愛ゆえに狂う

ルノア

1-1 燻り

 -1-

 

 黒い淀みが延々と続く空を見上げて、ジャック・エンバースミスは憂鬱な一日をため息で迎えた。厄日にはぴったりの天候だ。


 少しやつれ気味な馬が引く荷馬車三台と並走しながら、ジャックは額に浮かぶ大量の汗を布きれで拭った。それも、既に絞れるほどぐっしょりと濡れている。


 まだ春に別れを告げたばかりだというのにこうも蒸し暑いのは、先走って梅雨前に顔を出した湿気のせいで、居場所を探すように執拗に服の隙間へと潜り込んでくるからだ。


 今年に限らず、気候は年々と荒れてきている。


 昔は豊かな大地として知られていたらしいこのゴラドーン大陸も、いまでは樹木の過度な伐採によって見渡す限りの荒野と成り果ててしまっている。そこにはかつての美しい姿は影も形もなく、あるのは荒れた土壌に転がる石や岩、それに時折風に乗って舞い上がる忌々しい砂埃だけだ。


 そんな状況下で、この旅の終着点へはまだ半日も歩き続けなければいけないのだから、誰もが晴れぬ気分に陥るのも無理はない。


 この日の任務は、隊商(キャラバン)の護送だった。


 ゴラドーン帝国の兵士として、ジャックが護衛しているキャラバンには五人の商人達が同乗している。大陸東部の山岳地帯<イーストピーク>から下山し、大陸中央にある商業街<クロスロード>を目指しているところだ。

 

 荷馬車の中身は彼らの商売道具で、中には地方で取れた山菜やコーヒー豆、まるまると肥えた食用の鶏、それに衣類や寝具用の羊毛がこれでもかとばかりに詰め込まれていた。隊商の最後尾には数頭の牛も繋いでいる。


 これらを各地から大勢の商人達が集まるクロスロードに持ち込むと、金に換えたり、別の何かと交換したりするのである。いわば彼らとその家族の命を繋ぐための重要な資産なのだ。


 そんな彼らに護衛が必要なのは、何も山賊のような輩がいるからではない。むしろ山賊ですら恐れる”悪魔”がこの星には潜んでいるからだ。


 そんな極度のリスクを負うこともさることながら、それ以上にジャックはいま自分が置かれている状況にのっぴきならない不満を募らせていた。


 そもそも彼が帝国軍への入隊を志願したのは、何も住民達の些細な喧嘩の仲裁や退屈な田舎町のパトロール、そしてこんな無謀で無計画な護送をやりたかったからでは決してない。彼は彼なりに、他の全てを投げ打ってでも掴みたい”夢”があるのだ。


 だというのに、いまこうして目標とは正反対に向かって歩を進めていることに、やるせなさと僅かな憤りを抱えたジャックは苦い想いに表情を崩した。


「どうしてこうなったんだ……」


 ひとりごちると、数日前の嫌な記憶と再び向き合う。




 -2-


「ちょっと良いか、ジャック」


 そう呼んだ上官のスタン・グッドウィルは神妙な面持ちで、ジャックを手招きした。


「どうかしましたか」


 ただならぬ雰囲気に何事かと思い、自分の椅子を上官の机の前に引きずってくる。


 ここイーストピークは、<帝都アイアンウォール>から遠い地に離れた山岳にある小さな村だ。その住人の数に比例して配備されている帝国兵の数も少なく、数名が任務で出払ったいま、狭くて古い軍の兵舎にはふたりしか残っていない。


「ちょっと見てもらいたいものがある」


 その声には隠しようのない疲れが滲んでいた。


 スタンは今年四十になるこの支部のトップだ。部下の意見を尊重し、自らが先頭に立つタイプの人間で、その思想はジャックとも息が合う。いかな仕事も卒なくやり遂げる能力は、こんな遠方の地で腐らせるには勿体ないほどのものなのだが、その反骨精神のおかげか帝都本部では邪険に扱われてきたらしい。


 先程本部から来たという責任者との会合で、何かあったのだろうか。


 椅子に座ったところで差し出された書類を手に取る。表紙には今後のイーストピーク支部の在り方について、と表題が書かれていた。


 約五枚にも渡って書かれたその内容を読み終えた時、ジャックは重たい疲労と、ぶつけどころの無い怒りを感じていた。事細かに書かれている文章の中に、これを書いた者の陰湿で悪意のある性格が嫌と言うほどに詰め込まれていたからだ。


