明日の夢に繋げて

有未

明日の夢に繋げて

 途切れた記憶は曖昧で、薄く、しかし剥がすことの出来ないベールがずっと纏わり付いていた。何をしても何を見ても何を聞いても、心の奥で私を掴んで離さない何かがあった。それでも毎日は過ぎて行った。悩みも楽しさも悲しみも、時間と共に進んで行った。


 けれど、時々、思うことがある。初めはインスピレーションのようなものだった。しかし、やがてそれは形を取り出して、私は私と向き合わざるを得なくなった。まるで、深い海の底へと向かう魚のように、自分の心へと私は潜った。私が私である為に。





「どうしたんだ? そんな顔して」


 どんな? と私が聞き返すと、今にも死にそうな顔、と彼は答えた。


「そんな顔、してるかな」


「してるしてる。何かあったんでしょ。だから電話、して来たんでしょ」


 強く光の降りる暑い午後、私達はベンチに腰掛けていた。目の前で気持ちの良いくらいに水を噴き上げる噴水を眺めながら。微かに吹き渡る風は葉を揺らし、小さな音を生んだ。水が光を反射して散る。時間が静かに動いて行くようなこの場所が、私は大好きだった。私達は会う時のほとんどの場所を此処と約束した。彼もまた、私と同じだったからだ。


「綺麗なものには目が行くでしょ?」


 唐突に切り出した私に彼は少し驚いた風だったが、頷いた。


「でも、あれも綺麗、これも綺麗ってやってると、その時はすごく楽しいけどあとでなんだか寂しくならない?」


「まあ、そうかもしれない」


「それが今、とても怖い」


 日差しは緩むことなく降り注ぎ、私達の上にある小さなひさしがそれを和らげていた。私達は少しの間、黙りこくる。代わりに蝉の声がいやに大きく響いて聞こえている気がしていた。私は意味もなく、ああ、夏なんだと思った。


「お前はどうしたいんだ?」


 彼は穏やかに聞いた。


とおるは笑わないんだ」


 私がそう言うと、


「だって俺も、そういうの考えることあるしさ」


 と、彼は言った。


 私達がこうして話すようになったのはつい最近で、初めて会ったのは中学三年生で同じクラスになった時だった。以来、三年近くが経っている。当時、同じクラスと言っても特にお互いに親しく話をすることはなく、ただのクラスメイト程度の認識に過ぎなかった。


 その年の夏、流しそうめんをするから良かったら来てくれと彼に誘われて行ったことが交流の始まりだった。近所の神社という場所の指定に私は驚いたのだが、彼はその神社の神主の息子、長男だった。更に行って驚いたのは、クラスメイト十数人が既に集まっていたことだ。何のことはない、彼はクラスメイト全員に流しそうめんの招待状を渡していたのだ。来ていない子もいたが、中学校最後の夏休み、受験勉強で忙しいのかも、と私は他人事のように思っていた。私と仲の良い子は其処にはいなかったが、私は初めての流しそうめんに夢中でそんなことはたいして気にしていなかった。他にも女子がいたし、その後はケーキが出たりしてちょっとしたパーティーのようになり、なかなか面白かった。


 神社の跡取りだという大杉透と話らしい話をしたのは、私はその日が初めてだった。妙に気が合って、別々の高校へ行った後も私達はたまに電話で話をしていた。


 そして今に至るわけだが、透は中学一年の時から私を知っていたらしい。私は委員の代表などを良くやっていて、目立ったそうだ。確かに、ピアノの伴奏や生徒会の書記などもやっていたし、言われてなるほどと思った。


 今、思うと、どうしてあんなに色々とこなしていたのかは分からない。単純にやってみたかっただけかもしれない。あるいは、其処にいる自分が何を出来るのか試したかっただけかもしれない。実際は誰にだってやれば出来ることをしていただけで、自分らしさのないような空っぽの自分があとに残った。それが本当の私なんだと、誰かに、何かに、言われた気がした。私は何とも言えない虚しさのようなものを感じていた。


