弐の朝
壱
翌朝から桃子は元気に目を覚ましました。
昨日頂いた命で元気を取り戻したようで、今日はそのまま天柱山に向かえるんじゃないかしらという気持ちさえしてきました。
織流が、川沿いに進んだほうが傾斜も緩く最終的に近道だと教えてくれたので、桃子はそれに従って付いて行く事にします。この辺りの山の事は織流の方が詳しいようでした。
「天柱山はあといくつ山を越えたら着けるの?」
桃子はなんとなく尋ねます。
「山の数は4つだ。ただ、その中には厄介な山もある」
「厄介って?」
「ただ歩くだけじゃない。霧に惑わされて道を見失ったり、面倒なヤツが住んでる場所もある」
「面倒なやつって?」
桃子は初めての大冒険で知らない事に興味津々です。
「行けば分かる」
織流は何かを知っている様でしたが詳しくは話しませんでした。
何があっても桃子こわくないよ、と織流に伝えると珍しく笑って「頼もしいな」と褒めてくれました。
織流は、面倒なヤツとはなるべく会いたくないが、と心の中で思っていました。
川沿いに進むと余分にたくさん歩いている様な気がしますが、急な山を枝やヤブをかき分けて登るより遥かに楽ちんです。頂上を越えて少し下ると景色のいい綺麗な水の流れる川に出ました。川にはたくさん魚が泳いでいます。
「ちょっとここで待ってて」
織流は上半身裸になり川に飛び込みました。
しばらく潜ったりバシャバシャしたりしていましたが、ようやく一匹の魚を咥えて捕らえました。
「すごーい!」
織流は誇らしげに手で水かきして岸へ戻って来ます。
「お腹空いたからお昼はこれで元気を付けよう」
岩場に放された魚は元気よくピチピチ跳ねます。桃子はもう動物の声を聞かないようにしていました。魚は声を聞かせてくれるのか分かりませんが、これから頂く命に、今はただ感謝の思いを寄せます。
織流がまた焚き火で魚を焼いてくれたあと、
「今夜の分のためにもう一匹獲ってくる」といってまた川へ飛び込みました。
今度のはすばしっこいのか、なかなか上手くいかないようです。
その時、森の木の上から「アーッハッハッハ!」と愉快そうな笑い声が聞こえました。
桃子は声のした方をキョロキョロします。
何かがいるようですがその " 何か “は木の上を飛び回ってなかなか姿を見せません。そうして木から木へ飛び移りながら
「そんなモタモタしてたら、周りの魚み〜んな逃げちまわい!」とまた笑います。
織流は川を上がり、忌々しそうに声のする方を睨みました。
「オル、どうしたの?」桃子が尋ねると
「厄介なひとつ。面倒なヤツが現れた」と言いました。織流は林の方へ向けて
「そんなに言うなら、降りてきて獲ってみろ!それとも俺がこわいのか!」
と大声をあげました。
林の方ではしばらく「………」と沈黙がありましたが、やがて一本の枝が大きく揺れたかと思うと、誰かが高くジャンプして二人の傍に降り立ちます。
それは、髪を短く刈り上げて、鍛え上げた手足を短い裾と袖からこれ見よがしにあらわにさせた若者でした。
「久しぶりじゃねぇかよ織流。こんなとこまで来るなんて珍しいな。てっきりオレ様を恐れてこの辺の山にゃ近づけねぇと思ってたぜ」
村のガキ大将より乱暴な言葉に桃子は少し驚きましたが、友達を馬鹿にされて頭にきた桃子は若者に言い返しました。
「やいやいやい!どこの誰だか知んないけど、急に出てきて失礼じゃないよ!何様のつもりなのさ!」
初めて目にする桃子の怒った姿に織流も驚きました。
一瞬、面食らった若者ですが、すぐ表情を変えて
「はは~ん。さてはこのちびっ子のおもりをしてんのか。姿も見せねぇで何やってんのかと思ったら、自分の山ほっぱらかして人間様に媚売ってたたぁ、情けないぜ〜涙出てくるぁ」
織流が構えるより早く、桃子がシュンッと走って行って若者のスネを思い切り蹴りました。
「ウッキャア〜ッ!痛ってぇ何すんだテメェこの!」
捕まえてお仕置きしてやろうとしますが、桃子は素早い身のこなしで全く触れることすら出来ません。
