愛しい恋人を何度も何度も生き返らせようとして不死になった陰陽師のお話【前編】
ライ
第1話
ーー
謹んで泰山府君、冥道の諸神に申し上げ奉る――。
誰も辿り着くことができない奥深い山の頂。 その神聖な場に、歪な祭壇がある。
厳かに満ちた霧の中。 男が一人、座っている。
祭壇の中央、血文字でびっしりと埋め尽くされた札が形取るもの。 それが横たわった人の形に見えるのは見間違いではない。
「……氷翠。 おいで」
愛おしい恋人を呼ぶような音色。
それもそのはず、男は失ってしまった己の半身を生き返らせようとしている。 何度も、何度も。 幾度失敗しても決して諦めず、己が身を費やすことも辞さなかった。 数えきれない挫折を経てなお、男は今日も祭壇の前に座る。
パキ、パキ……。
人型の"何か"に何本も細い亀裂が入る。 男は恍惚の吐息を溢した。 全体に走った裂け目から、脈打つような淡い光が漏れ出ている。
「氷翠、氷翠……♡」
男は跪くように寄り添う。
パァン、とひとつ手を叩けば、札は崩れ去り、中から小さな少女が姿を表した。
「……? ……ここは……どこ……?」
まだ幼い少女が瞼を持ち上げて周りを見渡す。 彼女が横たわるのはベッドではなく、厳かな祭壇。
「おはよう、氷翠……♡ また寝ぼけているのかい?」
「……ぁ……」
にっこりと微笑む男の名前を思い出せないのか、少女は軽く眉を顰めた。
「たーまーき。 環だよ。 きみはそうやって私をからかうのが昔から好きだね……♡」
……昔、から。 ……そうだ、環だ。
どうして忘れていたんだろう。
いつだって優しくて、穏やかで、少女が大好きなひと。
……ねえ、環、私はどうしてこんなところで寝ていたの?
少女の疑問は言葉にはならない。 強張った唇が、言の音を奏でるのを拒絶した。
「……たま、き」
伸ばした手が男に触れる寸前に女は姿を砂に変え、男の指の間からさらさらと落ちていく。 この世の理を歪める力に、贋作の身体は耐えきれないのだ。 ころん、と小さな髑髏が砂の上に転がった。
「…………ああ。 私はまた氷翠を失ってしまった。 ……でも大丈夫。 すぐに迎えにいくよ。 だから寂しがらないで」
男の細い手が、広がった真っ白な砂を掻き集める。 骨を砕いたら、こんな感じだろうか。
「……私の可愛い氷翠。 心配しないで大丈夫。 どんな姿でも、私はきみを愛しているからね……♡」
髑髏を抱き、愛しそうに囁いて瞼を閉じる。
男の瞼の裏に映るのは、桜の下で可愛らしく微笑む少女。
「きみの好きな桜が咲いたよ。 椿も、菖蒲も躑躅も、茉莉花も」
祭壇の周りには、深い山の中だというのに花が……四季の花が咲き乱れている。 四方四季の花園。 それは、ここが現世と常世とのあわいであることを表す。
「氷翠、きみに花冠を贈ろう。 その美しい髪によく似合うだろうね。 可愛らしいきみの笑顔を早く見せておくれ……♡」
祭壇が歪に見える要因の一つ。 場違いなほど鮮やかな花冠を手に取って小さな髑髏にうやうやしく被せる。
「ね、氷翠。 私を一人になんて、させないでおくれ……」
月白色の骨壷に掻き集めた砂を入れ、その上に可愛らしい花冠を被せた髑髏をそっと載せる。
「愛しているよ、私の氷翠……」
頬に涙が一筋流れ、ぽたりと落ちて花を濡らす。 ゆっくりと蓋を閉じて、大事に大事に抱いた男は祭壇を後にする。
「私の半身。 私の全て。 きみを取り戻すまで、私は諦めはしない」
──五つの祭壇。 天地陰陽五行の祭式。 千秋万歳の祈祷。 祭文を唱えて、秘符と鎮札を手に抱く。
秘術で強制的に長らえた魂を、式にのせる。
そうして彼は、また彼女に出会う。
「氷翠、おはよう♡ 目覚めの時だよ」
血の気のない白皙の肌。 広がる美しい黒髪。 二度と開かない瞼。 豊かなまつ毛は震えることもない。 吐息も、二度と戻らない。
男の指が、白磁の肌をなぞる。 砂に変わることはあっても、朽ちることのない身体。 男は何度も何度も、その崩れた身体を戻してきた。
少女は、老いない。
十六歳で命を落とした時から、彼女はずっと十六歳のままだ。
男の中に、諦めるという言葉は存在しない。
愛してる。 愛しているよ。
私の、可愛い氷翠。
私だけの、可愛い子……♡
