アスア

夏上すおん

本編

アスア | AZUR -夏上すおん


執筆者:

 原表記:多匂シュシュ

 羅字転写:Schuschu Takou

言語:

 言語名:列島語

 言語コード:ja

採用規格:最終規格

採用暦:最終時間区分LTD


*** 人工島にある大学 ***


 LTD1488年3月21日、港から出るゴンドラに乗り、しばらく南下します。私の新たな故郷となるだろう人工島射風(いるかぜ)が、常夏のような日差しに照らされてキラキラと光っているのが見えました。いよいよ新生活が始まるワクワクで胸が高鳴ります!


 島の北水門に到着してゴンドラを降りると、1人の女性がこちらに来て話しかけてきました。


女性:君、学科は?

私:あ、えっと、射風大学です。

女性:語学科の子?

私:あ、はい!


 このとき私は所属学校を訊かれていると勘違いしてしまいましたが、よく考えたら射風大学の先輩が出迎えてくれているのだと分かりました。


私:語学科新入生の多勾シュシュです。今日はよろしくお願いします。

女性:私は2年の塩見吹海(しおみふみ)。よろしくね。

私:すおみ先輩、よろしくお願いします!

塩見先輩:あ、しおみね。塩見吹海。

私:あっ、失礼しましたっ。塩見先輩、よろしくお願いします…!

塩見先輩:うん。車借りてるから一緒に乗って。私が寮まで案内する。


 出会って早々名前を間違えるという失礼をしてしまいました… 塩見先輩は私より少し背が低くて、黒の丸縁眼鏡をかけて、銀色ショートの髪を右前だけ下ろしてアシンメトリーにした、低めのトーンの優しそうな声をした人でした。


 塩見先輩に島の東部まで運転してもらうと、海の見えるところに、ドアのついたコンテナのようなものが並んでいるのが見えました。塩見先輩は並んでいるコンテナのうち、一番東端、最も海に近いものを指差しました。


塩見先輩:一応これが私たち語学科が生活してる寮。初めは仮設的なものだったんだけど、このままになってる。語学科は私たち含めて4人だから、これからもここだと思う。

私:そうなんですね。


 射風工科大学が射風大学に変わって文系を新設してまだ2年目です。学科寮がコンテナというのは驚きましたが、これはこれでなんだか楽しそうです。


塩見先輩:部屋に3年の先輩たちがいると思うけど、おでこを出してる方がみかん先輩、えっと、酸田夏蜜柑(すいたなつみかん)先輩で、長い髪を結んでる方が苦屋璃胡(にがやりこ)先輩、っていう説明で大丈夫かな。みかん先輩は優しいと思うけど、璃胡先輩は無愛想だからね、ちょっと怖いかもしれないけど、あまり萎縮しないで。

私:分かりました…!


 部屋をノックすると、どうぞ、と声がしました。緊張しながらドアを開けると、涼しい空気に乗ってふわっと部屋の匂いがこちらに来るのを感じました。


みかん先輩:璃胡ちゃん、ほら、来たよ、新入生の子。私、酸田夏蜜柑って言いま〜す。みかんでええよ。こっちが…

璃胡先輩:苦屋璃胡。よろしく。


 みかん先輩は私より少し背が低く、塩見先輩より少し背が高い、オレンジがかった明るいショートの髪を分けて左だけ横髪を作った、明るく優しい声の人でした。璃胡先輩は塩見先輩と同じくらいの身長で、青みがかった暗い色の髪を高めの右サイドテールにした、低めのトーンの綺麗な声をした人でした。


私:多勾シュシュです。よろしくお願いします…!

みかん先輩:先輩ばっかで緊張しとる? ていうか、長旅で疲れたもんね。奥にソファあるから座ろっか。


私:失礼します…

みかん先輩:塩見さんも、お迎えお疲れ様。

塩見先輩:いえ、私は。


璃胡先輩:塩見は2年だし世話係ね。

塩見先輩:分かってますよ。

私:すみません塩見先輩…

塩見先輩:いや、多匂さんは気にしなくていいから。


みかん先輩:それじゃあ、改めまして、酸田夏蜜柑です。語学科3年生の25歳。1年のときは璃胡ちゃんと一緒に工学部にいました。

塩見先輩:先輩たちと私は同じ語学科2期生。多匂さんは優秀だから授業で困ることはあまりないかもしれないけど、1年生のあいだの理系教養とか、工学のことは先輩たちに聞くといいよ。

私:分かりました…!


