七億円の部屋

@gi-ru777

七億円の部屋

「岡崎君、動画編集の他に中国語もできるんだってね。今度中国人の知り合いに面白い心霊スポットがあるって聞いたから行くけど、君も一緒に参加する?」 

 この話は私が動画編集の駆け出しの頃にとあるYouTuberと一緒に仕事したときに起きた不思議な話だ。ニコニコ動画全盛期から心霊スポット巡りで知られるAさん。彼のチャンネルは心霊ファンには有名だが、最近は伸び悩んでいるという。そんな彼が『中国人しか知らない心霊スポット』の話を持ちかけてきた。私は二つ返事で参加を決めた。

 場所は某県某所の経済大学から自転車で三十分の市街地から外れた所にある独身寮。

「ここは元々日本で勉強する中国人留学生が住む為に立てた寮なんですが、ある事件をきっかけに凄惨な事件がありました。現在ほとんどの住民がいなくなってほぼ空き家状態になっているんです」

 Aさんは独身寮にカメラを設置してOPトークを取っていた。私は、臨時の動画編集兼翻訳家として、Aさんのファンである中国人リスナーの趙磊(ジャオ・レイ)さんと一緒に登場した。

 私と彼は、憧れのAさんと直接会って話が聞ける嬉しさと緊張でカメラマンの前に立ってAさんの前で仕事していた。

「岡崎君、どう?ただのボロ寮にしか見えないけど、何か感じるか?」

 Aさんがカメラを回しながら振り返る。私は小さく肩をすくめたが、目の端に妙なものが映った気がした。

 夕暮れで真っ赤に染まった割れた窓に何かが動いたような……。私が割れた三階の窓を指さして何か動いた気がすると伝えると、Aさんはぎょっとした顔をして私が指さした方向へカメラを向ける。

「あ、なんだぁ。猫か」

 Aは安堵した表情で私に話しかける。よくみると、確かに黒ぶちの猫がエアコンの室外ユニットで毛繕いしている。私たちは心霊スポットにいるのを忘れて、猫の様子をカメラで撮影していた。

「もう、これだけ撮って帰りたいな」

「はは、猫ちゃん可愛いけど、今回は心霊スポットメインだからね」

 Aさんの専属カメラマンのBさんが軽口を呟くと、Aさんは苦笑しながら否定する。その様子をみたジャオ・レイさんも笑みを浮かべるが、私はなんとなく自分がみたものは猫じゃないと感じて不安になった。いや、きっと猫だったんだろう。あの黒い影は幽霊じゃない。私はそう言い聞かせてジャオ・レイさんの翻訳をすることにした。

「ここは過去に、とある中国人留学生が宝くじで当選した七億円を巡って争った場所なんです。噂では、彼らの声が今でも——」

 ジャオ・レイは一瞬言葉を詰まらせた。翻訳していた私も気づく。

「争った末、一人はここで……」

 彼の口調が微妙に震えたのを感じた。

「え、何があったの?」

 Aさんが興味津々で尋ねると、ジャオ・レイは絞り出すように続けた。

「六人全員殺されて……もう一人は、行方不明です」

 Aさんは満足げに頷きながら私に向かって言った。

「この話、すごくいいよ。岡崎君、君の緊張してる顔が恐怖感出てるし、最高だ」

 私はぎこちなく笑った。Aさんの肩越しに寮を見上げると、三階の窓にちらりと黒い影が……。あの時いた猫はもうどこかへ行ったみたいだ。

 猫だと信じたかったけど、目を閉じてもう一度見たときには、何もなかった。

「ま、何かあったら僕たちに声をかけてよ。最悪憑りつかれてもいつもお世話になっている霊媒師いるから大丈夫だって」

 Aさんは私の不安を汲み取って、優しく微笑んでくれた。


 撮影本番の午後七時、Aさんが軽快に喋る声が寮の壁に反響する。

「さあ、今夜はここ、かつて中国人留学生たちが暮らしたという独身寮を調査します! いろんな噂がありますが、真相は果たして——」

 Aさんは冒頭の心霊スポットへ潜入するシーンを撮ってから独身寮の中へと潜入した。私たちもAさんをカメラに映しながら後へとついていく。

 緊張した面持ちで入ってみると築何十年も経ったモルタル造りの建物だった。壁のペンキはほとんど剥がれ落ち、むき出しのコンクリートに茶色いシミが広がっている。床や壁をみると所々ひびや汚れ、雑草のツタが目立っていた。

