救いの手
浜辺に打ちあがった魚
救いの手
自販機の下に猫が落ちていた。猫は僕に見つかるまでよく鳴いていた。そして、僕に見つかった後でもよく鳴いた。必死に泣いていたのだ。まさしく命懸けだった。母は放っておきなさいと言った。バイキンがいっぱい付いてかもしれないから、と。もしも母の声に怒りや冷たさが滲んでいたなら、僕はすぐ子猫に構うことをやめて、子猫を救ってやってと母に懇願し、すなわち、全てを任せたことだろう。なんせ当時の僕は十歳にも満たない母の子どもだったから。
それは夏。暑苦しくてうんざりするような、湿気の強い日だった。街灯が細長い雨脚を白く照らしていた。まもなく夜が訪れようとしていた。
僕たち少年はみな一様に青いスポーツウェアを着ていた。そして家の人に月謝を払ってもらい、サッカーを習ってきたばかりのことだった。肩で顔をぬぐうほど汗だくになった頃、定刻が間近になると、雨が降りはじめた。シャワーみたいな、かなり激しい雨だった。僕たちは屋根のある駐輪場へ避難した。間もなく少年たちの母親がやってきて、傘をさしたり車に乗り込んだりして、僕たちの元から去っていった。
そのときぐらいだろうか。誰かが猫の鳴き声がすると言ったのだ。そして、それは確かに聞こえたのだった。
どこかで子猫が泣いているのを認めつつ、少年らは雨に濡れないよう家に帰っていった。やがて、僕と友人の母親もようやく駐輪場までやって来た。二人の母親の表情には僕たちを甘やかすあたたかさがあった。母は「大変だったね」言った。そして雨に打たれたことを一大事のように扱い、ひどく心配した。そうした態度に対し、僕は母を心配させまいと、少年らしい誇りをもって死にはしないよと言った。雨に打たれたくらいで死なないと。
「だから大丈夫だよ」
そんなことより、猫がどこかで鳴いているんだ。と僕と友人とは訴えた。
二人の母は放っておきなさいと言った。しかし、僕と友人はその忠告を受け入れることができず、鳴き声を必死になって探した。
二人の母は僕たちを止めはしなかった。傘をさして一緒に歩いてくれた。
今になって思い返すと、僕はサッカーこそへたくそだったけれど、クラブの中では一番と言っても差し支えないほど心の美しく優しい少年だった。なぜならば、母の愛が優しさが僕の心を美しく磨いたからだ。そしてそのために、僕は生来的に何度か思い悩むことになった。誰もが母のように優しいわけではなかったから。
どうやら、鳴き声は自販機の下から聞こえているらしいことが分かると、僕は濡れた地面に手を付き、頭をこすりつけるようにして自販機の底を覗いた。
母が傘を差しながら、険しい声で「ちょっと」と言いながら僕の方に触れた。けれども無理に僕を立たせようとはしなかった。自販機の下にいたのは灰色の子猫だった。黒い二つの真剣なまなざしが僕を見つめた。猫は暗がりの中で、にゃあ、にゃあと何度も泣いた。そのこぎれいな見た目からは、生まれたばかりの赤子が持つ清潔さが感じられ、僕にその印象を与えた。(もちろん目は既に開いていたのだから、性後しばらくたっていたのは間違いない)。
子猫は一匹だけだった。一人でずぅっと鳴いていたのだ。そんなに繰り返し鳴いていたら喉が渇くだろうと僕は思った。そして僕が来たのだから、もう安心して泣き止めばいいと思った。近くに母猫の姿が見当たらないねと母が言った。
捨てられたのかしら。
「出してあげよう」
友人がそう言って、自販機の下に手を入れた。
しかし腕の肉が途中で擦れて、奥まで届かないらしかった。
「僕がやるよ」
僕は体格がみんなより小さく、腕は誰よりも細い自信があった。自販機の下にある暗がりの中へ腕を入れると、明らかに友人よりも腕が奥に伸びていった。
「どう?」と友人が聞いた。
「思っていたよりもだいぶ奥にいるみたい」
僕は腕をより奥に伸ばすために、自販機の表面に頬を密着させた。冷たい泥と、水滴が頬に付いた。そして腕をすっぽり丸ごと、暗がりに入れた。
するとようやく、暖かくてぶよぶよとしたものが指先に触れたのが分かった。僕はそれを掴み取り、急がず、ゆっくりと手繰り引き寄せた。
「掴んだか」と友人が心配そうに耳元で尋ねた。
