お針子姫と鉱山王の秘密
草群 鶏
第0話 初夜
長い一日が、ようやく終わろうとしている。
ぽすんと腰を下ろした寝台の、ぱたんと倒れ込んだ上掛けのなめらかさ。風を起こすたびにきらりと舞い上がるのは、肌にこれでもかとはたき込まれた輝石まじりの白粉だ。扇型に投げ出された髪も、丁寧に梳られ香油を塗り込められて絹糸のよう。いつもはほとんど黄褐色だけれど、今日くらいは金髪を名乗ってもよさそうだ。
(でも、磨いたところで宝石にはなれないのよね)
リリアンヌ=デュラン。齢は二十二。
交流のある令嬢たちほぼ全員の嫁ぎ先が決まった十八歳のころには、リリアンヌは独身を貫く覚悟をかためていた。決して相手を選り好みしたわけでも、ましてや素行が悪いわけでもない。しかし、リリアンヌは縁遠いまま。ただ、自身にまるで非がないかと言えば、心当たりはなくもない。
大陸貴族のなかでも末席に位置するデュラン家、末っ子長女のリリー。家業は繊維業だが、大した資産もないどころか凝り性の両親が次々に新しい技術に手を出すものだから、一家は領内の切り盛りだけで精一杯であった。金勘定の才長けた兄のオリヴィエと、リリアンヌには繊細な図案を生み出す器用な指先があり、兄妹が職工たちを率いる形で事業を守り立ててきた。
そんなわけで、良く言えば若いうちから見聞を広めたリリーは、悪く言えば令嬢としては世間擦れしてしまったのである。よく知りもしない男のよくわからない話に微笑み返すより、材料と仕入れ資金のやりくりや、新しい図案の量産化について考えているほうがよほど面白い。こうしたリリーの冷めた姿勢が透けて見えたのか、年頃になって持ち込まれた縁談は、顔合わせまではたどりつくものの、その後ことごとく流れていった。
選ばれないことにはもう慣れた。さいわい手には職があり、兄は昨年奥方を迎えて家も安泰。血眼になって娘の嫁ぎ先を探すような両親でもないから、このまま職人たちに囲まれて穏やかに年老いていくものだと思っていた。
ところが。
(まさか私にもこんな日がくるなんて)
羽のように軽く薄く、透かし模様だらけで心許ない夜着。寝台に並べられた二人分の枕と、ほのかに鼻腔をくすぐる薔薇の香り。これで寝室がピンク一色だったらどうしようかと思ったが、絞られた明かりに浮かび上がる調度は故郷を思わせる淡い草色。
初夜を迎える二人への、配慮の行き届いた設え。
緊張はもちろんしているが、こんなところにまで家格の違いを実感してしまって、リリーは心を鎮めるべく深く息をついた。
今日ほど多くの人に傅かれ、多くの人の目に晒されたことはこれまでの一度もない。人前に出たことといえば幼い頃のお誕生日会と、せいぜいが社交会デビューのときくらいのもので、婚礼というのがこんなにも忙しく気疲れするものとは思ってもみなかった。
ふかふかのキルトに顔を埋め、かぐわしい香りに満たされた仄暗い部屋に、ようやくひとり。これはまぶたも重くなろうというもの。
あまりの心地よさに抗えずベッドに潜り込んだリリアンヌの意識が遠のくのに、それほど時間はかからなかった。そっと開いた扉にも、ゆっくり絨毯を踏みしめる足音にも、覆いかぶさる影にももちろん気づかない。
やがて、首筋を撫でる冷たい感触。
リリアンヌは夢うつつに首筋のなにものかを探り当て、ぐっと握りしめる。
(なにかしら、お兄様?)
ちがう、と同時にはっと目を開けた。
「イサーク様!」
飛び起きた新妻に、硬質なアメジストの瞳がふっと和らいだ。
イサーク=レ=ロッシュ。国境の守護を担う、鉱山もちの大貴族。リリアンヌの夫となった男である。
日中はすっきりと上げて撫でつけていた黒鉄の髪はやわらかく下ろされ、こめかみあたりに銀髪が一筋。広い肩幅、厚い胸板。膝を引き寄せたリリアンヌはそばに腰掛ける彼の影にすっぽりと覆われてしまった。年齢はひとつ上、なのに兄よりもはるかに大きい。夜空色のガウン一枚を羽織った無防備な姿が、彼の身体的特徴をさらに際立たせていた。
こちらに乗り出した身体が、すっと遠のいて居住まいを正す。
「待たせて悪かった」
「いえ」
居眠りのせいで、待ちくたびれたように見られたか。あまりにバツが悪くて、上掛けを抱きかかえたままうまく声が出ない。
「そう緊張しなくてもいい。今日は、すこし話がしたい」
真摯にリリーの瞳を捉え、太く低い声のなかに気遣いの響き。
「……お話、ですか?」
「うむ」
俯いたイサークの喉がぐううと鳴る。苦悩、あるいはためらいの音。もしや、とリリーの心に可能性の影がさす。
そうだ、引き返すなら今のうち。哀しみは時間が癒やしてくれよう。
「もし、私では不足、ということでしたら……」
「それはない!」
吠えたイサークは、意を決したようにガウンの腰帯をほどきだした。
「そ、そんな……」
余計な一言が引き金になったか、あまりに性急なはじまりに目を白黒させるリリーに対し、彼はなにか思い詰めた様子。
「私の怯懦で貴方を傷つけるのは本意ではない。見てもらうのが早い」
そう言うが早いかはらりと落とされたガウン。ああなんてこと、目のやり場に困るわなどと薄目で構えていたリリーだったが、なんだか様子がおかしい。
「……今しかないと思ったのだ」
しょんぼりと肩を落とすイサークに、リリーは本気で目を疑う。
「イサーク様、まさかこれは」
「そう、そのまさかだ」
分不相応な縁談に、最悪、初夜を前に離縁もやむなし、と覚悟はしていたけれど。
(さすがにこの展開は想像できなかったわ……)
この夜のイサークの決死の告白が彼女の運命を大きく動かすことになるのだが、そんなことを知るよしもないリリアンヌは、どう声をかけたものか何も思いつかずに、ただいたずらに口を開けては閉じるのであった。
お針子姫と鉱山王の秘密 草群 鶏 @emily0420
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