壱の夜
壱
さすがの桃子も疲れていたのか、次の朝はイノシシ達が出掛けて、お日様が顔を出してから目を覚ましました。
運び込んだ枯れ草をどうしようかなと思いましたが、イノシシの子供たちが眠ったり遊んだりするのを想像してそのまま置いて置くことにします。一晩泊めさせてもらったお礼の気持ちでもありました。
この日は険しい場所が続き、道の無い山をひたすら登って、ようやく下りに差し掛かった頃にはもう日が沈む前でした。高い木々が生い茂っていて天柱山も見えませんが、翌朝になったらひらけた所を探して方角を確かめようと思いました。天柱山が見えない時はお日様の出てくる方を目印にするのです。
高い木ばかりのこの山は暗くなるのも早いようで、薄暗くなってから寝床を探しておりますと、どこからか獣の匂いがしてきます。
暗闇にじっと目を凝らすと、向こうからもこちらを覗う目があります。それは何十という程の数です。
狼の群れが、自分たちの縄張りに入ったよそ者を睨んでいるようです。桃子は心を通わせようとしますが、相手に話しをするつもりは無いようです。この数を相手にしてもおそらく負けることはありませんが、もともと自分が彼らの庭に勝手に入り込んでしまったのですから、傷つけたくありません。
どうしようかと桃子が考えていた時、急に狼の群れが少しずつ後ずさりを始めました。桃子も自分の後ろの "何か ”の気配に気付き振り返って見ると、背の高い若い男の人が立っています。鼻筋の通った綺麗な顔立ちでしたが、その目は爛々と狼の方へ向けられています。
動物とは違い、人の心は分からない桃子でしたがこの時は
(この人に近づくな。危害を加えればお前たち全てを滅さねばならぬ)
という気持ちが伝わって来ました。
狼の群れは敵う相手ではないと悟ったのか、一匹のこらずその場を去って行きました。
急に現れた男の人に桃子は驚きましたが
「ありがとう。狼さんたちを遠ざけてくれて」
とお礼を言いました。
「礼には及びません。たまたま通りがかって良かった。私は旅のものですが、あなたはどうしてこんな所にお一人でいらしたのですか?」
彼は先ほど光らせていた目が嘘のように穏やかな顔で話し掛けます。村の人達とは違う喋り方です。
「わたしは、天柱山をのぼって海が見たい。だからそこを目指して歩いてるの」
桃子は胸を張って言いました。
「天柱山…ですか。ここからまだまだありますね。私もその方角に用があります。もし良ければ、途中までご一緒しましょう。先ほどの様な危険な事がまたあってはならない。
わたしは、織流と申すものです」
「 “ オル ” さん。桃子はね、” 桃子 “ っていうんだよ。頬っぺが桃みたいだったからおっ父とおっ母が付けてくれたんだって」
不意に、桃子は二人の事が恋しくなりました。
(心配していないだろうか。あと幾日かかるか
分からないけど、私がこうして元気にしいてる
事を知らせてあげたい)
黙り込む桃子に、織流はそっと語り掛けます。
「天柱山には、仙人が居ると言われています。そこへ着いたら、無事であることを夢で伝えてもらいましょう」
何も言ってはいないのに織流がそう声を掛けてくれたことを桃子は不思議とも何とも思わず「うんっ!」と元気に返事をしました。
弐
「えらいこっちゃ…」
桃子が書いた炭の文字を見て、村のおじさんはその場に座り込んでしまいました。
付き添いに付いてきたというのに、幼な子を
一人で行かせてしもうた。
ここで待つべきか、それとも村に戻るべきかどちらもいいように考えられません。
いつ戻って来るか分からないのに、こんな所に一人で何日も待っていることなんて出来ません。
それにもし、あまり考えたくはありませんでしたが、万がいちあの子が戻って来なかったとしたら……。村人は頭を振って悪い考えを振り払いました。
でも今から桃子を追いかけても、どこを歩いていったのかも分かりません。村人はとぼとぼと、自分の村へ戻って行きました。
一人で帰って来た村のおじさんに、多くの村人が怒りました。おじさんは「すまん、ほんにすまん……」としか言いようがありませんでした。
桃子の家に行き親にも詫びねばと思い、おじさんは彼女の両親の住む家に行きました。
事情を聞いて、桃子のおっ母さんは泣き崩れました。おじさんも何とお詫びして良いか分かりません。自分が付き添えた所までの話しを桃子の両親に話して聞かせました。
おっ父は「大変な事を頼んで、すまなんだ」
と言いました。
最初から自分が付いて行ければ、この人に辛い思いをさせることも自分達が不安と悲しみに暮れることもなかっただろうと思ったのです。
それにもし自分が付いて行ったら、何かの理由で桃子に旅を諦めさせたかも知れません。そこには親であるからこその不安と愛情がずっとつきまとうのですから。
おっ父はおっ母の肩を抱いて
「なあ。お前。お前さんも知っての通り、あの子は賢い子じゃ。自分を危険にさらしてまで、無茶をするような事はせん。それに…」
おっ父は神棚を見上げます。
「あの子には神様が付いておらっしゃる。必ず無事に守って、元気に帰して下さるはずじゃ。そうじゃろう?」
おっ母も神棚を見上げます。
「…そうだねお前さん。今は神様を、いんえ、あの子を信じて、待つしかなかろうね」
そう言って涙を拭きました。
