみでもあり、少しずつ変わっていく自分にちょっと不安でもありました。
特別な力は、旅を終えたら消えてしまうのです。
「案ずる事はないぞ。鬼の力を無くしたとて、人としてお前さんが元々持っておったものは失われる事はないじゃろう。それは成長と共に育まれるはずじゃ。
じゃが以前のようには無茶をせぬようにの」
「はい。ありがとうございます」
桃子は仙人さまの助言を素直に受け止めました。
「うむ。その澄んだ心を大切になせれよ。さ、皆でゆくが良い。新しい世界が、お前さんを待っとる。見た目には変わらんがのう、これまでとは違ったものを感じる事が出来るはずじゃ。御三方、それぞれの山に戻られるまでこの子のお供をまたお願いしますぞ」
「はい。お世話になりました」
「またお伺いします」
「お、俺は多分もう来ねぇ。けど、俺よりすんげぇものが居るって分かったよ。今までより威張んのは程々にしとくぜ。…ほんのちょびっと」
「おっふぉっふぉっふぉ!充分じゃ。山の守神の寿命も長い。少しずつ気づいてゆかれれば良い」
「おうっ!…あ、はい」
巨木の根、仙人の御神体はしずかにその輝きを収め、元の木の根に戻られました。
桃子はもう一度頭を下げて
「行こうか」
とみんなに声を掛けました。
弐
湖の水は今日も穏やかです。
イカダを漕ぐ腕が、心なしかゆっくりになっていました。
「疲れた?代わりましょうか」
「あ、ううん、大丈夫!」
張り切って漕ぎ出す桃子を見つめた雉子は口元を緩めて、元の場所に座ります。
隣に座る織流も、今日はいつも以上に静かでした。
「なぁ織流、ちょっと代わってくれよ」
「さっき代わったばかりだろ」
「いいからいいから!おいらちょっと疲れちゃった!」
しぶしぶといった感じで織流が「やれやれ」と漕ぎ始めます。
久留は雉子の隣座って「ニヒヒー!」と嬉しそうに笑いかけました。
「雉子さん、方向があってるかどうか少し見てきて頂けますか」
「分かりました」
「ええ〜っ!せっかく二人になれたのに!」
織流が、そう考えた上でかは分かりませんが、いつもの雰囲気のきっかけを作ってくれた事に、誰ともなく(ありがとう)と感じていました。
みんな心なしか、物寂しさを感じていたのです。
雉子は着物の帯を緩めバサッと羽根を広げてキジの姿になり、大空へ舞い上がります。
そうか、あの音。
桃子がここへ来る時に何度か耳にした羽音は、雉子が姿を変える音だった事が分かりました。
「ね、二人も自由に姿を変えれるの?」
織流と久留に桃子が尋ねます。
「造作もないことです。必要とすればいつでも。実は人の姿を成している時の方が霊力を使うのです。まあ久留はさほど変わらないと思いますが」
「どういう意味だよ!…あ、動物の姿をしてても格好いいって事か!」
「どうとでも。好きに考えたらいい」
「それにしても雉子姉さん、キジの姿になってもやっぱり綺麗だなぁ。今度は人間の姿であれをやってくれないかな…イテッ!」
桃子が漕ぎ棒で久留の頭を叩きました。
「雉子さんに言いつけるよ!」
「んなモンで叩くなよ〜。おめぇみてえーにデッカイたんこぶ出来たらどうしてくれるんだ」
「私のはたんこぶじゃ無くてツノだったんですぅ!」
桃子があかんべーをします。
「ああ、それはいい。いっその事たくさん叩いてもらってお前もツノでも生やしたらどうだ」
織流の言葉に桃子がよっしゃ!と棒を構えます。
「よせって!冗談じゃねぇ。いいからその棒でしっかり漕げよ。頭を叩くための道具じゃねぇだろうが」
「色んな使い方がある。道具も使いようだな」
「んだよ二人して…。あ〜早くねぇさん帰って来ないかな…。あ!来た!」
雉子が優雅に滑空してイカダに着地しました。スッと人の姿に戻ると帯を締めなおし、
「このままの方角で大丈夫です。湖面に少しモヤが立っていますが、陸に近づけば目印は見えるでしょう」