 玄関口には、古い木製の看板が倒れかけていた。「よう〇そ日本へ○○大〇へ」と広東語で書かれてはいるが、ところどころペンキが剥げて読みづらい。古びた鉄のドアポストにライトを照らすと、何人かのドアポストに色褪せたチラシが入ったまま。まだ名札もまだちらほら残っていて、辛うじて読める状態。

「さすがに寮の中はヤバい雰囲気あるね!」

 Aさんは笑いながら言ったが、その笑顔の端が一瞬だけ引きつって見えたのを、私は見逃さなかった。

 三階へ向かう階段には、広東語で何かが書かれた掲示物や誰のものか分からない靴が片方転がっていた。

「三階に向かう前に、まずは一階や二階を見てみますか」

 Aさんの提案で、事件のあった三階を後回しにして一つ一つ部屋を見て回る事になった。ジャオさんが管理人から借りたマスターキーを使って最初の部屋を開けてみると、四畳半の古い畳の上にカビ臭いコタツが鎮座していた。広東語や日本語で書かれた当時のものと思われるお菓子や食品の袋や箱が散乱していた。

「もう、当時のまま時間が止まっていますね……。これ」

 Aさんはそう呟き、落ちているお菓子を拾った。

「うわぁ、懐かしいお菓子やこれ。全国販売終了する前のカール。しかも、未開封の地域限定ものですやん」

 Bさんの表情が緩み微笑むが、スマホのライトの映り加減のせいでスプラッターホラー映画のシリアルキラーに見える。正直私は怖くてBの側から離れた。

「でも、よく見ると賞味期限が二〇一一年四月……」

 Aさんがそう呟いた所で一旦Bさん以外のカメラを止めて休憩を取ることにした。

「ここで、俺が『事件当時のまま時が止まった事を、このカールが無言で語る』ってナレーション入れたら画角的にも最高になるな!」

 Aさんが嬉しそうにBさんに語りかけると、Bさんは深く頷く。

 私はそのやり取りを微笑ましく思って見ていた。

「……辛苦啊(サンフーアー)」

「ジャオさん?」

 広東語で吐き出されたその声は、まるで耳の中に直接響いたようだった。周囲を見渡すが、誰も声を発していない。

「どうしましたか?私の顔に何かついてますか?」

「いや、今広東語で『苦しい』って言いませんでした?」

 ジャオさんは広東語で私に尋ねるが、私の返答に青ざめる。

「私、そんな事いってない」

「岡崎君、どうしたの?」

 Aさんは私とジャオさんが話している様子をみて怪訝な顔で尋ねる。

「いや、カールの話しの時に広東語で『苦しい』って聞こえたんですよ」

 さっきまで和気あいあいとした空気が、私の一言で場が一気に冷え切った。みんなの顔をみると口をポカンと開けて唖然としていた。

「わ、私言ってない。何もしてない。しめてない」

「わ、分かったから。き、気の所為だって。落ち着いて」

 ジャオさんが片言の日本語で冷や汗をかきながら必死に訴えるのを、Aさんがゆっくりとなだめる。

「今のは本当に聞こえたの?」

「い、いやぁ、聞こえた気がするんですが、聞き間違いかも」

 Bさんはカメラを向けながら小声で私に質問するので、答えると気難しい顔をした。

「うーん、岡崎さん以外誰も聞いてないみたいだし、気の所為かも」

「はは、きのせいきのせい。」

 Bさんが淡々と結論づけると、ジャオさんは作り笑いする。

 このときの私は、気のせいかなと思っていたが後で考えるとジャオさんの様子がおかしいと感じていた。今思えば、部屋を回っている最中、ジャオ・レイが何かを知っているようなそぶりが目立っていた。

 例えばエントランスにある掲示板をじっと見つめていたり、一部の部屋に入ろうとすると「気持ち悪い」と言って拒否したりする。この時は、心霊スポットに興味があるけど怖くて入らない様にしていると私は思って特に気にも止めなかった。

「七億円の部屋。昔、ある中国人留学生六人が、興味本位でスーパーの宝くじ売り場で宝くじを買った事がきっかけで始まった事件でした」

 私はとある部屋でジャオさんの言葉を通訳し、Aさんに向けて話す。それをBさんがカメラで収める。

「旧正月に日本のとある大学の近くのスーパーにある宝くじ売り場で、面白半分でみんなが購入して当たるのかを楽しみにしていました。……あの時は誰も当たるなんて思わなかったのでしょう」

