レーテーの手記

@ITUKI_MADOKA

レーテーの手記

 夢を見ている。

 目の前で齢十ほどの少女が泣きじゃくる。

 僕は、この少女に覚えがない。

 見た目に合わない黒いセーラー服を着て、真っ直ぐに下ろされた黒髪は体が震えるたびに一つ一つが輝いている。

 どこかであったのかもしれない。だが、記憶にない。

 少女はしゃくり上げながら、その瞳から溺れ落ちる涙を止めようと小さな手で目元を擦り続けている。

 そんなに擦ってしまったら目が赤くなってしまうだろうに。


「なんで泣いてるの?」


 僕が問いかけると、彼女は震える声で答えた。


「失うのが怖いの……」


 失う?何を言っているのだろう。

 人生なんて喪失の連続だ。何もそんなに泣くほどのことじゃない。どうせまた、いつか手に入れればいい。


「そんなに心配しなくていいよ」


 そう言って慰めようとするが、彼女は泣き止まない。

 それほど大切なものなのだろうか。

 僕にはそんなもの、もう一つもないのに──。

 目の前にいる少女の姿を見ていると、嫉妬のようなざらりとした感情が胸に湧いてくる。


「何がそんなに失うのが怖いの?」


 もう一度問いかけると、少女はすすり泣きながら呟く。


「……あなたを失うのが怖いの」


 僕を失う?どう言う意味だ。

 この子とは初対面のはずだ。そもそも、僕は君のものじゃない。

 そう言おうとするが、意識がすぅっと消えていくのがわかる。


「あなたを失う前に、私を───」


 少女の言葉は、最後まで僕に届くことはなかった。



 電車で目を覚ますと、涎が頬を伝っていた。今朝飲んだ薬のせいだろうか。車内には僕一人。

 終点、逢百合駅だ

 事前に調べた情報では、この辺りの電車は数時間に一本しか走らないほどの田舎だそう。

 電車から降りるとそこには僕以外に誰もおらず、改札も切符を回収するためのところどこがささくれ立っている木箱が置かれた簡易的なものしかない。

 駅を出ると、そこには田園風景が広がり、遠くを見るとポツリポツリと一軒家も見える。その景色がどこか懐かしく感じる。

 道路はアスファルトで舗装されていて、頬から落ちた汗がすぐに蒸発するのを見て、溢れ落ちたものとは違ったものが体から湧き出てくる。

 ここに来たのには理由がある。

 二週間前に届けられた宛名のない封筒、そこに入っていたのはこの地域が記された星の印がある地図と学生服を着た僕に似た男が写った写真の切れ端と4桁のダイアル式の鍵が付いた黒い革の手帳。

 誰からのものかわからないそれは不気味で捨ててしまおうかと思ったが、手元に置かなければどこか不安になってそのままテーブルに置いていた。

 それからだった。あの夢を見たのは。

 ひたすら泣いている少女、どうにか慰めようとしても彼女には響かない。

 彼女を見ると懐かしさと切なさで胸がいっぱいになる。だが、毎日見るにはあまりにも寝起きが悪い。

 この夢の謎を解くため、そのきっかけが掴めないかと僕はこの逢百合村へ赴いた。




 まずこの地について知ろうと思い周りを見ると、老人がフラフラと歩いているのが見える。

 十八歳の僕がヒィヒィ言いそうになる猛暑だ。老人には致命的なものになるだろう。

「大丈夫ですか?」

 老人はこちらを見るとキョトンとしたあと、満面の笑みでこちらに体を預けてきた。

「おお、ケイくん、久しぶりだなぁ。エムと仲良くしてくれてありがとうなぁ。元気かぁ?」

 老人とは初対面のはずだが、僕と同じ名前を呼んでいる。おそらく偶然だろうと思いながら、いつ倒れるかわからないほどフラつく老人の体を支える。

 この老人はボケているのだろう。目の焦点があっておらず、僕に対して娘との思い出のようなものを一方的に語っている。

 老人の体が重くなってくる。このままでは本当に命に関わる、そう思っているとグレーの軽自動車が近くを通りかかった。車窓が開かれると、そこにはショートカットの女性が乗っていた。


