みだらふしだら

@K-Knot

第1話


【みだらふしだら】


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 最初は俺だってまともに生きたかったよ

 でも世界のほうが俺のことをいらないって言ってくるんだ

 同級生が優しい父親と一緒に風呂に入って将来の夢を語っているとき

 同室のあいつは孤児院の先生にベルトで引っ叩かれてた

 これでも俺たちは恵まれているんだって

 地球の裏側の子供達のことを引っ張り出されて比べられた


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 一年を通して毎日夕方に熱された油絵の独特なにおい。

 舞い上がる埃までもが嗅覚を刺激する。手探りで拠り所を求めて椅子の脚を掴むと、踏み躙られた手の甲が酷く痛んだ。

 目隠しで視覚を封じられる前に耳を思い切り蹴られたせいで、聴覚までもがまともに働いていない。ただ嗅覚を頼りに前へ前へ。


「無様ね」

 キーン、と耳鳴りを突き破って四つん這いの竣の上から届く白銀の鈴の音のような声。

 徹底的な軽蔑が空気に染み渡っていくよう。竣は屈辱の中に微かな喜びを見出していた。

 自分はいつだって世間に打ち捨てられ見下され使い捨てにされる立場だったから、その相手を選べることは────命を使う相手を選べることはそれ自体が喜悦の源だった。

 目隠しから透明な涙がこぼれた。


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 この世界に俺たちはいらないと突きつけられているのに

 そんな世界は愛さないと言うと

 どこからともなく気持ち悪い正義が沸き上がってきてありがたい説教かましてきやがる

 それでも世界を愛しなさいって、汚い金を腹に溜め込んだアバズレどもが


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 這い進んでようやくたどり着いたのは彼女の足許。

 鋭い視線が頭の後ろに刺さるのを感じる。きっと椅子に座って脚を組んで、冷酷に見下しているのだろう。

 それでいい。欲望を愛で包んだ腐肉なんていらない。優しさなんていままで貰ったことがないから分からない。

 怒りでも侮蔑でも憎しみでも、彼女の心を自分で満たせるならそれでいい。


「はやくしなさい」

 耳のそばでことりと何かが落ちる音がした。彼女が上履きを脱いだのだろう。

 かすかなボディーソープの香りに混じって、履き潰した上履きの中で熟成された汗のにおいが鼻先に突きつけられる。

 はやくはやくと指を広げたり閉じたりしているのを空気の動きで感じる。その動作に苛立ちはない。彼女自身も初めて覗く世界にわくわくしている。


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 尊い犠牲と清い努力がいまのへーわな世の中を作ったのだから

 この世界を愛してよりよくしていく義務があって

 どんな人間もこの世界で生きなきゃいけないって

 幸せでよろしゅうございますね

 どうか苦しんで苦しんで破滅してくれないか

 引きずり降ろされた最下層でもう一度同じことをのたまってみろよ


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 いままで異性に唇を付けたことなんて一回もない。

 そうしてみたかった、そんなこともしてみたかった。少なくともまだ夢があった頃はそれくらいは許されるはずだって思ってた。

 初めて口を付ける異性の身体がタイツ越しの爪先だなんて、小学生の自分が知ったらきっと泣くだろう。

 でもいつかそんなことを喜んでする日が来るんだって、悪意を持って言ってやりたい。

 子供の頃の自分でさえも仄暗い絶望に叩き込んでやりたい。

 想像しながら開いた口は満面の笑みのようで、少しだけ開けていた窓から秋風がざぁっと吹き込んだ。


「竣、ねぇ。口の中ってあったかいね」

 いま何をしているのかを一瞬忘れそうになるくらい優しい口調だった。

 塩辛い汗を味わわせていた親指が一気に喉まで押し込まれた。


「あはっ。あはははは!」

 そのまま脳天を蹴り上げるかのように振り上げられ、竣は足を口に突っ込まれたまま仰向けに倒れた。

 彼女の笑い声は初めて遊園地に来た幼子のようだった。ぐりぐりと無遠慮に口の奥まで押し込まれ、逃げようにももう片方の足で髪を掴まれ頭を動かすこともできない。


「げぼっ、がはッ‼」

 命令があるまでは絶対にそのままでいるべきだったのに、身体の反射には逆らえずに咳き込んで口を離してしまう。

 彼女は責めることなく無造作に竣の腹の上に腰を下ろした。一瞬呼吸が止まる。

 度重なる嘔吐の要求を脳が送るが、朝も昼も何も食べていなかったので飛び出たのは酸っぱい胃液だけ。

 何も着ていない上半身に触れる床の冷たさが変に心地よかった。


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 誰の犠牲も認めずに一致団結し断罪

 敗者と悪の死体の上に作り上げた平和に乾杯

 俺もいつかは骸の一つに


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 目隠しがとれた。

 不思議なのは外されたのではなく、重力に逆らえずそのまま落ちるかのような取れ方をしたことだった。


「これね、うちに飾ってあったんだけど」

 秋風になびく亜麻色の髪。強烈な欲望を内包した赤瑪瑙の瞳。優れた顔貌にはただそこに在るだけで燦然と人の上に立つ資質が表れているかのようだ。

 夕陽を反射するいかにも高級そうなナイフを、最底辺の生まれの自分に生まれながらの女王が突き付けていた。

 文字通り彼女の尻に敷かれているのに、そのやわらかさと腹の上に感じる体重に、竣は後ろ暗い歓びを感じていた。


「高いからかな、やっぱり」

 男子にしては長すぎる竣の髪を彼女がつまむ。

 ナイフでひと撫ですると、まるで最初から切れていたかのように髪が落ちた。あのナイフで目隠しも切ったのだろう。


「すごくよく切れる」

 ああ、もったいない────東欧の絹のような彼女の髪まで遠慮なく切ってしまった。

 床に撒かれた髪が竣の髪と混じってただのゴミと成り果てるのを見ている自分の感情は理解不可能だ。


「長い人生なのにただただ退屈に朽ちていくだけ……なら、一度くらい、一度くらいは」

 ぷちぷちとブラウスのボタンを外して脱ぎ捨てた。竣が今まで画面越しに見たどんな女性のものよりも豊満で完璧な形をしたバストが、果実のように鮮やかな赤いブラに覆われている。

 その姿に見とれたのも一瞬、汚れるからブラウスを脱いだのだと分かって首の後ろ辺りが冷える感じがした。


「もちろんいいよね?」

 溶けたバターに挿し込むかのように、彼女の欲望の刃が竣の胸に突き立てられた。


「────ッ‼」

 ずずずっ、と刃が進んでいくのに従って燃え上がりそうなほどの熱と耐え難い痛みが湧き上がる。

 悲鳴を止めるために口を押さえるが止まらない歯ぎしりが美術準備室に響き渡った。血で湿った音と彼女の興奮の吐息が神聖なはずの学び舎を異空間に変える。


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 悪よ咲け、咲け!

