第2話


 あれからしばらくして、華怜は暇を縫って原付免許を取得した。

 これでもかと言わんばかりに家の力があるお嬢様なのに、かなり喜んでいたのが竣には不思議でしょうがなくて────


(……可愛かったなぁ)

 原付免許を自慢げに見せてくる華怜は普段とは違って無邪気で可愛かった。

 今頃どこかにでも出かけているのかもしれない。自分も免許を取った時はそうだった。

 暇な時間を見つけては遠出したものだ。そんなことを考えながらぼーっとしているとレジに派手な髪の色をしたおばさんが来た。


「カードでね」


「ご一括払いとなりますがよろしいでしょうか?」


「当たり前でしょ?」


(……俺にはカードなんか一生作れないんだろうな)

 こんな変なクソババァにも作れるのに、と普段なら棚の整理でもしながらもやもや考えるところだが、明日は本当に珍しくバイトが何も被っていない上に休日なのだ。

 竣には趣味と言えるほど毎日続けていることはない。それでもあえて一つあげるなら、バイクを買った時から翌日にバイトがない日を狙ってしていることがある。

 楽しいか楽しくないかと問われれば別に楽しくはないのだが、心をリセットする竣なりの方法であり、結構この日が来るのを心待ちにしていた。


「あら」


「あ」

 後ろの棚を整理をしていたら聞き慣れた声が聞こえた。振り返るとそこに華怜がいた。


「ここでバイトしていたんだ」


「ああ。学校から離れてて同級生来ないから、やりやすいんだ」

 腕にヘルメットをかけており、レジに持ってきたのは温かい缶コーヒーを一つ。

 普段の完璧なファッションとメイクに比べ、大分ラフで身体を保護するような格好をしている。本当に想像通りあちこちに行っているようだ。

 こんな無邪気な一面が出るのなら、免許のとり方を教えてあげてよかったかもしれない。


「……高校生だし、もう終わるよね」


「あと10分くらい」


「待っているから急ぎなさい」


「いっ……分かった」

 有無を言わさず命令してくるところは相変わらずだ。仕方がない、そういう約束なのだから。

 やるべきことを手早く済ませた竣はタイムカードを押し外に出た。


「ベスパに乗ってるんだ」


「そう。可愛いでしょ」


「綺麗な色してるな」

 ピンク色のレトロなデザインの原付だが、見た目に反して性能は非常によく、新品で買うとなるとそれなりの値段がする。

 こんなものを即決でぽんと買えてしまうあたり、やはり育ちが違いすぎる。


「あんたのバイク、これだよね。なんていうの?」


「ウルフ250っていうんだ」

 改造された族車をそのまま買った極悪燃費のバイクだが、それも気にならないほど加速に優れている。

 前の持ち主を殺した事故車だが、18万円は間違いなくお買い得だった。


「へー……普通二輪も取ろうかな……。取ったらこれ、乗せてくれる?」


「これ……改造車だからちょっと間違えたら150キロとか出るんだよ。事故車だし」


「出したい。これに乗りたい!」


(華怜がどんどん不良になっていく……)

 煙草に続きバイクを転がすことまで覚えてしまった。竣の育った環境では普通のことなのだが、世間一般から見れば竣は華怜に悪影響しか与えていないだろう。

 こんなことが霊九守一族の誰かにバレたら即日海に沈められるのではなかろうか。


「ていうか事故車? なんでそんなバイク買ったの? 安かったから?」


「昔……施設から一緒に家出したヤツがいて……そいつが乗ってたバイクなんだ」


「…………。ふーん」

 世間から見ればどうしようもない悪タレだったかもしれないが、三つ年上のそいつは施設の少年達のいい兄貴分だった。

 一緒に家出した仲間にコンビニで万引きしたチョコスティックパンを分けてくれたのも遠い記憶だ。あいつはスピードの向こう側に虹の始まりを探しに行ってしまって、小さなバイク屋にレストアされたウルフだけが残された。