 ジャオさんの話を私が翻訳して伝えると、Aさんは食い入るように聞いていたが、Bさんは怪訝な顔をしていたような気がした。

「しかし、春節が終わったところでとあるひとりが一等の七億円を当てた事がわかりました。最初は皆でその人の事をを祝っていたのですが」

 私は翻訳するうちに、ジャオさんが喋るスピードがだんだんゆっくりになり、目線が古くてカビが生えているコタツの方へ向いている事に気付いた。私はその時、彼の喋りがプロの怪談の抑揚に近くて引き込まれてきた。

「しかし、ある一人がこのお金を山分けしようと言い始めたのがきっかけで言い争いになりました。『お前は俺に借りがあるから多く寄越せ』『俺は貧しい出身だから多く貰うべきだ』『この金は私が引き当てたものだから誰にも渡さない』と誰も一歩も引かなかった」

 ジャオの喋りは次第に憂揚を増し、まるでその時の出来事を目撃していたかのように語られる。 私はその声に引き込まれながらも、背中にじっとりとした冷たい汗を感じていた。

「次第に、言い争いが殴り合いに発展し、ついに殺し合いに発展しました」

 バン!

 突然、ジャオさんの言葉を遮るような大きなラップ音が扉の向こうから響き渡る。私たちは短い悲鳴を上げて音のする方へ目線を向けると、古びて錆びたドアポストが開いていて蓋がゆらゆらと揺れていた。

 電気の通っていない四畳半のかび臭い部屋の中、ドアとドアポストの蓋が慣性の法則で何度もぶつかり合う音が響き渡りだんだんと音が小さくなっていく。

「ド、ドアポストって最初から開けっ放しになってたっけ?」

「いや、そこまでみてないけど……」

 AさんはBさんに尋ねるが、みんな黙ってドアポストを見つめる。Bさんがカメラを持ちながらドアポストの方へ近づく。

「はぁ、どうやら経年劣化でドアポストの蓋の留め具が外れちゃったみたいだ。みんな、ちょっときて」

 みんながBさんの方へ集まってドアポストを見てみると、プラスチックの留め具が経年劣化で割れていた。

「なんだぁ。てっきりここで死んだ留学生の幽霊がドアを蹴ったかと思ったわ」

 Aさんは肩の力を落として安堵する。一方で、ジャオさんの呼吸はまだ浅くて目が見開いていた。

「だいじょーぶ。怖かった。安心。安心」

 ジャオさんは片言でAさんに微笑むが、目の焦点が揺れ動いている。

「ま、まぁ無理はしないでね。体調が悪かったらいつでも言ってよ。一旦車に戻って俺たちで続きの撮影するから」

「ありがとござます。だいじょーぶ」

 ジャオさんはAさんにお礼をいうが、スマホのライトの当て具合のせいか薄気味悪い笑みを浮かべているように見えた。なんかこの廃墟に入ってからのジャオさんの様子がどこか変だ。彼の目の奥には、ここに来る前にはなかった暗い何かが宿っているように見えた。

 その後、俺たちは一階の部屋を全部見てまわり、階段へと上っていく。カツッ、カツッと乾いた音が響き渡る。一階と二階の部屋はどれも似たようなもので、多少ガラスが割れたり  当時の生活用品の数がまばらだったりといった差があるくらいだ。先ほどのジャオさんの語りとラップ音を超えるような取れ高はなかった。

「しっかしまぁ。あのジャオさんの持ってきた話は凄かったよ! それを翻訳してくれた岡崎くんも良いけど、二人とも怪談語るの上手いからYouTubeとかSNSで発信したらバズりそうだよ」

 事件の起きた三階の隣の三〇二号室にて、Aさんが笑みを浮かべて褒めてくれたが、取れ高が撮れなくて焦っているのか貧乏ゆすりや指慣らしをし始める。

「Aさん、どうする? ここまでの取り高が撮れる動画素材が少なすぎて、いつもより動画の尺の半分も撮れなさそうだけど」

 Bさんはカメラの映像を確認しながらAさんに相談するが、Aさんの表情は険しい。

「うーん。このままだと、チャンネルの再生回数もあんま伸びなさそうだなぁ……」

 Aさんは頭を抱えて項垂れるが、私たちではどうしようにも出来なかった。

「……最後の部屋にかけるしかないな。それで何もなかったら、新コーナーでジャオさんの怪談話シリーズ作るか?」

 Aさんが不自然に大きな声で笑い、気を紛らわせようとするが、目が笑っていないので私はどう返答すれば良いのか分からなくて困惑した。

 俺がジャオさんにAさんの言葉を翻訳すると、彼は何も答えず困惑した作り笑いで返す。

 

