開闢の章 二節
アインは、目の前のヴィッツと名乗る男が発した言葉を頭の中で反芻していた。
――皇帝の隠し子?俺が?
何度繰り返しても理解が追いつかず、惚けたアインの表情を見かねたヴィッツが淡々と説明を続ける。
「突然の事で、理解が出来ぬのも無理はありません。貴方様はこれまでこの男、ローレルの息子としてここで育ってきたのですから。ですが貴方様が皇族である事は純然たる事実。受け入れてもらう他ありません。」
「な……なんだよそれ。訳わかんねぇよ。」
――そうだ。俺はローレルの息子。そんな
そしてアインが視線をローレルに移したのは、ローレルがヴィッツの先程の言葉に対して抗議してくれる事を期待したからであったが、ローレルは申し訳なさそうに下を向いているだけだった。
「すまない……アイン。騙すつもりはなかったんだ。」
頭を木槌で殴られたかのような衝撃が走った。父親である男の口から「お前は私の子では無い」と宣言されたのだから。
つまりアインが扉の前にいた時にふたりが話していた内容というのは、この事だったのだ。この空間において、自分だけが取り残されているような感覚に陥り、足に力が入らず思わずよろける。しかし咄嗟に壁に手を付く事で転倒する事態は免れた。
「ははは……冗談きついぜ本当に……。そこのオッサンはともかくとして親父もさ……どうかしてるよ……。」
「アイン様。混乱されるのは分かります。しかしお気を強く持って下さい。全て始まりから説明いたします。」
この場で一番冷静な男、ヴィッツが優しい声色でそう呼びかけた。恐らく本心からこちらを心配してくれているのであろう。スラム街にいると相手が本心で話しているかどうかある程度見分ける嗅覚が身に付くが、この男は利己的な動機で動いていない、そう感じる部分があった。
「……分かった。まだ頭の中が散らかってるし、あんたの言ってる事の意味が全然分かんないけど、とりあえず話を聞くよ。」
そう言って、アインは近くにある木製の椅子を自分の傍に動かし、腰を下ろした。硬い感触だが、慣れた座り心地に少し気分を落ち着かせる目的と、恐らく長い話になる確信があったためだ。それに対しヴィッツは直立不動の体勢のまま語り始めた。
「ありがとうございます。事の始まりは、とある女性が侍女として宮殿勤めをすることからでした。
彼女の名前はイレーナ・アンゼリカといい、生まれは城下街の平民というどこにでもいる女性でした。」
いきなり語られたのは知らない女性の話だった。アインは話の意図が掴めず、ヴィッツに食ってかかる。
「おい、いきなり誰の話してるんだよ。そいつは俺に関係あるのかよ。」
「はい。彼女――イレーナ・アンゼリカは、貴方様の母上でございます。」
「はっ……!?」
思わずアインは言葉を失う。
今まで自身の母親について考えを巡らせた事はあったが、ローレルが語らない以上、事情があると思い追求はしてこなかった。だが、目の前の男の口から、突如として母親と思しき女性の名前を告げられたアインは、二の句を忘れていた。
そして、半信半疑だったヴィッツの語りに、アインはいつの間にか聞き入っていた。
「アンゼリカ様は非常に利発であり、困っている人を助けずにはいられない性格で、当時まだ若輩者だった私も色々と手を貸して頂いたことがあります。」
次々と語られるアインの母親、アンゼリカの人となり。
アインは、これまでのヴィッツの真摯な振る舞いや言動、そして自身の母親についての話という衝撃から、次第に懐疑心を忘れていた。見たこともない母親の像が、ヴィッツの語りにより自分の中で徐々に形になっていく感覚を覚える。
そして在りし日に思いを馳せるかのような、ヴィッツの遠い目をした表情から、アインは何かを察した。
――ヴィッツは、俺の母ちゃんと親しい間柄だったのかもしれない。
そんな推測をしていると、ヴィッツは我に返るように、咳払いを挟んで再び語り始めた。
「失礼いたしました。
そしてある日、皇帝陛下とアンゼリカ様は偶然出会い、それから時を見つけては蜜月の時を重ね、二人は親密になっていったのでした。」
見たこともない自分の父親と、母親の馴れ初めを聞くのは面映ゆい気持ちだった。しかしなるほど、そのようにして身分の違いすぎる二人は出会ったのかと納得すると共に、皇帝陛下も節操がないなと内心苦笑した。