「さぁ、じゃあこれから暇だしどうしようかな」


「う……」

 原付免許が欲しいと言った日から今日まで特に痛いことはされなかった。

 ほとんど完治した胸の切り傷が痛んだ気がして、背中にじんわりと汗が滲み出す。


「なに? なにか用事でもあったの?」


「そういう訳じゃ……ないこともないんだけど」


「はっきりしなさいよ」


「…………。これから山に行って、天体観測しようと思っていたんだ」

 シートを開いてバイクに括り付けられた荷物と一緒に見せる。中学の頃に施設で貰える小遣いを貯めて買った道具達だ。

 別に星が好きだとか、宇宙飛行士になりたいわけではなかった。買えば嫌なことだらけの世界を抜けて綺麗な星空が見えると思っただけだ。

 だが、施設からでは眩しすぎてまともな星一つ見えなかった。それもバイクを買った理由の一つだ。ようやく暇な時間を見つけて天体観測ができるようになった。


「……。…………。山?」

 意外なほど興味津々に道具を眺めたり手にとっていた華怜が短く疑問を口にする。

 答えるまでの間にもずっと携帯コンロを弄ったりレンズを覗いてみたりしている。

 まるで未知のおもちゃを見つけた子供みたいだ。


「あの山」


「あら。あれうちの所有地ね」


「そうなの?」

 都心からそう遠くはないとはいえ、多少の田舎だから見える場所に山だの川がある。

 この辺で一番高い山を指差すとまぁそうだろうな、というような答えが帰ってきた。

 そこらのビルや川にすら霊九守の名前が付いているのだから今更だ。


「立入禁止じゃなかった? あたしも絶対に入るなって親に言われてたんだけど」


「看板あったね」


「大丈夫。あたしが許可するわ」


「……ん?」

 それは結構なことだと思ったが言い方に何か妙な意図を感じる。

 もしかしなくても────


「あたしも連れてって」


「……天体観測に?」


「そう」


「たぶん、思ったよりも動きとかなくてつまんないと思うよ」


「しつこい」


「はい」

 是非もない。なんでも言うことを聞くということはそういうことなのだ。

 正直楽しむために行っているわけではないから本当に楽しくはないと思うのだが、と悩みながらヘルメットを被る。


「で。何も言ってこなかったけど、あたしの下着の写真どうしたの?」


「‼」

 竣のバイクにしなだれかかりブレーキをきつく握ってくる。話を聞くまでは意地でもどこにもやらないだろう。

 いたずらっぽい視線から察するに、むしろこの話を聞くために竣にあんな画像を送ったのかもしれない。


「教えてよ」


「……。何もできなかった」


「嘘。ちゃんと正直に答えて」


「本当だよ。俺だって華怜が思っている通りのことをしようとしたんだ。でも何もできなかった。しなかったじゃなくて、できなかったんだよ」

 またもや竣の胸元から取り出したライターで遊びながら、華怜は竣の目をじっと見てくる。疑っている、というよりは竣の言葉を信じた上で不思議に思っているようだ。

 こんな深い色をした目で見つめられれば誰だって嘘を上手く言えなくなってしまう。


「ふん……まぁ、楽しみは後に……つまみ食いはしない方がいいもんね」


「……ああ」

 実際は全然そんな理由じゃない。ただ本当に、何か心の動きが働いて身体が動かなかっただけなのだ。

 だが、闇が裂けたかのように仄暗い華怜の微笑に対してもう何も言うことができず、竣はバイクのエンジンをかけた。



*********************************



 立入禁止の場所なのに入ったのは、なにも竣がアウトローだからというわけではない。

 道路は無いにせよ轍があり、草むらも刈られた跡があり、なんなら誰かがキャンプをした痕跡すらもある。結構な人が入っていることを知っているからここに来ていたのだ。


「この辺。ごめん、荷物持ってもらっちゃって」


「いい。来たいって言ったのあたしだし」

 たどり着いたのは川の岸の倒木がある場所だった。竣の知る限りこの倒木はもう5年以上前からあり、恐らくは何百人もの人間から椅子代わりに使われている。

 赤いビニールテープで加工した懐中電灯で照らした倒木にブランケットを敷く。


「ほんとだ。すごい星がよく見える。知らなかった」


(……連れてきてよかったかも)

 携帯コンロで水を温め、望遠鏡を設置しながら思う。

 川のせせらぎと相まって空を眺める華怜は星降る青い夜を泳いでいるようだ。


「写真って撮れるかな」


「あっ、だめ!」

 竣には珍しく少し強めに注意すると、華怜は意外にも素直にスマホを出すのをやめた。


「どうして?」


「暗闇に目を慣らしたのが無くなっちゃうから。これ、赤い光なら大丈夫なんだけど」


「ふーん……」

 倒木の上に座った華怜にブランデーを垂らしたココアを渡す。

 ただのココアでも、人工的な光のない川沿いで飲むだけで格段に美味しいのだ。

 勧められるままに一口飲んだ華怜は満足気にうなずいた。


「今日はよく見えそう」

 いつもなら調整をしたらそのままじーっと何十分も眺めているのだが、今夜はそうもいかない。

 木星にピントを合わせるとすぐに華怜に譲ってあげた。


「へー……ミルク入れたコーヒーみたいな色してる」

 存外楽しんでいる。これでつまらないとか騒がれたらどうしようと考えていたが杞憂だったようだ。獣避けのラジカセの準備をしながら竣は少しだけ笑った。

 なんだ、一人で来るよりもずっと楽しいじゃないか────と。 


「あっ、なになにあれ? 木星のそばになにかある」


「ガニメデかな。太陽系の衛星の中では一番大きいやつ」


「あんた変なこと詳し……どうしたの?」

 ラジカセから音楽を流し始めた竣だったが、華怜はやや不満そうだ。

 自分だって本当は静かな環境で天体観測に集中したいが、この山にはテンや狐、はたまた猪まで出る。


「獣避け。そんなに大きくしなくて大丈夫だから」

 要するに熊よけの鈴程度に音を鳴らして人間がいるということを獣に知らせればいいのだ。

 ずっと鈴なりなんなりをしゃんしゃんと振っていてもいいのだが、それはあまりにも間抜けなので自然とこうなった。


「このアーティストのCDかなりあるね。好きなんだ?」

 うるさいと言うと思いきやそちらにも興味を示し、鞄の中のCDを漁り始めた。

 5枚ほど出てきたCDは全部同じアーティストの物だ。


「この一枚は施設に落ちてたからかっぱらった。他のは買った」


「このアルバムでどれよく聴くの?」


「いま流れてるやつ」

 何故かお気に入りになってしまったアルバムの8曲目は何度も狂ったように聴いた。

 引き絞り張り裂けるような男性ボーカルから、いきなり透き通った声の女性に変わった。


「叶わない恋の曲……? こんな感傷的なの聴くなんて似合わないね」

 自覚はしている。かなり寡黙なのに────というよりも寡黙だからこそ過激な曲を聴いているのかもしれない。

 だがそれも結果論で、かっぱらったCDが別の物だったら別のアーティストを聴いていたかもしれない。


「でも、もしこういうのが好きなら」


「?」


「竣は想像よりずっと純粋なのかもね」

 ラジカセの前でしゃがんだまま華怜はこちらを見上げてそんなことを呟いた。

 言われてみれば街中で聴く音楽を気に入ったことなんかない。

 コンビニの有線で流れているお洒落野郎グループの曲なんて興味すら湧かない。

 自分のことを純粋だと思ったことはないのに────


「土星は? 土星、輪っかは見えるの?」


「いま見せてあげる」

 子供のようにはしゃいでいる華怜の姿を見ると自然と自分も嬉しくなってくる。

 思い返してみれば彼女は自分の想像の中ですら笑ったことはない。学校で笑顔を一度も見たことがないからだ。

 普段は冷徹そのもので威圧感の塊なのに、顔をくしゃっとして笑うと年相応の女の子に見える。

 華怜が星を観て、竣が華怜の笑顔を見ているうちにあっという間に一時間近くが過ぎてしまった。

 星と月以外の全てが暗い中で川のせせらぎと小さな音楽を聴いていると、まるで宇宙に二人ぼっちで放り出されてしまったかのようだった。


「こんなことしているんだよって誰かに話したことあった?」


「ない」

 二杯目のココアを大分ゆっくり飲む華怜はとても満足したようだ。

 いつも自分がそうしていたように、倒木の上に座ってぼんやりと赤い瑪瑙の瞳を空に向けて曲を聴いている。


「……いい曲だね。なんて曲名?」


「東京」

 昔、といってもほんの二、三年ほど前までは東京への漠然とした憧れがあった。

 都会に出て頑張ればきっと何かが変わるんじゃないか。大人になってこの街を飛び出すんだ、と。バイクも天体観測もどこか遠い世界への憧れが形となって表れたものだった。

 ふと、空を見上げていた華怜がこちらを見つめていることに気が付いた。


「いろいろ分かったことがある。施設の子たち、竣が勉強するのを邪魔しなかったんだ、とか」

 少ないヒントでそこまで見抜くのは流石だ。とりあえず勉強してれば先生に引っぱたかれない、というのが始まりだったが、どうやら自分には勉学の才が多少あるらしいと気が付いた竣を、施設の仲間達は邪魔したり馬鹿にしたりはしなかった。

 勉強しろお前ら馬鹿なんだから、しょうもないんだから、生きてる価値ないんだから────日常的に全体号令のように浴びせかけられていた罵倒が蘇り臓腑がぎりっと音を立てた。