 陰より陽の下で狂い咲け

 混沌の権化よ世界を飲み込め

 抑圧する秩序を破壊しろ

 太陽は沈め

 星は砕けろ

 花は枯れろ

 血は逆巻け

 泥土に掻き臥せろ

 鋼鉄の錆よ、より赤く染まれ

 千年の夜と曼珠沙華咲き誇る世界の夢を見せて

 蓮の葉の上に座すは山羊頭の淫欲


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 永遠にも思えた時間は、数にしてみれば5分も無かったようだ。

 無限に流れたと感じた血は僅かに床に垂れる程度。皮とほんの少しの肉が切れただけ。

 それでも竣は痛みと恐怖のあまり過呼吸になっていた。食いしばりすぎて痺れた口に大量の涙が伝う。


「ちゃんと声我慢できたね。えらいね、男の子だね」


「いっ……つ……」

 俯いた彼女の髪が傷口に触れ血で汚れた。彼女が爪の腹で敏感になった傷の周囲をなぞる。

 ぴりぴりと神経が震える範囲が思ったよりもはるかに広い。


「あーあ、もう。最後にあたしのことどれだけ無茶苦茶にすることできても。そこから先の人生終わりだね。好きな子できても、抱くことすらできないんだ」

 それはもう取り返しがつかず言い訳もできない傷だった。

 Karen────彼女の、華怜の名前が竣の胸にはっきりと残されていた。

 もう普通にプールに入ることもできない。鏡を見るたびに、風呂に入る度に華怜のことを思い出す。いや、思い出せと言っているのだ。


「ふふふ。あはっ。あはははははっ‼」

 痛みと苦しみを暴風雨のように叩きつける華怜の表情は法悦の果てにある。

 二人は命を賭けて互いを壊し合う。そういう約束をしたのだから、それでいいんだ。

 それでもまだ60日もある────と思うべきなのに。

 もう60日しかないのか、と思う自分がそこにいた。


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 お前らがなんか言わなくたって

 俺は、俺たちは勝手にぶっ壊れていくよ


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 YOU & I VS. THE WORLD








 この世界は誰のものだ。

 人によって答えはそれぞれだろうが『みんなのもの』だとか『誰のものでもない』という解答はあまりにも無知が過ぎる。

 煙の上がるゴミ捨て場を漁ってようやく1日1ドル稼ぐ一家の視線の先には成金たちのビルの群れ。

 百円のパンを万引きして捕まった孤独な老人の家の二件隣には将来有望な医学生が住んでいる。

 この世界は金持ちのものだと言って誰が否定できようか。もっと分かりやすく言えば強者のものなのだ。

 そして動物と同じく、人間にも生まれながらの弱者と強者がいる。

 この国の強者はもっとも分かりやすい。家から出てバイクに乗って学校に着くまでに百個は目にする家紋と名前、『霊九守』『TAMAKUMO』『タマクモ』と、嫌というほどにこの街が誰のものかということを無言で強調している。

 真円を中心に掲げて周囲には炎という、太陽のような高貴な家紋は駅にまで掲げられ、極めつけは治安の悪いこの街には似合わない天を突かんばかりの商業ビルだ。

 霊九守の名は千年以上前から歴史に度々登場し、財閥解体後もこの国のありとあらゆる産業・工業に携わっている。実質的な日本の支配者一族と言っていい。

 噂ではこの国どころか世界の根幹にも関わっているというが今更誰も驚かない。世界を裏から支配してきた秘密結社や財団も、支配者一族から生まれたものだったのだから。

 そんな一族に生まれた霊九守華怜は誇張抜きに生まれながらの強者だった。


 宗像竣は児童養護施設で育ったいわゆる孤児だ。

 親の顔すらも知らない、生まれながらの弱者。

 竣と華怜は何もかもが正反対だった。

 本来なら互いに視界に入ることすらなかっただろう。だが、学校というものは平等という名のカオスに蝕まれている。

 生まれがどうあれ、学力が基準に達しているなら強者も弱者も同じ空間に存在することを許されるのだ。

 運命のイタズラとしか言いようがない。二人は出会ってしまった。


 高校二年生の初日。容赦のない大雨が腐った魚の鱗のような空から降りしきる。

 ぼろぼろの傘を差し、靴下まで濡れた足をひきずりようやく校門にたどり着いた。

 その時、黒い送迎車から降りてきた華怜と一瞬────入学して初めて目が合った。

 穴の空いた傘を差した孤児、高級車で送り迎えされる御令嬢。一秒にも満たない逢魔。

 竣は強者が嫌いだった。特に生まれながらに持っている裕福な子供は大嫌いだった。

 その日もいつもどおり竣を苦しめる劣等感が襲い掛かってくるはずだった。

 それなのに、竣は華怜を見た瞬間に思ってしまったのだ。


 どうしても、華怜を手に入れたいと。


 野良犬に喰われた女王はどんな顔をするのだろう?

 きっとその表情は自分にしか見れないものだ────と感じたが最後。

 沼の底から星空を見た日のように、衝動は止められなかった。



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 その日も教室に入った瞬間からいつもどおりといった光景だった。

 黒板に描かれた下品な落書きのターゲットは明らか、主犯も明らかだ。

 クラスにいる誰もが、担任ですらも恐らくは把握している。だが止めることはできないのだ。

 そして竣もいつも通りに席に着いた。

 このクラス、この学校において竣は幽霊未満の存在だ。誰とも喋らず、予鈴ギリギリに登校し、放課後は一人で帰る。誰とも関わらない。

 教師ですらも誰ひとりとして竣の宗像という名字を覚えていないかもしれない。

 ターゲットの女子生徒が入ってきた。黒板が目に入った瞬間に、その女子生徒は心臓が縮んだかのような息を漏らして俯いた。

 教室の空気は張り詰めており最悪だ。これがよくある女子同士のハブ程度だったのなら、ホームルーム前のこの時間なのだからそれなりに騒がしいだろうに。


「…………」

 女王が黙っているからクラスも静かなのだ。華怜が全てのルールだ。彼女が話せばクラスのみんなは話していいし、不機嫌になれば誰もが黙らなければならない。

 結局担任が入ってくるまで華怜は退屈だと身体中から示すかのように腕を組んで黙ったままだった。

 誰も彼女の暴虐を止めようとしない。漫画やアニメ、あるいは創作の世界なら。ヒーローが助けに来るし、助けられる側は美少女だがそんなことはまったくない。助けようなんて浮かんだことすらない。


(俺は今日……)  