本当にすまんこってす、と床に頭を付ける村のおじさんに、おっ父は話し掛けました。
「いんや。もとはといえば、爺さまがそこの近くに行った事があるっちゅうだけで、あんさんに無理をお願いしたのはわしらのほうじゃ。大丈夫じゃ。今ごろあの子は山の生き物と仲良うやっとるわい。そうして元気に帰ってくるじゃろて、今は神さんに手ぇ合わして、それを祈っておろう」
むせび泣くおじさんの背中をさすりながら、おっ父はすまんこって、ありがてぇこってと何度も繰り返しました。
村人たちも、もうそれ以上は何も言いませんでした。誰も出来ない付き添いをおじさんはやろうとしてた事、そして今から桃子の後を追うことは誰にもできない事を、本当は分かっていたからです。
その日から村をあげて、桃子の無事をお寺にお参りに行きました。
参
一緒に付いてきてくれる若い男の人は山に慣れているようでした。桃子が坂を駆け下りても同じように駆け下りれるし、彼がうまそうな匂いがすると行った先にはカキやイチゴなどが野生しています。桃子はそれを目にするたびにすごい!美味しい!といって織流を喜ばせました。
ふた山ほど越えた頃、大きな川に差し掛かりました。泳いで渡らなければ行けない様です。
「オルさん、泳げる?」と桃子が裾や袖をまくりながら訊くと、「早くはないが、泳ぎは出来る」と彼も袖と裾をめくります。
その織流の右腕に、布が巻いてあるのを桃子は気付きました。
「ケガでもしたの?」と桃子が尋ねると、
「ああ、これは。お守りみたいなものさ」
と彼は答えました。その布の柄は桃子が着ている服と同じ模様だったので「おそろいだね!桃子はお守りいっぱいだ」
と笑って言いました。
織流の泳ぎは確かに速くはありませんでしたが、泳ぎを知らない桃子も同じように、手足で水をかいて進みます。ずっと顔をあげていられるので、目的を見失わずとも済みました。
無事に二人で川を渡り終えて、一休みしようと織流が言いました。
彼は慣れた手つきで石を枯れ葉の上で打ち付け、火を灯すことに成功しました。
「すごーい!」と桃子が手をパチパチ鳴らすと、今度は誇らしげに懐からあるものを取り出します。
それは動物の肉を乾燥させたものでした。
「これを食べれば力がつく。さ、桃子もお食べなさい」
今まで米と草や葉、それに木の実しか食べてなかった桃子は動物の肉と聞いて眉をひそめました。動物は桃子にとっては友達だったからです。また、織流を見る目も変わりました。
「オルは、いつもお肉を食べてるの?」
織流は乾燥肉を一旦置いて、桃子に話しました。
「ぼくらはいつも肉を食べて生きている。そうしなければ、生きていけない」
「動物さんは……何か言ってた?」
少しまぶたを潤ませて桃子が尋ねます。
「言ってたかも知れない。でも僕らにそれは聞こえない。聞いてもきっと分からない。」
織流はまっすぐに桃子を見つめます。
「なぁ、桃子。君は草や葉を食べ、木の実を食べる。その時、彼らの声は聞こえるかい?」
桃子は首を横に振りました。
「聞こえないだけで、本当は何かを言ってるかも知れない。でもそれを聞いてしまったら、きっと食べる事が出来なくなる。だけど桃子、我々は生きていかなければならない。魚も、草も、肉も、木の実も食べて、そうして生きていく生き物なんだ」
桃子は黙って話しを聞いています。
「だから仕方ない、と言ってるのではない。
ただ、他の生き物たちも草や木の実を食べて時には他の生き物を食べて生きる。これは、自然の中の理なんだ。生きるために得なければならないもの、それは時には君にとって受け入れ難いものかも知れない。無理をして食す必要ない。ただひとつ、これだけは分かって欲しい。人間も食べ物のひとつに過ぎない、という事だと」
桃子は目を見開きました。
「ちょっと極端な言い方だったね。僕が伝えたかったのは、人間はたくさんの命を頂いて生きる。だから一番強くて偉い生き物と思いがちだけど、それは奢りだ。そして草木も生き物で、それを頂く事で動物は皆生きている。これは間違いのない真実だ。だからこそ何かを食す時、すなわちその命のおかげで力を、栄養を得て今日を生かされた時、忘れてはならない。人間も自然の一部だということを。その中には草木も動物も共にあるのだということを。そうして生きながらえる事を。我々は、いつも決して忘れてはならないんだ」
オルはこれまでもたくさんの命を……もらっ
て生きて来たんだ。だから分かるんだ。その
大切さを。そのありがたさを。私は草も葉っ
ぱも樹の実も、それが命とは考えずにもらっ
てきた。でも、同じだったんだね。声が、気
持ちが読めないだけで他の動物たちと同じ生
き物なんだ。……そうして、それを頂いて、
私は生きている。生きていくために、命をも
らっているんだ。
桃子は改めて、織流の持っていた肉を見つめました。そして自分の意思で、自分の手で火にあぶり、口にしました。
柔らかい、暖かい、美味しい、命の味。
何故か途中で涙が出ました。桃子は泣きながら(ありがとう、ありがとう)と心のなかで繰り返します。
そして教えてもらうまで気づかなった生きていくための力を、命を分けてもらうのでした。
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