熱を抱かない少女を、何度でも揺さぶる。 何度も。 何度も。
擦り寄せた肌から、己の熱を分け与えるように。
「氷翠、ほら、目を開けて? 私を、その目に写してごらん? ねえ、氷翠、ねえってば」
少女は目を開かない。
今日は失敗のようだ。 成功の方が少ない。 十に一度、いや、百に一度成功するか否か。
それでも、その短い邂逅が、男にとっては夢のような時間だった。 どんなに短くてもいいから。 どんなに瞬きの間でもいいから。 愛しい少女に会えるなら、なんだってよかった。
札を増やしてみたり、逆に減らしてみたり、己の血を使ってみたり、時には己の身体だって使った。 少女にもう一度会えるなら、なんだってした。
「……今日のきみはおねむなのかい? そっか、きみはお寝坊さんだからね。 いつだって、まだ眠りたいと私の胸で再び寝こけてしまうんだよね……♡」
目覚めの口づけのように唇を合わせては、ふう、と吐息を吹き込んだ。 少女が息を吹き返すことなど、あり得ないというのに。
氷のように冷たい唇に、男は少しだけ泣きそうな顔をした。
「……よしよし、もう少し眠りなさい。 時が来たら、私が起こしてあげるから……」
一方的な、異常にも思える愛情。
彼だけが、彼女の死を受け入れられない。
──きっと、きっと次こそは。
今度こそは、きみを手に入れてみせる。
私の力を、愛を証明してみせる。
「ねえ、氷翠? 外つ国ではね、女の子は砂糖と香辛料で出来ているという言い伝えがあるようだよ。 だから次はその二つの分量を変えてみようと思うんだ。 きみの肌は甘くて砂糖のようだからね、きっと、きっと上手くいく」
虚な瞳は、横たえられた少女から逸らされることはない。
「可愛い私の氷翠。 私たちは永遠に一緒だよ……♡ 生きる時も、死ぬ時も……♡」
孤独な陰陽師はまた、式を編む。
少女の魂は今宵も黄泉の国へ行くことなく、男の執着に絡め取られてしまうのであった。
ーー
私は、きみがいないと生きていけない。
何度生まれ変わっても、きみだけを愛するよ。
きみにもう一度会うため、ただ、ただそれだけのために私は生きている。
奇術を使うと村を追い出されたこともあった。 "鬼"だと迫害され、家を燃やされたこともあった。 人目を避け、森に潜み、ただひたすらにきみを生き返らすために生きてきた。
きみの笑顔を、隣で見るために。
きみがいない世界なんて、生きていくに値しない。 でも、私は死ぬことができない。 きみに会いに行くことができない。 だから、きみを生き返らせてみせる。 それが、私の生きる意味であり、糧なのだから。
十年が経ち、二十年が経ち、己が身を用いた人体実験の末に、いつの間にか歳を取らなくなって、不死の身になっても、ただきみだけを待っていた。
百年が経ち、二百年が経ち、生きるのにも疲れ、死を選ぼうとしても、死ぬことさえ許されない。
死にたい。 きみに会いたい。 終わりたい。 きみに、会いたい。 助けてくれ。
どうして。 どうして、どうして。
どうしてきみに会えない。 目の前にいるのに。 身体はここにあるのに。
きみだけが、ここにいない。
愛しい私の氷翠。 私の名を呼んでおくれ。 私の手を取っておくれ。 私を、愛してくれ。
氷翠、愛しているよ。
だから、早くその目を開けて、私の名を呼んで。
だから、だから。 早く私を、終わらせて。
氷翠、おいで。 私のところにおいで。
私がきみを必ず生き返らせてあげる。 どれだけ犠牲を伴おうと、どれだけの苦痛が身を蝕んでも。
私は絶対に、きみを取り戻す。
謹んで泰山府君、冥道の諸神に申し上げ奉る――。
「氷翠、私だよ、こちらへおいで」
空気が変わって、勝手に炎が燃え上がる。 大量の札で包んだ氷翠の身体を包んでいく。 瞬く間に札だけが燃え落ち、傷一つない氷翠が安らかな顔で、微動だにせずにただそこに"在る"。
気が遠くなるほどの時。 数え切れないほどの、失敗。
「……何が悪い?! 今回も儀式は成功したはず……! 供物が足りなかったのか?! では次は、もっと、もっともっともっと…………!」
ただきみに会いたいだけなのに。
ただ、私のそばにいて欲しいだけなのに。
どうして、どうして、どうして!