 というか一切まったくこれっぽっちも興味がない。

 それで死のうが生きようが、キレようが訴えようが全てがどうでもいい。何が楽しいかも分からないし、理解する気もない。

 だが、きっと今日。この教室の空気は変わるだろう。幽霊未満の竣の行動によって。



 放課後はほとんど毎日バイトをしている。部活動もせず、友達も作らずに黙々と。そんな竣は初めてバイトを休んだ。

 夏休みも終わり、秋の気配を強く感じるグラウンドで部活動に励む生徒の活発な声が開け放った窓から聞こえてくる。

 それに混じって聞こえてくるのは女子トイレから響く異質な音。放課後にこんなことをしているのはあまりにも時間の無駄だと思うが、人の価値観はそれぞれだ。

 決意を確かめるように髪の下に隠れた星型のピアスに触れたあと、べきべきと指の骨を鳴らした竣はずかずかと女子トイレに入っていった。


「ちょっと! な────」


「どけ」

 唐突にいるべきではない場所に男子が乱入してきた。そんな状況に当然批難の声をあげようとした女子を突き飛ばす。

 たとえば金魚でも弱った個体を他の個体がつつき回すことはあるが、水槽に人間が手を突っ込んだだけでどの個体も平等に逃げ回るだけになる。いまの状況と同じだ。


「…………?」

 主犯、あるいは中心のはずなのに、ターゲットの閉じ込められた個室を壁にもたれながらつまらなそうに見ていた華怜は、突然の闖入者を見ても特に騒ぎはしなかった。

 ただその退屈そうな赤みがかった瞳で竣のことを見ているだけだった。

 いきなり排除を命じなかったのは幸いだ。邪魔な人間を押しのけて個室のドアを無理やり開けるとずぶ濡れの女子生徒がそこにいた。


「さっさと帰れ」


「えっ、えっ?」

 助けに来たとは誰も思えないほどに乱暴に引きずり出し廊下に出す。

 感謝よりも困惑が強く顔に浮かんでいる。多分、まず自分が誰か分かっていないのだろう。

 クラスメイトで自分のことを知っている人間なんかほとんどいないのだから。


「早く行け!」

 平静を保っているが、昨日頭の中で作り上げた計画通りに進めるだけでいっぱいいっぱいだ。時代遅れのパンクロッカーのように長い竣の髪の下は既に嫌な汗で蒸されている。

 とにかくさっさとどこかに行ってほしかった。目的はただ、華怜と二人で話すこと、それだけなのだから。


「何か用?」

 来た────ただの同い年のクラスメート、言ってみればそれだけのはずなのに華怜が口を開いたとき、覚悟を決めずにはいられなかった。

 気に入らない、邪魔、死になさい。そのどれか一つでも華怜が口にすれば自分はこの街にいることすらできなくなる。だとしたら華怜が冷静に考える前に行動に移さなければ。


「?」

 いきなり肩を掴まれても華怜はまばたき一つしなかった。

 恐怖を感じるとか以前にそんな想像が頭に無いのだろう。


「あとで教室に来い」


「……ふーん?」

 これで来なかったらそれで終わり、それだけだ。どちらにしろ自分には大した未来など待ち受けていないのだからもうどうだっていい。

 何あいつ、頭おかしい────そんな囁きを背に受けながら竣は教室に向かった。



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 普通だったら来ない。普通だったら、だ。

 誰だって知っている、華怜は普通じゃないことを。

 そしてあの答え方。来い、と言った時に退屈に沈殿していた華怜の瞳が僅かに光ったのを竣は見逃さなかった。

 もはや確信に近い。絶対に来る────もしかしたら想像もつかない恐怖が待ち受けているかもしれないというのに、華怜は扉を開けて平然と入ってきた。

 話があるのは自分なのだろう、と言わんばかりに他に誰も連れてきていないのはさすが女王だ。あまりにも堂々としている。


「あんたのこと、知ってるよ。親がいないんでしょう」


「…………⁉」

 竣と同じ中学校出身の生徒もいるため、そこから話が漏れていてもおかしくはない。

 驚いたのは、あの華怜がたかが竣のことを認識していることだった。


「つまらない話だったら来なかったんだけど。いい機会かなと思って」

 何が何やら分からないが、どうやら華怜は竣に興味を持っているらしく、現にここに来てくれたし、一応は話を聞く姿勢を見せていた。


「で、何の用?」

 何か言葉を間違えば、指先一つの動きでも過てばお前の人生それまでだ。そう言われているのかと思うほどに何気ない言葉には圧力があった。

 あの教師気に入らないの一言で教師は退職に追い込まれ、駅前のトイレが汚いというだけで毎日清掃業者が入り神経質なほどに磨いている。

 自分にとって害のある存在だと思われれば冗談でもなんでもなく殺されるだろう。

 だがどうせ。どうせ俺は人生を捨てているんだ────20歳にもなっていない子供が思うべきではない言葉に背中を押され、竣は口を開いた。

 


「三ヶ月間、君のいうことをなんだって聞くから、そのあと一日だけ君のことを好きにさせてほしい」



 その時、初めて華怜は竣を見た。少なくとも竣はそう思った。

 赤みがかった瞳は夕陽を直に受けていっそ更に冷酷に赤く光っていた。


「はっ。なにそれ。あんたと話すの今日が初めてじゃなかったっけ。好きにって、何?」


「もちろん××××する。○○○○○○○だってするし、なんでも遠慮なくする。思いついたことを24時間の間に全部するつもりだ」

 華怜との初めての会話は卑猥な言葉に埋め尽くされていた。

 もちろん竣の心臓はきゅうきゅうと痛いほどに騒いでおり、生まれて初めて口にする言葉達に脳細胞がやられてしまいそうだった。

 よく考えたら女子との会話なんて数年ぶりかもしれない。それでも仕方がないじゃないか。もう行動は起こしてしまっていて、華怜を一目見た時に滅茶苦茶に犯してみたいと思ってしまったのだから。


「三ヶ月あたしの人形になるってこと? 窓から飛べって言ったら?」


「飛ぶ。絶対に三ヶ月後まで生きるけど」

 会話を続けてくれているということは1%でもこの話を受け入れてくれる可能性があるということだ。

 本気であるということを示すためにも竣は迷わず即答した。


「……あたしの命の価値はあんたの90倍あるってこと?」


「それ以上に決まってる」

 児童養護施設で育った竣は、日々の暮らしもバイトバイトで既に生きることに精一杯だ。そんな馬の骨以下の自分の価値を華怜と比べることすらもおこがましい。 

 だが、期間をもっと伸ばしたところで飽きるだろうし、学生なのだからやらなければならないことも出て来る。これくらいがちょうどいいはずだ。


「あー……なら……どっかに……」

 他人の机を勝手に華怜が漁るが、たとえそれを授業中にやっても止める人間はいないだろう。

 あった────楽しそうに笑った華怜が取り出したのは少し錆びたハサミだった。


「はい。どこでもいいけど、お腹とかはダメだよ。それで終わっちゃつまんないから」

 ぞっとするような言葉とともに刃を向けてハサミを差し出された。

 目の前で自傷行為をしろ、と命じたのに華怜は落ち着き払っている。


「できない? 無理? やっぱり冗談だった?」

 受け取ったハサミはなんの変哲もない、誰でも持っているような普通の文房具だ。

 なのにそれを刃物として捉えると、人を殺傷せしめる凶器として見ると、ただそれだけでこめかみを冷や汗が伝った。

 まだこの時点では華怜も冗談半分なのかもしれない。だが、ここで本気を示せばお互いに戻れなくなる。


「三ヶ月だ」

 痛みを想像するな、過去も未来も考えるな。

 どうせ自分には何も無いのだから────今までの全てにさようならを告げるかのように、竣は太ももに向けてハサミを思い切り振り下ろしたのだった。



 今となっては分からないのは、なんで自分はあんな行動に出たのだろうということ。

 あまりにも衝動的過ぎるその行動は常識的に考えてうまくいくわけがないのに。

 だがもっと分からないのは。華怜がどうしてそれを受け入れたのかということだった。

 ただ、彼女がいつもどことなく退屈そうに見えたことに理由があるような気がした。



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 思えば最初から華怜に遠慮は無かった。

 死んだら終わりだが、死なない程度ならどれだけやってもいいのだと理解した華怜は、まるで監獄実験のように3日で全く本性を隠さなくなった。

 あれを盗んでこいなんて命令はしない。金はあるから。誰かを殺せとも言わない。そんなことをしてしまえば竣は逮捕されて一瞬で楽しみは終わってしまうから。

 つまり感性の赴くままに実行される苛烈な嗜虐的行為を受け止め続けなければならないのだ。

 予想はしていた。覚悟もしていた。だがそれでもやはり、たったの1ヶ月で竣の身体はかなり傷んでしまっていた。


(今日は何も無しか……)

