その翼、花の名にあらず

諏訪野 滋

その翼、花の名にあらず

――試験飛行記録 第三報

昭和二十年四月二日

於 太刀洗たちあらい飛行場 

報告 海軍航空本部第二部 「回風かいふう」開発主査 小山田おやまだ淳一郎じゅんいちろう


当機、最高速度及ビ上昇速度、並ビニ旋回性能に於ヒテハ、要求サレタル性能ヲ満足スルモノト考ヘラレル。但シ、耐久性ト耐弾性、及ビ電子機器ノ信頼性ニツヒテハ、更ナル改善ヲ要スト愚考スルモノナリ。



 低いハミングのような発動機の音が、ドップラー効果で徐々に高くなる。蒼天のかなたに米粒のように見えた機体は、みるみるうちに姿を大きくすると、うなりを上げながら頭上を通過した。三十メートルほどのごく低空を森の方へと抜けると緩やかに上昇し、十五度ほど傾斜させて右の翼を天に向ける。小山田は小さく舌打ちすると、追いつくはずもない苦笑を開発中の戦闘機に向けた。

鈴村すずむらの奴、ちっとは真面目にやりやがれ。試験中に機体で挨拶あいさつする奴があるかよ」


 鈴村芳次よしつぐはテーブル越しに小山田に茶を渡すと、自分の湯飲みを大事そうに抱えてふうふうと息を吹きかけた。元来が猫舌なのである。

「淳さん、外みてください。花見の季節、逃がしちまいましたねえ」

 小山田が目を向けた先では、舞い散った桜の花弁がガラス窓に付着して、薄紅色のまだら模様を描いていた。研究所とは名ばかりの木造二階建ての事務所は、飛行場のすぐそばに突貫工事で建てられたもので、その快適性はお世辞にもいいとは言えない。

「でも鈴村、お前さんは目がいいからよ。飛行機の上からだって、桜の木は一本一本が見えるんじゃねえのかい?」

「ああ、俺が試験飛行士に採用された時も、確かにそいつが役に立ちました。今日も離陸の時、近所の農家の娘さんたちが手を振ってくれてたのがしっかり見えましたよ。筑後ちくごっていいところです、可愛い子が多くて」

「気楽な奴だな、お前は。俺なんか毎晩製図に追われてるから、近視が進む一方さ」

 牛乳瓶の底のように分厚いレンズがはまった小山田の眼鏡を、鈴村は気の毒そうにながめた。

「まあいいじゃないですか。淳さんにはきれいな奥さんも可愛いお嬢ちゃんもいらっしゃるんですから、いまさら女性に鼻の下を伸ばす必要もないでしょう? 俺なんかほら、じきに三十になっちまいますよ」

「馬鹿あ言っちゃいけないぜ、俺が祝言しゅうげんを挙げたのは三十五の時よ」

 ふふふ、ははは、とひとしきり笑った後で、小山田が表情を改めた。

「今、お前が試験飛行してる『回風』な。正式に採用が決まったよ」

「え、もう? 俺が乗り始めてから、まだ二か月ですよ? 今日飛んだのがやっと三回目だってのに」

 戦闘機の開発というものは、まず設計から始まる。試作機が完成すると、テストパイロットが様々な項目を評価するために試験飛行を行い、それをもとに更なる修正が加えられていく。そして正式に量産が認められれば生産が開始され、操縦士の慣熟訓練を経て、ようやく戦場に姿を現すことになる。平時であれば、この一連の流れには最低でも一年はかかるのが技術者たちの常識であり、試験飛行が終わっていない段階での正式採用はきわめて異例であった。

「……そうですか。戦況が、いよいよ厳しいってことですか」

「いやまあ、採用される条件はいくつかあったのさ。一番大きかったのは、軍需省の倉庫に星型エンジンが二百機も眠っていたことだがね。何しろもう、材料がない。鉄も、ニッケルも、ボーキサイトも何もかも。加えて言うなら、エンジンを組める熟練工も空襲でだいぶ失った。そんな中で見つけたお宝だろ、こいつを放っておく手はないってんで、俺たちの小型戦闘機に白羽の矢が当たったってわけだ」