「ねえ、氷翠。 目を開けておくれ。 良い子だから。 目を開けて、その可愛い唇で、私のことを呼んでくれ。 ねえ、私の氷翠。 愛してる。 愛してる。 愛してる。
こんなにも愛してるのに、なぜ……?!」
きみに会いたい。 ただそれだけができず、ひたすらに苦しい。 終わりの見えない苦痛と不安。
「氷翠、氷翠、氷翠……!
私にはきみがいないと、生きていけないんだ……!」
獣のような吐息が五月蝿い。 ああ、これは私自身が発している音か。
……思えば、酷く息が苦しい。 私はやっと、きみの元に行けるのかな。
力の入らない腕を伸ばして、きみの手を取る。 いつの間にやら、私の腕は変色して元の色は見る影もない。 きみを取り戻すために、やれることは全てやった。
きみのために……いや、私のために。
「……氷翠、愛しているよ。 私だけの……可愛い子……」
意識が薄靄の中に落ちていく。
ーー
「環……環……!」
鈴のように可愛らしい声。 愛おしい音色が、私を呼んでいる。
可愛い私の氷翠。 どうしてそんなに焦っているんだい?
「……氷翠……?」
瞼を持ち上げれば、可愛い可愛い、私だけの氷翠が心配そうに私を覗き込んでいる。
「はい、氷翠はここにいます。
酷くうなされていたけれど、怖い夢でも見たの?」
冷たい手が、私の頬に触れる。 小さな、小さな手。 白魚のような真っ白な手。
「…………ああ、とても怖い夢だ。 きみが居なくなる夢。 きみに触れられない夢」
きみを、失う夢。
きみが私の隣にいないことが、地獄よりも恐ろしい。 きみは私の隣にいるべきで、私に愛されるべきで。
「私はここにいます。 ずっと、あなたのそばにいますよ。 これからも、ずっと。
不安なら、私がぎゅうって抱きしめていてあげる」
花のように可憐な笑み。 その笑顔が、いつだって私の胸を高鳴らせる。 愛しいという気持ちを、溢れさせる。
「……ああ。 私を離さないでくれ」
屍人のように冷たい腕が、男に巻きつく。
──瞼を開けた。
あたたかな肌も、可愛い笑顔も、全てが消え失せる。
「…………夢」
呟いた言葉は、冷え切っていた。
……私はまだ、氷翠に会えない。
ではいつ、きみに会える?
きみの魂は刻一刻と現世を離れていく。 いや、まだここにあるということが異常なのだ。 禁術に禁術を重ね、世の理を捻じ曲げて、未だこの世に縛り付けている。
容れ物は朽ちない。 今も安らかな顔で、眠っているだけのように見える。 吐息は二度と戻らない。 二度と私の名を呼ばない。
分かっているが、理解はしたくなかった。
「……氷翠、私はきみに会いたいだけなんだ。
きみに会いたいだけなのに、ただそれだけがあまりにも難しいね……」
とうの昔に枯れ果てたと思っていた涙が一筋溢れた。
氷翠の頬にぽたりと落ち、まるで泣いているかのように線を描く。
その夜、月華美人の花が咲いた。
氷翠が愛した、月華美人。
心の臓が鼓動を刻み始めるまでは、瞬きが二つ──。
愛しい恋人を何度も何度も生き返らせようとして不死になった陰陽師のお話【前編】 ライ @Ra18Fox
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