 安堵の息を吐きながら華怜に視線を向ける。帰りのホームルームが終わって、華怜は取り巻きに囲まれながら眉一つ動かさずに佇んでいる。

 聞き耳を立てるにまた取り巻き達はくだらない生産性のない行為をしようとしているようだ。そのうちの一人と目が合う。華怜を呼び出した日に突き飛ばした少女だ。


「…………」

 だが目が合っただけですぐに逸らされた。華怜にあんな無礼な態度を取ってなお一見無事でいる自分に関わりたくないのだろう。

 そしてその話題が万が一地雷であれば無事では済まないため、彼女たちも華怜に何も訊かない。

 今日は何も無いのは当たり前だ。もうすぐ中間テストなのだから普通の高校生は知識の詰め込みに必死になる。

 華怜も華怜で、たぶん国公立以外のどんな大学でも家の力でねじ込めると思うが、プライドが高いのだろう、彼女の成績はほぼ完璧に近かった。

 学校では華怜に話しかけるなと言われている。携帯に何も来ていないから今日は久々に身体を痛めずに済む。


「いてっ……」

 立ち上がると爪を剥がされた足の親指が傷んだ。最初の一週間にされたことなのに、一カ月近く経った今でも痛む────華怜がこちらを見ていた。

 注視しなければ分からない程に冷酷な薄い笑い。きっとどこがどんな風に痛んでいるのかも分かっているのだろう。


(いいさ。耐えてやる)

 無理やりナイフで刻まれた文字は正しく処置したため痛みはもう無いが、何をどうやっても痕は残るだろう。

 終わる頃にはもう自分はまともにこの世界を生きていけない身体にされているかもしれない。まだ死なれちゃ困る、程度の加減しかされていないのだから。

 あらゆる代償を払って手に入れるのが一夜の夢。だが自分のような人間にはこういう生き方も正解でいいはずだ。痛みを深い思考で誤魔化しながら竣は校舎の外に向かった。



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 物心ついた時から竣は年齢も名前もばらばらの子供達と一緒に暮らしていた。

 親がいるのが普通、ということを知ったのは、使い古しのランドセルと色あせたシャツを着て小学校に通い始めてからだ。

 竣の周りの大人には愛情などなく、子供を虐待するのが趣味の先生と金の亡者の施設長がいるばかりだった。

 二年前、施設出の少年達が虐待趣味の先生を殺しに来た。中心人物は先生にベルトで毎日一時間以上引っ叩かれていた少年だった。

 竣は武器を手にした少年達が来たのを窓から見ていたが、そのまま黙って見逃がし、先生は翌日ドブ川で惨殺死体として発見された。


「また来たのか。ほらっ、やるからさっさとどっか行っちまえ」

 ぶくぶく太ったイボガエルみたいな施設長が竣の姿を見て痰の絡んだ声を出す。

 いい思い出など一つもない場所だが、施設を出て一人暮らしをしている今でも月に一度は必ず訪れなければならない。

 名前の上では竣はまだここに入っていることになっている。だが高校一年生の間にバイトで必死に金を貯めた竣は名前だけ置いたままここを出ており、今は新しい子供が代わりに入っている。決して施設長の慈善の心などではなく、入っている子供の数に応じて国からの支援金が決まるからだ。

 細かい矛盾点をどうやり繰りしているのかは知らないが、そうして施設長は私腹を肥やし、代わりに竣は施設長にアパートの保証人になってもらい、更に月々に僅かながらの金を貰っている。


(こりゃ近いうちに死ぬな)

 ますます肥えた施設長はどう見ても生活習慣病をダース単位で抱えてる。

 金を貯め込んだところで寂れた風俗街で安い女を抱いて、度数だけやたら高い酒を呷るくらいしかやることが無いだろうに、まだ欲望の赴くままに生きている。


「まだ死ぬなよ」

 さっさと死ねばいいと思っているが、いま死なれては困る。自分が生きていけないからだ。

 もしかしたら施設長もいつかの先生のように、最悪の環境で育った餓鬼のような子供達に解体されるかもしれないが。


「お前も卒業まで死ぬんじゃねえぞ、クソガキ」

 思っていることはお互い様だった。せいぜい金を生み出せと言っている。

 ついでに煙草を一本貰った竣は電信柱に唾を吐いて施設を後にした。

 よく見るとここにも霊九守の家紋がある。

 まるで太陽や地面のように生まれた時から当たり前にあったから疑問にすら思わなかったが、こんな島国で世界の根幹に関わる何をしているというのだろう。

 なんて少し考えてみるが、日本には他にも世界的な自動車産業やらなにやらがあるし、あまり興味もない。

 明日を生きていくための希望と、金金そして金だ。ドブ板の隙間に煙草を捨てて竣はバイクに乗り次の目的地へ向かった。



 長くぼさぼさの髪を結い上げ、タオルを頭に巻く。

 それでも汗が流れるのは目の前で絶えず熱を出す鉄板のせいだ。

 5時から6時半までの短い間だが、竣はスーパー前のたこ焼き屋でバイトをしている。


「3つください」


「1200円になります」

 1パック6つ入りで500円。3パック買うと1200円の安い商売だが、たった1時間半で竣は5000円という金が貰える。

 たこ焼きが馬鹿みたいに売れているとかそういう訳ではない。

 熱々の商品を持って去った主婦の視界から隠れるように、無精ひげを生やした男がカサカサとこちらに歩み寄ってきたのを見てピンとくる。


「おい、おい! これ!」

 一枚の紙に挟まれた一万円札を竣の手に押し込み男はすぐに去っていこうとする。


「待って。確認するから」

 広げるとそこには汚い文字でいくつかの数字が書いてあった。

 小腹を空かせた主婦や学生向きの屋台というのは表向き。ここは地元の暴力団によって運営されているノミ屋なのだ。

 競馬や競輪などの券を普通よりも安く売っているが、ここで注文されたものを買いに行くわけではない。

 当たれば自腹で払わなければならないが、外れることも多いのでその分の売上をそのまま暴力団の懐に入れるという違法行為だ。

 ここを利用する客も暴力団の資金源、違法だと分かっていながらも安く買えてしまうため利用がやめられない。


「大丈夫。行っていい。たこ焼き食うか?」


「いらねえ」

 男はすぐに逃げるように走り去っていった。こんなところで高校生から馬券を買うほどに落ちぶれてもなお賭け事がやめられない哀れなギャンブルジャンキー。

 最後の最後まで搾り取られて終わるだけの人生だろう。


(来やがった、豚野郎)

 客足が途絶え、今日の売上を確認しながら煙草を吸っていたら会いたくない人物がやってきた。 

 図書館のパソコンで仕事を探してた竣に声をかけてきた暴力団の下っ端だ。似合っていない金髪に派手な色をしたジャージ、BMI28は超えていそうな肥満体型。

 見ているだけで嫌悪感が湧き上がる。だが何故かこういう連中は自分の同類を嗅ぎ分けるセンスだけはあり、金と職に困っていた竣は断れずにここで働き始めたのだ。


(くそっ……!)