「だから竣も、施設のことは嫌いでも、施設の子たちは嫌いじゃない」


「そうだな……。別段好きってわけでもないけど……うん。嫌いじゃなかった」


「じゃあどうしていつも一人なの? 人が嫌いってワケじゃないんでしょ」


「えっ……?」


「バイクで一緒にこういうところに来ればいいのに。何か理由があるの?」


「別に……バイク乗ってるヤツなんかいないし、天体観測だって地味だし……」


「そうじゃない。ちゃんとした理由があるでしょう。話して」


「そっ……そんなこと聞いてどうする?」


「話しなさい」

 華怜の加虐的才能は、たったそれだけのやり取りで竣の弱い部分を嗅ぎつけたようだ。

 竣の中にある新雪の野に足跡を残そうとしてくる。


「お……俺は……持っているヤツが嫌いなんだ。俺らの高校のヤツらなんか、みんな持っている側だから」


「それだけじゃ分からない。続けて」

 ここをつつけば竣が苦しむと分かっていて、まばたきもせずにこちらを見ている。

 どうして、さっきまでは楽しかったのに。君は年相応に可愛らしかったのに。


「……持っていることにすら気が付かないヤツが許せないんだ……。親に食わせてもらってるくせに、高い予備校代払ってもらってるくせに……!」

 悪気がないのは分かっている。それでも親ガチャハズレみたいな無神経な流行り言葉を聞くとどうしようもない怒りに苛まれる。

 この世には親ガチャハズレどころか、回しても何も出なかった人間もいるのに。


「その制服も、その靴も……! 全部全部与えられたもののくせに……! 文句言っているヤツを見ると俺は思わずぶっ殺したくなってくる」


「……。…………」

 流れ星が一つ、華怜の赤い瞳を切り裂くように降った。

 僅かにうつむいた華怜の目に、竣の一カ月のバイト代よりも高いブーツが映る。ためらいもなくぬかるんだ山に踏み入ったせいで汚れてしまっている。

 曲がりなりにも県下一の進学校、通っている生徒は自覚あるなしに関わらず大概は恵まれている。

 手がボロボロになるまで働いてようやくスニーカーを買った経験のある生徒など絶対にいないと断言できる。


「でも、国に食わせてもらってる限りは俺もあいつらと同じで……だから施設を出たんだ。だけど、親のいない俺は銀行口座の一つも作れやしなかった……」

 温かい家があって、ぬくぬくと勉強や部活に精を出す同級生と同じ『何かの庇護下』という状況が耐えられなくて、必死にバイトをして施設を出た。

 自分に依って生きれば何かが変わると思ったが、別に何も変わらなくて、それどころかむしろ苦しくなった。


「何もない……俺にはゴミしかない。でも、ゴミかもしれないけれど、全部俺が自分の力で手に入れたもんだ! 俺が頑張って手に入れたモノを当たり前に捨てる連中とどうやって仲良く過ごすんだ? 華怜に、金持ちの華怜に……! 俺の気持ちがわかるもんか‼」

 古本屋で買った参考書にはチン毛が挟まっていた。同じ参考書が隣の生徒の机の中でほとんど新品のまま置物と化している。

 昼休み、コンビニでかっぱらった廃棄弁当が半分腐っていて吐き気を催しているとき、ダイエットだと言って後ろの席の女子は母親の手作り弁当を半分以上残していた。

 華怜に分かるはずもない。誰に分かるはずもない。誰も悪くない。悪くないが、それなら誰を責めればいいのだろう。酷い八つ当たりをしていると気が付いた時にはもう遅い。


「…………。だから言いたくなかった」

 砕けた心を血と肉で固めて再び一つにしたような歪な塊を投げつけて話を締めくくる。

 雑に扱えばすぐにでも壊れて消えてしまうそれを受け止めた華怜は、最初はまばたきもせずに動きを止めていたが、やがて噛み砕くことができたのか、静かに目を閉じて石ころを蹴り上げた。

 本当に久しぶりに心をむき出しにした。だって華怜がそうしろと言ったから────と横を見ると、いつもよりも近くにいる気がする。

 手袋と袖の僅かな隙間から見える白い肌が冬の訪れを告げているかのようだった。

 やがて華怜は、笑った。それは本当に天使のような微笑みで────


「そうだね。あたしは全部持っているよ」

 それは竣が人生で受けた言葉の中で、一番残酷なものだった。世界中のあらゆる人間が、この返しに百点満点を付けるだろう。

 パンが無いならケーキを食べればいいじゃない、よりもずっと直接的な一刀両断で、あまりにも切断面が鮮やかすぎて痛みが遥か後方に置き去りにされている。


「竣はあたしを殺すの?」


「えっ────?」

 池に放り投げられた石が底の泥を巻き上げるかのようだった。しばらく固まってようやく真意に気が付く。

 拒否しない、と華怜は言っているのだ。竣がこれまで華怜の願いをなんでも叶えたように、最後の日に竣が華怜を殺したいと願ったのならば、叶えると。

 それは極めて自然な結末に思えた。持たざる者は三か月間の奴隷の果てに、頂点支配者を犯して殺すのだ。あまりにも竣の憎んだ社会の縮図すぎる。

 二人の間に合意はあったなんて、世界はそんなことを知るはずもなく、竣は逮捕されてめでたく終わりだ。 


「考えたこともないって顔してるね。どうして……?」

 ふっ、と微笑んだ華怜の瞳に赤い天の川がノイズのようにちらつく。

 不思議と華怜の問いは明確な答えを求めていないかのように聞こえた。まるで竣にも分かっていないことを分かっているかのようだ。

 だけどいったいどうしてなのだろう。何も持たない竣にとって、華怜は竣の憎悪の象徴ですらあるのに。初めて見たあの日から、竣は一度も華怜にそんな感情を抱いたことはなかった。


「…………。聴くだけでいいからね。返事とかしないで」

 あの話を聴いてどんな話を返そうと思ったのだろう。

 頭の中にあることをまとめている最中のようで、膝に肘をついて頬に手を当て白い息を吐き、30秒ほど考えて華怜は口を開いた。


「兄がいるの。燈(ともす)って名前のね。14個離れているんだけど、そりゃあもう親に可愛がられていたわ」


「……!」

 竣の話も人生も環境も、結局の所は親がいなかったことに行き着く。そして華怜は自分の親の話を始めた。

 これはただの話ではないと勘付き、集中して耳を傾ける。


「幼稚園から私立で大学は海外の……どこだっけ。忘れちゃった。で、いまは三十代にして既に会社を任されているからね、大したものよね。実際鬼みたいに優秀だしね。さて、ここで違和感を覚えない?」

 別に話を聴いた限り何も不思議な事はない。日本一の金持ちの家なのだから息子に贅沢に金をかけて育てました。優秀に育ち、立派な跡取りとなりました、なんて普通過ぎる。


「じゃあなんであたしは小学校から公立の学校に通っているのでしょうか」


「…………! そうだよ、前に聞いたときは────」


「黙って聴く!」

 疑問形で訊いてきたのに言葉を返すとかなり強めに戒められた。

 何度も頷きながらふと思い至る。華怜はいま、恐らく人生で誰にも明かしたことのない内に秘められた感情を言葉に乗せて届けてくれようとしてくれているのだと。

 でもそれがどんな反応になるのか分からなくて怖いから、恥ずかしいから黙っていろと言ったのだと。そしてそれは竣の抱える思いへの回答でもあるのだ。


「最初はね、腹違いの……妾から生まれたからだと思ってた。その母親も汚い手を使って金だけ掠め取って父にあたしを押し付けたとかで会ったことないし、燈の母親はあたしが生まれる前に死んじゃってるし。で、なんだっけ……ああ、そうね。あたしの話ね」

