伍の朝
壱
たくさんの時間を使って、桃子は夢にまで描いた海の姿を、その目でしっかりと見つめました。
織流に久留、そして雉子に向き直ります。
「みんな。私をここまで導いて、一緒に来てくれて、ありがとう」
深く下げた頭を起こして
「ここに来れて、本当に良かった」
そう言って、頬を濡らしたまま満たされた表情でニッコリとみんなに微笑みました。
(私たちも、あなたに感謝しています。ありがとう)
みんなの思いを受け止めて、桃子はもう一度
「……えへっ」と微笑みました。
海の手前の山中に、村が見えます。ここからだとその一部しか見えませんが、たぶんあの村が、天柱山を、鬼を神様として祀っている村でしょう。
この旅で、桃子はたくさんの事を知り、学びました。桃子はもう一度海の方を向き、しっかりと手を合わせて
「ありがとうございます」
とお辞儀をして帰路に就きました。
帰り道、みんなで歩きながら桃子は言いました。
「私、またもう一度ここに来る。もっと大きくなって、一人でも来れるようになったら。その時まで、みんな変わらずにいてほしいな」
織流も久留も雉子も、鬼のみんなも。そして、何よりあの壮大で美しい風景も。
弐
鬼の洞窟も、もはやみんなのいる所まですぐに着けました。惑わす術を使う必要がないからでしよう。
真っ先に村長さんの所へ行き、
「ただいま戻りました。道中のお守りありがとうございます」
と挨拶しました。
村長は笑顔で応え「そなたは随分と見違えたように見えるのう。素晴らしい経験を成されて来たようじゃな」と言いました。
「はい」桃子もニッコリ応えます。
「それで、これからどうなさる。村へ戻るか。それともここで皆と一緒に暮らすのか」
一瞬、鬼のお母さんの顔が思い浮かびましたが、
「私は…、やっぱり村に帰りたいと思います」
と答えます。
村長は頷いて「そうか。それがそなたの導いた答えじゃな。止めはせぬ。お前さんが、人間として生きて暮らせるよう、そなたの母君から願われている。常ならばこの鬼の棲み家を目にしたものは、すなわちオンノコは鬼として暮らし、ここを出ることは許されんのじゃが。そなたの母君は己の寿命を半分差し出すことでその赦しを与えられた」
「………!」
お母さんが…。お母さんの寿命が半分に。
黙り込む桃子の代わりに村長が語ります。
「鬼も人にも掟がある。皆が平穏に暮らしていくための定めじゃ。それともう一つ。人に戻られたら人として生きる。すなわちこれまでの鬼の血による力、生き物たちと言葉を交わすことは成せぬ。お供達ともな」
桃子は少し哀しそうな顔で織流たちを見つめます。
(仕方のない事です。あなたが人として生きていくためには、鬼の力はその妨げになります。これで良いのです)
(まぁちょっと寂しい気もすっけどよ。桃子が幸せに行きてくれりゃ、それでいいや)
(お母さまのご寿命がいかばかりかは伺い知れませんが、それでも人間の寿命よりは長いはずです。心配いりませんよ)
桃子は唇を噛み締めました。
(なぁそんな顔すんなって!待ってるだろうから、鬼のおっ母さんとこに「ただいま!」って行ってやんな)
やり取りを聞きながら村長が口添えます。
「力を失うのはお前さんが村に戻る時、手前にあるあの小さな集落に着いてからじゃ。それまではこの者たちと話も出来よう。わしからの餞別じゃ」
桃子は村長に頭を下げ、みんなにも頷いてから、鬼のお母さんの部屋に向かいました。
お母さん鬼は部屋で着物を繕っていました。こうしてみると、本当に桃子のおっ母さんそっくりです。姉妹であるからかも知れませんが。
「おかえりなさい。目的は果たせましたか?」
微笑むお母さんを桃子は黙って抱きしめます。
そのままシクシクと泣き出してしまいました。
「あらあらこの子ったら。どうしたの?ちょっと疲れちゃったかしら」
しゃくりあげながら涙を拭いて、桃子はお母さん鬼を見つめました。
「お母さん、ごめんなさい。ううん、ありがとう。私が人間になるために、お母さんの寿命が短くなっちゃった。……ごめんなさい」
お母さん鬼は桃子の頭を優しく撫でます。
「謝らなくてもいいのよ、私が望んだ事だもの。」
膝に突っ伏して泣き続ける桃子にお母さん鬼は優しく話し掛けます。
「親はね、子供が幸せそうにしてるのが一番嬉しいの。きっとあなたの、人間のお母さんもそう。これからあなたが色んな事に興味を持って、もしかしたらまた遠い所を旅してまわって。いつか好きな人に出逢って、一緒になったり。どんなかたちの人生でも、あなた自身が幸せで居ること。それが私たちにとっても、一番の幸せなの。あなたの人生は、あなたのものよ」
優しいお母さんの話し方は、まるで子守唄のように桃子を安心させました。そしていつの間にか、その温かい膝の上で桃子は眠ってしまいました。
参
外を一廻りしてきた雉子が戻って来ました。
(今日も良い天気です。いつでも発てますよ)
朝食をいただいてた桃子が「ありがとう」と言いました。
(おい久留。そんなに満腹に食べると道中こたえるぞ)
(でぇーじょーぶでい!ほんとはお酒も飲みたいのを我慢してんだから飯ぐらい腹いっぱい食わせろい!)