 自然と同類と思ってしまったことに対して舌打ちする。

 確かに自分は最底辺の生まれだが、死んでもこんな豚野郎と同類にはなりたくない。

 なりたくないのにずるずるとこんなことをしている。冷静さを取り戻すためにゆっくりと星型のピアスに触る。


「なんや、あのオッサンまた来たんかいな」


「今日はあいつしか来なかった。ほら」


「……こりゃ当たらんわ。センスまったくあらへんなー」

 豚野郎こと高島は渡した紙ごと金をポケットの中にぐちゃぐちゃと入れた。

 ポリバケツの上にどかっと腰掛けて煙草を吸い始めた高島はヤスリで爪を磨き始めた。

 いつものパターンだ。これから女に会いに行くから身だしなみを整えていると言うが、その前になんとかするべき部分がありすぎるだろう。

 まぁこんなのに引っかかる女なのだから、と言えばそれまでかもしれないが。


「うん、うん。ほら、今日の分や」

 指を舐めて売上金を数えた高島が5000円を渡してきた。

 違法行為を肩代わりしているからこその高給だが、それでも未来ある高校生に対して安すぎると思わずにはいられない。

 こいつの唾が付いた金など財布に入れたくないので後ですぐにジュースでも買って崩してしまおう。

 パックの酒を飲みながらスマホをいじる高島は女に気色の悪いメールを送っている。

 そろそろ店じまいなので、軽トラで屋台の骨組みを持ち帰りに来たのに普通に酒を飲んでいるあたり、アウトローなのが分かりやすい。

 にたにたと笑いながらスマホをいじっていた高島の顔色が変わった。


「はい! はい。えらいすんまへん」

 シャキッと立ち上がり即電話に出たあたり、上の人間から電話がかかってきたのだろう。

 下っ端根性がよほど染み付いているのか、たこ焼きを作っている竣の後ろでペコペコと頭を下げながら下手くそな敬語で話している。


「親父から駅まで送れ言われてしもうたわ。この時間は片付けやって分かっとるはずなんにな」


「今時のヤクザは電車に乗るんだな」


「ちゃうわアホ。駅前の繁華街や」

 べたべたの関西弁の中にあった『親父』という単語は本物の父親では無く、その暴力団の組長のことだ。

 どんなに理不尽な命令でも下っ端は従わなければならない。


「もう5000円やるからあと一時間待っててくれや」


「…………」


「なんや、嫌なんか?」


「別に」

 不服そうな顔をした竣へ高圧的に財布から金を差し出した高島から目を逸らす。

 趣味の悪い革財布の中には札束が入っているが、知っている。あれは札束に見えるメモ帳、ただのジョークグッズだ。キャバクラに行って自慢するために入れているのだ。

 下っ端も下っ端のドチンピラのくせに見栄だけはいっちょまえに張るのだ。まるで下品が服を着て歩いているみたいだ。


「酒飲んでたろ。大丈夫なのかよ」


「二駅くらいなんてことないやろ。なんや、お前。真面目くさったこと言いよって」

 確かに真面目ではないが、お前らクソヤクザと一緒にするな。

 そう反論する前に豚野郎は重たい身体に鞭打って駐車場まで走っていってしまった。


「なんでこんなもんのために……!」

 湧き上がる衝動のままに薄っぺらい紙幣を破り捨てられたらどれほど楽か。これがなければ生きていけない。何度も自分に言い聞かせる。

 金が手に入るのはいい。だが、時間が伸びたせいでこの後飯を食う暇がない。

 竣は空きっ腹を抑えながらもう一時間踏ん張った。犯罪に加担して手に入れた1万円をポケットの中で強く強く握りしめて。



 週3のノミ屋代理と月々の施設長からの横流しでもまだ9万円だ。

 一人で生きていくにはまだ必要なのだ。とかくこの世は大人だろうが子供だろうが容赦なく金がかかった。

 生きていくために命そのものである時間を削らなければいけないという矛盾に今日も胸まで浸る。


「あとマイホ2つな」


「申し訳ありません、番号でお願い致します」

 成長期ゆえに栄養を欲してぎゅるぎゅる鳴る腹に力を込めながら、竣は機械のようにいつもの言葉を繰り返した。

 20時から22時まで週3コンビニで働いて月々2万円。更にダメ押しとばかりに週3回ほど登校前に弁当工場で働いてようやく合計15万行くか行かないかだ。


「マイホープ2つだってんだろ!」


「すみませんが番号で」

 高校生でもやることは変わらないのに、バイト代が安いなんて狂っている。

 こんなハゲ散らかしたいかにもダメ親父といった風貌の中年に怒鳴られてようやく一時間900円なんてグレたくもなる。


「26だよ‼ さっさとしろ‼」

 子供のように地団太を踏む中年にタバコを渡し金を受け取る。

 ほとんど毎日この中年を、あるいは他のクソ客を殺してやりたいと思っているし、何度も何度もレジの金を盗もうと考えた。


「陰気臭い顔しやがって……」


「ありがとうございました」

 レジ袋をひったくった中年は、後ろ足で砂をかけるように言葉を吐き捨てて去っていった。陰気臭くて反撃もしないサンドバック程度にしか思っていないのだろう。

 このバイトをやめたら帰り道に半殺しにして髪を全部ブチ抜いてやるつもりだ。

 そんなことを考えているうちに新たなクソ客がやってきた。明らかに水商売の女といった風貌の態度の悪い客だ。経験上、悪いことは重なる。これはまだまだ嫌なクソ客が来るな────そう思った竣は努めて何も考えないようにした。



 エンジンの調子までもが悪い250㏄のバイクを駐車してふらふらと部屋に入る。

 そのまま電気も付けずに竣は万年床と化している布団にダイブした。


「俺はいつまでこんなことしてるんだ……!」

 枕に顔を押し付け、限界まで絞った雑巾のような声を出す。

 いつまでか、きっと死ぬまでだろう。泥に棲む魚が綺麗な池に憧れても、生きていけないことは分かっている。

 月々32000円1Kの部屋に虚しく独り言が響く。高校生の部屋とは思えないほどに何もない。テレビもゲームも漫画も、本棚すらもない。

 安物のちゃぶ台と中古の教科書が部屋の端に山積みにしてあるばかりだ。

 顔を洗わなくては、飯を食わなければ風呂に入らなければ、明日の朝は工場のバイトだから早く寝なければ。分かってはいるが心の燃料が底をついていた。


「おなかすいた……」

 バイト上がりに買った、自分が値引きのシールを貼ったエクレアを袋から取り出し一気に口の中に押し込む。

 人工的な冷たさと、こんなものをありがたがっている自分があまりにも惨めで涙が流れた。泣けば泣くほど惨めになると分かっているのに。

 怒っても泣いてもどうにもならないから、人前では極力感情を抑えているが、四畳半の監獄は竣の怒り悲しみを閉じ込めるには狭すぎた。


「あ……あまいものもっとたくさん食べたいなぁ」

 鏡を見ると『お前は下賤な生まれだ』と言わんばかりに口の周りにクリームを付けた暗い顔の自分が映っている。

 コンビニバイトの廃棄弁当を食べながら、同級生の弁当を見ていた時もこんな顔だったのだろう。

 それってお母さんが作ってくれたの────自分を傷付けるばかりの記憶を封じるように何度も枕を殴る。

 だがその時、ふと上品に昼食を食べる華怜の姿を思い出して涙が引っ込んだ。

 少しだけ戻った元気を拳にして枕元に置いていたCDラジカセに叩きつけると、今日の朝も聴いていたパンクバンドの曲が流れだした。


「これ、誰から盗んだんだっけな……」

 施設内で窃盗は日常茶飯事だった。竣の物も随分盗られたし、竣も色んな物を盗んだ。

 このCDも施設に落ちていたのをかっぱらったものだ。施設を出た誰かが置いていったものかもしれないし、誰かの大事な物だったのかもしれない。


(でもこの人もCD万引きして逃げたって歌ってる)

 街で耳にする音楽に比べてこのバンドはかなりへたくそだと思う。

 演奏も雑だし、歌もまったく上手くない。それなのに聞いているとなんだか元気が出てくる。まったくもって完璧じゃない自分もまだ生きていいのだと。


(華怜……)