 私は透の考え方、価値観が好きだ。例えるならば、光合成をしない向日葵、芯の減らないシャープペンシル、沈まない昇りっぱなしの太陽、そんな感じだ。そう、それが透だ。何もかもを覆して、出来ないはずがないと人に思わせるような生き方をしている。其処には私の見たことがない不思議さがある。私の聴いたことのない音がある。深く広がる世界がある。透の中に透だけの公式が存在し、それ続く答えが際限なく展開されていることを知った時、私の目に映るものも映らないものも一斉に姿を変えて行く感覚になった。だからと言って、私がそれ以降、目の醒めるような世界を感じて一日一日を過ごせたとは単純には言えない。けれど、今までと全く違うとは言えなくても、確かに私は変化した。それがたとえ、些細なことだとしても。


「透はどうする? もしも、全部が夢だったとしたら?」


 家族も友達も先生も。自分の住んでいる家や街も。そういうもの全てが現実には有り得ないものと、今、この瞬間にでもなってしまって。今日まで此処で生きて来たつもりの自分が、此処ではない何処かへと行ってしまったら? そうしたら――。


「どうするって……どうもしないよ」


 目を細めて、上を見上げる透。


 こうして横に座っている透さえも、幻だとしたら。


 いつ頃、私はこんな変な考えに取り付かれたのだろうか。こんな、夢物語さながらの思考に。それとも、誰しも一度は思うことなのだろうか。私のように。


「うん、俺はどうもしないな。受け止めて、認めるしかないよ。仮にそういうことが起こったとしたらさ。それに、周りが全部変わっても、俺が俺っていうのは変わらないよ。何、そんなこと何てことないよ。もしかしてずっと考えてたのか?」


 頷く私に、透は続けた。


「此処が何処かなんて、関係ないって。全部が夢かもって考えるなら、いつ元に戻っても良いようにしておくのが良いんじゃないの?」


「どういう意味?」


「後悔しないようにしておくってこと」





 “欲しいものや叶えたい願いがあるなら、手に入れたり叶えたり。そうする努力をしたり。いつでもそうやって動いていれば、後悔は生まれないよ。いつか何処かに、もしもだけど、戻ることになっても。少なくとも、俺は。”


  透は、そう言った。最後に、なかなかそううまく行くものじゃないけどな、と付け足して。


 振り返る自分は後悔ばかりのような気がした。少し、悲しい気もした。もっと面白いことを探して、笑っている自分を多く思い出せる、そういう風に毎日を過ごして行っていたら良かったのに。どうして、こんなことを思い始めたか分からないけれど。


 叶えられない願い。そう決め付けて、世界という毎日を遠くから見ているだけの自分。何かを何かに期待し続けて、その望みもいつしか忘れたこと。流されるしかないと思った。そして、その与えられた環境を憎むことも忘れて、変えることも忘れて、都合の悪いことをなすり付ける誰かや何かを探すことで自分という存在を保っていた。透に会って少しでも変わった思っていた自分は、ただ、そう思いたかっただけで何も変わってなんかいなかったのかもしれない。そうして自分を守っていたかったのかもしれない。何故なら――。