「どう思う」


 読み終えるまで腕を組んで待っていたスタンが、「呆れるだろ?」とでも言いたげに顔を歪めた。


「馬鹿げてる」


 ジャックは怒りを吐き捨てるように書類を机に放り投げる。


「たが本部は本気だ」


「こんなもの、誰が持ってきたんです?」


「アーサー少佐だよ」


 その名前が出て、ジャックは納得した。


「あの無能狸ですか」


「口を慎め、ジャック。どこで聞かれているか分からん」


 スタンは「たとえ、本当のことだとしてもな」と口に人差し指を当てて付け加える。


「しかし、この数字は実現不可能です。俺たちに死ねと言ってるようなものですよ」


 よく通したな、と言わんばかりの視線をジャックが送ると、すかさずスタンは答える。


「やれることはやったさ。それで、これだ」


 途端、ふたりのため息が交じり、それからしばらくの沈黙が続いた。


 書類に書かれていた内容は、そのほとんどがイーストピークの実績の少なさを指摘したものだ。


 支部でやるべき仕事はいくつかある。街の治安維持に、住人の管理。雑務のようなものが様々あるが、その最たるものが各地へのキャラバンの護送で、今回はこれが槍玉に上がっていた。


 悪路の多いゴラドーンの交易路を、安心してキャラバンが通過できるよう帝国兵が同行し、後に対価を得る。ただそれだけで、聞けば簡単そうにも思えるが、そうではない”事情”がこの星にはある。


 そもそも、イーストピークは下山に労力を伴う地ゆえに、他の地方に比べてその運搬の回数を抑えるところもあれば、より安全で確実な策として”とある専門の業者”を頼むところも多い。だから護送の実績が少ないと言われても、護送するキャラバン自体がほとんどないのだから、仕方のない話でもある。


 紙に書いてあることは、どれも交通量、依頼量の多い帝都周辺、および他地区での目標数値を参考にしたものであり、地方の特性を理解していない机上の空論でしかない。


 第一に帝国として民のために保安活動を行うのは当たり前のことであって、そこにノルマを設けること自体おかしな話だとも思う。


「他では出来ているのだからうちでも出来ないはずはない、と聞く耳持たずだった」当時の様子を思い出したのか、苦い表情でスタンは語る。「少佐の目にはこういった数字しか映っていないからな」


 ばらけた書類を手で叩き、スタンは続けた。


「あの人の目的は結局のところ、軍資金支出の削減だ」


「減らすべきところは、他にもあるでしょうに」


 ジャックはたまらず悪態をついてしまう。


「私もそう思うよ。だからそう苦言を呈したのが、どうも逆鱗に触れてしまったらしい」スタンは噛み締めるように大きく頷いた。「田舎者の言い訳だと一蹴された。需要の無い支部ならば、潰してしまえとの脅し付きだ」


 聞いて、ジャックは思わず失笑してしまった。


 スタンも同じように笑い、続ける。


「その結果、一番大きな人件費を減らすことになった。私は人を切るつもりはないと伝えると、その代わりに一回の護送で同行する人数を減らさなければならないと言われたよ。それが……」


