世話焼きの天狗さまに眠るまでひたすら甘やかされるお話

ライ

第1話



ーー


今日は金曜日。 いわゆる、華金。

それなのに、気持ちはとことん憂鬱。

本当はさっさと帰って眠ってしまおうかと思った。 お酒に溺れてしまおうかとも思った。 けれど、今にも涙が溢れてしまいそうなこの感情のまま一人眠る方が嫌だった。 ああもう、お局め。 指摘するところを見つけた途端嬉々としていじめてくるのだから。 ああ、仕事なんてくそくらえ。 でも、やっと叶った夢だから、もうちょっとだけ頑張ってみたい。


まっすぐ進めば家に続く道を左に曲がり、静かな山道を登っていく。 昼間は登山客や参拝客で賑わう道も、この時間とあってしんと静まりかえっている。


私を出迎えるように、朱色に塗られた春日灯籠がいくつも並ぶ。 かすかに聞こえる鈴虫の音は秋が来た印。 その音に混じって、りん、りん、と鈴の音が聞こえる。



「いろは、おかえり」


声のする方へ首を動かすと、大きな門の上にひとり誰かが座っている。 朱色の門に、朱色の傘。 山吹色の着物に朽葉色の羽織。 彼はいつも秋を連れてくる。


「綾!」

あや、と読んだひとは、ふわりと地に降り立つ。 風もないのに、漆黒の髪は穏やかに漂っている。


「ただいま〜!」

抱き付けば、ぎゅううと包みこまれる。


「さあ、帰ろうか」

相合傘で我が家へと向かう私たちに、色鮮やかな紅葉が舞い落ちる。


「綾、大好き」

「うん、知っているよ」

握った手は、温かい。 微笑む綾の背後で、はらりと真っ赤な葉が舞う。

昔も、今も、なにも変わらない優しさ。


私の友であり兄であり父でもある綾は、今や私の恋人。


両親を亡くし、兄弟もいない私に舞い込んだやわらかな光。 彼がいなかったら、きっと私はさみしいままだっただろう。

彼と出会ったのは、両親のお葬式の日。 大人たちは準備で忙しく、なんとなくひとり山に向かい、案の定迷い込んだ時に助けてくれた不思議なひと。


私は彼が人間ではないと、いつの頃からか分かっていた。

背中には漆黒の翼、これまた漆黒の美しい髪に琥珀の瞳。 頭には六角形の頭巾、からころと軽やかな音を奏でる一本下駄。


天狗、と呼ばれる山に棲まう神さま。



学校で嫌なことがあるたびにその大きな翼で包んで隠してくれた優しいひと。 社会人になって上手く行かない時も、私が泣き止むまでずっとそばにいてくれる温かいひと。

何があっても私の味方であってくれる強いひと。



優しい優しい恋人。

今も、私の語るたわいもない話を微笑みながら聞いている。 繋いだ手をぶんぶんと振って子供のようにはしゃぐ私を見つめて、嬉しそうに目を細めている。 穏やかな琥珀の瞳。

からん、ころん、と高下駄が軽やかな音を立てる。 りん、りん、と鈴の音が鼓膜を揺らす。

綾が近くにいるとすぐにわかる。 その音が私に教えてくれるから。



「……いろは、何かあった?」

「ど、どうして?」

バレないと思っていたのに。 顔を上げれば、綾は真剣な顔でこちらを見つめている。


「私はいろはのことならなんでも知ってる。 泣きそうな時は歩きながら私に寄りかかるのも知ってる」

おでこにひとつ、口付けが落とされて、それを合図にほろほろと涙が溢れていく。


「私に隠し事なんてしなくていいのに。 涙も我慢しなくていい。 どんなことでも私が受け止めてあげるから」

堪えきれずに抱きついた私を、綾は軽々と片腕で抱き上げる。 首に腕を回せば、柔らかな雨の匂いが強くなった。 涙が質の良さそうなお着物に染み込んでいく。 綾はそれを気に留めずに、ゆっくりとお山の参道を歩く。