 さらりととんでもないことを言った。つまり華怜は正式な霊九守の家の子供ではなく、愛人から生まれたのだと。どう想像してもこの先の話の展開は明るくなりそうもない。


「うちの家系はね、女はみんな忌み子なんだって。なんでかは知らないけど……戦前までは女の子が産まれたら即座に殺してたって」

 華怜の語り口調があまりにも滑らかすぎて、そのまま耳を通り抜けそうになった。

 まさか人間が宇宙にまで行く時代に忌み子なんて単語を素面で聞くとは思わなかった。


「父や兄は知らないけど、祖父母は忌み子の話を信じているみたい。だから生かされているだけでも感謝しないといけないのかもね。……たとえ一族に居場所がなくても」

 まるで他人事のように淡々と華怜が語る一方で、竣の心はなぜか締め付けられるように痛み、無意識にまた胸元をぎゅっと握っていた。


「同級生はあたしに霊九守の名を見るのに、一族には霊九守とみなされない。だから本当のあたしを知っている人はどこにもいない。じゃあ、それならなぜあたしを引き取ったのか父に訊いてみたの。そしたら女には女の価値があるって」


「どういうこと……?」


「……あの日、車の窓からたまたま竣を見つけた。タバコを吸いながらバイクに乗っていて……とても羨ましいって思った」


「あの日? あの日ってどの日?」


「学校を休んだ日。あたしはお見合いをしていたの」

 指先から、顔中から、血の気が引いていく。頭の冷静な部分だけで理解したつもりだった日本一のお嬢様という事実が、実際はどういうことなのか。

 引いていく血の代わりに冷たい事実が入り込んでくる。この世で一番強いしがらみは血だ。何よりも強い繋がりだと、しょせん動物畜生の人間は本能で分かっている。

 だからこそ女にはそれだけで価値があるし、だからこそ、それを一切持たない竣は自由に思えたのだろう。


「相手は……どんな……?」


「……竣の嫌いな人想像して」


「俺、嫌いなヤツ滅茶苦茶たくさんいる」


「じゃあ混ぜて。ソレにあたしは好き放題される。竣がこんなに頑張って手に入れようとしているあたしを」

 わざと俺の嫌がる言い方をした。そう憤る前に、嫌いな大人の2トップである施設長と豚ヤクザが融合した男が頭の中で出来上がった。

 下水道くさい口臭を撒き散らし、ぶよぶよと膨れ上がった指先で華怜に触れる────頭の毛細血管がいくつも切れた。


「あたしがあたしであることなんて、誰も興味ないみたい」


「違う‼ 少なくとも俺は────俺は華怜の強さを知っている‼」


「…………」

 華怜が初めて竣を真っすぐ見た。初めて話した日に華怜から感じた鋭い視線とは決定的に違う、もっとこう、同じ目線の────いや、華怜とは実際に背丈はほとんど同じなワケで、なんて考える程に竣は自身の言動にパニックを起こしていた。


(なに言ってんだ俺……)

 大きな後悔に隠れて『でも嘘じゃない』と心の声が叫ぶ。そうだ、華怜の強さは他でもない俺が誰よりも理解できる。

 誰にも期待されず、助けもなく、しかも進んでいる道が正しいとも限らない。それでも私を見くびるなと己を奮い立たせて進み続けたんだろう。

 今や華怜は県トップ進学校の頂点にいる。周囲は霊九守の名を見て当然と思うかもしれないが、それは違う。華怜が己の誇りをかけて華怜自身の無限の可能性を見せたのだ。


(華怜にも未来がない……)

 だが霊九守一族は華怜の未来にも能力にも努力にも興味が無い。愛人が生んでしまった子がたまたま容姿に恵まれていたのでラッキー、せいぜい有効活用しよう程度にしか考えていない。