「私は皇帝陛下の古い友人でもあり、アンゼリカ様の相談役のような関係でもあったので、そういった話は逐一耳に入ってきました。しかし、その逢瀬は長くは続かなかったのです。」
一瞬眉根を寄せ、悲哀の滲む表情を浮かべたと思えば、ヴィッツは厳しい表情になる。
「噂は一瞬で宮殿内に広まりました。『皇帝陛下はとある侍女に入れ込んでいる。皇帝の自室に侍女が入っていくのを見た』といった具合にです。
そうなると黙ってはいない人達がいます。当時四人の皇妃殿下たちです。平民が皇帝陛下の寵愛を受けているという話は、名門の家柄出身の皇妃殿下たちにとって決して面白い話では無いでしょう。」
それはその通りだと思った。貴族はただでさえ気位が高く傲慢な者が多いと聞くが、女の嫉妬も合わされば決して無視出来ない状況になるのは想像に
「その噂が流れると、アンゼリカ様の周りで不審な出来事が起こり始めました。観賞用の巨大な鎧がひとりでにアンゼリカ様目掛けて倒れてきたり、暴走した馬車が突っ込んできたり……。幸いどれも軽い怪我で済みましたが、最後にはアンゼリカ様の食事に毒を盛られ、生死の境を彷徨った事もありました。」
ヴィッツは唇を噛みながら、平静を装おうとあえて淡々と説明しているように見えた。恐らくこの男はこの男なりに調査をし、黒幕が皇妃であることを突き止めたが、相手が相手なだけに手の出しようが無かったのだろう。親しい人間が陥れられるのを見ているだけしか出来ないのは、苦痛でしかなかったはずだった。
「日に日に憔悴していく彼女を見ていられなくなった私は、皇帝陛下に嘆願を求めました。それはアンゼリカ様を宮殿より遠ざける事です。
皇帝陛下が皇妃殿下たちに直接言って聞かせると仰いましたが、恐らくそれでは逆上した皇妃殿下たちがさらに過激な手段に出かねず、得策では無かったでしょう。よってある程度の金貨を持たせ、身を隠させる事にしたのです。」
――つまりこのヴィッツという男の提案によって、アンゼリカは皇妃の魔の手から逃れられる事になったという訳なのか。
しかし気位の高いであろう皇帝が、そんな案を呑むのだろうか、というひとつの疑問が浮かび上がってきた。
「皇帝陛下は了承して下さりました。それほどアンゼリカ様の身を案じていたのです。これは断言できますが、皇帝陛下とアンゼリカ様は他の皇妃殿下方と比較にならぬ程に真に愛し合っていました。
それゆえアンゼリカ様も最初は私の案を呑んで下さりませんでしたが、懸命の説得によって最後には首を縦に振って下さりました。」
アインにとってそれは意外だった。皇帝が了承したということも、アンゼリカと皇帝がそれほど愛し合っていたという事も。
皇帝と侍女。自身がその間の子供であるという話を最初に聞き、アインは自身のことをこう思っていた。『皇帝が権力にものを言わせ、侍女に産ませた不義の子』だと。
しかしそれは違った。これまでの話を聞く限り、二人は互いを想いあっているのが感じられる。
しかしひとつ疑問が残る。今この場にいるヴィッツとアイン以外の男、ローレルは一体どこからこの話に絡んでくるのか。また疑問が浮かび上がるとほぼ同時に、ヴィッツは解答を用意していた。
「そこで、アンゼリカ様ひとりでは潜伏生活に無理があると考えた皇帝陛下は、ひとりの宮殿庭師を世話役としてアンゼリカ様に同行させる事にしました。それがここにいるローレルです。」
ヴィッツはローレルの方に顔を向ける。視線の先のローレルは昔を懐かしむような表情を浮かべていた。
「ははぁ……、最初に仰せつかった時は驚いたんですがね、私もアンゼリカ様には色々とお世話になった身でしたので、この老骨で良ければ、と。」
そして今度は交代するかのように、ずっと黙っていたローレルがアインに向かい目を見ながら語り始めた。
「帝都に潜伏するのではすぐに見つかってしまう、ならば遠くに行こう、となってな。最終的にこのスラム街に流れ着いたんだよ。
幸いにも賜った金貨もあって何とか暮らしていけてたんだが、間もなくアンゼリカ様が懐妊されている事が分かった。それがお前だよ、アイン。」
アインを見つめるローレルの優しい眼差しは、父親のそれであったが、数瞬の逡巡の後に、悲痛な表情に変わった。