 其処まで考えた時、私は奇妙な感覚に陥った。なくしたはずのものを取り戻せそうな、何かを、思い出しそうな。誰にでもきっと経験のあるであろう、この感じ。


 窓の外はもう暗く、夜空には満月にあと少しの月が懸かっていた。それは足りない何かをもう少しで得られそうな、まるで私のようだった。


 ベッドに横になり、瞼を閉じる。だんだんと眠りに落ちて行く先で、私は夢をみた。





 波音が聞こえている。静かに寄せては引いて行く、繰り返される音。不規則に繰り返される、波の音色。


「何をしているの?」


 その瞬間、視界が一気に開けた。光が広がる。


「ねえ。何をしているの」


 横に立つ、知らない子供。その瞳は、無邪気で、透明な光を湛えていた。


「あ、分かった。お城を作るんでしょ」


 城? ……そうだ、私は砂の城を作ろうとしたんだった。


「でも、そんな所に作るの? 波が来たら壊れちゃうよ」


「良いんだ」


 私は両手で砂を寄せた。砂の山を海水で湿らせて、其処にまた砂を掛ける。大きく、そして高く、砂の城を作って行く。


「僕も手伝おうか」


 隣に座り込む子供に私は首を振る。


「いや、これは私が一人で作る」


「そう」


 子供は、私が砂で城を作る様子をじっと見ていた。笑いもせず、話もせず、ただ見ていた。


 やがて、砂の山が段に分かれて城らしく整った後、私は落ちている貝を飾り、終わりに乾いた砂を振り掛けた。出来上がった砂の城を、私は少しの間、見つめていた。


 その時、黙っていた子供が突然、口を開いた。


「ねえ、聞こえる?」と。


「海の子守唄が聞こえる?」


「海に揺蕩たゆたう祈りが聞こえる?」


「母なる海の唄が聞こえる?」


 私は、どうしてか体が動かせなかった。横に座る子供は一人きりで、その子の声に違いないはずのそれは、何重にも重なって私の耳に届いていた。声と言うよりも直接、頭に響いて来るような神秘性のあるものだった。私はこんなにも透き通る、真っ直ぐな声をきっと聞いたことはない。揺らめく波より、この海の色よりも透明度の高い、不思議な子供の声。私は抱えた膝を更に強く抱きながら、止むことのない波のさざめきを見ていた。


「海から生まれゆく全ての命」


「命は海に還って行く」


「聞いたはずだよ。生まれる時に。揺らぐ水の中で海の子守唄を」


「聞こえるはずだよ。海の唄が」


 私は、それらの言葉の一つ一つが音のように聞こえて来ることを感じた。何よりも深い、見えない透明な音になって。


「待ってる」


「ずっと悲しいぐらい、待ってるよ」


「流れの遥かな底で。還らずに待ってるよ」


 目に染みる程の空と海の青さは私の胸を締め付けた。名前も知らない子供の声は、言葉は、優しく、そして強く、私の心に響いた。寄せては引いて、引いては寄せる波。小さく大きく、生まれては消える泡。そして、確かに聞こえる、聞こえ続ける波音――海の唄。私は何を感じようとしているのか。


「命を見付けて」


「海から贈られた本当の命を見付けて」


 本当の命?


 尚も響き続ける、重なり続ける声。何かを訴え掛けるような、澄んでいて、大きく小さく揺らぎ広がる声。その声が、まるで私の周りをすっぽりと囲んでしまったかのように感じられた。そして、決して乱れることのない音色のように、朝露のように、夜露のように、声という声は生まれて行く。私は何かを感じ取ろうとしている。何かが私の輪郭を燐光でくっきりと浮かび上がらせたかのようだ。


「此処は夢の海」


「命が生まれ、やがて還って行く場所」


 その時、足元にあった砂の城が一瞬にして一際大きな波に飲み込まれ、消えた。


「ねえ、もう一度。夢をみよう」


「未来への夢をみよう」


「一緒に叶えよう」


「命の夢を叶えよう?」


 砂で出来た城が、いつかは崩れてしまうことは分かっていた。波が来れば、たやすく壊れてしまうことも知っていた。それでも私は、作らずにはいられなかった気がする。私は、本当は何がしたかったのか……それは、全ての道筋の出口であり、答えに繋がっているような気がした。


 ずっと響いている海の唄。私の体ばかりでなく、髪の毛の一本さえも囚えて離さない、切ない甘美な響きが其処にはあった。ただのさざ波などでは確かになかった。此処にいる、子供の声と同じように。


「気付いて」


「思い出して」


 心の奥の奥に眠るもの――砂の城。砂の城を作った理由。作った、わけ。


「――私の理想……?」


 理想。そうだ、理想。言葉が私を動かして行く。


「私の、欲しかったものは」


 欲しかったものは、一つ残らずある。この手の中に。泣きたいくらいに望んで、やがてはそういうものを憎むようになるくらいに切望したものの全てが、この手の中に。でも、それは。そんなものは。


「現実じゃ、ない……」


 私の全てが満たされる世界。幸せで満ち満ちた環境。有り得ない、ユートピア。抜け落ちた記憶の説明も、今、一本の線に繋がる。この理想の中で生きることに、邪魔だったのだ。生きることに、というのは適切ではないかもしれない。其処での私は、生きているようでそうではなかった。ただ、死んでいないだけ。