からん、ころん。

参拝客のいなくなった静かなお山は、不思議の宝庫。 ふわふわと狐火が浮かび、ひとつふたつ、心配そうに私の周りをくるくると回る。


「…………あのね」

「……うん」

「神社の子なのに親がいないなんて可哀想って言われたの……」

「消してこようか」

綾の回答は素早く、怒気を孕んでいた。 私だけが気付けるほどの、静かな怒り。 柔らかな笑みはとっくに消えていた。 みるみるうちに黒い羽根が集まり鴉天狗の顔に。


「ううん、いいの……私には綾がいるから」

「……そう。 いろはがそれでいいなら」

ひとつ、瞬きの間に綾のお顔は戻る。


「きみが可愛いから妬んだんだろう。 気にすることはないよ。 私はいろはを愛しているからね」

やわらかい頬が寄せられて、応えるようにそれに擦り寄せる。


「……ねえ、綾?」

「なんだい?」

「私って、変なのかなぁ……お父さんとお母さんがいなかったら、常に悲しんでいなきゃいけないのかな。 楽しそうにしてちゃだめなのかなぁ……」

ぴたり。 綾の足が止まる。


「そんなことはない。 両親がいなかったら不幸だなんて誰が決めたんだい? いろはは今、不幸なのかい? 孤独なのかい?」

「ううん」

不幸でも、孤独でもない。 両親は亡くなってしまったけれど、おじいちゃんがいる。 綾もいる。


「では、いつも通り笑っていなさい。 いろはの幸せを害する者などここには居ないのだから」

「…うん、ありがと」

「満たされない人というものはね、己が持っていないものを持っている者を妬ましく思ってしまうものなんだ。 無い物ねだり、と言うだろう? …でも、いろははそちら側の人間にならなくて良い。 気に留めなくていい。 取り合う価値もないのだから」


綾は怒るのが苦手な私の代わりにいつも怒ってくれる。 悲しんでいる時はすぐに察して泣かせてくれる。 楽しい時は一緒に笑ってくれる。 良き恋人のお手本のようなひと。 大好き。




「ただいまぁ」

「はい、おかえり」

綾は当たり前のように本殿の扉を開けて、傘についた紅葉をはらう。 閉じた傘は、丸い傘立てに。 花の飾りがついたそれがお気に入りだけど、今はそんなことを考える気持ちにはなれなかった。