 ふうん、と茶を一口含んだ鈴村は、あっちい、としぶきを飛ばす。苦笑しながら手拭てぬぐいを渡した小山田は、手元の資料を指先で指し示した。

「それだけじゃねえ。鈴村、お前さんのせいでもある」

「え、俺?」

「お前さんの飛行試験の結果がたいそう好成績だから、他の機体との競合にあっさりと勝っちまったのさ。ほら、お前さんの報告にあったろう。機体の挙動にくせがなくて操縦しやすい、って」

 鈴村はちらりとよそ見すると、図面を引いていた女子学徒に軽薄に手を振る。女生徒は顔を染めると、頬をふくらませてぷいとそっぽを向いた。去年あたりからこの研究所にも学生の姿が増えて、大人の姿が減ったことの良し悪しはともかく、華やかさと活気は確かに増していた。振られたことに苦笑した鈴村は、小山田の渋面に気付くと慌てて顔を戻す。

「ああ、操縦性ですね。そりゃあそうですよ、何しろ軽いんだもの。淳さんが言う通りに鉄板なんか全部取っ払って、木で出来ている部分だって多い。同じ馬力なら軽量化すりゃあ、あらゆる動きが軽快にもなります。ただし壁が薄いから、一発喰らったら終わりですがね」

 小山田は眼鏡をはずすと、目頭のあたりをぐりぐりとんだ。

「嫌になっちまうのもそこさ、俺の言ってることわかるかい? たいして訓練しなくたって一応は飛べる、ってのが、『回風』が正式採用された理由なんだよ」

 しばらく黙り込んで茶をすすった二人は、どちらからともなく滑走路に駐機してある小さな機体に目を向けた。陽光に光る翼の上にも、雪のようにうっすらと桜の花びらが積もりつつあるのが、遠目にも鈴村の目に映る。小山田はまぶしそうに目を細めると、ため息交じりのぼやきを吐き出した。

「因果なもんだな。安くて性能のいい飛行機を作ってみたら、それだけ早く若い奴らを戦場に送り込むことになるなんざ」

 鈴村はぼんやりと天井を眺めたが、いきなりぐいと茶を飲み干すと、航空眼鏡をつかんで立ち上がった。

「淳さんらしくもありませんや。俺たちは俺たちに出来ることをして、飛び立つ奴らに少しでもいい機体を渡す。それだけでしょう?」

 鈴村の顔を見上げた小山田は、やがてわしゃわしゃと髪をかき回すと、きまりが悪そうに笑った。

「違えねえ」

 うなずいて踵を返そうとした鈴村は、思い出した様に振り返った。

「そうそう。前から淳さんに、一つ聞きたいことがあったんですが」

「何」

「『回風』って名前、淳さんが付けたんですよね? 『回』ってもしかして、戦局を逆転する、って意味で?」

 小山田は口の端を曲げると、にやりと笑った。

「お偉方はそう思って勝手に喜んでいたけれどな、そんなんじゃねえ。『回』はな、きちんと帰ってこいよ、って意味だよ」

「それでこそ淳さんだ」

 ごっそさんでした、と後ろ手に手を振った鈴村は、鼻歌を歌いながら愛機の方へと歩いて行く。外から迷い込んできた花弁が二、三枚、開け放しの扉を通して、鈴村と入れ替わりに小山田の足元へと流れてきた。


「どういうことです?」

 灯火管制の為に極力照度を落とされた裸電球の下で、鈴村は机の上の命令書を手の甲で叩いた。

「なんだお前、字ぃ読めなくなったのか?」

「俺の目の良さは筋金入りです、ふざけんでもらいましょうか。いや、百歩譲って『回風』を戦闘機から爆撃機に転換する、ってのはよしとしましょう。確かに今はB29を落とすことよりも、上陸してくる敵の船を沈める方が先だ。けれどね、淳さん」

 腕組みをして瞑目めいもくしている小山田に、鈴村は言葉を継いだ。

「ここにある『降着装置は離陸直後に投下する』の一文、これはいけない。離陸後に車輪を投下したら、任務終了後にどうやって着陸するんですか」

 小山田はため息をつくと目を開き、負けずに鈴村を睨み返した。

「そりゃあお前、グライダーみたいに、空き地なり砂浜なりに胴体着陸するんだよ。考えてもみろ、精密機械である降着装置を省くことが出来りゃあ、製作工程もぐんと短縮できるし、資材の節約にもつながる。もう俺たちにはモノも時間がないんだよ」