と伝えた。
「ありがとうございます。さ、久留。交代だ」
「あ〜?おめぇさっき漕ぎ始めたばっかりじゃねぇかよ」
「私じゃない。桃子と代わってやるのだ」
「あ、それでは私が代わりましょうか。桃子、お疲れ様。少し休んで」
「ありがとう」
桃子は雉子と入れ替わって久留の横に座りました。
久留が残念そうに雉子を目で追って、隣の桃子に視線を移し、ふぅ〜とため息をつきます。
「……なに?」
「あ、いゃあ別に…。何も」
「ふん、どうせ私はお子様ですよ〜だ」
いつか、自分も雉子さんのように綺麗になれるんだろうか。桃子は、木の実をかじりながら憧れの女性を眺めました。
「大丈夫大丈夫!おめぇもあのぐらの歳になったら、今よりちったぁマシ…、いゃ美人になれるって!…まぁ姉さん程かどうか分かんねぇけどよ」
「ちょっと!勝手に人の心読まないでよ!」
「心なんて読まなくったって分からい!そんな寂しそーな顔してボ〜っとかじってりゃあよ。ほれ、もっと食え」
久留は懐に隠しておいたとっておきの木の実を桃子にくれました。桃子は色んな思いで「ありがと…」と口にしました。
男前かどうかは別にして、私はクルのそうい
うとこ好きだよ。
今は心を読まれませんようにと思いながら、桃子はとっておきの木の実をかじりました。
参
雉子が教えてくれた目印のおかげで、対岸へは無事に着けました。
広い湖を往復したオンボロのイカダに、
「お世話になりました」
と桃子はそっと手を触れました。
渡った湖。みんなで乗ったイカダ。そのひとつひとつが次第に別れの時を伝えているようで惜しむ気持ちになります。
「さぁ、ここからは歩きです。途中でしっかりと栄養を摂って、頑張って歩きましょう」
織流が声を掛けた時、
「うん…」と言って桃子が倒れました。
「桃子!」
「桃子!」
みんなが自分を呼びますが、返事が出来たかどうか桃子は分かりません。
「ひどい熱です…」
「ひとまず、屋根があるところを探しましょう」
空には薄い黒雲がやってきています。
「桃子……」
いつも元気な久留が、初めて不安で悲しそうな顔をしました。
おーにさーん こーちら
てーのなーる ほーうへ
誰か、私を呼んでる?
おーにのすーみかーは やーまのなかー
くーらいくーらい ほらのなかー
つーのがやーまには ちーかよーるなー
オンノコたーちに くーわれーるぞー
私は、オンノコじゃない。
オンノコは、人なんか食べたりしない。
みんな、優しいんだもん。
みんな…、優しかったもん…。
桃子の心に、誰かが話し掛けます。
(鬼はよいぞー。病気もねえ。怪我もねえ。)
(こっちへ来い。鬼は良いぞ。神通力で思いの
まま。千里眼で何でも見える。芭蕉扇でひと吹
かし。人間なんぞたちまち消える)
これは、悪い鬼の仕業だと桃子は思いました。
いや。私はそっちへ行かない。みんなと村で
暮らすんだもん。人間として、生きるんだも
ん。
(人の寿命なぞあっという間。鬼は百年、千年
生きる。何でもかんでも思うがまま。鬼は良
い 鬼は良いぞー)
桃子は考えました。この者たちの言う通り、鬼の寿命に比べれば、人の一生はあっという間です。でも。
でも、私はそのあっという間を、精一杯生き
る。思い通りにいかなくても、特別な力なん
か無くっても。鬼の寿命だって、大海原に比
べれば、お天道様に比べれば、あっという間
だわ。
やりたいようにやって、人を居なくしても、
それが何になるの?長く生きられなくても、
人間は生きている。時々間違ったりもする
けれど。それでも私は、人間という生き物が
愛おしい。
(………………………)
(つまらん奴だ)
悪い気配が消えました。
代わりに誰かが呼びかけます。
(桃子!桃子!)
(しっかりしろ!目をあけてくれよ!)
