弐の夜


           壱

 

 大池のほとりにある小さなほこら。

大昔からこの池には仙人が住むといわれ、仙人は天柱山への入り口の案内役であり、番を預かっているとも言われます。

天柱山は神聖な場所とされ、神様が居るとも鬼が居るとも伝えられておりまして、人間は卑しい生き物で近づく事は許されないと言い伝えられておりました。

そのため万が一入り込んだりすれば生者としては帰されない、それはすなわち人として元の場所へは戻れない事を意味しており、人間は次第にその山を畏れて崇め、離れていったということです。

 


 深い森を出た桃子たちは、その麓にある大きな大きな湖に行き当たりました。桃子は最初、森から見えた時は青い大地が広がっているのかと思い、大池を目の当たりにした時にはついに海が見えたのかと思いました。大池はそれほどに大きく壮大な景観を映し出していたのです。

「すごい……」

桃子は他に言葉が思いつきませんでした。

どこまでも青く澄んだ水は落ち葉ひとつ落ちておらず、そこが特別な場所なんだと言う事を物語っている様でもありました。


天柱山はあまりにも高く大きな山なので、ここからだとその姿が分かりません。が、遠い向こう岸の森がその一部なのでしょう。

「ここ、泳いで行けるかな」

「おそらく無理でしょう。とてもじゃありませんが、途中で力尽きてしまうと思います」織流が答えます。

「クルは?どう?」

「俺?ムリムリ!オイラ木登りとかその上を飛び回るのは得意だけど、泳ぐのはあんまり好きじゃねぇんだ」

視線を感じて、雉子も首を横に振ります。

「私はそもそも水が苦手です。羽根が濡れると翔べなくなってしまうので」

雉子はハッとしましたが、服が濡れると歩きにくくなるという事かなと桃子は思いました。

「船、とはいきませんがイカダを作りましょう。全員が乗れるためにはそれなりの大きさが必要ですが。

私と久留とでイカダを造ります。一日がかりになると思いますので、お二人は寝床の準備をお願い出来ますか」

織流が桃子と雉子に向かって言いました。

「まかせて!」

「お手伝いいたします」

四人はそれぞれ森に材料をとりに入りました。




「なぁ、あの綺麗な姉さんの事、何か知ってんのかよ。意地悪しねぇでいい加減もう教えてくれよ」

大きめの木を切りながら久留が尋ねます。

「口を動かさずに手を動かせ」

織流は相変わらず素っ気なく応えます。

「あいにくだけど俺ぁ手よりこうやって歯で噛み削った方がはかどるんですぅ!」

「ふん、また屁理屈を」そう言いながら織流も自慢の鋭い歯でどんどん幹を削っていきます。

「なぁ何か知ってんだったら俺にも教えてくれってばよ。会った事あんのかよ。知り合いなのか?」

織流はふぅ~っとため息をつきました。

「会ったことはない。知り合いでもない」

織流は遠い目をしました。

「だが、あの者は最初、間違いなく桃子を狙っていた」

「ね、狙ってたって?」

久留も動きを止めて織流を見つめます。

「昔、遠い隣国に九頭雉鶏精(きゅうとうちけいせい)と呼ばれる者がいた。かの者は故郷を焼かれ、その恨みをはらすべく人間を襲い、王を亡き者にした。その方法は余りにも残虐で、決して怒らせてはならぬ存在として畏れられ人々は彼女を祀ったという」

「あの姉さんがその、何とかケイセイって奴だって言うのかよ」

「いや、九頭雉鶏精は遥か昔の存在だ。だが雉子はその末裔の可能性がある。妖艶で残虐。その姿で人を惑わす力も持っている。お前は桃子の後ろに立った時の、あの気配を感じなかったか?」

久留はあの時の事をもう一度思い返してみました。

そう言われてみると直感的に、なぜか桃子を彼女から離さなければと咄嗟に思いました。

「べ、べぇーつにぃ〜。綺麗な姉やんだなと思ったさ」

「ふん。だからお前は洞察力が足らんのだ」

「はぁっ?何だそりゃ!それが何で桃子を狙ったって話になるんだよ。実際桃子は何とも無かったじゃねぇか」

織流もそこが分かりませんでした。

(九頭雉鶏精の血を引くものなら狙ったものは必ず仕留める。それに、あの時の気配は命を狙うのとは違うものだった。そうまるで、愛しい我が子をようやく見つけた時のように、愛でるような気配)

「桃子はただのヒトではないのかも知れない」

「……ふ~ん。だとしてもどうでもいいや。俺ぁ桃子が大事だし、美人の姉やんも大好きだ」

「ふんっ。卑しい奴め」

そこからはお互いに何もしゃべらずせっせとイカダの材料を集めました。



           弐


「この葉っぱ、水をはじいてるから使えないかな?」

桃子は雉子に尋ねます。

「いいと思います。いくつか余分にもってゆきましょう」

雉子は帯を緩めて、背負える様に次々と二人で材料を重ねていきます。

「この枝、丈夫そうだから漕ぐ時に使えそう!」

木のちょっと高いところまで登って桃子が言いました。

「気を付けて!その横の枝は、あっ!」

足をかけた枝が折れ、桃子はドサッと地面に落下しました。

「桃子!桃子!大丈夫ですか!桃子!」

頭を打ったようで、桃子は返事をしません。

「桃子!お願いだから目を開けて!桃子!」



―――――

(チト!目を開けておくれ!チトや!)