「現実じゃないんだ」


 私が立ち上がると、服に付いていた砂がぱらぱらと落ちた。まるで、夢の残骸のように。


 気が付くと、いつの間にか、海の唄が止んでいた。


「気付けたね」


 子供が私を見上げて、言った。


「海から贈られた命。いつか海に還って行く、その日まで」


 子供は姿を消した。同時に、瞬く間に悲しく綺麗なこの空間が消えて行く。空も海も色が失われ、遠ざかって行く。夢が、醒めて行く。





 気が付いた時、私は自分のベッドにいた。カーテンを引くと、見慣れたいつもの街並みが目に映った。白く明るい空気が溢れる、正に一日が始まろうとする時だった。


 私は部屋を出て、一階への階段を静かに下りた。もう此処で新しい一日を過ごすつもりは、ない。


「お母さん」


 私の呼ぶ声に振り返って、随分早起きね、と笑い掛ける母。作り掛けの朝食。温かい匂い。


「お父さん」


 日曜なのに早起きか、さては何処かに連れて行って貰おうって思ってるな、と新聞を下ろしながら笑って言う父。


 当たり前のように一緒にいられた、家族。それが涙の込み上げるくらいの幸せだと気が付いたのは今だった。十八年間を過ごして来た家。過ごしたはずの……場所。


「どうしたの、そんな所に立ったままで。ご飯、出来たわよ?」


「今日は出掛けるか? 良い天気になりそうだし」


 気付いてしまった。もう、いられない。


「お母さん。お父さん。私、戻る。帰るよ」


「帰るって……どうしたの。何を言ってるの?」


「此処が家だろう?」


「違うよ。此処は違う」


 心配そうに二人が私を見る。母は私に近付き、熱でもあるのかと尋ねる。


「違う。私の、お母さんとお父さんは」


 それを聞いた母が、私を抱き締めた。父が立ち上がり、私の頭に手を優しく置く。


「私達はあなたが大好きなの」


「これからもずっと、此処で」


 此処が私の作り出した理想の世界と気付いてしまったけれど、それでも私は此処にいたいと思ってしまう。こんなにも心が乱れて、こんなにも涙が伝う程に。けれども私は、戻ろうと決めた。誰かの声が私のことを呼んでいる。そう、思うのだ。あの海にいた子供のような声で、何かを私に伝えようと、何度も何度も呼んでいるから。私は私の在るべき場所へ戻るべきだ。少しずつ、けれど確実に蘇り始めた私の記憶がそう告げていた。


「さよなら、お母さん、お父さん。此処は私の本当の場所じゃないから。今まで、ありがとう」


 途端、二人が消えて行く。あの夢の美しい海のようにほどけて行く。何もかもが遠ざかり、ぼやけて行く。最後まで差し出された母と父の両腕が、痛い程に悲しく、辛かった。涙が流れて止まらない。心から私を愛してくれた此処での両親のことを、私もまた心から愛していた。


 家も街も解けて消えて行く中、突然、目の前に透がいた。透は目を細めて、泣いているのか笑っているのか分からない顔をしていた。その時、私は此処にいる間、誰よりも透が好きだったことを知った。そして、もう会えないことも。


「戻るんだろ?」


 少し低めの透の声。透の形。どんな話だって、いつも笑わずに聞いてくれた。勇気を与えてくれた。もう二度と、会えない。


「お前が戻るって決めたのなら、それが良いんだよ。戻って、自分が本当にしたいことをするんだ。俺はお前に作られた存在だから、お前が戻れば俺は消えるし、この世界もなくなる。だけど、俺はお前と過ごせて楽しかった。此処での記憶を忘れるのも覚えておくのもお前の自由だけど、俺は覚えていて欲しい。此処が幻だとしても、過ごした時間は確かに存在していたんだと思う。そういうさ、此処での色々なこと、きっとこれからのお前を支えて行ってくれるんじゃないかな」


 透が、消えて行く。


「しっかりやれよ」


 笑顔で言う透の顔を目に焼き付けようと、揺れる視界の中で私は目を開いた。


 この世界も、この世界で得たものも、私が生み出した空想や理想でしかないとしても、私が此処で過ごしたことに変わりはなかった。私の望む綺麗なものが具現化された、悲しく光る一つの世界という形から、私は今、抜け出そうとしている。優しい人達に囲まれて、幸せだった。今度は、私を本当に呼ぶ声のする私の在るべき場所で、自分の時間の中で、安らぎを作って行きたい。透達と出会って生まれた、優しい自分を本物にして行く為に。目覚めて行く意識の残響の中、私はそう思った。それは、純粋なる願いだった。