織流は感心しながら面白そうにその様子を腕組みして眺めています。
散々追いかけてクタクタになった若者の頭を、桃子が「てぃっ!」
と叩きました。
「痛てっ!」
織流はそれを見て「ワーハッハッハ!」と満足そうに笑います。
「おやおや、ご自慢の素早さを超えられてしまったのかな?素早さだけは天下一だと思っていたんだがな。素早さだけ、は」
「うっせぇ!今日はちょっと、調子が悪かっただけでい!………にしてもお前、すげえな。名前何てんだ?」
桃子は桃色の頬っぺたをぷくっと膨らませて
「名前を聞くなら名乗ってからだよ!そもそもあんた挨拶もしてないからね!」と村の子を叱るように言いました。
織流は「アッハッハ!愉快さが尽きないな」
とまた笑います。
「笑うな!おめーに笑われんのが俺ぁ一番ムカつ…痛てっ!」
桃子はまた頭をペシっと叩きました。
「今話してるでしょ!まずこんにちわ!」
若者は渋々「こ…、こんちわ」と言います。
桃子は「こんちわ、じゃなくてこんにちわ!あたしは桃子だよ。あなたのお名前は?」
下唇をつきだしたまま、若者が「クル…」とあからさまにふてくされて言うので、桃子がまた叩こうとします。
「あっ、久留、久留です!こんにちは!」
クルという若者は慌てて言い直しました。
この辺り一帯の山々を収めている古くからの知人の、見たこともない姿に織流は楽しくて仕方ありません。
「良く分かっただろう?おもりしているのではない。むしろ守られているのは私だ」
と織流が言うと
「マジかよ……」と久留は本当に驚きました。
この辺りを久留が収めているとしたら、織流は村の辺り一帯の山々を収めている者です。
桃子には良く分からない話でしたが、ようやく久留が大人しくなったので彼にも尋ねてみようと思いました。
「桃子はねぇ、天柱山を目指してるの。良かったらあなたも来る?こんな所で威張ってないで、ちょっと遠くのお山にも行ってみようよ」
「天柱山?本気か?」久留は織流の方を見て言いました。織流は黙って頷きます。
「マジかよ……」
自分よりもすばしっこい少女が、生ける者は近づけないとされる山を目指して旅をする。
久留は何だかこの少女が格好いいと思ったのと、久しぶりに楽しい事が出来そうでわくわくしました。
「おしっ!のった!俺も一緒に付いてってやる」
「ご一緒します、でしょ!」
「あ。ご、ご一緒させて、頂きます…」
新たな仲間を連れて、桃子は天柱山を目指しました。
弐
天柱山がだいぶ近くに見えるようになりました。ここまで来ると、山のてっぺんの尖った部分が本当に天まで届きそうに、そして鬼のツノのように見えます。
その先端は雲に隠れて今は見えないので、本当に天に届いているんじゃないかと桃子は思いました。
織流と久留は昔からの知り合いみたいですが、あんまり仲は良くなさそうです。
桃子から見ると、織流は冷静で物静かな人ですが久留は勢いで突き進む性格でお喋りです。まるで火と水みたいですが桃子はどちらも好きです。
何か決めるにしても二人とも別々の事を言いますが、その時に「桃子はどう思う?」と聞かれるのが苦手でした。
二人とも好きなのにまるでどちらか選べと言われてる様な気になるからです。
だからそういう時は「水の神様が言うには〜」とか、「風の神様がおっしゃるのは〜」と前置きしてから思った事を言う、という方法を思いつきました。こうすれば誰も嫌な思いをしなくて済みます。
よく意見が分かれて言い合いになったりしますが、本当はこの二人はお互いを信頼してるに違いない……と桃子は思っています。そうでなければ昔からの付き合いが、今もずっと続いたりはしないのですから。
いくつ山を越えたかもう数えておりませんが、霧が出る森に入りました。織流が言っていた霧の山に違いありません。
天気はいいのに薄っすらとモヤが出ています。空気も少しひんやりするようでした。
「ここが、織流が言ってたヤッカイな場所?」