 そう言って、半分自嘲気味に資料のある数字を指で叩く。


「ひとつのキャラバンの護送に四人……」ジャックはごくりと生唾を飲み込んだ。「滅茶苦茶だ。最低でも十人は必要なところですよ」


「ここ最近は”奴ら”も顔を出してはいないからな。少佐もリスクは無いと踏んでのことだろう」


「そういう問題じゃないでしょう。万が一があった時、キャラバンは間違いなく全滅しますよ」


 ジャックは静かに怒鳴ったが、彼を理解するスタンは大らかにそれを受け止めた。


「分かってはいる。だからこちらの出世頭になるであろう若手達を帝都に送る代わりに、少佐に当分の間はベテランの兵士を付けてくれるよう頼んだ」


「ベテラン……?」首を傾げたジャックだったが、すぐに違う疑問が湧いてきた。「待ってくださいよ。なんで俺が帝都行きじゃないんですか」


 ジャックは焦った。彼の"夢"はここには無い。帝都にあるからだ。


 そんな本気の問いに、スタンは声を張り上げて笑った。


「お前の性格じゃ、一生かけても出世なんてないだろう?」


 俺を見てみろ、とばかりに肩を竦(すく)めたスタンを見て、ジャックは堪らず大きなため息をついたのだった。



 -3-


 いまだ怒り燻(くすぶ)る過去から意識を戻すと、ジャックはその憤りの眼差しで前方を歩くふたりの背中を睨んだ。


 スタンの要求通り、アーサーが手配した"ベテラン"。だが、ジャックの予想とは大きく何かがズレた中年の男達。その足取りはおぼつかず、ふらふらとだらしない。


「昨日の女、最高だったな。ありゃ絶対俺に惚れてる」


 兵士には似つかわしくないほどに膨れ上がった腹を揺らしながら、そのうちのひとりが言った。


「そりゃおめぇじゃねぇ。お前が持ってた金に惚れてんだ、バカ」


 もうひとりが酒を片手に、下衆な笑みを浮かべる。


「酒は護送が終わってからにしませんか。クロスロードで祝杯でもあげたらどうです」


 本部からの熟練者だと聞いてみれば、とんだ期待外れの人選にジャックは噛み付かずにいられなかった。これほど酷いと、相手が年上だろうが初対面だろうがもはや関係ない。


「あ?」太った男は声を荒げ、こちらを低俗な眼差しでめつけてくる。「若造は黙ってな。仕事に口出しすんのは、まだ百年は早いってもんだ」


「大体なんで俺たちがイーストピークなんざ退屈な田舎の仕事をしなきゃならないんだ。さっさと終わらせて、女どもと気持ちよく眠りてぇわ」


 当たり前のように酒を呷りながら、もうひとりの男も悪態をつく。


 こんな奴らに何を言っても無駄だと悟った。これがベテランだと? あの狸め、歳だけ食ったただの落ちこぼれを寄越したな。


 そんな気持ちが口から漏れてしまわないよう、ジャックは堪えるしかなかった。


 キャラバンの面々から、本当に大丈夫なのか、と言いたげな痛い視線がこちらに注がれる。


 大丈夫なものか。さすがにこれはスタンにも予想外のことだったに違いない。十人必要な仕事を四人にまで減らしたうえに、そのうちのふたりは使い物にならないときた。これほどまでに馬鹿げた話があるだろうか。


 そして最後のひとりだ。


「……でな、娘がいつの間にかひとりで立っていたんだよ。それがまた可愛くってな。来週には一歳になるんだ」


 荷馬車を挟んだ向こう側から、飽きることなく娘自慢を繰り返す男。眼鏡をかけた優男風の兵士はジャックよりは少し年上のようだが、ひょろりとした体付きからはベテランのにおいなど一切無かった。


「そりゃ、無事に戻らないとですね」


 一頻ひとしきり自慢し終えた男に、うんざりした顔を見せないよう荷馬車の影から相槌をうつ。


「あ、俺はティム」男は名乗った。「これから先も長いし、よろしく頼むよ」


「ジャックです、よろしく」


 前を行くふたりとは対照的な挨拶に、ジャックも自らを名乗り返した。


 こんな出会いでも無ければ、愛想も良く、謙虚な態度のティムに少しは好感を抱いていたかも知れない。彼がひとりの良い父親だということくらいは、良く分かる。


 とはいえ、誰も彼もが脳天気すぎやしないか、とジャックは胸の内で密かに嘆いた。この仕事が死と隣り合わせであることに、何の危機感も抱いていない。


 確かにスタンが言っていたように、ここ最近ではキャラバン護送中の事故はほとんど起きていない。だが、万が一ということもある。


 いつ”奴ら”が現れるとも限らない状況の中でジャックは極限まで己の感覚を研ぎ澄まし、身に迫るであろう危険に最大限の注意を払っていた……つもりだった。


 だが次の瞬間、そんなジャックの警戒がいかに不十分なものであったかを、彼は身をもって思い知らされることになる。


 先頭を走る荷馬車が、突如大空を舞うとは誰が予想できただろうか。馬のいななきが飛び、乗せていた作物が宙に散らばり、御者台に座っていた商人も後を追うように空を泳いだ。


 一瞬何が起きたのか、誰にも分からなかった。それまで何の予兆も無かったのである。


「な、何が」


 ティムが現状を探ろうと、辺りを見回した。見渡す限りの荒野に、馬車とともに舞い上がった砂塵以外、異変はない。


 しかし次に視界がぐらりと揺れた時、ジャックは理解した。


「来た……!」


 揺れたのは地面だ。


 走ってきたのでも、空を飛んできたのでもない。“それ”は地中から、地表を突き破って現れたのだ。


 吹き飛んだ荷馬車があった地面に亀裂が走り、大地が大きく裂けていく。


 大口を開けた穴の中から這い出してきたのは、身も凍るような黒い殺意の塊。


 不気味に黒光りする甲冑のような殻を身に纏い、重い馬車を吹き飛ばしたであろう脚は六本あるが、一本で人ひとり分あるのではないかと思えるくらいに太く、巨大だ。


 暗い穴ぐらから猛烈な敵意をまき散らしつつゆっくりと這い上がってきた”それ”は、重たい体をゆっくりと持ち上げていく。


 その場の全員がその様を黙って見上げることしかできなかった。


 混沌渦巻く空を背景に現れたのは、人の二倍ほどはある巨大な黒いだ。


「ま、喰人蟲マンイーター……」


  太った男がありえないとばかりにぼそりと呟くと同時に、虫の瞳にあかの光がぎらりとほとばしる。凄まじい眼光に射抜かれた誰もが得も言われぬ戦慄を覚え、そして動くことが出来なかった。


 ジャックが恐れていた“万が一”が、ついに起きてしまったのだ。

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