 薄暗い部屋の中で膝を抱えてぼんやりと華怜を思い出す。

 いままではずっと盗み見るだけだった彼女と、歪んでいながらもここまでの関係になれた。あと少し、ほんの少しで自分の物にできる。

 妄想の中でしかできなかったあれやこれが全部できる。立場が逆転したとき、華怜は一体どんな顔を見せてくれるだろう。

 その頃には目が潰れているかもしれない。指が足りないかもしれないし、歩けなくなっているかもしれない。

 でもそんなことはどうだっていい。どうせ見たくもないモノばかり見る目だ。レジ打ちしかできない指だ。歩いたって行くのは不燃ゴミみたいなバイト先だ。


「もうちょっとだけ頑張るから」

 華怜の遠慮ない暴虐は竣の身体をあっという間に半壊にさせたが、それ以前からもう心身ともにボロボロだった。

 いつか完全に壊れてしまう前に、せめて壊される相手を自分で選べたのだ。そう思い込みながら竣は風呂へ向かった。

 


*********************************



 久しぶりのケータイの振動に否応なく覚悟を決める。放課後待っているようにと華怜からのメールだった。テストがあったし、華怜も華怜で学校を何日か休んでいた。

 身体のあちこちに刻まれた傷も治るくらいの時間なにもしていなかったから、今日は過激なことをされるだろう────と思っていたのに。


「ねぇ、あんたさ。バイクで学校に来ているでしょ」

 竣の机に座った華怜は脚を組みながら、予想もしてなかった言葉を口にしていた。


「なんで知ってるんだ?」

 学校の近所に違法駐車しているのが見られたのだろうか。

 だとしたら少しまずい。当然学校に許可を取っていないし、万が一にでも免許没収なんてことになったら生活にかなり支障が出る。


「免許あるの? 見せて」


「はい」

 なんだろう、何をするつもりなんだろう。無免許運転だとでも思っていたのか、免許を受け取った華怜は意外そうな顔をしてまじまじと見ている。

 脚を組み替えた華怜の白い太ももが目の前にあり心臓がきゅっと痛くなった。


「どうやって取るの? これ」


「え? 免許センターに通って、ちゃんと勉強すれば……」


「そういうのって通わないとダメなの? 乗りたいんだけど。乗せてよ」

 自分は教習所も通わず一発で取ったが、それは同じ施設にいた人間にいくらかの金を払い、夜中にバイクを借りて何度も練習したからだ。当然違法である。

 結果としてかなり安く済んだが、正直そこだけはかなり運がよかったと思う。

 中古の事故車だったため18万円という安値で買うこともできたし、大嫌いなことだらけの世の中だがバイクで走ることは気に入っている。

 だが普通に金持ちの華怜なのだから、もしも興味があるとしてもちゃんと普通のルートで取って新品のバイクを買った方がいいに決まっている。


「ダメだよ! そんなことしたら俺も華怜も一発停学だ」


「……まぁ、停学は困るかな」


「あっ、でも原付なら事前に勉強して試験を受ければ10日前後で取れるけど」


「ふーん。じゃあそれ。それに乗りたい」

 自然と考えることは華怜が二輪車を制服姿で転がしている姿だった。

 想像の中でしか無いが、とても似合っている気もするし、すごく不自然な気もする。

 窓枠から漏れている赤い夕陽に光る手がハンドルを握っているところは純粋に見てみたいと思えた。


「だから教えてよ。何をどうすればいいのか」


「……いいけど、なんで?」


「はぁ?」

 まったく想定していなかった願いに疑問を口にすると、小動物程度なら死に至りそうなほど圧力のある声で返された。


「何もしないのか? 今日は久しぶりなのに。そんなことで……」


「そんなことってなによ。なんでも言うこと聞くんでしょ?」


「けど」


「あたしが欲しいって言っているの!」


「わ、分かった」

 そんなこと別に自分に頼まなくてもいいことなのに。

 竣はそう思ったし、きっと過激なことをされるだろうと考えていたから少し肩透かしを食らった。

 だが、これもワガママはワガママに違いないが、華怜が竣のパーソナリティに踏み込んだという点がこれまでの命令と違っていた。

 天と地ほどにも育った環境の違う二人だが、二輪車に乗りたいと思った理由が実は全く同じだなんて二人とも気付いてすらいなかった。



*********************************



 少し奇妙な気分だった。自分よりも遥かに頭も良く育ちもいいはずの華怜に教えられることがあるなんて。

 それもこの国で育てば誰もが自然に知っていくことを教えるなんて。


「二段階右折ってなに? 普通に曲がっていくバイク見たことあるけど」


「原付はそうやって曲がらないとダメな道があるんだよ。そうじゃないとこもあるけど」


「ふーん」

 竣が昔使っていた免許取得用の交通法規をまとめた本に線を引いて教えていく。

 流石に飲み込みが早い。免許が欲しいと言ってからまだ5日も経っていないが、もう少し教えればすんなりと取得できるだろう。


「あんた時間は大丈夫なの?」


「そうだな、そろそろバイトの時間だ」

 みなしごである竣はバイトの掛け持ちで生きていることを華怜に軽く伝えてある。

 基本的にワガママでこちらのことなど一切考えていないが、たとえばバイトをやめろとか生きていくのに支障が出るような命令はしてこない。むしろ気を使ってくるくらいだ。

 優しさなのか、となると少し違うような気もするが。

 もう使うこともないのでお古の本を全部渡し、二人で教室を後にする。

 今日はノミ屋のバイトは無いが、コンビニでまたバイトをしなければならない。

 本当は残りの時間を全部華怜に使ってあげたい。

 誰もいない薄暗い廊下をかつかつと音を鳴らして歩く華怜の後ろ姿を見て思い返す。

 前に提案したことがあるのだ。いくらかの貯金があるから、バイトなんかやめてもいいと。そうしたら余計なお世話だと怒られた。

 華怜のプライドの琴線は竣には理解し難いが、それでも少しだけ分かる気がする。

 自分のような人間に気を使われること、それ自体が屈辱なのだろう。

 そんなことを考えている内に砂だらけの下駄箱に到着した。


「雨……」

 玄関口から伸ばした華怜の手が濡れる。予報外れの雨が外でポツポツと降っていた。


「ほら、俺の傘あるから使って」

 置きっぱなしにしていた200円の透明な傘には、竣の名前がマジックペンで書いてある。きっと覚えていないだろうが、華怜と初めて出会った時もこの傘を差していた。

 華怜が赤みがかった目で冷たくこちらを見てくる。普通の女子に比べてかなり背が高い華怜は174㎝の自分と目線がそう変わらない。

 ただ見てくるだけで背中に嫌な汗が出てくるような圧力がある。

 中2から使っているダサさ極まる傘など華怜には似合わないがこの際仕方ないだろう。


「そんなものあんたが持ちなさい」


「え、だって」 


「近くのバス停まででいい」

 傘持っていないんでしょ、と言おうとしたら更に意外な言葉で返された。

 送れと言われていることに気が付いた竣は軽く混乱する。


「あっ、迎えに来てもらうとかは……?」


「時間の無駄」

 送迎車があって運転手までいるのに、それを時間の無駄とは。あまりの感性の違いに身体中から力が抜けてしまう。