「ああ、そうだ。今はまだ周りが見えるが、登るに連れて段々と霧が深くなる。どれ程のものか、私もここまでは来たことがない」
珍しく織流が緊張しているのを見て、桃子は少し不安になりました。
今は二人も仲間がおりますが、こんな所を一人で来ようとしてたなんてちょっと無茶だったかも、と思いました。もし一人だったら、この霧の山で諦めたかも知れません。
こういう時でも久留は元気いっぱいです。
「おやぁ〜?織流さまともあろう方が、こんなモヤモヤで怖じ気づいてらっしゃるんですか?しょうがないからオイラが道案内して差し上げましょうか?」
「お前、この山を知ってるのか?」
「知ってる訳じゃねえけど、高い木の上なら霧も届きゃしねえ。だからオイラが木を渡って案内してやるのさ」
久留はヒョイと傍の木にしがみつくと、スルスルッと上まで登りました。そして木から木へ飛び移りながら「ん〜、この先はしばらく大丈夫そうだぜー!」と下に向かって声を掛けます。
織流は「しばらく彼に案内してもらいましょう。桃子は私の服を掴んで、決して離れない様にして下さい」と言いました。
桃子は織流の服の背中をきゅっと掴んで付いて行きます。
何故だか分かりませんが、不安とは違う、別の何かが桃子をドキドキさせます。こうしていると、不安よりもむしろ安心するのですが。
何となく横に並んで織流を見上げると、彼は真っ直ぐに前を見つめて歩いています。
その横顔を見てまたドキドキしたので、桃子は後ろに下って背中の裾を掴まえたまま黙って付いていきました。
参
霧がいよいよ濃くなり、木の上の久留の姿は見えず彼の声を頼りに歩きます。森の中は生い茂った木と霧だけで、特に大きな障害はありません。でもそれがかえって桃子に違和感を与えました。
(草も無く、風も吹かず、鳥の声もしない…)
桃子は何だか森が自分たちを食べようとしてるような、そんな想像が浮かびました。
「おそれることはない」
「えっ?」
前を歩く織流が桃子に声を掛けました。
織流は一度立ち止まって振り返り、桃子の背に合わせてしゃがみました。そして肩に手を置いてもう一度言います。
「おそれる事はない。我らがついている」
まっすぐな瞳で言われて、桃子はちょっと視線を落としました。なんだかまっすぐに見れなかったのです。
「うん…」
返事を聞いた織流が微笑んで頭をよしよしとしてくれました。何だか元気が出た気がします。
それに織流が、「我ら」と言ってくれた事を桃子は嬉しく思いました。やっぱり織流は、たぶん久留も、ケンカもするけどお互いの事を信頼してるんだと改めて思いました。
その久留が「ちょっと一旦止まろうぜ!」
と大きな声で下の二人に伝えると、自分もスルスルッと降りてきます。
いつもふざけてるのに今は少し真剣な顔をしていました。
「どうした?」
織流が尋ねると
「ちょっと厄介だぜ。崖っぷちだ」
と先の方を示しました。
三人でゆっくり慎重に進むと、その先には地面がありません。確かに崖の様です。しかも、霧のせいでどのくらいの高さがあるのか、この先に行けるのかどうかも分からない具合いです。
「確かにこれは、厄介だ」
織流も目を薄めて先の方を見ました。
霧が濃くて、数メートル先も見えません。すぐそこに向こうの崖があるのか、それとももっと遠いのか。もしかしたらここで完全に途切れているのかも知れません。
織流はしばらく黙り込んで考えます。
「崖は降りればいずれは下に着く。だがどれ程の高さなのか分からない。向こうに渡ることが出来るのかどうかも定かではない。なるべく安全に、確実な方法を考えなければ」
しかし、全く別の事を久留が言い出しました。
「考えたって仕方ねぇよ。要はやれる事をやるのさ」
「ほほう。やれる事とは?」
「まぁ見てなって!」
久留はその辺りから拳ぐらいの石を持って来ました。
「こいつをこっから放り投げりゃ、どのくらいの高さか分かる。おまけに下が地面か水面かも分かるって訳だ」
久留は、「どんなもんだい!」と言った顔をして自分のひらめきを試します。
「そらよっ!」