 そうこうしているうちに、お昼の時間になりました。先輩たちが大学の食堂に案内してくれました。大学食堂のテーブルを囲んで4人で座り、ビュッフェ形式のごはんを食べました。私はお腹が空いていたので一番多くよそっていたのが少し恥ずかしかったです。塩見先輩が特に少食だなと思いました。


 午後は語学科の研究室を案内してもらいました。大学の研究棟の上のほうにある一室で、コンピュータやカメラなどの機材、レントゲンなどの医学機器、人体模型もあって、少し硬い居心地を感じましたが、窓から見える海がきれいでした。


 一日の終わり、私たちは再びコンテナの学科寮に戻ってきて、就床しました。私は同じ二段ベッドの下段で横になっている塩見先輩に、島に来てから感じている不安を打ち明けました。


*** 違和感 ***


塩見先輩:違和感?

私:はい。変な話なんですが、耳か鼻に違和感がある気がして、でもそれが耳なのか鼻なのか分からないんです。


塩見先輩:どういうことだろう…

私:私、もともと音に匂いを感じることがあるんですけど…

塩見先輩:共感覚があるんだね。

私:多分それかな? で、今回の違和感の原因を探ろうとしても、それが耳なのか鼻なのか分からないんです。


塩見先輩:なるほどね。とりあえず、病院の予約をしてみようか。耳鼻科に行くといいと思うよ。

私:そうですね。ありがとうございます…!


*** 耳鼻科と水族館 ***


 翌日、先輩たちが耳鼻科を案内してくれるついでに、島の水族館に連れていってくれるそうです。射風大学の海洋学科が運営している大学附属水族館で、私は島に来ることになってからずっと行ってみたいと思っていました。とても楽しみです!


 耳鼻科の先生によれば異常なしだったので、私はその違和感については気のせいということにして、水族館を満喫しようと思いました。


塩見先輩:本当に大丈夫なの…?

私:はい! もともと違和感なんてなかった気がしてきました。さて、水族館行きましょう! 水族館!

みかん先輩:ふふ、多匂さん、テンション上がっとる!


塩見先輩:でも、今日行くのってあれですよね。

璃胡先輩:あれね。

私:あれ?

みかん先輩:まぁまぁ、ひとまずは、語学科4人揃って初めての水族館楽しもよ!


 先輩たちが言っている「あれ」が、なんのことか分かりませんでしたが、私はそれどころではありませんでした。水族館のきれいな建物が見えてきて、気分は最高でした!


みかん先輩:多匂さんは、水族館やと何が好きなん?

私:もう、水そのものが好きですね! 水族館できれいな水に囲まれてると、それだけで気分上がっちゃいます!

みかん先輩:面白いこと言うね!


塩見先輩:じゃあ、今日のあれも、多匂さんなら楽しめるかも。

璃胡先輩:ふふっ…


 私は璃胡先輩が笑うのを初めて見ました。


私:璃胡先輩、そんなふうに笑うんですね! もっと笑いましょうよ!

璃胡先輩:もう、変なこと言わないで。気分が上がりすぎよ。

塩見先輩:多匂さん、璃胡先輩は照れやさんだから、お手柔らかにしてあげてね。

璃胡先輩:塩見、黙りなさい。


*** ただの水槽 ***


私:なんですか、ここ。誰もいませんね。


 水族館の最後に先輩たちと入った部屋は、イルカショーの舞台になりそうな、でもなんの生き物もいない、ただの水槽があるだけの広い部屋でした。


塩見先輩:とりあえず、順を追って説明するね。


 塩見先輩が鞄から何か取出しました。


塩見先輩:多匂さん、今からこの潜水服に着替えて一緒に潜ってもらうんだけど、多匂さんは暗いところは平気?

私:はい、大丈夫ですけど…


 何がなんだか分からないまま、私は先輩たちと一緒に潜水服に着替え、水槽に入りました。私たちは全員、首から上だけを水面から出した状態になりました。


みかん先輩:じゃあ、暗くするよ。


 みかん先輩がリモコンのスイッチを押すと、部屋は真っ暗になりました。


璃胡先輩:やっぱりこれだけ水槽が大きいと、少しは分かるものね。

私:何がですか?

璃胡先輩:塩見、教育係でしょ。

塩見先輩:はいはい。えーっと、多匂さん、水の中をよく見てみて。


私:え? 何も見えませんけど…

塩見先輩:じゃあ、璃胡先輩、何か喋ってください。

璃胡先輩:いやよ。何喋れっていうの。


 その瞬間、暗い水の中に何かが赤く光っているのが分かりました。


私:なんですか、この光る糸みたいなの。

璃胡先輩:やっぱり、私たちの会話に反応してるわ…

みかん先輩:こんなに強く光るんやね…

塩見先輩:これがイヴです。

私:イヴ…? なんですか、それ。


*** イヴ ***


塩見先輩:私たちの使っている言語は、最終規格という機関が管理してるのは知ってる?

私:あ、暦とかですか?