(桃子、大丈夫。私たちがついています)
眩しい光りを感じて、桃子はそちらへと向かって行きました。
「桃子……!」
「やった!目を開けたぞ!」
「良かった……」
みんなが心配そうに桃子を見ていました。
「あれぇ、どうしたの…みんな」
久留は泣きそうな顔をして、雉子などはもう泣いていました。
「かなり長い時間気を失ってました。旅の疲れが出たのでしょう。しばらくここでひと休みです。まだ熱が下がりきるまでは」
桃子は初めて発熱を経験しました。きっと今までは、鬼の力でばい菌などを寄せ付けなかったのでしょう。
「人間て、みんなこんな辛い思いするのかな…」
熱に浮かされてぼんやりと桃子が呟きます。
「そうでしょうね。でも、辛い事ばかりではないはずです。人間には人間にしかない喜びと、美しさがある。私はそう思います」
桃子はぼんやりと織流の声を聞きます。
「皆がいずれはその命を終える時が来ます。だからこそ、生きている時間が輝くのです。誰かを愛し、時に憎み、そして許し、互いに愛を知る。これは人間にしか出来ない事。人間が愛しいと思えるところの一部です」
織流はどことなく遠い目をしていました。
「織流は…。人間になりたいって、思ったことある?」
彼は少しだけ口元を緩めて「ありません」と答えました。そして桃子を見つめます。
「正確には、ありませんでした。……あなたに会うまでは」
どういう意味かはしっかり分かりませんでしたが、何故だか桃子は少しドキッとしました。
「さぁ、もう少しゆっくり休まれてください。今、久留が栄養のあるものを採ってきます。大丈夫、弱った体に負担のかからぬよう、美味しい木の実をたくさん持ってくるはずですよ」
桃子はニコッと嬉しそうに微笑んで、また眠りに落ちました。
四
久留が木の実と一緒に採って来てくれた苦い薬草のおかげで、桃子は熱も下がりすっかり回復しました。
苦い薬草を嫌がった時に「もっと苦くて効くやつもあったんだぞ。貴重な最高の実を食わしてやるから、頑張ってかじって飲め!」と半ば無理やり飲まされました。
久留は、必要無いのに自分も薬草をかじりながら
「くぁ~っ!苦ぇー!」
と一緒に苦しみを乗り越えてくれました。
そういうところが好きなんだよ。
桃子に言われた久留は照れ臭そうに
「さ、さぁ今度は肉でも穫ってくっかな」とまた森に入って行きました。
宿として使った洞穴は熊の棲み家だったようです。
桃子には覚えがありませんが、警戒して威嚇する大きな熊に「…ごめんね。ほんの少しでいいから、場所を貸して下さいな」と伝えると、その熊は小熊を連れて奥へ入って行ったそうです。
お礼のつもりで、桃子は久留が獲ってきてくれた肉と木の実を洞穴に置いて外に出ました。
もうお昼のようで、お日様が気持ちよく山を照らしています。
スタミナもつけた桃子たちは、なまっていた体を戻すように元気に山を登り始めました。
幾つか山を越え、日が傾き始めます。
桃子たち一行は見覚えのある場所にたどり着きました。
「あ、ここ……」
森の先に、そこだけ草地になっている場所。遠く下まで見下ろせる、雉子と出会ったあの場所です。
人の手が加えられた様に不自然だ、とあの時織流が言ったのを思い出しました。
「ここが、私のすまいです」
先に立った雉子が三人を振り返って言いました。
「かつて人の手によって切り開かれ、荒ぶる私の怨恨を諫めんとして祠を建てて頂きました。普段は目にする事はありません。キジの私には勿体ないですし、人の姿でなければ必要ありませんものね。でも今日は、大切なお客様をお迎えするため、お目にかけて差し上げます」
彼女はそう言うと、大きく両手を広げて翼をはためかす様な仕草をしました。
ただの草むらだった場所に、庭のある小さな小屋が建ちました。庭では色んな動物達が戯れています。
「わっ!すごいね!たくさん居てみんな楽しそう」
桃子の言葉に雉子は少し寂しそうに微笑みます。
「ここに居る者達は、すでにこの世のものではありません。人の手によって殺められ、行き場を失った魂を私が呼び寄せて、山守りの手伝いをしてもらっています」
「そうなんだ…」
