弐の昼
壱
「ひっ!お化け!」
桃子の悲鳴を聞いて、織流も身構えます。
久留の上半身の影は歩くほどの早さでゆっくりと二人に近づいてきます。
表情が見える程になった時、その顔がニヤニヤしているのが分かりました。
「クル、さん…?」
久留は崖の所までの来ると、「どっこいしょ」とよじ登って二人の前に姿を現しました。
「ど、どういう事だ」
さすがの織流も冷静ではありません。
久留はニヤニヤしながら、二人の前に石ころを転がしました。
最初に久留が投げたあの石です。
「正体見たり、てな!石を投げても音なんてしねぇ訳だ。下はすぐ地面で、草がぼーぼーに生えてんだからよ!」
わっはっはっと声高らかに笑う久留をよく見ると、彼の下半身には草や葉がたくさん付いてます。
久留は誇らしげに言いました。
「なっ?俺さまの言った通りだろ?何でも慎重になりすぎるより、思い切ってみるのも大事だってよ」
「おまえ…。結果的にそうなっただけだ!無事だったから良かったものの、どれほど心配したと思ってる!」
織流は本当に怒っていました。
「お?おおお?心配してくれたってか?俺を?お前が?」
「ぐぬぬ…。心配していたのは桃子だ!この子に余計な不安を与えるでない!」
久留はしゃがんで桃子に目を合わせました。
「心配かけてごめんな。もう無茶しねえよ。ありがとな」
そう言って涙目の桃子の頭をくしゃくしゃ撫でました。
久留は立ち上がり「約束する。次はお前の言う事も聞いてやるよ」
と織流に向かって言いました。
織流はまた「ぐぬぬ…」と顔をしかめます。
「まあまあ、無事だったしこの崖も危険じゃない事が分かったし、良かったよ!今回はクルのおかげ!ね? さっ。先に進もう!」
桃子が太陽の様な笑顔で二人を取り持ちました。
歩き始めてすぐ、聞こえるか聞こえないかくらいの声で久留は織流に「…ありがとよ」と呟きました。
弐
霧を抜けると、あたりがよく見える場所に出ました。
「うわぁーーっ!」
そこから見える景色に桃子は感動します。そこは雲が下に見える程に高い山でした。
「すごいよ!私たち、天国に居る!」
「縁起でもねぇ」
久留が呟きますが、自分も初めて見る景色に少しうっとりしていました。
天国がもしもあったら、本当にこんな所かも知れません。
お日様と空と白い雲。
それ以外は何もなく、生き物もいないのに何故か大きな生命力を感じます。
織流は手を合わせて陽の光を拝みました。
「さ、天柱山はもうすぐです。ここからも気をつけながらしっかりと歩きましょう」
「はーい!」
「やれやれ。また慎重屋さんの名言ですか」
「今度は私の言う事を聞いてもらう約束だぞ」
「約束なんかしてねーよ。聞いてやるよっつっただけだ」
「くっ、この……屁理屈ばかり延べおって」
「まあまあまあ!仲良く行こ!な・か・よ・く!」
桃子は二人の手をとって歩き始めました。
山を越え、川を渡り、今日もまた夕日が辺りを染めようとしています。
森を抜けた所で「今日はここまでにして、寝る場所を作りましょうか」と織流が提案しました。
「さんせーい!」と桃子が応えます。
雲の動きから、間もなく雨が降りそうだったからです。
織流と久留が枝や細い木の幹で骨組みを作り、桃子は枯れ草や大きな葉っぱなどを集めてきて、三人で横になれるテントのようなものが完成しました。
程なくして山特有の急な雨が降り出しましたが、出来上がったテントは雨漏りもせず安心して中で過ごせました。
「ねぇ、オルやクルは海って見たことある?」
簡単な夕食を終えた後、三人で寝っ転がってから桃子が尋ねます。
「私はありません。先祖は代々、海沿いから少しずつ山の方へ住む所を移動してきたようですが、私が生まれた頃にはみんな山暮らしでしたから」
「オルには家族は居るの?」
「家族は ・ ・ ・仲間たちがみんな家族みたいなものです」
「そっか」桃子はそれ以上詳しくは尋ねませんでした。
「俺は見たことあるぜ」
「ほんと?!」
久留はエッヘンと誇らしげに話します。