 そこまで思考を巡らせて、竣は華怜の生まれ持った裕福さを羨む気持ちが完全に消え失せていることに気が付いた。

 華怜には華怜の、竣には竣の地獄があるがその根源は同じものなのだ。二人で傷口を見せ合って、ようやく竣を苛んでいた苦しみの正体が分かった。


「お……、俺、持っているヤツが憎いって、許せないって言ったけど、本当に羨ましいのは、妬ましいのは……」

 華怜の熾烈な自己実現欲求が理解できるのは、その溶岩が竣と同じ場所から噴き出してているからだ。

 欲しかったのは誰よりも優れている証なんかじゃなかった。


「言わないで」

 ただ、愛情が欲しかった。それだけだった。

 同級生にどうしようもない嫉妬や怒りを感じていたのは、親から潤沢に金をかけてもらっているからではない。

 そうするに足る愛情が彼らの両親にあるという事実が、どれだけ望んでも持ち得ない竣には耐えられなかったのだ。

 当然、施設の外に飛び出して探してみても見つかるはずがなかった。どれだけ歩き続けても、ここにいる自分だけは抱きしめられない。華怜も、竣も。


「どうして……。俺を受け入れたんだ?」

 無作為に振りまいた叶わぬ願いは魂を蝕む毒となり、役立たずの自分を傷つけたくなることさえある。

 華怜にとってこの約束なんて盛大な自傷行為の一部なのではないか。

 暇つぶし、あてつけ、誰でも良かった。嫌な言葉ばかりが頭に浮かんでくる。

 聞かないほうがいいと思っても、聞かずにはいられなかった。


「…………。分からない?」

 ずっ、と聞こえた。うつむいて目も合わせなくなった竣に華怜が近づいた音だった。


「違う世界に行きたかったの」

 あなたが連れて行ってくれると思った────頬に触れたやわらかい何かから嘘偽りのない本音が流れ込んできた。


「聴いてくれてありがと」

 それは華怜の唇だと気が付いた時、一瞬で全て真っ白になった。

 本当に、本当に真っ白になった。怒り悲しみでごちゃごちゃしていた頭の中の全部が吹き飛び、シンプルな棒人間になった自分がそこいるのかと錯覚するほどに。

 どうして何故一体そんなことを、叫んでしまいたい。でもそんなことをしたら自分みたいな弱い人間はそれだけで死んでしまいそうだった。

 ただただ、目を泳がせてたったいま華怜の唇が触れた頬を指でなぞることしかできなかった。夢じゃなく、たしかに湿っている。


「いやだった?」


「そんなっ、全然そんなこと、‼」

 更に座る位置をずらした華怜は何を考えているのだろう、そのまま軽い頭を竣の肩に乗せてきた。

 真っ白はさらに真っ白になり、視界の中で弾けたスパークルが脳に焼き付く。


「しっ! 騒がない。泰然自若としてなさい」


「むっ、無理だ」

 ぎぎぎ、と油の切れたブリキ人形みたいに首を右に向けると亜麻色の髪が竣の肩の上でふんわりと形を作っていた。

 何か、竣の人生に圧倒的に不足していた何かが流れ込んでくるようで何故か涙が滲んでいた。


「たまたまそういう気分なの。たまたまあんたが横にいたからこうしてるの」

 ナイフで遠慮なく人の肌を切り刻むような女の子が、つまり甘えたい気分だと言って本当にゆっくりと甘えてきている。

 だってあんな表情で苛烈に自分を傷付けたじゃないか。女の子とはなんて色んな顔を持っているものなのだろう。

 誰かに甘えたいときなんて、そりゃ自分の人生にだって何度もあった。でもできたことなんてないから、どうすればいいのか分からなかった。


「少しだけ嘘。誰でもはよくないよ」


「わ……い……、うん」

 そんなにめちゃくちゃ寒いという訳でもないのに、そんな言葉一つでぞくぞくと鳥肌が走った。

 その言葉も嘘で、竣だからこうしていると分かってしまったからだ。


「もっと竣の話が聞きたい。一人で生きるのってどんな気持ち?」


「どんな……家に誰もいないから、風邪ひいても自分で薬買いに行かなくちゃとか……」


「良かった話が聞きたいな」

 俺は俺だけを助けてきた。俺だけが俺を助けてきた。ずっとそうだった。

 そう言いそうになるが、すぐそばから香る甘い匂いに焚きつけられポンコツ脳みそをフル回転させる。


「家に帰らなくていいからさ、適当に一晩中バイクに乗って……県境を二つ超えて、国道16号線の先で海が見えたんだ。海に沿って走ったら小さな駅が見えた」

 後になって調べてみてもそれらしい駅は見つからなかった。

 いま思うとあの駅は苦役ばかりの人生に一瞬差し込んだ幻だったのかもしれない、と思いながら話を続ける。


「誰もいない駅で海に見えた夜明けが綺麗だった。なんか変な安い自販機がぽつんとあってさ」


「コーヒー……いや、ココアでしょ? 当たり?」


「うん。80円のココアに煙草が人生で一番うまかった。誰もいなくて、水平線がきらきらしてて、その景色は俺だけのもので……」

 元々竣の心には誰もいなかったのに、街で生きると常に周囲に誰かがいるという矛盾が耐えられなかった。

 だから、缶に煙草を入れてじゅっと鳴らしたときはひどく晴れやかな気分だった。


「海……そういえば行ったことないや」

 薄い暗闇に開いた瞳孔がきゅーっと小さくなった気がした。なんとなく漏らした言葉に『連れて行って』と本音が聞こえた。

 百回考えなおしたが間違いなく気のせいではない。


(一緒に行こう)

 その一言が言えなくて。竣の心の雪原には一切の足跡が無かったのに、今は楽しそうに足跡を残す華怜がいて、一緒に行けたらと胸が張り裂けそうなのに。

 華怜を朝帰りなんてさせたら霊九守家もお見合い相手とやらもブチ切れさせるだろう────こんな現実を考えたくないからバイクを走らせるのに。

 やがて竣の肩が華怜の体温と同化し痺れてきた頃になって、華怜は離れてしまった。


「前から思ってたけど、ピアスなんかつけてるのね」


「うん」

 要するに自分は早く大人になってしまいたかったんだろう。

 世界が自分にとって生きにくいのは子供だからだ、と決めつけて。

 中3の頃に耳に穴を空けたが、耳たぶに星型の飾りがつくくらいしか変わらなかった。


「結構洒落てるね。これ、ちょうだい」


「……? いいよ」

 華怜の目利きは確かで、実はそれなりの値段がする。施設の他の子供達がお小遣いを貰うたびにお菓子や漫画を買う中で我慢して貯めて買ったものだ。

 高価だし惜しいが、だからこそ欲しいと言ってもらえて嬉しい。ぜひとも受け取ってもらいたい。


「あたしたち、違う答えが見つかるといいね」

 最後の日に自身の死まで想像しながら、本心からそんなことを言えるなんて。ガラス細工の刃物のように鋭く繊細な、それでいて美しい華怜の心が表れた言葉だった。

 俺もそう願っている、確かな心の繋がりが華怜の右耳に星を咲かせた。

 きみが星こそかなしけれ────いつか見た詩の意味が流れ星のように心に落ち、竣と全く同じタイミングで己のピアスに触れて首を傾げた華怜を見て唐突に気が付いた。


(華怜ってもしかして……)

 煙草もバイクもこのピアスも、不良になっているのではなく、竣を真似ているだけなのではないか。

 だから同じ煙草を無理して吸って、厳ついバイクを羨ましがり、付けているピアスを欲しがった。言わば本気で竣の価値観を知り、竣に染まろうとしているのだ。

 華怜ならああする、華怜ならこれはしない────なんて、いくら考えても華怜の言動はいつも竣の想像を超えてくる。それでも、これだけは絶対にないと言い切れることがある。

 最後の日に『なに本気になっちゃってんの?』と反故にすることだ。

 そう、華怜は誠実なのだ。自分の本気にも、本気の相手にも。

 狂った方向に本気の少年少女、まるで両方アクセルペダルの暴走車のようだ。

 知りたいことはどんなことも教えるし、やりたいことはなんだってしていいし、欲しいものはいくらでもあげる────と、ますます鏡写しの華怜に心からそう思えた。


「こっちもいただくが、いいかね?」

 川辺に座っていた小柄な老人がまだ余っていたココアをカップに注いでいた。

 どうせ残しても捨てるだけだし別にいいだろう。


「ああ、どうぞ。ブランデー少し入れるといいよ」


「そりゃどうも」

 ぬるいココアが気に入ったのか、今どき珍しいボロの和服を纏った老人は皺くちゃで面長の顔を笑顔でくしゃりと歪めた。

 その時だった。近くの茂みががさがさと動いたのは。


「!」


「な……獣避けになってないじゃない」

 気のせいじゃなく本当に揺れたし、今も揺れている。

 茂みの高さから見るに人ではなく獣なのは間違いない。


「こりゃいけない。ワシャこれで失礼させてもらうよ」


「ああ、気をつけて」

 ライトから赤いビニールテープを外す。更に光度が上がるので大抵の小さい獣は追い払えるはずだ。

 老人は膝を叩いたあと慌てているのかのんびりしているのかわからない速度でふわふわとどこかへ飛んでいってしまった。


「いままでこんなことは……華怜!」


「何か……なんか頭が……」

 危ないから近づくな、と言う前に華怜がふらふらと茂みに向かってしまう。

 イタチ程度だったら人間の姿を見ればどこかへすっ飛んでいくが、人工的な音を耳にしてもなお近づいてきたということは小動物の可能性は低い。

 熊や猪だったら最悪だ────追いかける前に鞄を漁って撃退スプレーと棒切れを取り出す。まだ悲鳴も獣の声も聞こえてないから大丈夫なはずだ────と茂みに向き直る。


「竣……これ……」

 茂みから普通に華怜が出てきた。その手に白い何かを手にして。


「狐だよね、これ」


「なんだこいつ……?」

 華怜が腕に抱えていたのは月夜にぼんやりと輝く白い毛皮をした子狐だった。

 弱っているのか、人間二人に囲まれても物憂げに見てくるだけで声もあげない。


「アルビノの子狐?」


「……こんな見た目だから親に捨てられちゃったのか? 震えているな……」

 とんだトラブルだ。今まで20回以上ここに来て獣に遭遇すること自体初めてだったのに。

 見つけてしまった以上は無視しておく訳にもいかない。血のように赤い狐の眼に急かされるように毛布を取ってくる。


「ねぇ」


「ちょっと待って。この毛布で」


「さっきのお爺さん誰?」


「さっきの? 一体何を────」

 華怜から受け取った狐に触れたとき、ピリッと痛みのない静電気のようなものが流れ込んできたような気がする。

 毛布で狐を包みながら、なぜか急に違和感が浮かんできた。


(なんだあのジジイ⁉)

