白河夜船

 じ―――――――――――――………


 天井に設置された蛍光灯が延々と微かに鳴いている。窓のない、真っ白な部屋。その中央には一個の寝台が置かれ、傍らには白いサイドテーブル。机上には、抜き身のナイフ。

 じ―――――――――――――………蛍光灯のコイル鳴きが頭蓋を揺らし、脳髄にじわじわ染み込んでゆく。頭の中が次第ノイズで埋め尽くされて、私は寝台に横たわる、これもはやはり白い、患者衣じみた服を着た少女の首に人差し指をのせた。指に触れた皮膚は温かく、瑞々しく、その感触を楽しみながら、つ、と線を引く。

 指先に塗料を付けているわけではないので、私の行為は少女の首に何らの痕跡も残さなかった。が、を付けるにはそれで十分だった。ナイフを手に取り、少女の首へ刃を差し込む。

 柔らかだが、さっくりとした快い手応え。

 罪悪感と、征服感、それに紐付く甘い快感が胸を満たすのを、他人事のように私は自覚した。ナイフは大した抵抗もなく少女の中へ中へと侵入し、少女の躰を、命を、蹂躙している。少女はそれでも安らかに眠り、私は彼女の首を彼女の胴から、なるだけ丁寧に時間を掛けて切り離した。

 持ち上げてみる。

 血は滴らず、断面は作り物めいて滑らかである。艶やかな長い黒髪が手に纏わり付くのが心地好く、無邪気な寝顔が可愛らしい。私は彼女に口づけて、その口内を貪った。


 躰はもう消えてしまったが、首は私の物なのだ。


 少女の首は行為を続ける内に熱を帯び、苦しげな、しかし甘い吐息をか細く洩らした。唇を離して顔を見る。仄かに頬が紅潮しているものの、眼を覚ます兆しはなかった。きっと永遠に目覚めることはないだろう。口内を再び貪る。エスカレートした行為が佳境を迎えたその刹那――――私は現実の躰に付随する、不快な重みを意識した。






 いつからこんな夢を見るようになったのか。

 始まりは明確に覚えていないのだけど、初めてその夢を見て起きた朝の、戸惑いと罪悪感と惨めさはくっきりと記憶している。だからたぶん、思春期―――それも知識と経験に乏しい時分に、それは始まったのだと思う。


 始まってからは毎日見る。


 真っ白な部屋で、人の首を切り落とす夢。


 首を切る相手の性別、人種、年齢は様々で統一性がなく、ほとんどの場合、私は淡々と作業をこなす。夢の中ではどうしてか、そうするのが当たり前であり、そうするべきだ、と私は信じ込んでいた。躊躇いがないわけではないのだけれど、

 じ―――――――――――――………

 というコイル鳴きの音を聞く内に、夢の中にあって薄まった理性が更に摩耗し、私は寝台に横たわる人間の首を机上のナイフですとんと切り落としてしまうのだった。


 躰も首も大抵は、その後すぐ瞬きの間に消え失せる。しかし時々、首だけが残ることがあった。それはどうも誰か(あるいは何か)から私に与えられた仕事の報酬であるらしく、夢の私はそれを自分の物だと考え、そして――――――


 真っ白な仕事部屋の隣には、白塗りの鉄扉を隔てて、やはり真っ白な部屋がある。一見すると美術館のような、広大で複雑に入り組んだ部屋に飾られているものは私の所有物となった無数の首で、私は仕事終わりにその中の一つを選んで弄ぶ。躰から切り離された彼等、彼女等はもう決して目覚めることはないのだけれど、不思議と完全に死んではいないらしく、痛めつければ苦悶の表情で涙を流し、戯れれば頬を赤らめ、声にならない吐息を洩らした。



 夢の中では愉しい行為も、起きてみると惨たらしくて悍ましい。



 現実の私は起きる度、自己嫌悪に苛まれてしまうのだけど、それでも眠りを待ち望むことはどうしてもやめられなかった。

 私にとって現実はひどく不自由で、苦痛に満ちたものなのだ。

 中一の夏休み、交通事故に遭ってからこちら、私の躰は私の意思で動かせないになった。ただ鈍い痛みと不快感ばかりを脳に伝える無用の長物。それが現実の私の肉体である。

 自死する力もない癖に、思考する力が残っていることが忌々しい。現実の私は現実の私を取り巻くありとあらゆるものを、ひたすら黙って何もせず、何もできずに、知覚しなければならなかった。

 次第、病院を訪れる頻度の減った両親が垣間見せた、疲労と嫌悪の混じった表情。親族が零した棘のある囁き。意地の悪い看護師が私の躰をこっそりと、しかし確かに、乱暴に扱う感触――――……全て、全て、知覚した。知覚しなければならなかった。現実は地獄だ。


 ただ、時折ふと考える。

 私がこうなったのは罰ではないか、と。


 罰でなければ、代償だろう。

 あの夢を見るようになった、あの仕事を受け入れてしまった罰であり、代償―――――




 夢の中で、私はまた人の首を切り落とした。




 目を閉じて、ゆっくり開く。今回は、単なる仕事である。体も首も消え失せた。もう一度、目を閉じて、開く。

 この夢は明晰夢的性質を持つらしく、多少自由に物を出したり消したりできる。机上に現れた湯気の立つココアを口に含んで、現実では決して味わえない濃厚な甘味を楽しんでいた時である。

 カップへ落としていた視線を上げると、寝台に新しい人間が横たわっていた。

(ああ、報酬…………)