塩見先輩:それだけじゃない。最終規格は、世界中の言語システムを一般言語学規約という規格で管理してる。で、その一般言語学規約を使った新たなシステムを、欧州のエデンという新しい企業が作ろうとしてる。それが特殊言語学規約、通称イヴ。一般言語学規約とはまるで違う方法で言語を管理する方式なの。イヴは、エデンが実用化したアダムという放射線のようなものを使って言語の活動を観測し、収集する。この様子は、大きな水槽があると喋る人の近くで強く光る反応として肉眼でも確認できる。私も仕組みはよく分からないけど、イヴがあれば将来的に死者蘇生もできるとか。

私:えぇ… でもそれって、色々危うそうですよね…

塩見先輩:そう、危ういの。個人情報保護の問題とか、人命、倫理に関わる問題が山積みで、特殊言語学規約が実用化されれば世界は大混乱に陥ってしまうかもといわれてる。そこで、射風大学の人たちが特殊言語学規約の完成・実用化を阻止しようと必死になってるわけね。

私:そうなんですか?

塩見先輩:この水槽、大学の海洋学部附属のものね。多匂さん、きみは色々と期待されてるんだよ。

私:え、私ですか…?


塩見先輩:ところで、赤く光る糸の中に、他と違う色の糸があるの分かる? 青っぽい感じの。

私:青っぽい…


 赤い糸に混じって、確かに色の違う糸があるのが分かりました。


私:アスア…

塩見先輩:え?

私:あ、いえ。こういう色、なんて言うんだっけなって思って。私の家の言葉だとアスアって言って、好きな色なんです。


塩見先輩:きれいな色だよね。よし、じゃあこの糸を辿って潜っていくから、大きく息を吸って!

私:えっ!


 先輩たちが潜っていくので、私も慌てて続きました。


 水槽には底があるはずなのに、青い糸を辿ってずんずん下に潜れます。でも、先輩たちがどんどん先に行ってしまうので、運動音痴な私は急いで追いかけました。


*** アスア ***


 気がつくと私は図書館のような場所で横になっていました。起き上がると目の前に璃胡先輩がいました。


私:璃胡先輩… ここは…?

璃胡先輩:一般言語学規約の中よ。大学がサーバを用意してくれてるの。

私:よく分からないですけど、他のお2人は…?


璃胡先輩:なつみと塩見はどこかにいると思うわ。あいつら仲良しだから。なつみは塩見が来てから塩見に構いっぱなしなのよ。


 璃胡先輩はみかん先輩のことを「なつみ」と呼ぶようです。初めて知りました。


璃胡先輩:あなたは私の近くに落ちて気絶してるんだから、いやになるわ。本当、私たちって腐れ縁なのね。

私:えっ…?

璃胡先輩:あなた、本当に気づかないのね。私たち、幼なじみなんだけど。


私:え、ちょっと待ってください、どういうことですか?

璃胡先輩:本当、薄情よね。ほら、さっさと立って。他の2人を探すわよ。


 そう言って、璃胡先輩は先に歩いていきました。


私:待って!


 璃胡先輩は立ち止まりました。


私:あ、あの、失礼ですが、人違いじゃないですか…?

璃胡先輩:何言ってるのよ。

私:確かに、私には小さい頃、りこちゃんという親友がいました。彼女はお引越ししちゃったので、それから会えてませんけど。でも私、いつも匂いで人を覚えるんです。時間が経って匂いが変わっても、私、人を間違えたことはないんです。璃胡先輩からはりこちゃんの匂いがしません。


 そこで私は、耳と鼻の違和感のことを思い出しました。


私:あ、そうか!

璃胡先輩:あなた、本当にどうしようもないわね… まぁいいわ。一から説明するから、ちゃんと聞きなさい。

私:はい…

璃胡先輩:私たち射風島民が話してるのは、射風語。あなたの話す列島語とは違う言語なの。話し言葉では相互理解可能にできてるけど、全く別物。射風工科大学の教授が1人で作った言語なんだから。


私:1人で作った言語!?

璃胡先輩:そう、ずいぶん昔にね。まさか大学に入る身で知らないだなんて思わないわよ。

私:すみません…


璃胡先輩:あなたの鼻についても、あなたの話を聞いて分かったわ。きっと言葉を匂いで感じる共感覚なのね。

私:言葉を匂いで感じる…?

璃胡先輩:自分のことも分からないのね… あなたのその"超能力"のおかげで、私は万年2番なんだから、いい迷惑よ。


私:どういうことですか…?

璃胡先輩:自覚ないかもしれないけど、あなた本当の天才なのよ。私は射風島に引越してから島の英才教育を受けてるのに、あなたが私の記録を塗りかえる。私は1番じゃなきゃ許されないのに、あなたがいつも追い抜いてくる。本人は私の顔も覚えてない、いいご身分よね。

私:ち、違う…!