 じっと見てくる華怜の視線に半ば操られるように傘を開くと、彼女は平然と横に入ってきた。

 誰かといる時は話しかけるなとまで言っている人間と相合傘をするなんて、女の子とはなんて奇妙な存在なのだろう。

 ちらと横を見ても色素の薄い睫毛しか見えず、何を考えているか分からない────腕を引っ張られた。


「変な気を使わないで。風邪ひいたら困るでしょう」

 接近を求めていたはずなのに、どこか心は引け目を感じていたのか。

 竣は右肩がかなり濡れるほどに傘から出てしまっていたのだ。

 こんなところを誰かに見られたらどうするの、と言おうとしたが見られたところで華怜に何かを言ってくる人間などいないだろう。


「あんたバイクはどうしたの? 雨が降るって分かってたから?」


「なんか調子が悪いから……バイトが終わったら修理しようと思ってたんだ。……俺のバイク、興味あるのか?」


「なんならいま一番興味あるかもね」


「それならいつか見せてあげるよ」 


「そうね。……あら……あらら」

 通り雨なのだろうか。更に雨足は激しくなり、交差点も見えないくらいになってしまった。どちらとも無く閉店した惣菜屋の屋根の下に入る。それでもまだ強い雨は遮れない。

 もう日が落ちるのも大分早く、外はかなり暗くなっていた。


「これならたぶんすぐに止むと思う」


「ふーん……」

 上の空の返事をした華怜が竣の胸元に手を突っ込んできた。

 何かいたずらをしようとしているのではない。竣の制服の内ポケットに入っている煙草が目当てなのだ。


「なにか文句でも?」


「いや……」

 竣は進んで自分のことを話したことは無いが、それでも訊かれたらなんでも答えた。

 たとえば本当に一切親の顔を知らないこと。たとえば児童養護施設での生活のこと、そこで起きた全国的に有名な殺人事件のこと。そして、喫煙者であるということ。


「火が付かない」


「貸してみて」

 百円ショップで4本セットで買った安いライターは、湿気と風の中では着火しづらいようだ。

 火の大きさを調整していると華怜が傘をそっと持っていき、代わりに咥えたままの煙草を指差した。


(悪いことしているよな)

 傘の下に隠れ、暗闇に明かりを灯すように煙草を手で覆ってから火を付ける。

 なんてことをしているんだろう。コートを着ているとはいえ、スカートを見ればすぐに高校生だと分かるのに。しかも間違いなく日本一のお嬢様が。

 自分も吸ってみたいと言うものだから断ることもできずに煙草なんて教えてしまった。


「げほっ、けほっ」

 まるで電車の中でバレないよう咳をする人のように、表情を崩さずに器用に咳をしている。

 タール14㎎にニコチン1㎎という相当にキツイ煙草であるため、まだ慣れていないようだ。竣ですらこれを寝起きに吸うと頭がくらくらするのだから。


「もっと軽い煙草買っておこうか?」


「……これでいい」


「これキツイ方なんだよ。メンソールとか色々あるし、他のを試してみても、」


「これがいいって言ってるの!」


「はい」

 大粒の雨が当たる屋根の下で背中を丸めて小さくなる。そもそも未成年が吸うなという話だが、自分も最初は咳き込んでいたのに変える気はなかった。あれはどうしてだっけ。

 水滴を眺めながら思い出をかき分けていたら、ようやく煙に慣れた華怜が口を開いた。


「……この前、車で送ってもらった日に、バイクに乗ってる竣を見た」


「あ? ああ、だからか……。でも最近雨なんて降ったか……?」

 バイク通学がバレた理由は分かったが、華怜は雨の日以外は送迎してもらっていない。だが、竣の素朴な疑問に華怜が答えることはなかった。

 紫煙を燻らせる華怜の纏う退廃的な雰囲気は、なぜかどことなく高貴な空気を醸し出している。自分が道端で煙草を吸っているといかにも社会の落伍者なのに。

 それでも彼女の表情を見るにもしかしたら、もしかしたら華怜は『こっち側』の人間なのかもしれない。


「雨は空から地面に降る。川は山から海に流れ、砕けた宝石は元に戻らない」


「?」


「少なくとも、人間の目から見て秩序だったものは放っておけば崩壊し散らかり混沌になるのが自然」

 雨を眺めている華怜がその支配者の目で何を見て、何を思っているのか竣には理解できない。だが分かるのは、華怜は決して秩序や平和など望んでいないということ。

 正義よりも悪、秩序よりも混沌の人間なのだ。


「平和な方が得する誰かが悪意に正義のコンドームつけて世界を支えてる。なんて気持ち悪い平和だろうって、思わない?」


「俺もそう思う」

 少なくとも自分が孤児で得する人間が何人もいるこの状況。

 つまるところ竣一人にババを引かせて多数が得をしているというのは世界の縮図そのものだ。しかし。


(華怜がそれを言うのか……)

 少数に不運を押し付けて大多数の安寧を守っている。そしてそのみかじめとして、更に少数の『正義』という概念を構築している誰かが利益を啜っている。

 その頂点とも言える華怜が対極にいる竣にそんなことを言うなんて、これはほとんど言葉の暴力だ。

 だが思っても口にはしない。この歳になれば流石に分かる。自分はかなり運が悪い人間だと────明らかに法定速度を守っていない車が二人に思い切り水を撥ねていった。


「……ははっ」

 思ったそばから『その通りです』と言われた気分だ。

 竣の不運に巻き込まれた華怜の方から、濡れた煙草の水分がジジッと蒸発する音が聞こえた。


「ほんっとしょうもない!」


「ちょっと、何してんだ!」

 竣よりも多めに水を浴びてしまった華怜が土砂降りの中に飛び出した。

 慌てて傘を持って駆け寄る竣に華怜は泥に汚れたブーツで水を蹴り上げてくる。


「もういらない! そんなボロ傘!」

 不運に見舞われたはずなのに華怜はむしろ楽しそうに右へ左へ逃げて水をかけてくる。

 楽しそうなのは結構だが、これで怪我でもされたら華怜はよくてもこちらはよくない。


「危ないから! あ────‼」

 言わんこっちゃない。滑って転びそうになる華怜の腕をなんとか捕まえる。

 そのまま体勢を立て直そうともしない華怜が何を考えているのか分からない目でこちらを見てくる。まるで雨以外の時間が止まったかのよう。

 なんとなく、この瞬間をずっと覚えているのだろうなと思った。とりあえず傘を華怜の方にやると腕を払われてしまった。


「はー、寒い」

 華怜の綺麗な形をした鼻梁を水滴が伝う。

 よくあんな土砂降りの中に飛び出して煙草の火が消えなかったものだ。


「帰ったらすぐに風呂入るんだよ」


「うっさい」

 ぐずっと鼻をすすりながらも更に水をかけてくる。

 だが竣の目には不機嫌どころか相変わらず楽しそうに映った。


(こういうところあるんだなぁ)

 理不尽で暴力的で突発的なところは変わらない。だがそれを自由奔放に自分自身の身体にも解放している。

 それは女王でなければならない普段の抑圧の裏返しに見えた。


「はー……バイト何時からなの?」


「今日は7時から。明日の朝は5時から」


「そんなバイトバイトって。竣はなんでこの高校に来たの?」

 一応竣がどういう状況かは分かっているはずだが、それでもやはり境遇が違いすぎるからか、今ひとつ子供が一人でこの世界を生き抜くということがどういうことか理解できていないようだ。


