参の夜


           壱


 霊峰 ・ 天柱山。


一体どれほど異びつで険しい山だろうと思っていましたが、意外なほど普通でした。

森には木があり、川も流れ、生き物も各々に暮らしを営んでいます。彼らが行き来する場所は傾斜も緩やかで、通りやすい事を知っているのかみんながそこを使うため、森の中には自然の獣道(けものみち)が出来ていまいた。

 

桃子と織流は揃ってそこを歩き、雉子は空を、久留は林の中の木々を飛び移るように進みます。

雉子はみんなより少しだけ先を飛び、何かあった時は戻って来て知らせてくれました。久留も木と木を移りつつ食べられる実があれば獲っておいてくれます。ただし半分以上は彼のお腹に入りました。

織流は比較的黙って桃子の後を付いてきますが、時々心の中に話し掛けてくるので寂しくありません。

 

天柱山が普通の山と違うのは、桃子が歩いても生き物たちが逃げたり警戒したりはしない事でしょうか。人が来ない場所なので、それは逃げなければならない存在ではないのでしょう。桃子も森の一部になれた気がして嬉しく思いました。ひとつ気になるのは、頭の上のたんこぶが前よりも大きくなっている事です。もう痛くはありませんでしたが腫れはこんなに引かないのかなと思いました。気を失うほどぶつけたので治るには長引くかも知れないな、と考えました。


(一旦ひと休みしましょうか)

織流の心が伝わり、彼がいい木陰を見つけて座っているので桃子もそこへ行きました。

久留は木の実を抱えてきて、雉子も傍に降り立って羽根を休めます。

久留が、(これはおすすめ)とばかりに硬い殻を噛み割って桃子にくれました。

「ありがとう」

桃子は程良い歯ごたえが在る香ばしい実を美味しそうに食べます。気に入ってもらって嬉しいのか久留はどんどん噛み割ってくれます。

雉子は赤色の柔らかい実を、織流はどれそれ構わずガツガツと丈夫な歯で噛み砕いて食べます。

お気に入りを全部取られまいと、久留はそっと少しだけ自分の後ろに隠しました。

 (気づいているぞ)と織流が反応すると、

 (も、桃子の分でぃっ)とやり返します。

「たくさんもらったからみんなで食べよ。ありがとうねクル」

久留はしぶしぶ前に戻しました。もしかしたら後でこっそりと食べる自分の分だったのかも知れません。



日差しも心地よく風も穏やかで、こんないい山がどうしてみんなに恐れられているのか不思議なぐらいです。でももしたくさんの人達が押しかけたら、今は平穏な動物たちもたちまち人を恐れ、隠れて生きなければならなくなるでしょう。あるいは住む場所を失うまいと人を襲い、時には互いに命を奪い合うかも知れません。

 山にはその山のしきたりがある。それを乱せ 

 ばたちまち全てが狂ってしまう。

人が畏れて立ち入らない、近寄らない場所があってもいいのかも知れないと桃子は思いました。

そんな場所に立ち入らせてもらっている事がとてもありがたく、そして不思議で畏れ多くもあるのでした。


(桃子、少しいいですか?)

織流が心に語り掛けます。

「なあに?」

最後の木の実を食べ終えて桃子が応えました。

(ご存知の通り天柱山は神の山です。でも昔は、鬼が山とも呼ばれていました。遠くから山を眺めるとのてっぺんに二つの岩が突き出て見え、それが角のように見える事からそのように呼ばれるようになった、と言われています)

確か村の人にそんな話を聞いたような気がします。角が生えてるから「角が山」と言う事も。

(ただ、それだけで鬼が山と呼んで恐れられるのは無理があります。「角が山」でも、「牛が山」でも呼び方があったはず。そして遠いからといえ、反対側にはもっと近い村があるかも知れない)

言われてみればそうだなと桃子は思いました。自分たちの方から遠くてその先に誰も行った事はなくても、どこもそうであるように山は行き止まりの壁ではありません。桃子たちが越えて来たように、山の向こう側にはまた山があるのです。

(ではなぜ人は天柱山を鬼の山と恐れて近づかないのか。それは、この山が本当に鬼の山であるからです)

桃子は一瞬、ゾクッとしました。


 鬼の棲む山。

見たこともないけれど、動物と違ってなぜかそれが少しこわいと思いました。

(とはいえ、人が思っているように鬼は悪いものと決まっている訳ではありません。時と処に依っては鬼は神でもあり、神でさえも時には鬼と化す。いずれにせよ人は得体の知れぬもの、大きな存在というものを畏れ、敬い、忌む事で自分たちとは違う存在を奉るのです)

神さまも鬼で、鬼も神さま?だから鬼って聞くとちょっとこわいのかと桃子は理解しました。

(そのうえで桃子、その鬼の棲む山になぜあなたが入る事が赦(ゆる)されたのか。人の立ち入ってはならない聖域とも言うべき場所に)

 桃子は答えられません。どうして神さまは、いえ鬼は、自分が登ることを良しとしてくれたのでしょう。ただ海がみたいだけで、特別な思いもお供えする物も無いのに。

織流が続けます。

(ここに入る時、私たちは真の姿へと戻されました。鬼の、神の前で偽りや欺きは許されないからです。

今あなたも、真の姿をなされています)

 わたしの、ほんとうのすがた?