「小っちぇー頃、オヤジや兄やんと一緒に何日もかけて行った。俺はオヤジにおんぶされてただけだったけどな」
「どうだった?何か見えた?」
「な~んにも無ぇ。ただでーっかい水がどこまでも続いてた……気がすんだけどな。ほんとに小っちゃかったからあんまり覚えてねぇや」
それでも桃子には久留が大きく見えました。
「…けど、帰りにみんなとはぐれちまってよ。そっからは天涯孤独の身だぃ」
「…そうなんだ……」
桃子は、背負われるほどの小さな久留がたった一人ぼっちで生きていかなければならなった事を想像して、どんな思いで必死に生きて来たんだろうと考えるとたまらない気持ちになりました。
寝返って向こうを向いた久留の背中に、桃子はぎゅっとしがみつきます。
「私、クルが生きてて良かった……」
潤んできた目をつむり、その背中に押し付けて言いました。
「……そっか。俺も、生きてて良かったよ…。桃子に会えたからな」
彼は泣いていたのかも知れません。幼くして生き別れた家族の事を思い出したのか、それは桃子には分かりませんが何となく涙を堪えてるのを感じました。
静かに寝たふりをしながら話を聞いていた織流は、初めて出会った頃から久留が攻撃的だったのは、たった一人で自分を守らなければならない過酷な経験があったからなのだと、このとき初めて知りました。
もう、一人じゃない。
雨の音にかき消される様に、織流はそっと口にしました。
参
翌朝は気持ちのいい日の光で目を覚ましました。
今日こそは天柱山の麓にある、大池への到達が目標です。
海のように広い水たまり。
そこに何があるのか、どんな景色が広がっているのか桃子は少しの不安と大きなわくわくを抱えていました。
山の中腹ぐらいに差し掛かったとき、広い平原がありました。
桃子は好奇心で「ちょっと寄り道!」と言って平原を駆け廻ります。平原はとっても広く、まるで山の一部を削ってそこだけつくられた様にも見えます。
「何だろうな、ここは」
織流が誰ともなく呟きます。
「ああ。まるで大昔に人間の手が付けられたみてぇに不自然だ」
久留もその場所に違和感を感じました。
桃子は端っこの方まで行き、そこからの景色を眺めます。
「うわぁー!」
そこからは山の下の方が遠くまで見渡せました。
自分達が歩いてきた場所、渡った川なども見えます。
「私たち、あそこを歩いて来たんだね!」
二人を振り返る桃子の背後に、音もなくそれは姿を現しました。
「!!」
織流と久留が声を出す間もなく、それは桃子の肩に手を置きます。
「おやおや。随分と珍しいものをお連れの様ですね」
甲高く、透き通る様に綺麗な声。それは振り返るのを阻む気配を放っています。
織流と久留は少しはなれた所からその者の姿を見ていました。
それは、髪の長い女。美しい佇まいでしたが、織流は警戒しました。背後を捕るのは獲物を狙う動物の動きそのものだったからです。
桃子は全く警戒せずに振り返り、「わっ!びっくりした。だぁれ?」と言いました。
相手は虚を突かれたように
「…おまえ、私が怖くないのかい?」
と訊いてきます。
「こわくないよ。お姉さん、優しいもん」
優しいと言われ、彼女は一瞬目を見開きます。
この子は、只者ではない。
髪の長い女は腰をかがめて「そう、よく分かったね。私は雉子(きぎす)。この辺りの山の番人ですよ」
と言いました。
「山の守り神様だね!私は桃子。天柱山を目指して旅してるの」
「そう」
雉子は二人の男たちを見て、「桃子の仲間たちかい?」と訪ねました。
「うん!そう!二人とも頼りがいがあって、色んな事を教えてくれる桃子のお兄ちゃん!」
雉子は目を細めて二人の若者に近づいてきました。
「天柱山を目指しておられるとか。私はこの辺りの山をよく知っております。良ければ私もご一緒させて下さいな」
「…それは、桃子に訊くんだな」
織流は警戒した様子で言いました。
「そうですね。これは失礼いたしました。桃子さん、私も一緒に旅のお供をさせて頂いてよろしいでしょうか」
桃子は元気に答えます。
「うん!もちろんだよ!桃子は桃子でいいよ。仲間が増えて、桃子嬉しい!」