上り框に座る私の足元に跪いて、靴を脱がしてくれる。 この山を統べる総大将の綾にとって、膝をつく相手は私だけだろう。 それが、今はなんだかとっても嬉しかった。


「さあ、おいで」


差し出された手を取って、連れられるままに廊下を歩く。 硝子が嵌め込まれた戸から、四季折々の花が咲き乱れる中庭が見える。


「ほら、おてて洗いなさい」

「ん」

真っ白な石で作られた洗面台で手を洗う。 もこもこの泡を手につけた綾が、幼子にするように私の手を取ってにぎにぎと。


「うがいは?」

「ん」

「よし、えらいえらい」

「ん〜」

頭を撫ぜてくれる手に頭を擦り寄せて、そのまま抱きつく。 胸に顔を埋めると、嗅ぎ慣れた綾の匂い。 お香の匂いと、ほんの少しの雨の匂い。


「……やっぱり消してこようか」

私の様子を窺う色があった。 心配と、隠しきれない怒気と。


「綾までわるものにならなくていいから」

「私はいろはを害する者の方が悪いと思うけど?」

「……いいの。 綾がいてくれればいいの」

綾がいてくれればもう何も望まない。 綾さえそばにいてくれれば。



「…………いろはがそれで、いいのなら」

再び鼓膜を震わせた言葉は、噛み締めるように、己に言い聞かせるようだった。


「……ありがと、綾」

「きみは私の愛し子だからね」

膝をついて、真正面から瞳を覗き込まれる。


「私はいろはの味方だから」

「うん」

「そばを離れることはないから」

「うん」

「愛しているよ、いろは」

「……うん」


優しい神さま。 優しすぎる神さま。

きっと、迎えに来る神さまなんて、そうそういない。 人の子に真剣になって語りかける神さまも、そうそういないだろう。

ちょっと変わった神さま。 大好きな神さま。



「綾ぁ」

「なんだい」

名前を呼ぶと、こてんと首を傾げる。 その仕草が、私は昔から好きだった。 真剣に私の言葉を聞いてくれるから。


「ずっと一緒にいてね」

「もちろん。 私がきみを離すと思うのかい?」

「ん〜ん」

私の返答に、綾は満足そうに口角を持ち上げる。


「……さて、夕飯にしようか。 今日はいろはの好物を作ったからね」

「やったー! 綾、だいすき〜」

力いっぱい抱きついても、少しもふらつかない綾が大好き。 私の全てを受け止めてくれる綾が大好き。


「んふふ、よく知っているよ。 お腹いっぱい食べたら、ゆっくり温かいお風呂に入って、眠くなるまでお話をして、手を繋いで寝よう? ずっと隣にいるから」

「うん!」

握った手は、あたたかい。

綾の隣は、木漏れ日が当たるように穏やかだ。


「あ、そーだ、弟さん……結さまが近々顔出してって言ってたよ?」

結さま。 綾の弟神。 本当はもっともっと長い名前なんだけれど、小さい頃からユイさまと呼んでいる。 初めて出会ったのは両親のお葬式が終わって、おじいちゃんに引き取られた時。 本殿の屋根に座るひとを見かけて『おじいちゃん、あのひと、屋根に登ってて危ないよ』って声をかけたらすごくびっくりされたっけ。 そのあと、綾の弟だと聞いてまたもやびっくりした。 綾は私だけの秘密のお友達だと思っていたから。


「なぜ」

少しだけムッとした顔で私を見る。 やや、珍しい。 綾はいつも優しくて穏やかで、滅多に怒らない。 私が害されることには敏感で、そういう時はすぐに怒るけれど。


「なぜって、綾に会いたいんでしょ〜」

一歩先を歩く綾の顔を覗き込む。 ふたりは仲が悪いというわけではないのに、私が綾と恋仲になってから、どうしてか少しギスギスしている。 ……綾の方が突っかかるというか。