「この仲良し留学生グループ六人の殺し合いは凄惨なもので、七億円の話題を聞いて駆けつけてきた他の留学生も加わって警察沙汰になった。警察がこの部屋に到着した時には。……もう既に四人の留学生が刺し傷による止血で亡くなっていた。他の留学生三人も血まみれの彼らに殴られたり刺されたりして重症を負ったそうだ」

 私たちは、ジャオさんの怪談の続きを収録していた。収録している間にもしかしたら心霊現象が起きるのではないかとBさんが提案。しかし、ラップ音どころか風が窓を叩きつける音すら聞こえない。AさんとBさんは先ほどよりも彼の怪談に集中しておらず、「何か心霊現象が起きてくれ」と願わんばかりで時折目線をきょろきょろ動かす。

 この時の私は、翻訳とカメラ撮影しか彼らの貢献が出来なくて、罪悪感のようなものを感じた。

「残りの二人は、七億円の入ったアタッシュケースを奪って逃走。そのうちの一人は事件の数か月後に潜伏していたところで大震災に巻き込まれ遺体として発見されました。……結局、もう一人の留学生の行方も分からず、震災の方で人員が割かれて警察の捜査が出来ず打ち切られた」

 ジャオさんの言葉の力なのか、私の翻訳のセンスが良いのか、次第に取れ高を気にしていた二人の目線がだんだん私たちの方へ聞き戻されていく。ここで私は、ジャオさんの怪談を語るときに声がワントーン低くなっている事に気付いた。普段の彼の喋りは、日本に長くいるせいか広東語の発音が現地の中国人と比べると微妙にズレている感じがした。

 だが、この七億円の部屋事件を語る時には広東語が饒舌になっている。……まるで、事件の関係者が事件を語るとき、ジャオさんに憑依して代弁しているようだった。

「以来、この事件は『七億円の部屋事件』として中学人留学生の間で広まっていく。今でもホラーサイトで度々話題になる話になったものの、例の留学生の行方は分かっていない」

 私が最後のジャオさんの翻訳を終えると、AさんもBさんも私の方に注目して固まっていた。

「この話だけでも聞く価値はあるな。本当に翻訳してくれてありがとう」

 Aさんは私の方をポンと叩いてお礼を言う。

「しっかし、宝くじによる不幸とか事件ってこうして怪談として聞くと新鮮だな。意 外と宝くじ関連の怪談はあまり聞かないな」

 Bさんはカメラのバッテリーを交換しながら分析する。

「さて、行きますか。事件のあった部屋へ」

 Aさんの一言で、みんなが固唾をのんで三◯一号室の部屋を見つめる。

 いよいよ、最後に残していた「七億円事件」で留学生が虐殺された現場の部屋へと向かった。

「あれ? 空いてる……?」

 ジャオさんがいつものようにマスターキーを取り出して鍵を開けようとしたら、既に空いていた。

 普通に鍵を閉め忘れたのか。……それとも誰かがいるのか。

「お、おい。まじかよ。ジャオさん」

「鍵、空いてる。空いてた。分からない」

 ジャオさんは口をアワアワしながら簡単な日本語で説明する。

「も、もしかして誰かいるって事はないよなぁ」

 Aさんの一言で一同はざわついていた。冬の11月にも関わらず、私の頭に汗がブワッと流れたような感覚があった。

「まぁ、開けてみるか」

 Aさんが意を決して開けると、何の変哲もない廃墟の四畳半が広がっていた。

「なんだ、驚かせやがって」

 Bさんがそう呟いて中へと入る。他の部屋と同様に当時の家電やら家具やらがそのまま残って埃が積もっているだけだ。

 四畳半の畳の奥へと向かうと、やはり何もない。

「はぁ、やっぱり何もないなぁ」

 Aさんは肩を落として落胆する。このときのAさんは撮れ高がなくて動画の御蔵入りになる可能性を考えたのだろう。

「もう、これ以上撮れ高無さそうだし、適当に編集して帰るか」

 Aさんはそう呟いてBさんの方へ顔を向けるが、どうも様子がおかしい。Bさんは辺りを見回して何かを探しているようだ。

「Bどうした?」

「いや、この部屋よく見るとおかしくないですか?」

「どこが?」

 Bさんの指摘に対してAと私はよく分からなかった。Bさんの声が震えていた。それは単なるへこみと呼ぶには、あまりにも異常なものを目の当たりにしているからだと、私はようやく分かった。