「……胴体着陸。まさか本気で言ってるんじゃないでしょうね? 爆撃機にした上に着陸に必要な車輪を外す、ってのは、帰ってこなくていいって言ってるようなもんでしょうが!」

 小山田はいきなり机をたたくと、がたりと立ち上がった。勢いで命令書が数枚、机の周囲に花弁のように散る。

「馬鹿野郎、もう遅いんだよ! 武蔵野むさしの工廠こうしょうでは、すでに百五機の『回風』がそれと同じ仕様で完成しているんだ。……『回風』はな、とっくに俺たちの手を離れちまっているんだよ」

 呆然とした鈴村に、小山田は追い打ちをかけるようにつぶやいた。

「正式名称も決まってる。『菊花きくか』ってな」

 特別攻撃機に与えられる呼称「花」。鈴村にも、それらの開発のうわさは耳に届いていた。「桜花おうか」、「梅花ばいか」。いずれも片道切符の体当たり兵器であった。そして今、「回風」にも花の名がつけられようとしている。

 息をのんだ鈴村は幾度となく首を横に振ると、上司である小山田の襟首をつかんだ。

「淳さんはそれでいいんですか! それじゃあ、その百五人の操縦士たちは確実に死ぬことになる。俺は、俺たちは、そんなことのために『回風』をここまで育てて来たんですか!」

 小山田は鈴村のなすがままにされながら、うなだれてつぶやく。

「せめてな、底板の鋼板をちょっとだけ厚くしておこうと思うんだ。少しでも、胴体着陸の時の損傷が少なくなるように」

「……棺桶を頑丈にしたって、誰が喜ぶもんですか」

「すまん。それが、俺に出来る精一杯なんだよ」

 さらに食って掛かろうとした鈴村は、小山田の目が真っ赤になっているのを見て押し黙る。はあっと数度荒い息を吐いた後で手を放した鈴村は、後悔を顔ににじませながら、やがて小山田に深々と頭を下げた。

「すいませんでした、淳さん。俺は試験飛行士です、飛行機を飛ばすことしか取り柄がありません。それでも俺も淳さんみたいに、自分にできる精一杯のことをさせていただきます。とりあえずは、最後の試験飛行まで」

 そう言うと鈴村は返事も待たずに、暗がりの中を屋外へ出た。見上げた頭上では、無数の星が瞬きを繰り返している。いつまでも変わらないその輝きを眺めていた鈴村の口元から、不意に低い笑い声が漏れた。

 本当に、ここはいいところだ。

 やがてぶらぶらと官舎へ向かった彼の背中には、さきほどまでの迷いはもはやなかった。


 六月にしては珍しく、雲も雨もない絶好の飛行日和だった。滑走路の脇に群生している紫陽花あじさいの花が、朝露を浮かせて柔らかく光る。

 操縦席に座った鈴村に、梯子はしごを上ってきた小山田が声をかけた。

「最後のお勤めご苦労さん、鈴村。あり合わせで作ったぼろい機体だが、お前さんのおかげでここまで仕上げることが出来たよ」

 航空眼鏡を額に上げた鈴村は、滑走路の向こうを透かし見るように目を細めた。

「はは、何言ってるんです。淳さんの設計なんだ、俺はずっと安心して飛んでましたよ」

 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか、と飛行帽を軽く叩いた後で、小山田は天を仰ぎ見た。

「こいつは、独りごとだと思って聞いてくれねえか。きっと俺は特攻機を設計した男として、敵さんに尋問され、搭乗員の家族からは憎まれ、歴史の汚点として記録に残ることになるんだろうよ。けれど俺は、とにかく何かをせずにはいられなかった。子供が竹やりを振りかざし、女が懐刀で敵の兵隊と刺し違えようって時なんだぜ?」

 小山田は節くれだった手で、子供の頭をなでるように「回風」の外板をさすった。

「そして飛行機屋の俺には、自分の技術と与えられた乏しい資源で最善を尽くすしかなかった。言い訳じみてて格好悪いけれどよ、『回風』をどう使うか、それはもう時代としか言いようがねえ。暗い、寒い、そんな時代が……」

 せきを切ったように言葉を吐き出し続ける小山田の肩を、操縦席の中から手を伸ばした鈴村がつかんだ。鈴村の目は果たして、いつものように見送りに出てきた娘たちを追っているのか、それとも美しい筑後の田園を目に焼き付けているのか。