「だけどアンゼリカ様の体調は日に日に悪くなっていった……。宮殿で食事に盛られた毒が、完全に解毒出来ずに徐々に体に蓄積していってたんだ…………。
出産に耐えられる訳がない、そう何度も説得したけど、アンゼリカ様はお前を産むの一点張りだったよ。なんともまぁ強いお方だった……。」
ローレルは肩を震わせながら当時の状況をぽつぽつと語った。
――そんな、俺の母ちゃんはそんな体で俺を産もうとしたのか。一体どうしてなんだ。自分の命よりも大切だったってのかよ。顔も見てない腹の中の子供が。
アインは無意識のうちに膝の上の拳を握りしめていた。
「そしてアイン、お前が産まれたんだ。お前を抱き上げた時、何故だか儂まで泣けてきてな。急いでアンゼリカ様にお前を抱いて貰って、アインという名前を付けてもらったんだ。
そして愛おしそうに微笑んだ後に『ローレルさん、アインを頼みます。』とだけ言って、アンゼリカ様は亡くなってしまったんだ…………。」
下を向き、ローレルは鼻をすすった。ローレルは亡き母からアインを託されたのだ。そしてその使命感で、今日まで親として皇帝の子と知りながら育ててきてくれたのだ。
「そんな事が…………」
情報が一気に頭に入ってきたため、そう言うのが精一杯だった。
宮殿。皇帝。陰謀。逃走。亡き母。血の繋がらない父親。
アインの口の中は緊張により乾ききり、もはやヴィッツに対する懐疑の心は、完全に無くなっていた。
「その時、儂はお前の父となる事を決めた。
残りの金貨をやりくりしながら、作物を売り、お前を一人前に育てる事が儂の使命だと思っていたよ。
だがいつか全てを伝えようと思っていたが、まさか今日になるとは思わなかった。」
ローレルは椅子からゆっくりと腰を上げ、重い足取りで自身の寝室の前に移動すると、扉を開けて灯りをつけずに寝室の暗闇に消えてしまった。
そして物音が聞こえたかと思うと、寝室から姿を現したローレルの手には、金色の装飾品のような物が握られていた。
「これはアンゼリカ様の形見だ。全てを話した時にお前に渡そうと思っていた。受け取ってくれるか。」
それは金色のペンダントだった。鈍く光を放っており、小さな輪を繋いで作られているようで、吊り下げられた一際大きな装飾品には、星に似た形をした花の模様が刻印されている。
真っ直ぐにアインを見つめるローレルの目は、涙で赤く腫れているが決意に満ちたものだった。目の前に差し出された母の形見というペンダントに視線を落とすが、これを受け取らない理由は無かった。
亡き母が、そしてローレルが、全てをかけて自分を育んできてくれたのだ。それに少しでも報いたかった。
「あぁ、受け取るよ。親父。」
あの話を聞いてもなお、ローレルを父とする気持ちは変わらなかった。ローレルの手からペンダントを受け取り、すぐに自分の首にかける。その姿を、ローレルはまた涙を滲ませながら見つめていた。
「俺の出生の秘密については分かったよ。でも分からねぇのは、何でそんな事を教えにわざわざこんなとこまで来たかってことだ。」
形見のペンダントを揺らし、ずっと疑問に思っていたことをヴィッツに向かって問いただす。
「はい、それは貴方様に危険が迫りつつあるからです。」
「何?」
ヴィッツは簡潔に答えたが、それは新たな疑問が生まれるだけであり、さらに混乱を招く結果になった。どうやらこの男は変なところで真面目すぎる面があるらしいと感じたアインは、小さく溜息をつき、改めて聞き出していくことにした。
「分かった。とりあえずその事についても最初から説明してくれ。何で俺の身が危険なんだ?」
「はい。それはこれより一○三日後に行われる、『
皇位継承戦争という単語にはアインは聞き覚えがあり、その意味するところも大まかには理解していた。
「皇位継承戦争の時期が近づくにつれて、宮殿内にきな臭い動きをする者が現れだしました。それを私は独自に調査したところ、その者達は密命を受けてアンゼリカ様のその後の動向を調べている事が判明しました。
恐らく皇室の誰かが、アンゼリカ様が皇帝陛下の子を産んだ可能性を考えて、見つけた場合には処分する為に人を動かしていたのでしょう。」
「ちょっと待ってくれよ、なんで俺みたいな皇帝も認知してないような奴をそんなに血眼になって探すんだよ!