「あら、じいちゃん大丈夫?こんな暑い日に外に出て……倒れたりでもしたらあの子が悲しむよ!」


 若い女性は老人の知人らしく、心配そうに話しかけていた。女性はちらりと僕の方を見ると、じっと顔を見た後、すぐに話しかけてきた。


「ねぇ君、そのおじいちゃん車の後ろに入れるの手伝ってくれない?一緒にあなたも乗せるから」

「いいんですか?こんな暑いので、ありがたいです」

「よし、じゃあ私も手伝うから、早く乗せちゃお。せっかくクーラーつけてたのに空気が逃げちゃうから」


 女性と僕で老人の両脇を持ち、後部座席へと座らせ、僕は助手席に乗せてもらった。

 女性はすらっと背が高く170cmある僕とほぼ同じくらいの背丈で、抜群のスタイルの良さも相まってか、僕よりも大きく感じた。白いシャツにスキニーのパンツを着ている。彼女の首元から滴る汗がインナーに沁みる瞬間はなにか見てはいけないものを見た気がしてつい目を逸らしてしまった。

 車内は芳香剤の甘い匂いが充満し、エアコンからは囂々と冷気が流れ込み、Tシャツに染み込んだ汗が冷えてぶるっと体が震わせる。


「ごめんね、こんな暑いからクーラー強めにしちゃって、あとでタオル貸してあげるから」

「いえ、持ってきてるので大丈夫です。汚しちゃうと悪いので」

「そう?時間があればシャワーなんてって思ったんだけど、君、良い男だから」

「え?」


 彼女からの突然の誘いに間抜けな声が漏れ出てしまう。車通りがほぼないせいで意味があるかわからない信号で止まる。老人の声が聞こえなくなって、心臓の音がうるさい。二人の間に緊張が走る。が、すぐに彼女の顔がくしゃっとなった。


「ふふっ、冗談だよ。本気にしないでね。まぁ、もし君に襲われても私が勝っちゃうけどね」


 そう言いながら、フロントガラスに当たらないようにシャドーをする。シュッシュッと空を切る音がするためその言葉は嘘ではないのだろう。よく見るとその手には銀色に輝く指輪がはめられていた。


「そ、そうですよね。ちょっとドキドキしました……」

「かわいいねぇ、てかなんでこんなとこに来たの?」

「それは──」

 僕は届いた封筒の中身について話した。運転しながら彼女は興味深そうに聞いてくれた。

「へぇ、それを頼りにここまで来たってわけ。君、行動力あるねぇ、こんな田舎に来るなんて」

「いえ、そんなことないですよ。ただ知りたいんです……」

そんな言葉が無意識に口から溢れる

「何を?」

「あ、いえ……なんでもありません」

 彼女も何かを察したのか、しばらく二人の会話が止まる。後ろにいる老人の娘自慢はまだ続いている。

「あ、そういえば名前聞いてなかったね。私の名前は加藤恵美、君は?」

「柏原圭です」

 加藤さんは僕の名前を聞くと、一瞬もの悲しそうな顔をしたが、すぐにさっきと同じような表情に戻った。

「そう、圭くんか」

「あの、聞いてもいいですか?」

「ん?何かな?」

「このおじい様って知り合いなんですか?」

「あぁ……おじいちゃんのことね。このおじいちゃんは近所の住んでる人。一年くらい前からボケちゃってね。こうやって外を徘徊することがあるんだ」

「へぇ……さっきから話しているエムという名前の子は?」

 その名前を聞いた瞬間。加藤さんの眉間に皺が寄る。地雷を踏んでしまったかと体が強張る。だが、すぐにまた柔らかな表情に戻る。


「エムはおじいちゃんの娘だよ。まだ生きてたら君と同じくらいかな」

「生きていたら、ということは……」

「うん、亡くなったんだ。二年前のちょうど今くらいに。そのあたりからおじいちゃんもボケちゃってね。まだ五十歳くらいなんだけどね」

「そうですか……どうしてですか?」

「あー……事件だよ。いや、自殺、かな」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜだか頭に鈍痛が響く。薬は飲んだはずだが効果が薄れてきたのだろうか。