「私は特段会いたいとは思わないね。 いろはと同じ屋根の下で暮らしているなんて憎らしいほどだ」


おや、これは。


「同じ屋根の下だなんて〜。 本殿とお家は別の建物って教えたじゃない」


「だとしても。 私はこの山から出られないのに」

私の方が愛しているのにずるい、という声は私の肩に消えた。 顔を埋めるようにしてもぞもぞと呟いたからだ。


「綾ぁ、大好き大好き大好き!」

本当に大好きだ。 優しくて、かっこよくて、頼りになって、時々いじらしい。 私より一回りも二回りも大きいひとを可愛いとさえ思ってしまう。


「おっと、急に抱きつくと危ないよ。 私は嬉しいけれど」

「毎日お山に来るから! 毎日会いに来るから! 」

ぐりぐりと頭を擦り寄せる。 頭を撫ぜてくれる手が、愛おしい。


「そうだね。 早くいろはもこの山で暮らすようになればいいのに」

「暮らす?! いいの?!」

顔をばっとあげると、綾は少しだけ目を丸くしていた。


「……今更何を。 私はいろはと共に暮らすと思っていたのだけれど? それは私だけだったのかな」

「ち、ちがう〜! 綾のいじわる! 一緒に暮らしたいに決まってるじゃない!」

「ふふふ、それは良かった。 私はもうとっくにいろはの花嫁衣装を用意し始めてるのだから」

ふにゃりと笑って、長い指先でくるくると私の髪を弄ぶ。


「え〜! 嬉し〜〜! 綾、大好き〜〜!!」

ぎゅうううと抱きついて頬を擦り寄せる。 くすくすと楽しそうな笑い声が降ってくるのが心の底から嬉しい。


「愛おしい花嫁が着るものは自分で仕立てたいものだろう? いろはの帰りを待ちながらひと針ひと針縫い進めているよ。 完成まであともう少し待ってくれるかい?」

「うん、うん! 待てるよぉ、綾〜〜!」

「よかった。 これで断られてしまったら困ってしまうところだったよ。 もちろん逃すはずはないのだけれど」

琥珀の瞳が、眇めるように細められる。


「んふふ。 綾が見逃してくれないのは知ってるよお。 私のことになるとなんでもお見通しだもんね」

「まあ、ね。 ……いろはが昨夜弟と内緒話をしていたのも知っているよ? 弟とはいえ、夜に男と二人きりになるのは感心しないなぁ」


綾は立ち止まる。 居間まではあともう少し。 障子から漏れる光が、廊下の床板を照らしている。


「……それは、嫉妬?」

「…………悋気くらい起こすさ。 私だって男だもの。 いろはが頼るのは私だけがいい」

「……結さまがね、綾に嫉妬させたいなら、夜に本殿を通り掛かるだけで良いって」

「あいつにしては、よく分かっているじゃないか」

蜂蜜色の瞳が、射抜くように鋭く光る。


「綾、怒ってる……?」

「怒るわけがないよ。 つまりは、いろはは私に嫉妬して欲しかったというわけだね?」

「……うん、そういうこと」

いたずらが見つかってしまった子供のように、視線を外す。 なんだか、ほんの少しだけ恥ずかしい。


「可愛らしいことじゃないか。 じきに、嫉妬なんてする暇もなくなる。 私たちは夫婦になるのだから」


ぽかん、と口を開けた。


「え、えええ」

「なぁに」

「綾って、結構グイグイくるタイプ……?」

「ぐい……?」

「んーと、強気って言うのかな、絶対に手に入れる〜みたいな」

「ああ。 囲い込む気質はあるだろうね。 いろはが私の元から逃げ出せないように」


そ、そうなんだ……。

優しくて穏やかな綾の、別の一面が見れてとても嬉しい。

ニタニタと笑みが堪えきれない私と、そんな私を幸せそうに見つめる天狗さまが、そこにいた。




ーー




「そろそろ寝ようか」


お腹いっぱいご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、お布団の上でごろごろしていたら。 綾が漆塗りの小箱を持って部屋に入ってくる。


「お香を焚いてあげよう。 いろはは白檀の香りが好きだったね?」

「うん、綾も好きでしょ?」

「そうだねぇ、いろはが好きなものは私も好きだよ」

さらりと殺し文句を言うのだから、このひとは。


「よしよし、良い子だねぇ。 ほら、目を瞑って? 寝物語を聞かせてあげよう。 とんとん、と優しく寝かしつけてあげようね」

お布団をきっちりと掛けられて、髪の毛を撫ぜられる。 あっという間にうとうと。 綾の手は魔法みたいだ。


「ねえ、綾……?」

瞼が重たい。 それでも、まだ綾とお話ししていたい。


「なぁに?」

私の横に寝転んだ綾が、ゆったりと応える。


「神社の子って、みんな神さまが見えるのかなぁ」

「そんなことはないと思うな。 見えない方が多いと思う」

「そっかぁ」

へらり。 嬉しくて、顔が緩んでしまう。


「嬉しそうだね」

そう言う綾も嬉しそうだ。


「うん、嬉しいなぁ。 こうやって綾と出会えたことが」

「そうかい。 私も嬉しいよ」

ほらね。 私だって、綾のことならなんでもお見通しなの。


「んふふ、綾、だぁ〜いすき」

「私も愛しているよ」

ちゅ、と口付けがひとつ。


「さぁ、目を瞑りなさい。 怖いことは何もないから」

とん、とん。 つられるように、たちまちのうちに眠たくなる。


「今日はなんのお話にしようか」


「ん〜…お姫さまのお話がいいな、お山の…」

ふにゃふにゃ。 まだ綾とお話ししていたい。 そんな私を見て、綾はふくふくと嬉しそうに笑っている。 大好き、綾。


「いろはは昔からそれが好きだねぇ。 いいよ、じゃあ今日はそのお話にしようか」




昔々、とあるお山に、天狗の総大将と小さなお姫さまがおりました。

これは、後に夫婦になるふたりのお話で──



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世話焼きの天狗さまに眠るまでひたすら甘やかされるお話 ライ @Ra18Fox

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画