璃胡先輩:何が違うのよ。

私:先輩、私のこと名前で呼んでみてください!

璃胡先輩:いやよ。

私:お願いです! もう少しなんです! もう少しで思い出せそうなんです!


 私は涙目になって懇願しました。


璃胡先輩:わ、分かったわよ…

私:ありがとうございます!


璃胡先輩:しょうがないわね、シュシュ。


 りこちゃんとの全ての記憶が蘇ってきました。私より小さかったりこちゃん。まさか、2つも年上だっただなんて。


私:璃胡ちゃん!!!


 私は璃胡先輩に抱きつきました。


璃胡先輩:わっ…

私:璃胡ちゃん…! やっぱりりこちゃん… りこちゃんの匂いがする…! 璃胡ちゃんの匂いがする…!

璃胡先輩:もう、分かったから離れなさい。あとその呼び方やめなさい。

私:すみません、璃胡先輩…


*** 図書館 ***


 その図書館のような部屋の中、私と璃胡先輩は、みかん先輩と塩見先輩に再開し、私は先輩たちから色々とお話を聞きました。大学が用意した図書館、サーバーには、『字音復古運動について』という本がありました。工科大学時代の教授が書いたもので、ずいぶんと難しいことが書いてあります。おおまかに言うと、この島、人工島射風は昔、大学を主導とした字音復古運動という言語運動を経験しています。背景には、欧州人から列島語を国際化するための圧力があったようです。


 先輩たちの話を聞いて、大学がイヴの破壊を強く望んでいることもよく分かりました。イヴの完成は、それだけ私たちにとって、人類にとって恐ろしいことなのだと。


みかん先輩:…要するに、一般言語学規約への登録をどうやってするか、やね。

塩見先輩:大学によれば、射風語を一般言語学規約に登録すれば、エデンがイヴに射風語を食わせるから、イヴを破壊できる。射風語には、そのために教授が仕込んだ罠が仕掛けられている。要は、イヴというシステムにとって毒になる要素ね。でも、エデンに気づかれて規約を修正される可能性があるから、イヴの監視をかいくぐって作業をする必要がある。分かってるのは、イヴは私たちの声に反応してることと、作業言語は、作業効率のために母語並みに操れる言語である必要があること。


私:声に反応… 私、心当たりがあります。私の家の言葉で、壊れた言葉といって、声を出さない言葉があるんです。

塩見先輩:崩壊話法のことかな?

私:それですかね。私、話せますよ!


 私は先輩たちにその言葉を披露しました。


塩見先輩:たしかにイヴが反応してない。希望が見えてきた。多匂さん、作業方法は教えるから、崩壊話法で作業をお願いできるかな。

私:分かりました。


*** 終わり ***


 作業が終わってから、私たちは元いた水槽室の水面に戻りました。まだ水中には赤い糸が光っています。イヴが活動している証拠です。


私:失敗ですか…?

塩見先輩:こっちのほうが時間の進みが遅いのと、イヴが食うまでの時間があるから、まだ分からない。

私:うまくいってほしい…


 その瞬間、糸は強い光を放ち、激しく動きはじめ、しだいに弦を切るようにぷつりと弾け、ゆっくりと消えていきました。私は思わず「きれい…」と呟いてしまいました…


 数分後、大学からの通達があり、イヴは破壊されたことが分かりました。


璃胡先輩:やっとめんどうくさい課題が1個終わった気がするわ…

みかん先輩:璃胡ちゃん、言い方っ! でも、みんな本当によく頑張ったね!

塩見先輩:一時はどうなることかと思いました。多匂さんのおかげだよ。

私:いえっ、そんなことは…

みかん先輩:多匂さん謙虚やね!

私:あの、前から言おうと思ってたんですけど…

みかん先輩:ん? どうしたん?

私:えっと、シュシュでいいです! 私の名前…!

みかん先輩:シュシュちゃん! よく頑張ったねぇシュシュちゃん!

塩見先輩:シュシュさん、お疲れ様。

私:…璃胡先輩も…

璃胡先輩:…なによ。

私:璃胡先輩もお願いします!

璃胡先輩:いやよ。

私:えー、さっきは呼んでくれたじゃないですかー!

みかん先輩:え、さっき!? 何かあったん!? 2人で何かあったん!?

璃胡先輩:なつみは関係ない。多匂あんた余計なこと言うんじゃないわよ。

私:多匂じゃなくてシュシュですー!

みかん先輩:えー、2人だけの秘密ー?

璃胡先輩:もう、なんでもないから、2人とも黙りなさい!


アスア 完

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アスア 夏上すおん @celiaconlang

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