 いつの間にかいて、いつの間にかココアを飲んでいた。夢ではないことを示すようにカップは空になっている。不審者が乱入してきた、なんて簡単な話ではない。


(なんで何も思わなかった……⁉)

 そこにいることを自然と受け入れていたのだ。長らくの友人のように。見た目もよく考えてみれば普通の現代人ではなかった。

 害はなしてこなかったが、妥当な線で考えれば妖怪や幽霊の類ということになる。バカバカしい、と思ったが実際に目の当たりにしてしまったのだから。

 入ってはいけない山って、まさか幽霊が出るからなのだろうか。


「その子、お腹空いているんじゃない?」


「…………そうかもしれない」

 過ぎたことはとりあえずいい。今は目の前のことのほうが大事だ。

 人差し指を狐の口元にやると母の乳を飲むかのように吸ってきた。


「飲むかな?」

 未使用のカップにココア用の牛乳を入れた華怜はそっと狐に差し出した。

 ひとしきりにおいを嗅いだ狐は恐る恐る牛乳を舐め始めた。


「子供っていうか……まだ赤ん坊じゃないか」

 眼もまだよく見えていないようで、嗅覚を頼りに華怜と竣のにおいを確かめている。

 この狐がこの場に来てから結構な時間が経つが、親狐どころか他の生き物の気配すら無い。


「この子、ここに置いていったらどうなると思う?」


「多分、餓死するか……イタチとかに喰い殺される」


「…………。竣は……自分が生きている意味って考えたことある?」


「何度もあるけど、見つからなかった」

 華怜が再び狐を持っていき、きゅっと優しく抱きしめた。

 質問の意図は分からなかったが『だって誰も俺のこと必要としてないんだ』と言葉にしなくても伝わる気がした。華怜の表情が自分もそうだと言っているから。


「だからあたしは、こう思うようにしてる」 

 冬のかたまりのようなちっちゃなふわふわを抱いた姿に強く確信する。

 ああ、もう華怜はこの子を放す気がないんだ────


「生まれたからには、生きていい」

 他意なく、ただただ自分に言い聞かせていたことなのだろう。

 その力強い言葉がどれだけ竣の心を救ってくれたかなんて、冬の大三角を戴く女王に言えるような語彙も勇気も持ち合わせていなかった。

 だけど、その後に華怜がこの子を飼うと宣言したことが、どうしてか自分のことのように嬉しかった。



********************************* 


 

 二人の間に特別な何かがあったとして、山から降りれば容赦ない現実が待っている。

 今日もまたこの段ボールの底みたいな世界で生きていかなければならない。

 いつもよりも一層うつむきながら今日も竣はバイトに励んでいた。


(なんで俺たこ焼き作るのばっか上手くなってんだろ……)

 金が普通より多くもらえるとはいえ、犯罪行為に加担して豚みたいなヤクザの元で働かなければならないこの時間は苦痛だ。

 後ろで高島が違法サイトで漫画を読みながら煙草を吸っている。自分もこうして腐りきって生きれば楽なのに、半グレになりながらも釣り合わない変なプライドがあるから生きにくい。


(なんだありゃ)

 ハロウィンはもう終わったはずなのに、仮装した人間がスーパーの前を歩いている。

 赤い外套を纏った化物が衣の下から極太の腸のようなものを垂らし、地面に粘液の跡を残しながらレジ袋を持ってだらだらと歩いているのだ。

 あまりにもリアルだったので一瞬大騒ぎしそうになったが、スーパーから出てきた主婦に頭を下げて雑談しながらどこかへ行ってしまった。

 近所にそんなコスプレイベントみたいなものがあっただろうか。記憶にないが。


「今日は誰も来やんなー。不景気か?」


「そういう日もあるだろ」

 煙草を吸い終わり暇を持て余したのか、高島が絡んでくる。

 たしかに今日は一人もノミ屋を利用する客は来なかった。

 その代わりたこ焼きの売上が好調だな────と思っていると。


「あっ」

 スーパーから出てきた人物と目が合う。

 レジ袋をぶら下げて取り巻きに囲まれた華怜だった。

 たこ焼き屋にいるのがクラスメートだと気が付いたのは華怜だけだった。普段はだらしなく伸ばした長い髪を今はタオルで纏めているからだろう。

 何をしているんだろう、こんな安さと品揃えで売り込んでいるボロスーパーで。

 答えはすぐに訊けそうだった。取り巻きたちを帰らせた華怜がこちらに向かってきた。


「そう。たこ焼き屋って、ここで働いていたのね」


「うん。何していたの?」

 高島は客と目を合わせないように屋台の影でしゃがんでもう一本煙草を吸い始めた。

 それでいい。どう見てもカタギではない人間の元で働いているところなど見られたくない。慌てて新しいたこ焼きを作り始める。


「ゴン太の餌を買ってたの。その辺じゃ猫や犬の餌しか売ってなくてね」


「ゴン太……あの狐の名前か? 元気にしてる?」


「元気だよ。一日のうち八割は寝てるけどね」

 それは何よりだが、いっそ神々しいほどの白い狐に対してゴン太とは、なかなかぶっ飛んだセンスをしている。

 まぁ飼っているのは華怜なのだからそれは勝手なのだが。


「……へぇ」


「どうしたの?」

 やはりというか、たこ焼きが出来上がるのを待っている華怜が竣の顔を見て感心した声をあげる。腕の動きを見てその声を出すなら分かるが、今更顔がなんだと言うのだろう。

 なんでもない、と言う華怜に出来立てのたこ焼きを渡す。自信作だ。


「美味しい。こういうのって初めて食べたかもしれない」


「そっか」

 祭りなどに行くタイプには見えないし、ましてや普段屋台で買い食いなど考えもしないだろう。ソースで唇を汚した華怜に褒めてもらえて素直に嬉しかった。


「もう一個ちょうだい。ゴン太にあげる」


「狐ってそういうの食べるか?」

 一回で作れるのは6個よりも遥かに多いので、同時に作っていたものを容器に詰めていく。レジ袋を覗き見てみたが、狐用と書いてあるものは一切入っていない。


「食べるでしょ。狐って雑食だし」


「そうかな……ソースとかはかけないでおいたほうが…………あれ? もう食べるようになったの?」

 そんな馬鹿な。まだ目も開いていなかったのがつい先週の話だ。

 もう固形物を食べられるようになっているなんて異常な成長速度だ。

 だが華怜は特に疑問を感じていないようで、財布から千円札を取り出していた。


「いやお金は」


「奢るにしろ相手を選びなさい」

 ばんっ、と台の上に札を叩きつけられる。言っていることは分からなくもない。

 同い年とはいえ極貧生活に喘いでいる自分なんかに奢られたくないのだろう。

 ありがたく代金を頂戴すると、華怜はさよならを言うこともなく大股で去っていった。


(ゴン太…………ごんぎつねか?)

