ホテルニューさわにし:試験

野村絽麻子

試験を受けに来るお客様

「ホテルニューさわにし」は海の見える高台に建っている。オーシャンビューが売りではあるけれど、そのオーシャンビューとやらは単に窓から海が見えるという事実を踏まえたものであって、例えば「一面の海!」という話ではないのだけど、かと言って詐欺な訳でもない。まぁ、言ってみたら「微妙なところ」というのが事実に近い話だ。


「ゆーて、微妙な景色のお宿です、言う訳にもいかへんやろ」


 園田先輩がテーブルの皿をガシャガシャと無造作に重ねたのをワゴンにこれまた無造作に移しながら、力の抜けた声で言う。私はそれを聞きながら、有田焼の単価に思いを馳せつつ「はぁ」と答える。ちら、と園田先輩の視線が私のエプロンの裾を撫でてくるのを感じたので「っすね」を付け足した。

 満足したのか先輩はダスターでわしわしとテーブルを拭きあげると隣のテーブルに進む。短い髪を後頭部でギュッと括った横顔。ピンクベージュの口紅は、休みの日になるとビビッドなルージュへと変化するのを知っている。


 ホテルニューさわにしにはあらゆる種類のお客様がやって来る。ホテルという種類の場所が元来そうなのか、ホテルニューさわにしが特別そういう場所なのかはわからない。そこそこの間取り、そこそこの立地、そこそこの懐石料理とそこそこに広くて趣のある大浴場と、そこそこのサービス。こんな場所に何を求めているのかは分からないけれど、宿泊客はそれなりにやって来る。


 *


 冬、ホテルニューさわにしには例年、数名の受験生が宿泊に訪れる。受験生と言ってもその年齢は様々で、男も女もいるし、大人の場合も子供の場合もある。共通しているのは、みんな一人客という事だ。

 彼らは皆一様にぼんやりした顔付きをしていて、送迎バスも出ていない時間にふらりとフロントに現れては、置いてあるベルを遠慮がちにチリンと鳴らす。


「はぁい、ただいまぁ」


 半オクターブくらい高い声で応じた園田先輩がフロントへ駆けて行き、私は磨いていた銀食器をテーブルにそっと置いてから後に続く。

 最寄駅とは名ばかりの鉄道駅から、徒歩二十分程の道を本当に徒歩でやって来たとは思えない青白い頬。園田先輩は彼らを目にするなり宿泊者用の記入用紙をそっと引っ込める。


「試験にいらしたんですよね?」

「試験……」


 最初は不思議そうに先輩を見つめていたお客様も、先輩が居室や施設の案内などをしているうち、次第に納得した表情になってくる。そうだった、自分は試験を受けにこんな場末のホテルまでやって来たのだ、と。

 先輩は、備え付けのアメニティとは別にノートや筆記具の入った薄い布製の手提げセットを手渡すと、いかにも心のこもった声をかける。


「頑張って下さいね」

「……はい」


 そうなると受験生の受付はほとんど完了で、私は突き当たりのエレベーターを示してみせる。


「あちらのエレベーターからお部屋へどうぞ。ごゆっくりお寛ぎくださいませ」

「ありがとう」


 コツコツと革靴の立てる音がロビーを過ぎて行く。ついでリン、とベルを鳴らしながらエレベーターが到着し、先輩と私はホテルマン然とした角度に身体を折り曲げる。

 リン、と再び音がしたら身体を元に戻し、私たちは銀食器を磨きに戻る。


「あのぅ、」

「なに?」


 専用のクロスを手に取りながらずっと気になっていたことを口に出してみる。


「彼らは何の試験を受けに来てるんでしょう」


 返されたのは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔。あんぐりと口を開いた先輩は、それを閉じると、気を取り直したように咳払いをひとつする。それから、ふん、と鼻から息を吐き出した。それは少し笑ったみたいに私の耳に届く。


「あんなぁアミちゃん。あんたかてやないの」

「……え?」

「ここへ試験を受けに来てたやろ?」


 試験を? 私が?

 今度は私が豆鉄砲の顔になる。


「……まぁ、ええわ。あんたは手伝うてくれるしな」


 ニヤ、と口の端を上げて、話はそれでお終いとばかりに銀のカップに手を伸ばす。耳たぶに小さなピアスホールの空いた先輩の横顔。それを私はひとしきり眺めてしまう。

 先輩の言った事が本当なのか嘘なのか、単なるジョークなのかは分からなくても。アミちゃん、と呼んだ親しげな口調。心地良い距離感と程よい温度のあるそれを、私は大変に好きなのだ。

 それから、やっぱり先輩の隣に座ってしまう。右に倣ってクロスを動かし始めると、のことなどすっかりと忘れてしまうのだった。

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