彼の感謝はその証

彼の感謝はその証

　— Y氏と、その同じ境遇の方達に捧げます　ー

「56歳まで生きれただけでも十分やわ。

俺という人間がおったという事を覚えといてさ？」

薬の副作用で黒ずんだ顔色で彼はニヤっと笑う。

　私の職場で末期癌との闘病を続けながら働いていた同僚が退社した。

　月初めに黄疸が出た彼は、今月いっぱいで仕事を辞め、その後は生活保護を受けて入院生活に入ると言う。

事実上の人生の終わり方を彼は迎えようとしていた。

「生まれてすぐ死ぬ子供もいれば、癌で20歳そこそこで死ぬ子もいる。

そういう子達に比べれば、俺は56歳まで生きれただけでも感謝かもね」

驚きを隠せない私に彼は微笑みながらそう話した。

末期癌の人間に黄疸が出るという事がどういう事か、癌で母親を亡くしている私はその意味が分かっている。

その場で私は「なに言ってるんですか。大丈夫ですって！早く良くなって戻ってきてくださいよ！」と二人きりの作業場で私は彼を元気付けようと笑って返事をするしかない。

人というものは、こういう時に誰もが考える言葉しか頭に浮かばないものなんだと自分のボキャブラリーの無さを痛感した。

　どこかで人間は生きた時から平等だと聞いた。

でも、彼を見ているとそれは本当だろうか？と思えてくる。

生まれつき大病を患っている人間がいれば、健康な人間もいる。

病気ですぐに死んでしまう人もいれば、すくすく育つ人もいる。

ただ、『この世界に生まれたと言う事実』は平等だろう。

　彼は50歳の頃から癌を宣告され、いろいろな薬物治療を受けた。

その副作用の為に、皮膚は黒ずみ、手の感覚は衰え、重い物を持つだけでも一苦労。

それでも彼は何かある度に冗談を言って笑う。

「いやあ、新しく医者がくれた薬があんまり効かなくてさ？体の副作用は出るクセに効果がないのさ」と、笑いながら私に話しかけたりした。

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　そんな彼を軽くあしらう同僚もいる。

年配の女性で、彼の仕事ぶりを見るたびに文句をつける。タバコを吸いながら、彼の事をあまり知らない連中に「アイツはダメな奴だ。体が悪い事を言い訳にして仕事をゆっくりやっているのさ」

「この間もアイツが仕事を終わらせられないから私達が手伝ってあげたの。本当いい迷惑」と彼と一緒の仕事をした事もない他の作業員に言い広める。

それを聞いた作業員は彼は全く仕事のできない役立たずだと思ってしまうのに。

そのくせ、会社の上層部の役職者には「こないだ、彼が体調悪いのを見たから、無理したらダメだよ！って言ってあげたんですよ！」と、まるで自分は彼の身を案じている風にみせる。

　俗にいう『クソババア』である。

その『クソババア』は二人組なので『クソババアーズ』と呼ぶのが正解なのかも知れない。

　ある日、一人の女性が私に涙目に訴えてきた。

『クソババアーズ』の一人が、その女性の作業が遅れている為にフォローに入った時に「え？まだ終わってないの？全然進んでないじゃないの？もー。

手伝いに来て損したわ」と言われたらしい。

その女性は作業中に想像外のトラブルが発生し、その解決に必死な時に『クソババアーズ』の一人が手伝いが来たので本気で感謝したらしい。

だが、その感謝を打ち消す様な罵倒を受け、悔しくて涙を堪えながらその作業にあたったそうだ。

　その『クソババアーズ』の一人が体調を崩し1日仕事を休んだ時があった。

休み明けの翌日に出勤すると「ごめんごめん！休んでる間に、代わりに仕事やってくれてありがとう。感謝するわ」とフォローに入った作業員に軽く笑う。

だが、その翌日に病休中にフォローに入っていた作業員の仕事のフォローに入るように指示が出ると「どうして私がやらないといかんの？あんなの簡単な仕事でしょ？」と作業拒否である。

　その様な職場の中、彼は「あいつらの事は気にしない方がええよ。時間がもったいないよ？相手してたら損するで」と『クソババアーズ』の被害者達を諭す。

「しかし、納得いかん！言いたい事言って、好き放題やって！腹立つわ！」と嘆く作業員。

作業リーダーも『クソババアーズ』が仕事ができるので余計に扱いに困っている。

「放っとけば良いよ」と彼は相変わらず笑いながら言う。

そんな彼を見ていると、どうしてそんなにも気持ちが強いのだろうか？といつもわたしは感心していた。

彼もその『クソババアーズ』の被害者なのに。

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　50歳から始まった彼の投薬治療は結果としては良い効果が表れなかったようだ。