「よくみてください。この冷蔵庫とか壁とかみると、へこんでません?」

 Bさんが明かりを照らした所をみると、確かに不自然に冷蔵庫やその近くの壁が一から二センチくらいへこんでいた。冷蔵庫の金属製の側面には、不自然に丸い形で内側に凹んでいる部分があり、その周囲には錆びたような赤い汚れが付着していた。

「まぁ、確かにへこんでいるよなぁ。でも、このくらい長く使ってなかったらそうなるんじゃないかな?」

「いや、俺はこの動画のカメラで他の部屋を確認したときにはへこみなんて見なかった。あったとしても、ここまで深くへこんだものはみたことないですね」

 Bさんの一言で、私は想像したくないものが頭に浮かんだ。Bさんが冷蔵庫から視線を壁に移す。そこにも拳や頭の形を思わせるようなへこみがあり、表面にはひびが走っていた。埃が薄く積もっているが、ひびの奥には奇妙な黒ずんだ跡が見える。

「あ、あの……Bさん。もしかして……そのへこみって」

「あぁ、それくらいしか考えられん」

 私が恐る恐るBさんに声をかけると、察したのか青ざめる。

「お、岡崎君。B。どういう事なんだ?」

「……ジャオさんの怪談の中に『言い争いが殴り合いに発展し、ついに殺し合いに発展した』って言ってましたよね。つまり、このへこみってそのときに出来たものじゃないかなって」

 私は恐る恐る、自分の推察をAさんに話す。出来れば、当たって欲しくないと思いながら。

「あ、あぁ。確かに。もしかしたら殴った際に壁をへこますって事もあるかもな」

「いや、Aさん。いくら殴り合いになったとして、古い壁はともかく冷蔵庫もへこむ事ってあるのか? 殴り合いから殺し合いに発展ってことは、相手を壁や冷蔵庫にぶつけたんじゃないかって」

 Aさんがピンとこなくて困惑していた。見かねたBさんは、これ以上言いにくい私の代わりに説明した。Bさんの言葉に、Aさんはようやく察したのか黙り込んだ。

「つまり、このへこむは相手を思いっきり投げ飛ばしたときに出来たものじゃないか? それか、相手の顔を壁や冷蔵庫の角にぶつけて殺したのか」

 私は自分の想像が現実にならないことを願いながら呟いた。しかし、ジャオさんの怪談を思い出すと、あまりにも一致する部分が多すぎる。

「……ジャオさん、ここで本当に争いがあったんだろ?」

 Aさんが振り返ると、ジャオさんは無言のまま冷蔵庫と壁を交互に見つめていた。その目には恐怖の色が浮かんでいる。

「……このへこみ。多分、留学生たちがここで……」

 Bさんの声が震えた。その言葉を遮るように、部屋の押し入れから何かが倒れる音が響いた。

 当然、この部屋には私達しかいないはずだ。

「きっと、一階の部屋みたく老朽化で壊れた音だろう。見てみるか」

 Aさんは自分に言い聞かせて、恐る恐る押し入れを開けたが、中には宝くじのハズレ券が散らばってて何も入っていなかった。ただ、妙にひんやりとした空気が押し寄せて宝くじが何枚か何枚か風で舞い上がる。