「ごめんね、あまり聞いてて気分よくないよね……」


 隠せていたと思っていたが加藤さんには気づかれてしまったようだ。別に内容が気に食わなかったわけではないのにそのように見えてしまったようで申し訳なさが募る。


「あ、すいません……不躾に色々聞いてしまって」

「ふふっ、いいんだよ。私も、もう忘れそうになってたから。思い出させてくれてありがと。そろそろ着くから、またおじいちゃん運ぶの手伝ってくれると嬉しいな」


気づけば車の外の景色は住宅街へと変わっていた。平屋や二階建ての家がそこらに建てられており、村民による生活が垣間見えた。


「はい、もちろんです。ここまで乗せてくれて、ありがとうございます」


 それから、僕は加藤さんに地図の印の場所について聞くことにした。


「ふむ、この場所なら海岸線を歩いたほうが近いと思うよ。そこまでは車入れないからね」

「いえ、ここまで来れたら十分です。ありがとうございました」

「気をつけてね、まだまだ陽が高いから。一応、これあげるよ」

 そう言って加藤さんはパッケージに天然水と書かれたペットボトルを僕に渡してきた。

「何から何まで……どうしてここまで」

「んー、昔君に似た子がいてね、なんとなく助けたくなっちゃったんだ。あと私、そういうの見逃せない質だから、かな?」

「そうですか、本当にありがとうございました」

「うん、君が望むものが手に入れることを願ってるよ。頑張ってね」


 僕は加藤さんに見送られ、その海岸線へ続く道へと足を向けた。


「……じゃあね、圭………」


 後ろから加藤さんの声が聞こえた気がしたが、僕に届くことはなかった。




 加藤さんから教えられた道を歩いていくと、果てしない水平線が続く海岸線へと出た。そこには誰もおらず、まるでプライベートビーチのような開放的な空間が広がっていた。


「綺麗だな……」


 歩を進めると砂浜に足を取られそうになってバランスを取るのが難しい。足跡が一つもないその地に自分がいた証を刻み込むのは少しの罪悪感と背徳感が胸をくすぐる。白波に向かって走る。寄せては返す波を爪先で弾く。海水を手で掬ってはこぼれ落ちていく様を見る。そんな行為がなぜだか楽しくて、年甲斐もなく声をあげて笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。それも覚えていない。こんなことを前にもやった気が───。


「おい」


 背後から聞こえた誰かの声によって現実に引き戻される。

 その声の主がいるであろう方向を向くとそこには、僕よりも体格が一回りほど大きな男が立っていた。


「お前、なんでこんなとこいんだよ」


何かまずい場所に来てしまったか。いや、彼もここにいるということはそんなことはないはずだ。


「え?いや、その用事があって……」

「用事?こんなとこにか。よくここまで来れたな」

「はい、加藤さんに教えてもらって……」

「加藤……あぁ、えみ姉か。あの人はお節介だから、お前みたいな奴の手助けをするよな」


 どうやら加藤さんの知り合いのようだ。こんな狭い村なんだ。知り合いじゃない方がおかしのかもしれない。僕は彼に恐る恐る質問する。


「あの……あなたは……」

「あ?あぁそうか、そういえばそうだった。俺は山田瑛二、たぶんお前と同じ年齢だ」

「はぁ……あ、僕は──」

「圭だろ。知ってる」


 僕の名前を言う前に言い当てられた。知らぬ間にこの村のブラックリストにでも入れられてしまったのか。


「な、なんで……」

「あ……あー、えみ姉が言ってた。どこから来たやつがいるって」


 田舎は噂が回るのが早いと聞いていたがここまでとは、恐れ入った。


「そう、ですか」

「お前、えむって名前に聞き覚えはあるか?」

「え?この村に住んでいるおじいさんのお子さん、ですか?」

「あぁ、あぁそうだ。それだけか?」

「それだけ、というのは?」

「……いや、なんでもねぇ」

「海を見るのは初めてか?」

「いや……はい、たぶん初めてです」

「なんだそれ、はっきりしろよ」

「すいません……初めてのはずなんですけど、そんな気がしなくて」

「へぇ、変な奴だな」

「あ、あはは……」

「なぁ、お前行きたいとこあるんだろ?」

「は、はい。そうですが……」

「教えてやるよ、どこ行きたいんだ?」

「あ、はい。この地図の印の場所なんですけど」

「どれ……ここって──」

「どうかしたんですか?」

「いや、ここならこのまままっすぐ進んだ先に、右側に抜け道がある。その先のトンネルを抜けたらすぐだ」

「そうですか、丁寧にありがとうございます」

「おう……」


 そう言った後、彼は僕の顔をじっと見つめてくる。何か悪いことを聞いてしまったのだろうか。


「あの、何か?」

「いや、お前に似た友人がいたんだが、直接話してみたら全然違うなって思ってな」

「そうなんですね、加藤さんも言ってました」

「へぇ、そうか。えみ姉もな。そりゃそうか……じゃあ、気をつけて行けよ」

「はい、ありがとうございます」


 そうして僕はまた砂浜を歩いて行った。


「さよなら、圭ちゃん」


 彼の小さな叫びは波の音に掻き消されたのだった。




 彼に言われた通りに歩いていくととめどなく生い茂っていた緑の間にある抜け道が見えてきた。しばらく使われていなかったのか、獣道のようになっていた。太ももを擽る植物たちが鬱陶しく思いながらも、ここまでの自然はあまり見た覚えがなかったため、探検をしているようで幼い少年のような気分になった。進んでいくとそこに突然トンネルが現れた。こんな場所になぜトンネルなんかあるのだろうと不思議に思いながら通り抜ける。中は苔が夥しいほどに生えておりカビの匂いが充満しており、滑らないよう湿った地面を歩くのに苦労した。