複数の薬を試し、体は常に慢性的な倦怠感に悩まされ、指先や足先は痺れ、皮膚は色濃く黒ずんでいく。

癌は日に日に彼を蝕んでいた。

　一年程前からだんだん彼の顔色は衰えを帯び始め、明らかに体を重そうに動く様な日も増え始める。

仕事も体調不良で休む日も出てきた。

だが、彼の笑顔は衰えを見せない。

彼はひょうひょうと冗談や笑顔を絶やさない。

仕事の不満や文句も口から出るが、最後は冗談や笑顔を見せてイヤな気持ちにさせないのだ。

　自分の体を蝕んでいる癌の事や、その薬の副作用が強く作業もままならない事、彼の口からはいろいろな愚痴も聞こえてくる。仕事の事もだ。

だが、その話し方や表情、何よりも体が痩せるわけでもなく、頭皮が薄くなるわけでもなく、知らない人が見れば健常者に見えるほど彼は健康的に見えた。

　もし自分が同じ立場だとしたら、彼と同じ振る舞いができるだろうか？

私は彼ほど強い人間はいないと心から尊敬している。

そして今…

「今月いっぱいまで仕事をして、生活保護の申請をしたら入院生活や。

君も体に気をつけてな。無理したらあかんで？」

と、この日もいつものように俺の体に気を使ってくれた。

　私自身一年程前に怪我で半年近く会社を休み、今も後遺症が残っている。

彼は自分自身の体より私の体調の方に気を使い、二人で仕事をする時は率先して大変な内容の仕事を引き受けてくれた。

本当に彼には頭が上がらず感謝しかない。

　そんな彼が日に日に体の不調を訴え、重い体を引きずる様に作業をする姿を見ると、私自身弱音を吐くわけにはいかない。彼に比べれば私の後遺症など軽いものだ。

私は彼の背中から多くを受け取ったと思う。

「今月の何日に退社するつもりなの？」と二人きりの作業場で私は彼に聞く。

「今月末まで働く事を考えてるけど、それまでに体が言うことを聞かん様になったらそれまでやな」と少し寂しそうに話すと彼は続けた。

「56歳まで生きれただけでも十分やわ。

俺という人間がおったという事を覚えといてさ？」彼は照れ臭く冗談っぽく笑う。

「なに言ってるんですか。大丈夫ですって！早く良くなって戻ってきてくださいよ！」陳腐な言葉で笑って励まそうとする私と彼の二人はそれを最後に次の作業に取りかかった。

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　彼との会話の翌日、私は久しぶりにバイク仲間と共にツーリングに出掛けた。

天気は晴天。絶好のツーリング日和。

明日も休みだから今日はロングツーリングに決めていた。

いつもの峠道から知らない峠道へ、いつもの街から知らない街へ。

私達のバイクは気持ちよく、風を体に感じながら走っていく。

（ああ、気持ちいい。バイクはいつ乗っても良いなあ。）

今日は天気も良いし、久しぶりの仲間とのツーリングは最高だ。

うまいメシを食い、お土産を探し、そしてバイクを走らせる。

風を感じながら私の黒いホンダは気持ち良い快音を奏で峠道を走っていく。

　久しぶりのロングツーリングは、日頃の疲れを吹き飛ばす様に気持ちよく時間を忘れ癒してくれる。

気がつけば青空は次第に夕暮れに変わり、バイク仲間はそれぞれの帰路につく。

こうして自由にバイクを乗れるのも妻に感謝だな。

そんな事が頭に浮かぶ中、今日一日のツーリングの思い出をもう一度噛み締めながら、私も帰路につく。

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　２日間の休みを堪能した私は、いつもの様に仕事に行き、そして一日が終わろうとしていた。

交代勤務の為、もう時計の針は深夜を指している。

帰宅前に一息入れようと休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、ある一人の同僚から声を掛けられた。

「え？嘘でしょ？」

私は同僚の言葉に息を呑んだ。

「昨日、急に具合が悪くなったってさ。もう、仕事に出れる状態じゃないみたいよ」

私はその女性同僚の言葉が理解できずに呆然とした。

「こないだ喋った時に、『数年ぶりに新薬ができてさ、それを今度使えるみたいでうまくいけば体が良くなるかもしれない。新薬が開発されるのってあまり無いみたいで、俺はツイてるわ』って喜んでたんやけどね」

