失踪感

岡部龍海

失踪感

 木漏れ日がちらつく森の中、青年は目を覚ました。

 視界がぼやけ、頭が割れるように痛む。

 何が起こったのか思い出せない。

「ここはどこだ……?」

 声に出してみるが、森は静かに揺れるだけで、答えるものはない。

 立ち上がろうとすると足元がふらつき、地面に手をついてしまう。

 服はボロボロで泥で汚れ、汗と草の匂いが鼻をつく。

 ポケットを探るが、何も入っていない。

 財布も携帯もなければ、身分証もない。

 強いていうなら奥に埃のカスとほんの少量の砂が出てきたくらいだった。

 手がかりは一つも見つからなかった。

 青年は森を抜けるために歩き始めた。

 強い風で森の木々が一斉に同じ方向を向く。

 それに誘われるかのように青年は風に乗って進み続ける。

 どれくらい進んだだろうか。

 ようやく木々の間から遠くに家々の屋根が見えた。

 どうにかふもとの街へとたどり着くことができたが、その街並みには全く見覚えがなかった。

 石畳の道、並ぶ小さな店、そして忙しなく歩く人々。

 ここがどこなのか尋ねたかったが、誰も彼に注意を払わない。

 まるで彼が透明人間であるかのようだった。


「お腹が空いた。」

 どうやら青年はしばらく何も食べていなかったのか、とても大きな音でお腹が鳴った。

 どこかで食べ物を探さなければならないと思い、市場に向かった。

 ふらふらと市場の近くを歩いていると、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。

 青年の目の前にはパン屋があり、種類はわからないが棚に大きなパンがずらりと並んでいた。

「こんなにパンがあるんだ、ひとつくらい、とってもいいかな……」

 青年はたまらず手を伸ばし、パンを掴んでしまう。

 店主の怒声が飛び、青年は慌てて逃げ出した。

 だが運悪く近くにいた警察官にあっけなく取り押さえられてしまう。

 そのまま近くの警察署まで連れて行かれる。

 しかし、青年の頭の中では、刑務所に入れば少なくとも食事ができると思い、少し期待していた。

 警察署で、

「君の名前は?」

 そう尋ねられた青年は答えることができなかった。

 記憶を失っていることを説明しようとするが、警察官たちは困惑した表情を浮かべるばかりだ。

 指紋を調べても、データベースには何の記録もない。

 そして何時間も調べられるが、青年の存在を証明するものは一切なかった。

 そして最終的に尽くせる手は全て尽くしたのか、警察官たちが話し始め、しばらくすると。

「君が誰なのか…我々には分からない。」

 警察官によると、現時点では身元のわからない者は刑務所に収容することができないとのこと。

 そう告げられた青年は、釈放されることになった。

 行き場のない彼に、警察は特に干渉することもなく、街に放り出すように解放した。

 再び街に戻った青年は、途方に暮れながらも生きていく術を探さざるを得なかった。

 まずは寝床を探さなければならない。

 街のメインの大通りから路地に入り、さらに奥へ歩いていくと、人が全く歩いていない活気のない街へ出た。

 すると、周より一際汚れている廃屋のような二階建ての建物を見つけた。

 恐る恐る建物に入ると、築何十年かもわからないほど古びたような壁、そして荒れた内装。

 青年は何かを感じたのか吸い込まれるように建物に入り片付けを始める。

 石の壁には小さい子の描いた落書きか何かの絵の跡などが出てくる。

 転がっていた埃まみれになっていた花瓶や絵画を手ではたき、それに似合う位置に置く。

「前に住んでいた人はいったいどこへいったのだろうか?」

 そう思いながら片付けていくうちにこの建物に愛情が芽生えてきた。

 黙々と作業を進め、とてもスッキリした内装になった。

 彼は階段を上がり、二階部分の片付けを開始しようとする。

 しかし、二階には部屋が一つしかなかったため、その部屋を自分の寝室とした。

 二階の窓からは、街の景色を眺めることができ、彼はとても満足していた。

 その中、彼はあまりにもお腹が空いたため、違法ではない方法で食料を探すために、一度街へ戻ることにした。

 街中を歩き回り、ゴミ箱から人々が捨てた食べ物を漁ったり、ほんのたまにではあるが、小銭を見つけるることができた。

 青年はそれでどうにか生活を続けた。

 誰も彼に話しかけないし、彼もまた他人に自分の存在を示すことを諦めていた。

 それから1ヶ月が経ったある日、青年は廃屋の窓から外を見ていた。

 通りを行き交う人々は、家族や友人と笑い合い、話し、何かを共有し合っている。

 自分にはそのようなつながりが何一つない。

 それでも、彼は生きることを選んだ。

「名前なんて、もう必要ないか…。」

 そう呟くと、涙をひとつ流し、止まることなく青年は街に向けて今日も歩き出した。

 名前も過去も分からない。

 それでも、ここで生きるしかない。

 それが彼にとっての新しい現実だった。

 太陽が沈み始める空の下、青年の姿は人混みに溶けていった。

 その背中には、一切の過去が失われた者だけが持つ、静かな決意が漂っていた。

 物語はそこで終わる。

 青年の人生がどのように続くのかは誰にも分からない。

 ただ、彼がこの街で生き続ける限り、「失踪感」という見えない影が彼の中で揺らめき続けるだろう。

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失踪感 岡部龍海 @ryukai_okabe

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