トンネルの先には小さな小屋があった。


「ここが、印の場所か?」


 一応スマホの地図と合わせて見ると、この場所で合致した。なぜこんなところに、そう思いながら小屋に近づく。

 その小屋は周りに蔓が巻き付いており、幽霊でも出てくるんじゃないかと思えるほどひどい風貌をしていた。

 恐る恐るドアノブを捻ると鍵がかかっていないおかげですんなり開いた。

 中は思ったよりも荒れておらず、床には。中にはマットレスのようなものも置いてあり、ホームレスが住んでいるんじゃないかと一瞬思ったが、ゴミが散乱していないことからその可能性はすぐに消えた。だが、そのマットレスからはカビが生えており、呼吸をするたびに喉を侵食されているのではないかと思うくらい咳が止まらない。

 なんとか呼吸を落ち着かせて、探索を続ける。中にはマットレス以外にも机や椅子、小さな本棚も置かれていた。本棚には僕が幼い頃に少年誌で連載していたであろう漫画の単行本や青年誌が置かれていた。どれも埃がかぶっていて撫でるだけで空気が汚れる。こんなにも家具や物が残っているのを見ると、さっきまで誰かがここにいた気配すら感じ、僕が入った瞬間に消えてしまったのではないかと思えた。

 探索を続けていると、あるものが目に止まった。


「これは……」


 それは写真の切れ端だった。そこには黒髪の少女が困ったように笑いながらピースをしている。

 写真の境目を見た時、あることを思い出した。地図と一緒に封筒に入れられていた写真の切れ端と手帳を取り出す。

 二つの切れ端を重ね合わせると、それは男女のツーショットだった。


「ゔぅ……!」


 頭がギリギリ締め付けられるように痛む。


 ”まだダメだよ” 誰かの声が脳に響く


 ここで倒れるわけにはいかない。


 ”裏返して” 誰かが僕を導く


 裏には一一一三と書かれていた。


 ”鍵を解いて” 君は誰だ


 黒い手帳のダイアル四桁を合わせると、簡単に開いた。


 ”思い出して、私を” 僕は誰だ


 そこにはビッシリと夥しいほどの文字が殴り書きで書かれていた。けど、

『お前の罪を思い出せ 柏原圭』と確かに書かれていた。


「読める……」


なんで?