 なんでゴン太なんだろう、としばらく考えていたが、思い浮かんだのは小学生の国語の教科書にあった話くらいしか無かった。だとしたら中々に謎なセンスだ。


「……ありゃ霊九守のとこの娘やないか。どうなってんねん」

 華怜が去ったことを確認した高島が訊いてくる。こんな下っ端ヤクザにまで顔を知られているあたり、霊九霊の家が裏で何をしているか推して知るべしと言ったところか。

 疫病のようにヤクザや半グレが巣食うこの街のドブ治安にも案外霊九霊一族が一枚噛んでるのかもしれない。


「……同級生」


「同級……? なんやお前、やけに賢しいこと言いよるガキやと思うたら、ほんまに頭良かったんやな」


「勉強しかやることなかったからな」


「意味あらへんけどな。ずいぶん親しげやったけどそれも無駄や」


「うるせえ」

 意味がない、無駄なのは自分が一番分かってる。それでもなんとか今日まで生きてきたんだ。こんな腐れヤクザなんかに諭されたくない。


「卒業したらどないすんねん。今の時代、親もおらん高卒なんぞ就職もようできんぞ」


「関係ねぇだろ。ほっとけよ」


「うちに来たらええやんか。向いてるで」


「なんでだよ。俺はただのガリ勉だ。向いてるわけねえだろ」

 少子高齢化に伴う売り手市場はどうやら裏世界にも来ているようだ。

 こうして誘えば来そうな若者を彼らは巧みに誘惑しようとしてくる。


「あんなぁ、これ犯罪やで」

 どきっ、とした。まさか高島が自分からそんなことを言うとは思わなかった。ゴマすりと誤魔化しだけで生きている男のはずなのに。

 良いバイトがある、と高島に声をかけられたのは一年前だ。たこ焼きを作るだけだが、たまに金と紙を持ってくるヤツがいるから俺に渡せ、と。それだけだった。

 聡い竣はすぐ『これは犯罪だ』と気が付いたが、やめなかった。やめられなかった。


「んなこと分かって────」


「分かってるけど分かってないんやろ。よう聞けや。どれだけ理由があってもヤらん奴はヤらんのや。どんなに急いでもちゃんと改札通るし、どんだけ欲しいものがあっても身体は売らん。それが当たり前なんや」

 ジューッ、とたこ焼きが焦げる音が聞こえる。そんな音が気になること自体、戯言しか言わないはずの高島の言葉に耳を傾けている証拠だった。


「不思議なもんでな、犯罪者は大半そうなんや。分かっているけど分かっていないんや。自分の中だけで通じる理屈を立てて己を納得させるんや。『でも稼ぎはいいし』とか『それくらい分かってる』って思ってるやろ?  ズルズル犯罪者になる奴の考えや」

 まさしく図星。こいつと俺は違う、こんな奴にはなりたくないと思っていても、世間様から見れば竣も高島も犯罪組織の下っ端でしかない。

 竣の自己認識はズレているのだ。中古品とはいえ族車を乗り回し、悪びれもなく煙草を吸い、挙句の果てにヤクザと仕事をしているのだから、どこからどう見てもド不良なのに、自分ではそんなはずないと思い込んでいる。


「そういうヤツは自分を納得させればなんでもやる。お前、いつか人殺すで。そんで言い訳するんや。でもだってだからって、自分にだけ通じる理屈をな。案外もうとんでもないことやらかしてるんちゃうか」

 そう、やらかしている。三ヶ月の奴隷契約なんて、はたから見たらおかしな考えを自分の中で理屈を通して納得した。本来なら停学になっていてもおかしくないのに。

 竣の心を見抜いているかのように高島がギヒギヒと笑う。


「言い訳するのはお前の中に無駄なプライドがあるからや。もう高校なんかやめてまえ! 進学校がなんや、自分にない未来を見ても苦しいだけやろ。微分積分がお前を助けるか? 古文漢文が読めて一円にでもなったか? あの霊九守んとこの娘も内心お前のことを馬鹿にしてるに決まっとる」

 すっかり焦げたたこ焼きの前でピックを握りしめる。高島の言う通り、ちっぽけなプライドが一番身体に毒なのだろう。

 一時間半で5000円という破格のバイト代なのに、犯罪に加担しているせいで喜べない。金を受け取るたびに惨めな気分になる。

 だがプライドさえ捨ててしまえば。なんのしがらみもない竣は裏社会にとってこれ以上ない人材なのだ。ここが自分の生きる世界だと認めてしまえば────それならまずこいつから殺す。


「やめとき。俺を刺しても一銭にもならん」


「……ちっ」


「役に立たんプライドはさっさと捨てた方が楽やぞ~」

 プライドを、自分を捨てれば案外どんな形でも生きていけるという、先達からのありがたい言葉。

 俺が俺であるために、と必死こいて自分を守ったところで世間の誰も竣のことなど見ていない────と思っていたら、次の日に意外な形でその思いは否定された。


 

 バイト先の弁当工場で買った弁当を一人で黙々と食べている昼休み。突然ポケットの中の格安スマホが震えた。

 バイト先の人間と華怜しか登録されていないのに。


『今日この髪型にしてきなさい』

 単純な一文と共に画像が添付されているメール。

 開いてみると左側を刈り上げ、残った右側も眉の上まで切り、パーマをかけてアッシュに染めている男だか女だか分からない人物が出てきた。


『色も?』

 確かに今の髪型は汚らしいだろう。

 散髪代をケチって理髪店なんか一年に二回くらいしか行かないのだから。


『色も。あんたの顔ならこれが似合う』


(そっか、昨日のアレか)