 猟師に矢で射たれて目を閉じたまま、ぐった 

 り横たわる我が子を雉子は鳴きながら名前を 

 呼びます。でもチトはそのまま息絶えてしま

 いました。何日も何日もその場を離れず、雉 

 子は我が子の周りを廻ったり、傍に身を寄せ 

 て横になったりしました。チトがもう一度目

 を開けることもその声を聞かせる事も、もう

 無いのに。それでも離れる事が出来ませんで

 した。

 愛する我が子を失った悲しみは人間たちへの

 憎しみに変わりました。

 山で道に迷わせ、あるものは谷へと誘い、あ

 るものは魅了させて雪の上で眠らせ、それで

 も憎しみは癒えませんでした。

 そのうちに、我が子に似た年頃の子を攫って

 自分のものにしようとしましたが、心はいつ

 も虚しいばかりでした。


 桃子は我が子の生き写しでした。

 (この子を我がものにしたい)

 心に棲む黒い思いがまた彼女を誘います。

 あどけないまま、清らかなまま、永遠に自分

 と一緒に、もう離れる事のないように。

 ところがその子は、思ってもみなかった事を

 口にします。


 「寂しかったね」

 「あなたが命を捨てるのはあの子が悲しい」

 「大丈夫。あの子はずっとあなたの傍にいるか

 ら」


 全てを見抜き、全てを慈しみ、全てを赦(ゆる) 

 す

 

 桃子からは、そんな思いが感じられました。

 それは彼女の体を借りて、我が子が自分に語

 り掛けるように。癒やされることも満たされ

 ることもない黒い呪縛から解き放つように。

 人間を憎み続ける己を諌めんとするように。


 雉子は長い年月を経て、ようやく本当の山の

 守神になれたのです。


 神と鬼は紙一重。

 鬼は神であり時に神は鬼となる。


 大切なこの子をまた失いたくはない。

 その思いで必死に雉子は声をかけ続けます。


 どうかなにとぞ、この子をお救い下さいまし。

 私はまた鬼に戻りとうはありませぬ。


―――――


「桃子!桃子!」

桃子は薄っすらと目を開けました。

「おっ母…さん…?」

意識を取り戻した桃子を、雉子は泣きながら抱きしめました。

「良かった…。桃子……、良かった……!」

泣いている雉子を見て、自分は木の上から落っこちたんだと桃子は思い出しました。

頭を触るとてっぺんに大きなコブが出来ています。

「いたたたた…。頭打っちゃった」

「大丈夫かい?他には何ともないかい?」

本当の母の様に、雉子は心配そうに声をかけます。

「大丈夫だよ。桃子、強いもん」

雉子は涙目で微笑み、また桃子を抱きしめました。 



           参


 イカダも無事何とか完成し、英気を養うため今夜はみんなでしっかりと栄養を摂りました。

雨の心配もなかったので余った材料で今日は二つのテントを即席で造ります。

久留が、じゃあ俺は雉子姉さんと、と冗談で言いましたが彼女に思い切り蹴られて涙目でお尻をさすっていました。それを見て桃子が大笑いしたので、みんなつられて一緒に笑いました。


桃子は雉子の温かい懐に顔を埋めて幸せそうに寝息をたてます。その愛くるしい姿を雉子は悪い気持ちではなく本当に愛しい気持ちで眺めながら安らかに眠りました。

 


「なぁ。まだ起きてっか」

久留は何となく織流に声を掛けました。

しばらくの沈黙の後、織流は「眠れないのか。ゆっくり体を休めないと明日は体力を使うぞ」と応えます。

「そうなんだけどさ。色々気になってよ」

織流は背中を向けていましたが寝返りをうって仰向けになりました。

「何が気になる」

久留は少し黙って

「まぁ、色々とよ。仙人ってのがどんなやつなのか。本当に居んのか。雉子は本当に俺たちの仲間になってくれたのか。それより……」

「……桃子が何者なのか、か」

久留の言葉を織流が継ぎました。

「……正直なところ、私にも分からない。ただ、ひとつ思うのは、この旅があの子にとって幸せなものであって欲しい。…そう願う」

久留も息をつきます。

「そうだな。本当に、そう願う。俺も」

久留も織流も、黙って天井の笹を見上げます。

「いずれにせよ、明日になれば分かることだ。逆に、明日にならぬことには何も分からない」

「…そうだな」


静かな夜の中、しばらく二人は同じ事を考えながら眠れぬ夜を過ごしました。



            


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