「これを書いたのは、俺だ」


その瞬間、濁流のように数多の情報が脳に流れ込んできた。



「圭くん待ってよ!」

「おせぇよ恵夢!先行っちまうぞ!」

「圭ちゃん、ゆっくり歩こうよ……」

「瑛二お前もかよ、なさけねえな!」

 そうだった。

 俺はこの村に住んでいたんだ。

 俺と、瑛二と、恵夢でずっと遊んでいた。

 瑛二は俺の後をどこまでも着いてくる友人だった。

 遊びだけじゃなくていたずらもたくさんしたっけ。

 今ではあんなにデカくなって、僕よりも強くなって。

 恵夢は近所に住む女の子だった。

 誰よりも優しくて、頭が良くて、よく笑って、可愛くて、弱い女の子だった。

 俺の大好きな女の子だった。

 当時の俺は誰に対しても不遜な態度でこの村で遊び回っていた。あの海と、この秘密基地は俺たちの庭だった。

 幼い頃から、何もできないくせに、何でもできると信じて止まなくて。

 どこまでも行ける気がしていた。この狭い世界しか知らないくせに。


「こら、圭!女の子には優しくしなさいって言ったわよね?また恵夢ちゃん泣かせて!」

「うるせえよババア!そんなの知らねえよ!」

「このガキッ、またババアって言ったわねあんた!今日という今日は許さないんだから!」

「へーんだ!悔しかったら捕まえてみろよ!」

「ちょ、待ちなさい!」


 加藤さん、恵美姉さんにはほんとに無礼な態度を取ってたな。

 今日会った僕を見て驚いただろうな、過去の俺との違いに。

 たぶん素直になれなかったのは、彼女のことも好きだったからだろう。

 その恋は彼女と恋人らしき男性が歩いているのを見てあえなく散った。

 年上の綺麗なお姉さんに対して好きな女性にあの態度は今の僕もどうかと思う。

 手帳にも反省の色が見える。

 彼女も自分も幸せを掴んでいたようで嬉しいばかりだ。


「圭くん、いつも恵夢と仲良くしてくれてありがとうね」

「ふ、ふん!別にそんなんじゃないよ!」

「ふふっ、素直じゃないね」

「な、なんだよ……」

「いや、圭くん……恵夢とこれからもよろしくね」

「ふ、ふんっ……わかったよ……」


 あの老人はやっぱり、恵夢のお父さんだったんだ。

 早くに母親を亡くした恵夢に寂しくないようにと俺に頼ったんだろう。

 でも、その結果があれだ。


 それは恵夢が十歳になってすぐだった。

 当時、ある病いが恵夢を襲った。

 過去を思い出せなくなる記憶障害だった。

 彼女は泣きながら僕に縋ってきた。


「圭くん、私やだよ……このままみんなのこと……圭くんのことを思い出せなくなるの……」

「大丈夫だから、俺がお前を……お前に、俺のことを忘れさせない」


 無意識に出た言葉だった。その時の俺の、必死の抵抗だった。


「ありがとう、圭くん……でも、私があなたを思い出せなくなりそうになったら私は生きていけないと思うの……その時は、私を殺して?」


 恵夢とはずっと一緒にいたはずなのに、彼女は僕が初めて見る表情を見せていた。

その瞬間、俺の心臓はキュッと痛んだのをなぜだか覚えている。

 俺は幼いながらもどうにか彼女を救おうとした。

 それからは彼女に付きっきりだった。

 どこに行くにしても隣にいた。

 それまで一緒だった瑛二は阻害感を感じていたのかもしれない。

 だが、彼は俺にない強さを手に入れたようだった。申し訳ないことをしたと思っている。

 新しく買ったノートにこれまでのことを書き留めて、それからのことも書き連ねた。

 最初のうちはそれでよかった。そう始めは。

 病いは止まることを知らない。

 彼女の記憶を無情にも侵食していった。

 あれらはもう悪あがきと言わざるを得ないだろう。

 音声にしたり、映像にしたり、何もかもが、全て無駄だった。

 高校生になった頃、彼女の記憶には俺以外いなくなった。


 少し丈の余った大きめのセーラー服を着ている彼女は泣いていた。

 これから背が伸びる娘のために買ったであろうその袖を通してそこまで経っていない綺麗な制服の袖が彼女から出る液体が染みてしまっている。

 ゆっくり俺に近づいてきて、胸に甘えるように顔を擦り付ける。

 彼女を受け入れ、その弱々しい小さな体が壊れないように、優しく抱きしめる。

 俺もまだ汚れのない制服を着ていたが彼女の涙が染みてしまってなんとなく重く感じる。

 泣いたせいで少し枯れた声が、俺の耳に流れ込んでくる。


「ねぇ、圭……」


 綺麗なその瞳を涙で濁らせて、上目遣いで俺の顔を覗いてくる。

 誰かが見ればただの可愛らしいしぐさに見えるだろう。

 だが、俺の視界には絶望に満ちたブラックホールのように果てしない闇がそこにあった。


「何?恵夢」


 恐怖で震えそうになる体を理性で押さえつけて、彼女との会話を続けようとする。


「前に言ったよね?私が圭を忘れそうになったら……」

言うな

「何を?」

聞きたくない

「私を殺し───」


「嫌だ!」


「なんだ、覚えてるじゃない。あなたを忘れそうになったら、私を殺してって」


「嫌だ……嫌だ……!」


彼女を抱きしめる力が不意に強くなってしまった。


「嫌だじゃないでしょ?まるで子供みたいね」


子供を宥めるような優しい声が何故だが恐ろしい。


「なんでそんなの覚えてるんだよ」

「忘れるわけないじゃない、あなたの記憶はまだあるんだから」

「なら、これからも何とか───」

「無理よ」

「なんで!」

「あなたの記憶がない私なんて私じゃないの。なら、あなたが私の中にいる間に、私を終わらせてよ」


「あなたで私の中を満たしたまま、死にたいの」


 もはや彼女の言葉を理解することを諦めていた。茫然自失となった俺を見た彼女はため息を吐いて、俺の腕から離れた。


「殺してくれないのね」

「あ、当たり前だろ」

「なら、あなたの記憶を刻み込めるように死ぬわ」

「は?」


 そう言って彼女は制服のポケットからナイフを取り出し、自分の首に突き立てた。 深々と突き刺さったナイフはすぐに抜かれ、傷口からは血液が止めどなく流れる。それを俺は、ただ眺めてることしかできなかった。