久留が放り投げた石は下へと落下します。
三人が耳を澄ませていますと、何の音も聞こえませんでした。
久留は「ちょ、ちょっと石が小さかったかな?!」
そう言って今度はもう少し大きな石を見つけてきて
「ふぅ~…。そぅらよっ!」
と崖下に放り投げました。
全く何の音も聞こえません。
「……相当、高そうだな」織流が久留を見て言いました。
「お、おうよ。それを確かめたかったんだからい、いいんだよ。よし!これで崖を降りてくってのは無しだ。そんじゃやっぱり、ここを渡るしかねえ」
霧で何も見えない方向を三人で見つめます。
「向こうまでどれぐらいか、向こう側があるのかさえ分からないぞ」
「だぁ〜からぁ〜!それを今から確かめんだよ!」
久留は森の木々から蔦を取って、それを木の皮で器用に一本一本結びつけます。そうしてかなりの長さの蔦が出来上がると、傍の丈夫そうな高い木に結びつけ反対の端を自分の体に巻きつけました。
「いいか。これでオイラがゆらゆらして向こう側のようすを確かめる。この蔦の長さで足りそうならこいつを向こうに括りつけて、橋の代わりにするんだ」
「それでどう橋の代わりになるのだ」
織流が尋ねた事を桃子も思いました。
「ったぁ~、これだから知恵のねぇ奴は!」
「なに?!」
「蔦が向こうとこっちで結んでありゃ、手と足があるんだからスルスル渡って行けるだろうが」
………二人とも黙っています。
「……うむ。言ってる事は分かる。分かるんだが、そんなにスルスル渡れるのか。どれ程の長さが有るかも知れないのに。しかも万が一落ちたら……さっきの岩と同じ運命になる訳だ」
桃子はごくっと喉を鳴らします。
「ったく何だよさっきから文句ばっかり!他にいい考えがあんのか?みんなで飛ぶか?でっかい羽根でも作るか?まぁとにかく、向こう側があるかどうかって話なんだから、とりあえずオイラにぶ〜らぶらさせてみてくれよ!」
その言い方がおかしくて桃子は思わず「あははっ」と笑いました。
久留は桃子の顔をじっと見て、
「おまえ、笑うと可愛いな」と言いました。
(ん?笑うと?じゃあいつもは可愛く無いって事?)
「ちょっとーっ!それどういう事ぉ!?」
「えぇぇっ!…いや、分かんね。怒る意味が分かんねー」
キーッと両手をブンブン振り回す桃子を置いて
「と、取り敢えず向こう見てくる!」
と久留は早速蔦を使ってユラユラ始めました。
ユラユラは振り子の様にどんどん大きくなります。
「久留!何か見えるか!」
ユーラユーラしながら久留は「なんか……見えるような……気がすんだけどな…」
と近くなったり遠くなったりしながら喋ります。
「もっと……、もうちょっと……勢いを……つけて………あっ!」
ブヅンッ!!
嫌な音がして、久留の姿は見えなくなりました。
「久留ーーーっっ!!」
久留の振り子は何度も繰り返される重さに耐えられず、ついに限界を超えてちぎれました。せめて、こちら側で切れてくれたら良かったのですが。
「なんでだ…、何で……!」
織流はひざまずいて、悔しそうにちぎれた蔦を握り締めます。
桃子は今目の前起きたことが信じられず、呆然と久留が消えた霧の向こうを見つめました。
「・・・〜!」
何かが、聞こえた様な気がします。
桃子はもう一度目を閉じて耳を澄ませました。
「コッチニ トベタゾー」
微かですが、それは久留の声です。
「クルさんっ!!」
桃子は泣きそうな声で叫びました。
…良かった……、生きてた……。本当に、良かった…!
「無茶をしおって。本当に…」
織流も辛口ながら、ホっとしているようでした。
「さて、久留が向こうに行けたは良いとして、ここからどうしたものか」
確かにその通りです。桃子も考えてみましたが、いい案が浮かびません。
霧の向こう岸を眺めていると、何かの影が動いて見えます。
それは、上半身だけになった久留が霧の上を近づいてくる姿でした。
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