 どんな人間か、覗き込んだ瞬間、思わずひゅっと喉が鳴った。



 知っている人間が―――弟が、そこにいたのだ。





 たまに思う。

 夢の中で私が首を切り落とした人間は、現実に存在するのか。存在するとしたら、私の行為は彼等の人生にどんな影響を与えているのか。


 現実の私は、夢の出来事は全て私の脳内で起こったことであり、現実には何も影響していないと考えている。そう、期待している。

 一方で、夢の私は確信している。私は彼等を殺しているのだ、と。


 どちらが本当か、動けない私には確かめられない。確かめられないと思っていた。

 だが、

 粘ついた唾を飲み込む。目前の寝台には、弟が横たわっている。弟。地獄のような現実において私を顧みてくれる、たった一人の人間が。





 夏休み。

 弟に付き添い、図書館へ行った―――その帰り道。私は車に轢かれた。

 運転手が何らかの病気で意識を失ったため起きた事故らしい。そう私に教えてくれたのは弟で、医師か警察か家族に聞いたのだろう難しい話を、慎重になぞるような口調で語りつつ、ぐずぐずと声を殺して泣いていた。

 轢かれる間際、咄嗟に弟を突き飛ばして庇った。それを気に病んでいたのかもしれない。

 弟は家族の誰よりも足繁く私のいる病院へ通い、献身的に私の世話をしてくれた。弟は現実の私にとって唯一の救いで……しかし私は、明るく振る舞う弟がふと悲しげな顔を見せる度、叫びたくなった。



 私だ。

 私のせいなのだ。

 私が―――――――



 轢かれる直前、目に映った光景が強く頭に焼き付いている。スローモーションで迫る車。その運転席に座った女は不自然に仰向いていて、時間にすれば、ほんの刹那だったろう。それに、不安と罪悪感から、私がそうだと思い込んでいるだけかもしれない。だから確信はできないものの、あれは、あの女は、私が夢で首を切り落とした人間の一人ではなかったか?



 寝台に横たわる弟を前にして、疑念がぐっと頭を擡げた。



 私は………





「よお。兄さん」

 頬を叩く冷たい手の感触と弟の声で目が覚めた。窓から差す光の明るさからして、今は昼過ぎだろうか。私は二、三度目を瞬いて、唇の端をぎこちなく上げた。ほんの微かな動きだったか、弟にはちゃんと伝わったらしい。瞳を細めて弟は、見舞客用の折り畳み椅子に腰掛けた。

「冬休み、始まったんだ」

 独り言つように言って、鞄を探る。取り出したのは携帯とワイヤレスイヤホンで、弟は片方のイヤホンを私の耳に、もう片方を自分の耳に押し込みつつ、にんまり笑った。

「昨日見つけた曲が良くってさ」

 アップテンポの軽快な旋律が鼓膜を震わす。

 弟が薦める音楽をぼんやり聞きながら、つい先程見た夢を思い出し、私は密かにぞっとした。あのまま夢が続いていたら、夢の私は弟を一体どうしていただろう?

 分からない。

 考えたくない。

 だが、


 じ―――――――――――――………


 無機質なコイル鳴きの音が脳裏に響き、私はそっと瞼を閉じた。夢の中で理性を保つことはひどく難しい。もしかしたら………いや、そんなこと、あってはならない。

 紙を捲る音。

 見れば弟は本を開いて、何やら勉強を始めたようだった。昔から度々見掛ける姿であるが、近頃はどうしても心がざわつく。私は病室と夢の中という狭い世界で生きている。

 しかし、弟は違う。外の世界にも生活があるのだ。今は高校二年生。もうすぐ大学生になり、社会人になり、いずれ大事な人と出会って結婚するのかもしれない。

 そうなった時、私の存在は弟にとって疎ましいものになるんじゃないか。他の家族がそうするように、弟も私へ疲れた嫌悪の眼差しを向けるようになるんじゃないか。

 見捨てないでくれ!

 懇願しようにも、私は声一つまともに発せられない。笑顔も碌に作れない。傍から見れば、きっと間抜けな木偶の坊だ。

 頬に冷たい手が触れた。

 知らず流れた涙を、弟が拭ってくれたらしい。どこか申し訳なさそうに、悲しげに眉根を寄せて、弟はじっと私の顔を窺っている。



 ああ。


 失いたくない。



 そう、強く思った。






 あれからたぶん、数日経った。

 夢の私はいつもの通り、真っ白な部屋に佇んでいる。


 じ―――――――――――――………


 私に奇妙な仕事を与えた誰か(あるいは何か)は、私が何を求めているかよくよく承知しているらしい。仕事を終えると寝台には、報酬が―――弟が横たわっていた。安らかに眠っている。

 近々また、選ぶ機会があるんじゃないか。

 漠然と予感していたものの、実際それを目前に突き付けられると狼狽えた。

 理性は「やめろ」と叫んでいる。ここで弟の首落としたら、現実の弟も死ぬんじゃないか? 私を轢いた女と同じように……いや、例えそうならなくとも、やっぱり駄目だ。夢の中であろうと、弟を衝動的に害するなど、兄がやるべきことではない。しかし、

 鼓動が煩い。

 粘ついた唾を飲み込む。





 切り落とした首は、私の物だ。





 私の。



 私だけの。





 じ―――――――――――――………蛍光灯のコイル鳴きがじわじわ脳髄を浸食し、頭の中が次第ノイズで埋め尽くされて、私は弟の首に人差し指で、つ、と線を引く。



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