猫が僕の手の中にあることを見ると、みんなが「おおお」と声を上げた。僕は猫を救い出せたことで、すっかりうれしくなって母の顔を見た。そのとき母も僕を見ていた。
「まだ小さいのにね。かわいそうに。プルプル震えているね」
母はハンカチを取り出して、猫のことを包んでやるように言った。僕はその言うとおりにした。気が付けば、子猫は母の言う通り震えていた。きっと怯えているんだなと友人が言った。僕は「大丈夫だよ」と声をかけながら、猫がこれ以上寒くならないように、両手で、胸の辺りで優しく抱きしめてやった。子猫は腕の中でもずっと鳴いていた。
「この子、飼ってもいい?」と僕は聞いた。
少し考えてから、とても気の毒そうな顔で「それはだめ」と母は言った。僕が寝たふりをしているときに、まぶたの向こう側にある心地の良い暗闇の中で、おやすみなさいと言ってくれる時のような声だった。どうして、そんな優しい声で断るのだろう。
「どうして?」
「この子を連れて帰ったとして、誰が面倒を見るの」
「僕がみるよ、心配しなくてもいいから」
「それだけじゃない」と母は急に僕を突き放すように言った。「この子をうちに連れて帰ったら、とんでもないお金がかかるのよ」
「どれだけかかるの」
「病院に診てもらうだけでも一万円くらいかかる」
「でも、ここに置いていったら死んじゃうよ」と僕は駄々をこねた。
「お母さんも連れて帰ってあげたいけどね、じいじが嫌がるから」
母はいつも本音はすぐに口に出さず、最後まで残してく人だった。要は、母や僕にとり最大の問題は祖父だったのだ。
母は父と離婚した。そして、二歳の僕を連れて実家に帰ってきたのだった。もしも実家を追い出されたなら、僕ら二人には行くあてが一つもなかった。もちろん、祖父はきっと娘と孫を路頭に迷わせたりはしないだろう。そう信用しているいっぽうで、母は気難しく癇癪持ちの祖父に対して、どうしても慎重にならなくてはならなかった。
そして実際、子猫を連れて帰ったなら、捨ててこいと祖父は言っただろう。
「でもここに置いていたら、死んじゃうよ」
僕はそう言った。母はしばらく悩むそぶりを見せたが、けして最後まで首を縦には振らなかった。友人も自分の母親にせがんだ。しかし友人の母も同様だった。
「もううちで三匹も飼っているから、それで手一杯で……」
友人の母親は、僕の母に向かって言い訳するみたくそう言った。
僕は心の中で、三匹も飼っているならば、もう一匹ぐらい飼ってやっても良いではないかと思った。そのようにして、しばらく同じやり取りが続いた。僕らは猫のことを諦めきれなかった。しかしその情熱は、二人の母をついに説得しえなかった。
この場に引き取り手がいないのだから、猫はここに置いていくしかなった。
「元いた場所に戻してあげなさい」と母は言った。もしかしたら母親猫がどこかで見ているかもしれないから。
「ハンカチは?」と僕は聞いた。
「ハンカチはその子にあげて」と母は言った。
僕は再び子猫をわしづかみ、自販機の前で屈んだ。母が、雨に打たれまいと頭上で傘を差した。
僕はゆっくりと子猫を暗がりの中へと戻した。子猫は腹を空かせているのか、ハンカチに包まれたまま、ずっと鳴いていた。
「ごめんね」と僕は言った。
「ごめんね」と友人が僕に続き、母と、友人の母もそれに続いた。
猫はにゃあと鳴いた。
「人がたくさん寄って来ていたから、きっと警戒して姿を見せないのよ。大丈夫。この子のお母さんは、きっと子供を捨てたりはしないよ」
母はそう言って僕を慰めた。僕らは雨の中を歩きだした。グラウンドから距離がしばらくになるまで、子猫の鳴き声はずっと聞こえていた。
子猫は翌日には死んでいた。母親が近くの土に埋葬したのだと言った。
思うに子猫はその短い命の中で二度捨てられたのだ。一度目は自分を産んだ母に。二度目は僕たちに。あの頃の僕の未熟な優しさは猫を苦しめただろうか。それともあのハンカチは子猫の、不運に満ちたささやかな生涯の小さな慰めになっただろうか。
子猫は果たしてどういう気持ちだったのだろうと、僕は今になって思い出すのだ。
救いの手 浜辺に打ちあがった魚 @huyuyasumi
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