　その新薬が効かなかったのか、それとも黄疸が出た為に投薬ができなかったのかはわからないが、彼の容態は昨日急変した。

「じゃあ、仕事にもどるね？」と彼女は作業場に戻り、深夜の休憩所で私は一人缶コーヒーを手に無気力のままソファに座った。

ウソだ、ウソだ、ウソだ、ウソだ…

ウソだ！！

「マジかよ？…」

誰もいない休憩所で頭をうな垂れたまま一人呟くと、彼の言葉が頭に浮かんだ。

「生まれてすぐ死ぬ子供もいれば、癌で20歳そこそこで死ぬ子もいる。

そういう子達に比べれば、俺は56歳まで生きれただけでも感謝かもね」

『感謝』…

彼はそう言っていた。

人は生きている間に何回『感謝』するのだろう？何百回、何千回？何万回か？

クソババアーズの様に軽い形だけの『感謝』をする者もいれば、女性同僚の様に危機的な状況を救ってくれた人に『感謝』する者もいる。

私の様に家族や彼に対して抱く『感謝』の気持ちもあるし、自分を救ってくれた出来事や神様の様なものに対しての感謝もある。

彼はこの世界に生きている事に『感謝』をしていた。

　毎日、朝起きて仕事をし、体や仕事の不満や愚痴を口にし、そして同僚達と冗談を話し笑い合う。

それが毎日繰り返せれる事に彼は『感謝』をしていた。

　彼は何か目に見えない理に『感謝』をしていたのだろう。

人は『救われる様な本気の感謝』に何度出会えるのだろうか？

　人の一生で何十回何百回も無いのじゃないのか？と思う。

彼の最後の『感謝』は、それは彼の人生にとって何回目の感謝になるのだろうか？

ソファに座りながら缶コーヒーを一口飲むと、私は物思いにふけた。

　彼がクソババアーズや周りの社員から軽くあしらわれていても「気にするな」と悟る様に話していたのは、そういう者達と接する事も彼にとっては『今、自分がこの世界に生きている』と実感する『証』だったのだろう。

自分を蔑んでいる者達と関わる事さえ『感謝』をしていたのかも知れない。

　休憩所のテーブルに置いてある雑誌に虚ろに目が行くと、その表紙に猫を抱いた女の子の写真が載っている。

それを見て彼の言葉を思い出した。

「猫をまた飼いたいけど最後まで世話できないから飼えないんだわ」

寂しそうな笑顔を見せる彼の姿を思い出すと、ポタポタと涙が出てきた。

私は深夜の休憩所で、一人ポタポタと涙を流した。

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あれから何年経ったのだろうか。

私の口元には白い髭が生え、その年齢を語るに相応しいアイデンティティになっている。

彼がその後どうなったのかわからない。

彼が入院してから連絡は取れなくなり、職場では残された私達は彼の退職した穴埋めの為、その仕事に忙殺される毎日を送くる。

そして、時間は止まる事なく流れていった…

　クソババアーズの一人は彼が退職した半年後に「こんな仕事、これ以上やれるか！」と退職した。

クソババアーズのもう一人は、シングルマザー故に子供達の為に仕事を続けているが、仕事を覚え熟練した若者達に言葉を合わしてはもらっているが、ほとんど相手にされていない。

　私はというと、黒いホンダのバイクが黒いトライアンフに変わった。

今はそのトライアンフを洗車し、空を見上げて煙草を一服しているところだ。

　桜の蕾は少しずつ開き出し、少し風は冷たいが春の訪れを感じさせるには十分だ。雲ひとつ無い青空の中、まだ濡れているバーチカルツインを見てその機械的な美しさに身惚れていると、久しぶりに彼の事を思い出した。

「俺も昔は400ccのバイクに乗ってたんやで？事故って廃車になったけどな。」

彼は武勇伝を語る様に笑って話した。

「でも、バイクに乗って海岸とか走ると最高に気持ちいいよな！」とニッコリ笑う。

私はクスッと笑いながら煙草の煙を吐いた。

人間は死ぬと火葬場で焼かれ灰になる。

その焼かれた時の煙は空に舞い、それはやがて大気の成分になり、雲になる。

その雲からは雨が降り、その雨は川に流れ、海に流れる。

なるほど、生命の帰るところは海だとは上手く言ったものだ。

そうか、彼に会いたくなった時は海に行けばいいのだ。

もし、彼がどこかで生きながらえていればバイクに乗って何処かの海岸を走っているかも知れない。

海に行けば彼に会える。

私はトライアンフのエンジンに火を入れ走らせる。　

海へ。