 初めに見たものは、半透明に近いガラスのようなもの。そして、それを通して見えた、真っ白な天井。私はベッドか何かの上に横になっている。私の体の幅だけのカプセル状の物が私を包んでいる。


 その時、外で誰かが声を上げた。そして、目の前のガラスらしい物が左から右へ、ゆっくりと開いて行く。この光景を、私は以前にも見たことがある気がした。


 そして、天井よりも白い光と共に、聞いたことのない声が私に降って来る。凄い、信じられない、と。私は体を起こした。


「凄い……」


 そう繰り返すその人は、やはり私の知らない人だった。白衣を着て、短い茶色の髪をしていた。


「君、名前は?」


 突然、何だろうと思ったけれど、私は答えた。


いずみ、はづき」


 その人は手元にあった分厚い書類の束に目を通しながら、私の様子を窺っている。


 目の前の人を見ながらぼんやりとしていた私の意識は、だんだんとはっきりとし始めて行く。周りを見回すと、其処は何処かの研究所のようだった。真っ白な天井、真っ白な床。壁際に設置された、巨大で複雑な機械の集合体。所々に伸びる、赤や青のコード類。そして、私のいるカプセルと似たようなものが他に二つあった。


「君は、自分のことを覚えているかい?」


 不意にされたその質問で、私はようやく脳が動き始めた。全部を、ゆっくりと、思い出して行く。


「――私は、自分で自分を冷凍睡眠に掛けたんです」


「そのシステムは、何処で、どうやって?」


「祖父が、政府に認められた科学者でした。祖父の亡くなった後、私が未完成の研究を非公式に引き継ぎ、独自に開発しました」


 私はカプセルから降りた。


「その研究内容は、此処に示されている通りなのか?」


「念の為に申し上げると、人の冷凍睡眠時にその人が生み出したいと望むイメージを意識下で具現化する……早い話が、冷凍睡眠状態で夢をみるということです」


「……そんなことが、可能なのか?」


「可能です。私の脳波の動きを見ていたならば、分かっているはずです」


「しかし、何故、君の祖父や政府はそんな研究を」


 その人の問いに、私は、推測ですが、と前置きして答えた。けれど、おそらくはほとんどが真実に近いであろうことが考えられた。


「ある意味で人の退化現象です。祖父達は、人間が夢の中で生きて行けるシステムを創り出そうとしていたんです」


 其処まで分かっていながら、私はそのシステムを利用した。


「しかし、研究途中で祖父は亡くなり、政府や他の研究者だけではそれ以上は続けられなかったのでしょう。あとは、先程にお話した通りです」


 私は自分が何年、眠っていたかを尋ねた。


「メモリでは百年と七ヵ月となっているが」


 約一世紀の間、私は眠っていたことになる。今更ながら、私は自分のしたことの大きさに驚愕した。


「君の年齢は……?」


「冷凍睡眠に入る直前では二十歳でした」


 私と同年代だった人は、きっともう生きてはいないだろう。何しろ百二十歳になるのだ。もしかしたらこの百年の間の更なる長寿化でいるかもしれないが、生きていて欲しいと願うような人は思い浮かばなかった。


「ありがとう。あなたが私を目覚めさせてくれたのでしょう?」


「あ、いや。確かに俺は五年前に此処に配属されて、以来、五年間、君の様子を管理して来たけれど」


 何が言いたいのか、分からなかった。


「どういうこと……? このカプセルのシステムは知っているんですよね?」


「外部からの接触は一切、受け付けない。冷凍睡眠をおこなった人間が目覚めるのは、唯一、本人がそう念じ、願った時だけ」


 答える彼に、私は確かめるように聞いた。


「あなたが、私の意識を呼び戻してくれたんでしょう? 外部からの影響は受けないとは言っても、所詮は人の創り出した機械。それに、私が眠りに入った当時から約百年が過ぎている。その間に方法を発見したのでしょう? 私を目覚めさせる方法を」


 彼は首を横に振った。


「残念ながら、どんなに科学技術が進歩しようと、その方法は見付けられなかった。確固たる方法は、ずっとないままだった。無理に接触すれば、君の神経系を壊してしまう恐れもあることから、強行手段には出られなかったし」


 更に、彼は続けた。


「良く考えてみて欲しい。失礼かもしれないが、君はただの一介の人間だ。金も地位も名誉もない。これらは人間に不可欠なものではないが、政府から見れば話は別だ。何故、これだけの設備が用意され、百年もの間、入れ代わりながら我々研究員が君に付いていたと思う?」