「なんだよ……脅かすなよ」

 Aさんが肩をすくめるが、私は違和感を拭いきれなかった。押し入れの奥をじっと見つめると、そこには薄く赤黒い跡があるように見えた。

 その瞬間、背後から冷たい風が吹き抜けた。振り向いても窓は閉まったまま。だが、私の耳には何かが囁く声が聞こえた。

「辛苦啊(サンフーアー)」

 今度は全員聞こえたらしく、皆押し入れから慌てて尻もちをついて後ずさる。

「お、おい! 今なんか聞こえたよなぁ」

 Aさんが上ずった情けない声で皆の顔を見て確認する。

「俺の耳にもサンフーアーて聞こえた。岡崎君! ジャオさん! 今のなんて意味だ?」

「広東語で苦しいって意味です!」

 Bさんも取り乱した声で確認するが、私が答えると皆絶句した表情でお互いの顔を見て驚く。

「……念の為確認するけど、ジャオさん、じゃないよね」

「違う。私、しめてない、言ってない、私じゃない!」

 Aさんが引きつった顔でジャオさんに確認するも、ジャオさんは取り乱していた。

「ごほっ」

 押し入れから、人がえづく声が聞こえて皆振り向く。

 当然、誰もそこには誰もいないはずだ。いないはずなのに、何かが聞こえる。

「こひゅー……こひゅー……ごぼ……ンゴーぉぉ」

 押し入れの奥から過呼吸になった声が聞こえたかと思ったら、急にイビキのような音が聞こえる。

「確か、イビキって正常に呼吸出来ない危険な症状だよなぁ、これ」

 Bさんの顔に冷や汗がブワッと溢れながらは話した途端、我先にジャオさんが叫びながら部屋から飛び出した。

 私たちもジャオさんを追いかける形で逃げるも、Aさんがドア付近でスッ転んだ。

「お、おい!助けてくれ!」

 私とBさんは急いでAさんの所へ戻って担いでエントランスへと戻ろうとした。

 その間、ラップ音やイビキみたいな音が部屋のあちこちに響き渡り、一刻も早くここからでたかった。

 しかし、三階から一階へ下がろうとしても、Aさんを担いでいるせいか中々下りる事が出来ない。

「早く早く早く!」

 いつもYouTubeの画面内では冷静だったBさんが取り乱して担いでいるAさんの身体をぶつけながら乱暴に登っていく。

 ようやくエントランスまでたどり着くと、息切れしたジャオさんが嗚咽を漏らしていた。

「ジャオさん、追いつかないでくださいよ。一体、何が見えたんですか?」

「ヒィ!」

 私が声をかけると、ジャオさんはビクッと身体を動かして振り向く。

「な、何だ。皆さんか」

 ジャオさんは広東語で呟く。

「ジャオさん。もしかしてあの場で何か見ませんでした?」

「いや、その……。声しか聞こえなかったよ。首を閉められた時の声とか、何かが折れる音とか聞こえて……。彼らの声が怖くなって逃げちゃいましたよ」

 ジャオさんは広東語で答えるが、どうも歯切れが悪い気がする。

 私はジャオさんの言葉をふたりに翻訳するが、ふたりとも憔悴しきった顔で聞き取る余裕はなかった。

「ま、まぁ。今ので最高の撮れ高出来たし、早くエンディングトーク収録して帰るか」

 傷だらけのAさんの一言で淡々とエンディングトークの撮影をしてさっさと七億円の部屋から退散した。


 後日、動画は順調に再生回数を伸ばし始めた。 だが、それからわずか四〇分後、突然「暴力的表現を含む表現」としてYouTubeから削除通知が届いた。

「おい、なんだこれ!?」

  Aさんが削除理由を確認しながら叫ぶが、その内容は曖昧だった。

「動画内の一部に過度な暴力の描写が含まれている可能性があります」

 こんなテンプレート文では、何が問題だったのかさっぱり分からない。

「岡崎君、編集でそんなシーンなんてないよな?」

 Aさんが私に問いかける。確かに、利用規約に引っかかりそうなものはすべて取り除いたはずだった。 だが、試しに私たちは編集した映像を確認した。そのとき、冷蔵庫や押し入れの近くに……信じられないものが映っていた。 動画の中、押し入れを覗くシーンの端に、無数の顔やもがき苦しむ影が浮かび上がる。ぼやけているが、睨むような目だけが異様に鮮明だった。編集作業中には見えなかったはずのそれが、じっとジャオさんを見つめている。

「これ……どういうことだ?」

「もしかして、七億円の部屋事件の犯人?」

 Bさんの発言に、Aさんの顔から血の気が引いていく。

  後日、ジャオさんに連絡を取ろうとしたが、彼の電話は『現在使われておりません』という無機質な声を返すばかりだった。 管理人も、そんな人には鍵を貸していないと言う。

 あの夜、共にいた彼は……一体何者だったのだろう?


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