「バイトができるから」


「ああ、校則ゆるゆるだもんね」

 変な話で、偏差値でいうところの40~60くらいの学校が一番校則がキツく、それ以上か以下は校則なんてあって無いようなモノになってくる。

 竣と華怜の通っている高校は県下で一番の偏差値を誇る公立高校であり、そこでもトップの成績を維持している華怜は文句なく完璧な人間だった。


「バイト何個掛け持ちしているの?」


「……3つかな」

 ノミ屋のあれはバイトというより犯罪なのだが、一応時間に対しての金を得ているのでバイトでいいのだろう。

 それに今更犯罪行為をして金を稼いでいます、と言ったところで華怜はそれを咎めたりしないとも思った。


「3つ? 成績は?」


「真ん中くらい」


「バイト3つもして……? よくあんた」

 華怜の目が見開きあまりにも予想通りの言葉を口にしようとする。

 分かっている。そんな反応は中学生の頃から何度も貰ってきた。


「お願いだから」


「!」


「哀れまないでくれ。俺は俺なりに手持ちのカードで必死に生きているんだ」

 中学の頃、同級生が高い金を払って一年生から塾に通い、それなりの進学校に合格した一方で、竣は一人で黙々と教科書と中古の参考書に齧りついてこの高校に来た。

 だが合格しても、竣が孤児だと知る同級生はむしろ哀れんだ目で見てきたのだ。それは素晴らしいけど、どうせ君は────と。

 担任ですらも言葉を濁し、まぁ頑張れよと裏に何が隠れているか透けて見えるような言葉を卒業の日にくれた。

 大学は行けないだろうし、就職するのもままならないのに無駄に賢くて可哀想に、と。持たざる者の未来はそう簡単に変わらないし、孤児の頑張りなんて世間様は興味がない。

 本当は非常に高い能力を持って生まれた竣だが、育った環境によって才能を活かすための自尊心はもうズタズタになっていた。


「そう」

 切り捨てるように煙と共に短い言葉を吐いて捨てた。その無慈悲な対応はむしろ竣にとっては救いだった。

 下手くそでいたずらに傷付けるような優しさが無いからこそ、こうしてここにいる。


「そのカードで出せる最大の役が、あたしを一日手に入れることだったの?」


「そうだ」

 竣の即答。はっ、と華怜は冷酷に笑った。

 まるで近い将来の自分の身体のことすら無関心であるかのように。


「華怜こそ、なんでうちの高校に来たんだ?」


「…………。どういう意味?」


「金持ちなんだろ。なんでわざわざ勉強してまで公立高校なんかに……」

 最初の質問の時点で、仄かな怒りを感じた。質問の意図を伝えたら完全に火が付いた。

 まるでコンロが火花を散らし、次いで火を宿したかのようだ。


「それとあたしがどういう人間かは全くこれっぽっちも関係ない。たとえあたしが竣と同じ状況でも努力は惜しまなかったと思う。あたしがあたしであるために」

 あまりにも華怜らしい言葉を返され思わずたじろぐ。華怜は極めてプライドと理想が高いが、それに釣り合うだけの努力を怠らない。

 竣の知る限り予備校はおろか習い事の一つもしていないのに、テスト期間はしっかり勉強してずっとトップを維持している。

 華怜は自分の中での優先順位をはっきり決めていて、そこから目を逸らしたりしない。

 苛烈なまでの確固たる自我は、独特だが他の何にも左右されない価値観を華怜にもたらしており、だからこそ竣を孤児であるという理由だけで見下してきたりしなかったのだ。


(あれ……?)

 学ランの上から胸をぎゅうっと握っている自分にようやく気が付いた。冷えた肌に浸透するような鼓動が痛いほどに鳴っている。


「さっきあたしに嘘ついたでしょ」


「………。そうだな……。バイトだけが理由じゃない」

 それだけが理由なら、最底辺の高校に行けば良かったし、なんなら独立することだけを考えるなら高校に行く必要すらなかったはず。

 許せなかったのだ。生まれ一つで未来が決まることが。示してやりたかったのだ。俺は、俺だけは俺を見限ったりしないと。


「俺が俺であるために……」

 ぽつりとつぶやいた言葉に、髪から水を滴らせて華怜は小さく笑った。胸が熱い。熱くて痛い。いつかにナイフで刻まれた時よりもずっと。

 華怜の内面は竣の理想そのもので、自分が自分であるために────その言葉は荒波の中をいかだで航海する竣にオールを漕がせ続けた言葉そのものだった。

 今になってようやく華怜に好感を抱いているのだと気が付いた。誰かに好感を抱くなんて生まれて初めてのことで、その痛みの熱は大粒の雨程度では到底冷めやしなかった。


「手を出して」


「……? あっちぃっ‼」

 つまらない話を聴かせてもらった礼だと言わんばかりに掌に煙草を押し付けられた。

 鬱憤と苛立ちと欲望が入り交じった華怜の灼熱を受けとめて、どんどん身体中に苛烈に刻まれていく。それでいいんだ。自分が望んだことなのだから。


「帰ろっか」

 いつの間にか、雨は上がって雲の隙間から真っ白な月が覗いていた。

 嘘つき天気予報と暴走車にかき乱されたのに何故か華怜は楽しそうだった。 



 不調なバイクの修理代をケチってなんとか直すことができた。

 口にずっと懐中電灯を咥えていたので顎がカクカクだし、バイトの疲れも酷い。

 もうこのまま風呂も入らずに寝てしまいたかった。


(なら明日の準備だけ……────?)

 早朝に風呂に入るとしても教科書の準備くらいはしよう、と考えていたら華怜からメールが届いた。

 来いと言われたらどれだけ疲れていても行かなくてはならない。


(ナンパ避けかな)

 よくされる命令だ。ナンパしてくる男が鬱陶しいからそばで盾になれ、と。

 普段は声をかけてくる男などいない。どんなに見てくれがよくても華怜の名字を知っていればそれだけで手を出そうなんて考える人間はいないからだ。

 だが街に出るとどうしてもそんなことを知らない男に声をかけられるのだという。

 あんな性格だ、いちいち適当にあしらうのにも苛ついて変に体力を使ってしまうのだろう────脱ぎかけた服を着ながら特に何も思わずメールを開いて、竣はその場で引っくり変えるほどの衝撃を受けた。


「なんっ、なっ、なに考えてんだ」

 じっくり見たことなかったでしょ。好きに使っていいよ────そんな文と共に下着姿の華怜の画像ファイルが添付されていた。

 瀟洒な姿見を前にして、上下に赤い花弁の刺繍がある下着を着た華怜の姿。

 鏡を前に自撮りをしたことがないのか、スマホの画面に目線が集中しすぎて顔が一部隠れてしまっているのが普段の華怜と打って変わって初々しい。


「…………」

 意味不明過ぎる行動に力が抜けて竣は布団にへたり込んでしまった。

 抱え込むようにしてもう一度スマホの画面をまじまじと眺める。

 妄想の中で何度も犯した華怜の下着姿が夢ではなく本当にそこにある。

 好きに使っていいよ、ということは考えるまでもなくそういうことだろう。なのに。


「あれ……なんで……」

 じゃあ好きに使ってやる、と頭の中では強気に言っているのに身体は全く反応してくれない。

 きっと華怜のことだから早ければ明日にも感想を訊いてくるだろうに、へたり込んだまま何もできませんでしたなんて情けなさ過ぎる。

 分かってはいるのに、焦燥感使命感に駆られれば駆られるほどに無反応極まるばかりだった。


(ならあの衝動は一体なんだったんだ?)

 初めて華怜を見た時に湧きあがってきた『どうしても華怜を手に入れたい』という感情。それは立場を逆転させて好き放題欲望を解放させることではなかったのか。

 あの日の衝動の正体が分からない。所詮17歳の少年には性欲以外のそれらしい答えが見えず、結局竣はその晩寝不足になっただけだった。




────

つづく


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