 よく考えてみれば、だらしなく肩近くまで伸ばした髪の下を見られたのは昨日が初めてだったかもしれない。


『そんなのにしたら学校もマズイよ』


『やれ。後で店まで着いていく』

 命令は命令だ。そう言われれば従うしか無い。 

 いかにも安い味のとんかつを口に入れながら取り巻きの間で食事をしている華怜の方を見ると、携帯をポケットに入れて髪を耳にかけていた。

 右耳に付けているその星型のピアスは、あの日竣が華怜にあげたもので、もうそれ以上は何も言えなかった。



 カットだけで5000円以上する美容院に入ったのは初めてだった。染めるとなると軽く1万円は超えてしまう。

 というか、駅前のこんな洒落た美容室なんて視界に入れたことすら無い。それなのにいきなり一万円札を握らされて叩き込まれた。


「うん、そっちの方が全然タイプ」

 店員にはよく似合っていると言われた。自分でもそうは思った。だがどう見ても学生服を着ている人間がしていい髪型じゃない。隠れていた左耳のピアスも丸見えだ。

 ひっそりと勉強をして静かに生きてきたはずが、とうとう自分もチンピラの仲間入りだ。


「いいね、特にその……誰も信じてない目」

 言われてすぐに自分の瞼に触れる。少なくとも、まだ黄色い帽子を被っていた頃は希望に輝いていた時もあったはずだ。

 だが今は。濁りに濁って腐り果ててしまった。


「でも……」


「?」


「華怜のことは信じている」

 酷いこともされたし、散々玩具にされた。今日のように理不尽で逆らえない命令もあった。だからこそ、華怜は裏切らないというある種の信頼があった。

 事細かに理由を説明するのは難しいが、それでも。


「それでいいよ」

 腰を曲げてにんまりと竣を見上げるその笑顔。

 ふと、いつもそうやって笑っていればいいのにと思ってしまった。

 ただただ最初は華怜を赴くままに好きなようにしてみたいと考えただけだったのに。

 人間以下の少年が、人間らしいことを思い始めていることに気が付いた瞬間だった。



 とにかく学校が心配だった。

 バイト先はまだそんなに格好に拘るタイプのものじゃないからいい。

 このまま登校すれば良くも悪くも教師や生徒に目を付けられる。

 そんなことを華怜が望むとは思えないのだが。


「あらー。なんだか高校生みたいね」

 大変身を遂げた次の日、弁当工場のロッカールームで同じ時間に上がりのおばちゃんにそんなことを言われて驚いた。

 そう言えば自己紹介をしたこともない。


「高校生です、俺」


「えっ、そうなの? フリーターだと思ってたわ。今いくつなの?」


「17歳です」


「やだ、うちの息子と同い年じゃない。欲しいものでもあるの?  ガンバっちゃって」


「ええ、まぁ。ありますよ。欲しいもの」

 フリーターか、と思った。言われてみれば自分は顔がキツめの造形ということもあり、あんな髪型じゃ金に飢えたフリーターに見えてもしょうがない。

 だが学生だと思われてすらいなかったとは驚きだ。普段目線も合わせないバイト先のおばちゃんですらこの反応だ。クラスメートはもしかしたら。


 

 当然のこととして、校舎に入ってから下級生はおろか上級生にも廊下で避けられじろじろと見られた。校則が緩いのは、規範から外れるような生徒がいないという想定からだ。

 きっと自分はこの高校創立以来最悪の生徒なのだろう。特に問題を起こしている訳でもないのに。いや起こしているか、と教室に入り席に着いて考え込む。

 クラスメートも目をまん丸くして見てくる。そんな状況に全く慣れていない竣は窓の外のほとんど葉が落ちた桜の木に目を向けるしかなかった。


「どっかで見たと思ったら、それエクスギアのボーカルの髪型だろ!」


「???」


「お前だよ、宗像に言ってんの!」

 振り返ると、授業前や昼休みに次の授業の準備も惜しんで体育館でバスケをしているような、つまり竣と正反対のタイプの男子生徒たちがいた。

 話しかけられることが初めてどころか彼らの名前すら知らない。


「えと、エクスギアってなんだ?」


「は? これだよこれ! これの真似したんじゃないのか?」


「…………誰それ」

 男子高校生の携帯待ち受けになるくらいには10代に人気のグループらしい。

 見てみると確かに似ている。この髪型にしろと華怜に言われた時のモデルとは違う人物だが、その髪型が結果的に竣の顔と相まって洒落ているならば、華怜の目が確かだったということだろう。


「どこでカットしてもらったん?」


「なんで突然変身したのお前」


「あ……駅前のechoってところ。その、気分かな…………、‼」

 聖徳太子でもお手上げなほど次々投げつけられる質問にしどろもどろに返答していると、不意に華怜と目が合い背筋が凍りついた。

 机の端を握りつぶすのかと問いたくなるほどに力の入った手、視線で人を殺すと言われても違和感ないほどの怒り。赤い熱視線が竣の脳の動きを止める。震えた携帯には『放課後裏門で待っていろ』とだけ書かれていた。



 寒風凄まじい冷え込みなのに、それも一切気にならない程に華怜は怒っていた。

 まだ何かを言われたわけではない。何も言っていないし言われていないのに、怒りを感じるなんて相当だ。

 下級生が自転車に乗って裏門から出ていくとき、怒気溢れる華怜を見すぎて電信柱にぶつかっていた。


「いったいどうしたの?」

 怒らせることをしたか、以前に華怜が怒るのは初めてだ。だからこそ何の地雷を踏み抜いたのか分からない。

 頭の中で整理している言葉を噛み砕くかのように華怜の眉根と鼻に凄まじい皺ができていた。


「なに、あれ」


「あれってどれ?」


「楽しかった? あんなに人気者になれて」


「……え?」

 もしかして朝と昼に男子達に質問攻めにあったことに対して怒っているのだろうか。

 そんなバカな。意味が分からなさすぎる。華怜の望んだ姿になったというのに。

 嫉妬しているにしても相手は全員男だったのだから尚の事おかしい。


「だから……! その、つまり!」

 華怜も華怜で理不尽なことを言っているということが頭では分かっているようだ。何しろ華怜の指示で竣は変わったのだから。それでも感情で許せない部分があるらしい。

 どんっ、と華怜が裏門を拳で叩くと、そばにある桜の枯れ葉が全て落ちてしまった。


「竣は普通になっちゃダメ!」


(……なにを……言ってるんだ)

 と、普通ならそう思い距離を置くところ。

 なのに何故か、本当に何故か。華怜の怒りもその言葉も感性の深い部分で理解できてしまった。

 竣が華怜に感じたように華怜も竣にシンパシーを感じており、即ち同類だと思っているのだと。抜け駆けしないでくれ、という華怜の魂からの叫びなのだ。


「明日‼ 終わったら美術準備室に来なさい。あんたの正体を教えてあげる」


「分かった」

 理不尽でもいい。自分は納得している。

 いつの間にか身体に傷や痛みが残るようなことはされなくなっていた気がする。

 だとするならば、怒りも相まってかなり過激なことをされるかもしれない。気が付けば残り二週間しかないのだから、時期的に考えてもおかしくない。

 ならば自分はいっそ晴れやかな心でその罰を受けよう、素直にそう思えた。

 華怜は狂っている。竣も狂っている。狂ってしまった。だからこそ二人の間には不思議な世界が生まれた。竣が正常に戻ったらそれはいともたやすく消えてしまうだろう。

 竣と華怜の間だけで伝わる不文律、心の繋がりは純粋な不純と暴力。それがなければ自分たちはきっと話すことすら無かったのだから、それでいいのだろう。

 何よりも────完璧だと思っていた華怜が弱い部分を見せてくれたのが嬉しかった。




────

つづく

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