 フラフラとして倒れそうになる彼女を受け止める。力が出せないのかさっきよりも重く感じる。

 口をパクパクと動かして何かを言おうとしている彼女を、静かに膝の上に乗せる。

「ねぇ、圭……」

「なんだ?」


さっきも聞いた言葉だが、そこには生気は感じられなかった。


「約束して、私のことを忘れないで……もし忘れてしまったら……」

「……忘れたら?」

「あなたも死んで?」


 それが彼女の遺言だった。ひどいものだ、愛する者の死を願うなど。かつての優しい少女は、とんでもない悪女へと変貌してしまったようだ。

 でも俺は、その言葉にゆっくり首肯した。

 彼女は微睡んだ目をしながら、そんな俺を見て笑った。

 その笑顔は、これまで見た彼女の中で、いや、この世界の何よりも美しかった。


 それからすぐに俺は、彼女と同じ病いに罹った。

 彼女の死という大きなストレスがあったせいか、病状の進行は極めて早いものだった。

 だが、幸運なのことに都内の病院にて治療を受けることが出来ることになったのだ。彼女は受けることができなかったのに。

 両親は喜んでいたが、俺は絶望した。彼女のことだけでなく、彼女との約束を忘れてしまうのではないかと。

 俺はすぐに黒い手帳にこれまでの記憶を書き溜めた。彼女との写真を挟めた。

最後の彼女との記憶が残った時、俺はまたこの村に戻って、恵美ねぇと瑛二に伝えた。記憶のなくなった俺を、あの小屋に案内してくれと。

 この小屋に俺は彼女と撮った写真を記憶に刻み込んだ後、千切った切れ端を残した。

 ここで、全てを思い出せるように。

 ここへ、僕の命を運ぶために。





 手帳を読み終えた俺は、棚の裏を物色する。そこには袋に包まれたナイフがあった。そのナイフを両手で持ち、躊躇なく突き立てる。その行動に僕の意思はない。ナイフはすんなりと僕の喉に刺さっていく。

 あぁ、彼女はこんなにも苦しんで逝ったのか。喉から血液が逆流して声が窒息しそうになる。心臓の音がうるさい。視界がぼやけていく。四肢のコントロールが難しくなり、マットレスへと倒れる。気づけば耳障りだった鼓動が静かになっている。誰かの声が聞こえた。


「約束、守れなかったね」


先ほどまで不鮮明だった視界がはっきりしている。そこには長い黒髪を下ろしたセーラー服を着た高校生の少女、恵夢が居た。


「ごめん」

「ふっ……すぐに謝るなんて、前の圭じゃありえないね」

「そうかもね。でも、こんなことになるなんて……」

「そうね……ほんと、神様って意地悪なんだから」

「本当に……ね」

「でも私、嬉しかったよ。最後まで覚えててくれたんでしょ、私のこと」

「あ、ああ。たぶん」

「多分って何よ、もうほんと別人みたい」

「確かに、記憶があった俺と記憶がない僕は、別人なのかもしれないね……」

「あぁ……そうね、ごめんなさい、あなたを私たちの勝手な契約に巻き込んじゃって」

「別に、いいんだ。僕は俺でもあり僕でもある。それに……」

「それに?」

「今、初めて会ったはずの君を、こんなにも愛してる」

「そう……嬉しいわ、圭」

「それなら、よかったよっ……っと」


 充電が切れたように急に体が言うことを聞かなくなる。ふらついた体を恵夢が受け止めてくれる。

どこにも力が入らない僕の体をゆっくり倒し、頭を膝へ乗せる。


「もう時間みたいね」

「そっか……ねぇ、恵夢」

「なぁに?圭」

「愛してたよ、ずっと」

「……私もよ、圭。あなたを最後まで愛していたわ」


恵夢が白い手で優しく瞼を下ろしてくれる。その闇も不思議と心地良かった。

闇の中から声が聞こえてくる。

「おやすみ、圭」

「あぁ、おやすみ……恵夢」

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