(はぁ…、好きにしろ。途中で動けなくなっても待たぬぞ)
久留は聞こえないフリでもぐもぐ食べ続けます。
帰りもまたケンカしながら賑やかに歩くのかな、と桃子は思いました。
この帰り道が、みんなと最後の旅になる。
ブンブンと頭を振って、今は寂しい事は考えずに桃子も美味しい朝食に集中しました。
出発の時、お母さんは見送りに出ては来ませんでした。
寂しくなるからかも知れないですし、いつでも遊びにおいでという事かもしれません。
(あなたのお母さんは、人間のお母さん)
そんなメッセージが込められてているような気がして、桃子も敢えて部屋へは行きませんでした。
男の子の鬼は泣きながら「また来てね」と手を振り、桃子もつられて泣きそうでしたが、ぐっと我慢しました。
村長が、花屋さんのオンノコを呼んで
「穴の出口まで見送ってやるがよい」
と言いました。
彼女が外の世界に強い憧れを抱いていることを知っているからこその計らいでした。
せめて少しの間だけでも。こういう機会は、次はいつになるか分からない。村長はそう思っていました。
鬼火の灯された村の通路を抜けてしばらく歩くと、上から光の差すあの場所に差し掛かりました。
オンノコはちょっとはにかんで
「村長さまには内緒で、私、時々ここへ来る事があるの。外の世界と繫がっている唯一の場所だから。特に何もしないけど、気が済むまでお日様の光を浴びるの」
今日は本当の外に出られるから嬉しい、と可愛らしい笑顔で笑いました。その笑顔もお日様と同じで眩しいよ、と桃子は心の中で思いました。
上り坂に差し掛かり、上の方が明かるくなっています。「鬼の口」と呼ばれる洞窟の出口です。
オンノコはピタッと立ち止まりました。初めての経験にどぎまぎしているようです。
桃子は彼女の手を取り、
「大丈夫だよ。行こう!」
と、その手を優しく引っ張って坂を登りました。
四
ずっと目を閉じたまま手を引かれていたオンノコに、「さ、目を開けてみて」と桃子が声を掛けます。
オンノコは少しずつ、おそるおそる目を開けていましたが、目の前の光景に「わぁっ」と声を上げて大きく目を見開きました。
そよ風が吹いて、草花が揺れています。
ちょうちょがヒラヒラと、花と花を舞ってい
ます。ブーンとミツバチが飛んできて、お目
当ての花にたどり着きました。
何もかもが、珍しくて美しく、そこには確かな
生命(いのち)を感じます。
「キレイ……」
憧れの世界の、本物を目にして、オンノコが瞼を押さえました。
「すごいね…。外って、自然ってすごいね…」
うまく言葉にできない気持ちが桃子にも良く分かります。海を目にした時、自分もそうだったのですから。
(いつか彼女に、海を見せてあげたい)
桃子は誓いにも似た願いが、胸の中に広がりました。
「あのね、いつか私、鬼も人も一緒に暮らせれるようになるといいなって思ってる。ううん、きっといつかそんな日が来る。その時は、私はいくつになっているか分からないけど、必ずあなたに会いに来る。そしてまた、自然の草や花や色んなものを、一緒にみようね」
思いがけない桃子の言葉にオンノコは一瞬戸惑いましたが、
「うん、待ってる」
とニッコリ微笑みました。
「それじゃあ」
桃子は仲間たちと歩き始めました。
一度だけ振り返り、大きく手を振ります。
オンノコも精一杯大きく手を振りました。
それからは振り返ることなく、桃子はひたすら前を見て歩き続けます。
涙を見せたくなかったから。
あの子の涙を、見たくなかったから。
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