「淳さん、俺はね。淳さんがこの機体を最後まで『回風』と呼んでくれた、ただそれだけで十分ですよ」

 そういうと鈴村は、飛行服の胸ポケットからしわくちゃになった封筒を取り出した。

「これね、いままでの試験飛行の印象を俺が書いたものなんです。淳さんの印象とは少し違うかもしれないから、後で確かめてから本部に送ってくれませんか」

「あ? そんなもんなら、お前が自分で」

 返そうとする小山田の手を、鈴村は笑って押しとどめた。

「いやですねえ、ちょっと淳さんに対するお礼みたいことも書いてあるんですよ。恋文を目の前で相手に見られるって、恥ずかしいでしょう?」

 小山田は少しどぎまぎすると、仕方ねえな、とつぶやきながらそれを懐に収める。鈴村は航空眼鏡を目に当てると、発動機を始動させた。雲一つない青空と同じく、混じりっ気のない駆動音が周囲に響き渡る。

 梯子を下ってそれを外した小山田に、機上から鈴村が声を張り上げた。

「淳さぁん! 俺はねえ、こいつも淳さんも、悪者にするつもりはありませんよお!」

 面食らう小山田に向かって一部の隙も無い敬礼を送ると、鈴村は風防を閉じた。防弾ガラスが陽光を反射して、その顔はもう見えない。操縦席に向けておざなりの敬礼を返すと、小山田は慌てて機体から離れる。

 じりり、とタイヤが転がったかと思うと、機体は滑るように滑走路を走り出した。すべてのしがらみを振りほどくかのように、「回風」は最後の試験飛行へと飛び立って行く。

 機体は安定した姿勢で低空を数度旋回した後で、見守る整備員たちの頭上を右へ左へと傾きを繰り返し、そのたびに小山田に向けて翼が交互に振れた。おいおいまた挨拶かよ、と小山田はため息をつく。

「あの野郎、最後までふざけやがって……」

 あの男なりの感謝のつもりなのだろう、飄々としている割には妙なところで義理堅い鈴村らしいや、と目を細めて見守っていた小山田の顔に、不意に不安の影が差した。おかしい、機首が下がりすぎている。まさか、失速するような角度でもあるまいに。上げろ、鈴村。操縦そうじゅうかんを引いてくれ、早く――

 轟音の後に、オレンジの炎と真っ黒な煙が上がった。研究所や工場から大勢が出てくると、口々に叫びながら駆け出していく。小山田の膝ががくりと落ちる。一体なぜ、俺が出会った中でも最高の試験飛行士が。

 その時小山田の頭の中に、鈴村の最後の言葉が甦った。封筒を取り出すと、震える指で封を切る。そこには鈴村が話した通り、最後の試験飛行についての報告が書かれてあった。

 小山田は便箋びんせんを握りしめると、馬鹿野郎、と一言つぶやいて、土の匂いが強く薫る大地に額をこすりつけた。


――試験飛行記録 第四報

昭和二十年六月八日

於 太刀洗飛行場 

報告 第五一航空師団所属 「回風」試験飛行士 鈴村芳次中尉


当機、爆撃機ヘト換装シタル後ヨリ、離着陸ノ性能不良アリ。マタ重量過大ニテ、旋回性能及ビ低速デノ安定性ハ極メテ劣悪ナリ。以上ヲもっテ当職ハ、「回風」ニ於ヒテハ相当ノ改修ヲ必要トスルモノト判定シ、前線投入ハ時期尚早ト考ヘルモノナリ。



 試験飛行士を事故で失い欠陥機の烙印らくいんを押された「回風」は、結局百五機をもって生産は打ち切られ、そのまま使用されることなく八月十五日の終戦を迎えた。「菊花」の名称も、幻となって歴史の海に沈んでいった。

 それでも田植え歌が響いてくる時期になると、小山田は今でもあの滑走路を想い出す。太刀洗を潤す筑後川も、見守るような耳納みのう連山も、そして人々の営みも、絶えることなく続いていく。また明日ぁ……振り返った小山田の目に、子供たちが手を振り合う姿と、左右に振れる翼が重なる。

 空を見上げた小山田は、収穫の時期を待ち遠しく思った。

 花はいつでも、実りのために咲く。

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