雉子はまた目を細めました。
桃子の返事に「イヤッホー!」と喜びの声を上げたのは久留です。久留は雉子の手を握り
「綺麗な姉やさん、いや、雉子さん!オイラ久留って言うんだ!危ない目に遭いそうな時は、俺が守るから安心してついてきなよ!」
と嬉しそうに手をブンブンします。
雉子は薄目を開けて、「ええ。その時はお願いしますね。私もあなた方が危険にさらされないよう、微力ながらお手伝いさせて頂きます」
とみんなの顔を見回します。
織流だけはプイとあっちを向いていました。
雉子はその反応を見て口元を緩めます。
「大丈夫ですよ。あなた方のお邪魔にはなりませんから」
織流は返事をせずに「昼飯を獲ってくる」
と言って一人森へ入って行きました。
「すいませんね〜。アイツは無愛想で人見知りなもんだから。悪気はないんで!本当はいい奴なんだ…。
俺も昼飯探しを手伝って来っかな。んで、よくよく言って聞かせときます!」
「ありがとうございます。気にしておりませんよ」
久留は良かった、というようにニッと笑って森に駆け出して行きました。
「にぎやかなお仲間ですね」
雉子は桃子に言いました。
「うん!桃子一人ぼっちだったけど、今は毎日楽しいよ!」
雉子はそんな桃子を見てまた目を細めました。
四
「なぁなぁどうしたんだよ。なんかあの姉さんが気に入らねぇみてぇだな」
後ろから追いついた久留が織流に言いました。
織流は振り返り「二人きりにさせたのか」といきなり声をあげました。
「なんだよ。女同士だから問題ねぇだろ」
織流は返事もせず、来た道を走って戻ります。
「おい!何だよどうしたんだよ!」
久留は訳も分からず彼の後を追いました。
今日のお昼ご飯はなにかなーと桃子は二人の帰りを待ちます。
雉子がそっとその後ろから、桃子に手を伸ばしました。後ろから抱きしめられて、桃子は一瞬びっくりしました。
「あの……」桃子が喋ろうとすると
「いとしい…」
と雉子が耳元で囁きます。
「えっ?」
「愛しい…。可愛い子。お前が欲しい。愛しいお前が私は欲しい…」
抱きしめる腕に少しずつ力が込められます。
桃子は静かに目を閉じました。
そして、
「………寂しかったね」
と呟きました。
「!?」
桃子は目を閉じたまま、彼女の腕にそっと手を添えて続けます。
「何よりも大切で、自分の命をかけても守りたかった。ううん、あなたは命を捨てるつもりだった。
……だけどね、あの子は同じくらい、あなたの事が大切だったの。あなたが命を落としてしまうのが、自分の命を失うことより耐えられなかった。」
雉子の目が震えます。その目には、もう既に枯れたと思っていた涙がにじみました。
「本当はあなたも、代わりなんて居ないって分かってる。ね?
大丈夫だよ。あの子はずっとあなたの傍にいるから。そうやってお母さんが悲しむと、あの子も悲しい。いつでもお母さんが笑顔で優しい時が、あの子は一番安心するの」
雉子は桃子からそっと腕を離し、その両手で目を押さえながら「うぅっ、ううぅ……」と泣きました。
桃子は振り返って今度は自分から彼女を抱きしめます。
「もう一人ぼっちじゃないよ。桃子がいる。織流も、久留も居る。ここからはみんなで、一緒に歩いて行こう」
顔をあげた雉子の目に映ったのは、我が子と同じように優しい目をした、幼くて小さな、慈しみに溢れる少女の姿でした。
「ああぁっ……!許して……、許しておくれ……!」
桃子は抱きしめたまま、「大丈夫だよ。ありがとう、って言ってるよ。大好きだよって、言ってるよ」と伝えました。
桃子に抱きしめられ、雉子はずっと縛られていた悲しみと悔やみの鎖からやっと解かれた気がしました。
慌てて戻って来た織流は
「これは、どういう事だ……」
と立ち尽くしながら二人の姿を見つめます。
訳も意味も分からない久留は
「なぁ、何が何だかさっぱり分かんねぇ。意地悪しねぇで教えてくれよ!」
と織流の背中をペン!と叩きました。
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