 それは、どういうものなんだろう。

考えても考えても答えはみつかりませんでした。

(焦ることも、おそれることもありません。ただ、この先に進むために、どうしてもあなたに伝えておきたかったのです。

……風が吹いてきましたね。山の天気は変わりやすい。どこか休める所まで、少し先を急ぎましょう)


桃子は何となくスッキリしないまま、また織流と歩き始めました。空には雉子が、木の上には久留が同行します。


急がなければならないのに、桃子の足取りは少しだけ重くなっていました。



          弐


 織流が言った通り、にわか雨が降り出しました。

ちょうど運良く、大きな洞窟が先の方に見えます。

(今夜はあの場所で宿をお借りしましょう)

織流が先に進んで桃子たちを案内しました。


 近くに来てみると、その洞窟は思ったよりも大きな物だと分かりました。みんなでそこへ入り込み、濡れた体を休めます。

織流と久留は体を震わせて水を撒き散らしました。

「ちょっとー!冷たいよ!」

織流がペコリと頭を下げ、久留はテヘヘという感じで頭をかきます。桃子は濡れた服をわざと久留に振り回して仕返ししてやりました。

雉子は少し離れた所で上品に羽ばたかせて水を飛ばし、羽根を繕います。

姿が変わっても性格は変わらないんだなぁと桃子は思いました。

(森でなるべく乾いた木を集めて来るので火を焚きましょう。そのままでは風をひいてしまいます)

織流は久留に合図して久留は(せっかく水気を飛ばしたのに)と嫌々ながら一緒に木を集めに行きました。


薄着になった桃子に雉子が寄り添います。

「あったかい。ありがとう雉子」

雉子はもっと体をくっつけてくれました。



乾いた枝は多くはありませんでしたが、一晩越すには充分です。桃子は着物を枝のひとつにかけて吊るし、織流に言われた通りに石を使って火をつけてみます。

なかなか苦戦しましたが、小さな落ち葉にほのかに灯った火を少しずつ他の葉や枝に移していきます。

程なくして焚き火が出来上がり、桃子は大喜びしました。

森の中で獲ってきた栄養源を、それが元は何か分からないようにして織流と久留が火に焼(く)べました。

彼らの気づかいと思いやりが伝わってきて、

「ありがとう」と少し涙ぐみながら桃子は焼きたてのお肉にかじりつきました。

雨足が強まる前に洞窟の奥へ移動したおかげで風が吹き込んでも雨は入ってきませんでした。



みんなで程良くお腹を満たした後、桃子は黙って焚き火を見つめます。

自分が本当は何者なのか、本当の姿がどうなっているのか分かりません。ただ、みんなと居れば何にもこわくない、恐れることは何もないと思います。でも、全く不安が無い訳ではありませんでした。

 

「私ね…」

桃子がみんなに語り掛けます。

「小さい頃から何でも出来て、何でも分かって、だけどそれはみんなそうなんだと思ってたの。動物と話せるのもお天気が分かるのも、子どもだからきっと出来るんだって、そう思ってた」

 焚き火の火がパチパチ音をたてます。

「だけどいつ頃からかな、それはちょっと人とは違うんだなって気付いたの。普通じゃないんだって。そう考えると何だかこわくなって、おっ母さんに抱きついて眠ってた」

 みんな静かに、桃子の心に耳を傾けます。

「夢を見たの。まだ小さい頃。とってもこわい夢。私がね、鬼になっちゃって、それで……」

桃子は口に出す事も怖くて今まで誰にも話せなかった事を語りました。、

「それでね、鬼になっちゃった私が…、村の人たちを襲うの。誰もかれも分からないまま。おじいさんや、子どもたちまで…」

いつの間にか桃子は涙目になっていました。

「村の人たちをみんな襲って、私は一人ぼっちになっちゃうの。……でも不思議なの。ちっとも寂しくなくて、何だか役目を果たした気持ちになってるの……。

夢とは思えないぐらい何もかも鮮明で、目が覚めたとき気分が悪くて吐いちゃった。それからおっ母さんとこに行って大声で泣いて、おっ母さんが抱きしめて頭を撫でてくれるまで、ずっと泣いてた」

今思い出しても気分が悪くなるぐらい嫌な夢でした。

「夢で、良かったって思ったら安心して、また泣いちゃって。それからおっ母さんに抱っこされたまま眠ったんだ」


誰の心も聞こえず、ただ静かでした。

その時、(桃子…)と雉子が桃子の心に話かけます。

(桃子が神様でも鬼でも人間でも、桃子は桃子です。あなたの中には清らかな優しさが、溢れるほどに満たされています。きっとそれは、ご両親から頂いたあなたへの贈り物。あなたの宝物だと思います。

本当の宝物は、決して失われたりしません)

雉子の言葉を聞いて、桃子は我慢していた涙が堪えなくなって、「うえぇぇ〜」と泣き出しました。

その体を羽根で優しく包む雉子と、さりげなく傍に寄り添って座り直す織流。久留は頭をポリポリしながら

(そうさ。桃子は桃子だ。どうしたって、それは絶対に変わらない。誰にも取られたりするもんか)と強く頷きます。


みんなの温もりを感じて今度は嬉し泣きしながら、桃子はいつの間にかすやすやと眠るのでした。

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