 彼は一つのモニターに向かい、近くの棚から小さなディスクを取り出し、再生した。


「君の祖父からのメッセージだ」と。


 モニターが明るくなり、もうこの世にはいない私の祖父の顔が映し出された。


「――私は、二七〇〇年現在、政府の元で、ある研究をしている者だ……。名前は、いずみ理一りいち。研究内容は人の思考を具現化すること……ただし、その人間の意識下、つまり眠りの中でだけ、それは可能となる。研究を始めた要因は、政府に要請されたこと以上に、私個人の好奇心と探求心が大きい。しかし、私は愚かだった。この研究の無意味さに、早く気が付くべきだった。私は年老いた。もう長くはないだろう。正直、この研究が完成しないまま死ぬであろうことに安堵している。しかし、一つ気掛かりなことがある。それは私の孫のことだ」


「え?」


 私の驚きを余所に、次の瞬間、モニターには私の写真が映し出された。当然だが、写真と今の私は少しも変わらない。不思議でも何でもないことなのに、私は違和感を覚えた。そう、決して不思議ではないことなのに。


「これが私の孫、泉はづきだ。年は二十。たった一つ、心配しているのはこの子のことだ。はづきは私の研究にとても興味を持っていた。頭の良いあの子のことだ、私の死後、私の研究を完成させてしまうのではないかと危惧している。はづきのノートに研究内容が細かく書き留めてあった時は驚いた。研究室を良く訪ねて来ては私に話し掛けていたはづきとは、今は絶縁に等しい。ちょっとしたすれ違いだった。私は、はづきに直接、研究に手を付けるなとは言えない。言った所で、聞かないだろう。だから、私は頼む。もしも、この子が研究を続けようとしたら、何としても止めて欲しい。そして万が一、研究を完成させ、そのシステムを自分に使うようなことがあったなら、救い出して欲しい。研究を奨励している政府は信用出来ない為、このディスクは同期の研究員である友人に託す。何としても研究の完成は避けてくれ。そして、勝手ながら孫のはづきのことを頼む。誰よりも愛しいはづきを――」


 ぷつん、と映像は消えた。


「おそらく――」


 ディスクを取り出し、彼が口を開いた。


「おそらく、研究はほとんど完成していたのだろう? そして、それを君が真に完成させ、使用した。君は、君の祖父の友人から俺に至るまで……いや、君の祖父も含めて、ずっと見守られて今日まで来たんだよ。君の祖父のこのメッセージがなければ、祖父の友人以降に続く人達の協力がなかったら、君は此処にいなかったかもしれない。だから、俺だけが君を目覚めさせたとは言えないんだよ」


「私……」


 私は、呆然と呟いた。


「祖父は、私を嫌っていると思って……」


「君と君の祖父の間に何があったかは知らないが、君の祖父は心から君のことを心配していたのだと思う。でなければ、わざわざ自分の亡き後のことまで心配して託して行かないだろう。こうして、メッセージまで残して」


 涙が溢れて行った。私は祖父に愛されていた。こんなにも身近に、私を気に掛けてくれる人がいたのだ。何故、気付かなかったのか。気付こうとしなかったのか。


「それから、君を目覚めさせる直接的な方法を取るのに、決定打となった人がいる。その人と君の脳波を通わせることで――その人の脳波が君の脳波に働き掛けることで、君は目覚めることが出来たんだ」


 それは誰なのかと私が尋ねようとするよりも早く、彼は続きを話していた。


「勿論、如何なる外部接触も意味を持たないことは変わらない。だが、それを承知でおこなった。限界まで調整をし、その人の脳波を君に送り込んだ。危険な賭けだった。失敗すれば、その人が君の脳波の中に取り込まれてしまう可能性もあった。それでもおこなったのは、冷凍睡眠化した君を発見した当時、既に君の脳波はその人の脳波と繋がれていたんだ」