亡くなった命とは思えない程、みんな生き生きとしていました。
「お手伝い。それは人に復讐する事ですか?」
織流の、また意地悪な質問に桃子は顔をしかめました。
雉子は優しい笑顔で答えます。
「かつての私なら、そうしていたでしょう。いいえ、むしろその為にこの子達の魂を呼び集めたと言っても違いありません。でも、今は違います。人も動物も、分け隔てなくこの山を愛せるよう、皆のために守ります」
織流は、雉子がどう考えていて答えを出すのか、分かっていました。桃子にも安心してもらえるよう、そして改めて雉子にその決意を言葉にするよう、敢えて訊いたのでした。
「あなたが守り神の主であれば、きっと優しい山になられるでしょう」
織流と雉子は互いに目を合わせて、ニッコリと頷き合いました。
日も落ちたので、今夜は雉子の小屋で休息をとらせてもらいます。
「何もないところですが」
と言う雉子の言葉通り、本当に何もありません。ここは生活する場所ではなく、山の神様の居場所なんだと桃子は思いました。
生き物たちの魂は日暮れとともに消えました。
雉子におかえりなさいと出て来ただけなのか、珍しく訪ねて来たお客さんに興味を持ったのか分かりませんが。
彼らが生きている者たちでは無いことを改めて感じ、それでもそこに居続ける事が幸せなのかどうか桃子には分かりません。
近いうちにお寺さんにお願いして、自分が呼び寄せてしまった彼らを帰るべき所へ還すのだと雉子が話しました。
帰るべき所。
それが今の自分にとってはおっ父とおっ母の待つあの村であることを、桃子は安心するのと同時に恋しくなってきました。
そこへ帰ると言うことはみんなと別れるという事。
桃子がなかなか寝付けずにいると、雉子がそっと添い寝をしてくれました。
優しく胸をトントンされて、桃子は雉子をぎゅっと抱きしめていつの間にか眠りました。
翌朝、小屋を出て出発する三人を雉子が見送ります。
この姿にあえるのは、もうこれが最後なんだ。
今はまだ僅かに残されている鬼の力ですが、それを失えば、もう雉子たちと言葉も交わすこともありません。
桃子は雉子にぎゅっと抱きつきます。いつまでも離れたくありませんでしたが、しばらくしてそっと手を離しました。
寂しさを紛らわせようとしてくれているのか、久留が「いいなぁ〜、俺も雉子姉さんに抱きつきたい」といつものおふざけを言って織流に睨まれました。
「……じょ、冗談だよ。全く、分からない奴だな」
久留は気を取り直して「じゃ、お元気で」
と右手を出して握手を求めます。
雉子はその手をとり、ぐいっと引っ張って久留を抱き締めました。
「ありがとう。あなたにどれほど救われたか…。いつも明るくて楽しくて、でも本当に優しい。あなたの山は、きっと賑やかなのでしょう。遠くで思い、祈っています」
と涙をこぼしました。
久留はびっくりしましたが、優しく微笑んで雉子の肩をポンポンと叩きました。
「いつかお互いの山を、生き物たちと一緒に人間も安心して行き交えるような、そんな場所にしようぜ」
と伝えます。雉子は久留を見つめて
「はい」と、瞳を揺らしました。
「…そ、そんじゃそろそろ行こっか!こんままだと俺も帰りたくなくなっちまう」
それは決して許されず出来る事ではないと分かっていましたが、久留は明るく言いました。
手を振りながら歩いていく三人を、雉子がいつまでも見送っています。
「あ、」
「どうした桃子?」
久留が尋ねました。
「あ、ううん。見間違いかも。さっき雉子さんの横に女の子が立ってる様に見えたから。ニコニコしながら。雉子さんそっくりな顔で」
歩きながら織流が呟きます。
「戻って来たのでしょう。怨念を浄化し、慈しみを取り戻した母の元に」
それは、雉子の娘のチトの魂に違いありませんでした。
「雉子さん、気づいているかな」
「さぁ、それは分かりません。でも、親子ですから」
親子。遠く離れていても、心が伝わる。
きっと、気づいてるよね。
桃子はそう思いながら、急ぎ足で織流たちのあとを追いかけました。
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