 良く、飲み込めなかった。線が繋がらない。では、つまり――。


 その時、私の眠っていた物とは別のカプセルのガラスが小さな音を立て、私の時と同じようにゆっくりと開き出した。私が目を瞠ると、彼は言った。


「其処にある二つの内、一つは俺が作った試験型。もう一つは”その人”が入っていた物――」


 彼の言葉がちょうど途切れた時、その人は体を起こした。


「あ、お前も起きたんだ。良かった」


 そう言って笑うその人を、私は知っていた。その笑顔を、知っていた。


「覚えてる? 神谷かみやだよ」


 その明るい声も、変わっていなかった。





 高校で一年間だけ、同じクラスだったクラスメイト。神谷そら。何処か独特な雰囲気を持つ神谷とは妙に気が合って、同じクラスということもあり、私達は良く話をした。話と言う程のものではなく、他から見れば会話と言うのかもしれなかったが、それは一言二言が私にとって大きな意味を持っていて、楽しくて、私の中では「話」だった。ただ、クラスが分かれてからは、学校内で過ごす階層も変わり、ほとんど会わなくなっていた。私達はそれっきりだった。





 今、近くにいる神谷は、あの頃の――高校生の頃の神谷が少し大人びた程度で、私の知っている顔だった。一瞬、高校一年生の自分に戻ったような気がした。けれど、ただ一つ、分からないことがある。何故、彼が此処に?


「私達、良く話してたけど。高校一年の時の話だし、クラスが変わってからは、前みたく話すこともなかったよね」


 私は一度、言葉を切った。神谷は、じっと私を見ていた。


「脳波の働き掛けとか……してくれたのは、神谷なの?」


「そうだよ」


「どうやって、どうやって繋いだの? どうして神谷まで冷凍睡眠化したの?」


 神谷は思い切り体を伸ばすと、淡々と言った。


「外部から影響は受けないって言っても、時間を掛ければ少しずつだけど効果はあるって分かったんだ。十年か二十年か……結局、百年、掛かったけど」


「何で、そんなこと分かったの?」


「はづきの祖父からディスクを受け取った人が、俺の祖父なんだ。俺の祖父も研究員だったから、俺だって少しは知ってたしさ、システムのこと。俺がじいちゃんに頼んだんだよ、俺を使ってはづきを起こしてくれるように」


 私達の会話をずっと聞いていた研究員が口を開いた。


「――まあ、そういうわけだ。此処に至るまで、誰一人が欠けたとしても、特にその神谷君という人がいなかったら、君は目覚めることはなかったかもしれない」


 神谷がいなかったら。祖父がいなかったら。祖父の友人――神谷の祖父がいなかったら。多くの研究員の人達がいなかったら。私は今、この場にこうしていられなかった。一生を眠ったままでいたかもしれない。


 私は、静かに神谷に尋ねた。


「何の為に、神谷は其処までしたの?」


 すると、彼は朗らかに笑って言った。


「何の為って、はづきに起きて貰う為だよ。他に何もない」


 私は更に聞いた。


「起きて貰おうって、どうして?」


「やっぱりさ、放っておけないだろ、友達のこと。それにさ、起きている方が面白いこと沢山あるのに、勿体無いって」


 友達? ただ少し、他の人より会話をしていただけなのに?


 そんな私の疑問を読み取ったかのように、神谷は言った。


「俺、はづきのことが好きなんだ。二年生からはあんまり話さなくなったけど」


 だから、放っておけなかった。そう、神谷は付け加えた。


「まあ、百年経っちゃったけどさ、これからでも良いんだよ。外は多分、見たこともない景色だろうし。冒険だよ、冒険」


 神谷は私に笑い掛けた。


「とりあえず、俺と出掛けるってどうだろう?」





 優しい記憶を抱いて行きたい。どうして、あの時、逃げてしまったのか。逃げるしかなかった? そんなはずはない。他の可能性をないことにして、私は逃げた。どんなに辛い記憶の中にも、優しい記憶はあったはずなのに。その記憶を、心を抱いて、ゆっくりと自分の形を作って行けば良かったのに。


 多くの人達への感謝の元に、私は今、こうして此処に立っている。沢山のことに気付き、気付かされた。その全てを言葉にすることは難しいけれど、私はこれから躓くことや座り込むことがあっても、きっと逃げずに向かって行ける。簡単なことではないとは思う。それでもきっと、そうして行ける。近くにある幸せを一つずつ集めて、それがとても切ないものだということを忘れずに生きて行きたい。


 これからもずっと、生きて行きたい。いつか命が還るまで。

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