…………まさか。」
アインはひとつの可能性に行き着いた。それは大それた物であり、にわかには信じ難い事であったが、この場所にヴィッツが現れた事と辻褄は合ってしまう。
「そう。もしアンゼリカ様の産んだ子供が、皇帝陛下の血筋であり存命ならば、皇位継承戦争に参加する権利を得るからです。」
椅子が地面に倒れる音が響いた。
アインは告げられた事実に対して、反射的に勢いよく立ち上がり何か反論を投げかけようとしたが、言葉は出てこず口を開けるばかりだった。
「皇位継承権は出生順に第一・第二と与えられ、第五皇位継承権者までが参加権を有しています。
しかしアイン様が存命となれば、出生順で言えば現第五皇位継承権者ギルメロイ殿下の持つ皇位継承権が、アイン様に移ります。皇室の方たちからすれば、平民の産んだ子が次期皇帝になる展開は避けたいのでしょう。」
ヴィッツはアインとは対照的に冷静に状況を分析しており、そしてアインもなんとか頭脳を振り絞り、できる限りの現状の理解に務めていた。
「なるほどな、そりゃ俺が生きてるなら消したいわな。」
やんごとなき方々からすると、鬱陶しい小虫を払うような感覚でしかないのだろう。そんな思考は、次のヴィッツの言葉によって断ち切られた。
「アイン様。私は、貴方様が皇位継承権を放棄するべきだと考えております。」
「え?」
アインは想像とは違う展開に拍子抜けした。てっきりヴィッツは、次期皇帝を決める戦いへの後押しをしに来たものだと思っていたからだ。
「まず一つとしては、アイン様には他の皇位継承権者のように来るべき日に向けた準備がありません。
他の皇位継承権者は何年も前から根回しや工作、権力を駆使して、自身の強大な
ヴィッツの言うことは正論だった。
相手は正真正銘の皇族であり、スラムで育った自分とは全てが違う。そんな当たり前の事実を突きつけられると、それを見たヴィッツは神妙な面持ちになった。
「そして、私はこれまで見えない力に翻弄されるアンゼリカ様を見てきました。そして息子である貴方様まで、今もなお迫り続けている刺客からの脅威に晒されています。
私はそんな事はアンゼリカ様は望んでおられないと思いますし、そんなしがらみから遠ざけるために、ローレルは貴方様が皇族であることを隠していたのではありませんか?」
視線を走らせると、ローレルは無言で床を見つめていた。ヴィッツの言ったことはローレルの真意ということで間違いないのだろう。
物理的な問題と精神的な問題が提示される中、アインは何故ヴィッツが侍女に過ぎなかった母の息子である自分に対して、これ程までに気にかけてくれているのか、その疑問が確信に変わった。
恐らくヴィッツはアンゼリカに対して淡い恋心のようなものを寄せていたのだろう。しかし彼の人柄上、それを表に出すことは無かった。思いを封じ、影ながらのサポートに徹していたということだ。
ローレルの気持ちも理解できた。
目の前でアンゼリカが死に、その忘れ形見であるアインを脅威から遠ざけたいと思うのは自然なことである。葛藤が渦巻く中、訪れた静寂を破ったのはやはりヴィッツだった。
「しかし、あくまでもそれは我々の意思。全ての判断はアイン様に委ねます。明日、私はまたこの時間に来ます。
皇位継承権を放棄するのか、それとも皇位継承権者として次期皇帝候補に名乗りを上げるのか、その時にアイン様の決断をお聞かせください。」
ヴィッツはそう言うと、踵を返して近くの椅子に掛けてあった薄汚れたローブを手に取り、身にまとった。そして軽快な足音を残して扉を開け、小さく会釈をすると扉をくぐり立ち去ってしまった。
再びその場を静寂が包む。緊張が解けたのか、アインは体の力が抜けて床にへたりこむと、それを見たローレルが駆け寄った。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ。」
「はは……色々聞きすぎてよ、ちょっと気が抜けちまった……」
その時のアインは、無理矢理貼り付けたような笑みを浮かべていた。心配性なローレルに気を使わせないようにこれまで出来るだけ明るく振る舞うようにして来たが、この瞬間まで気を回すことはできなかった。
「なぁ、……えっと……」
そう口を開きかけた時、視界が突然暗くなり、顔に何か暖かいものに包まれる感触があった。
それはローレルがアインを正面から抱擁したからであった。年老いてひび割れた手がアインの体を力強く抱きしめ、アインの顔はローレルの胸の中にある。
土の匂いが鼻腔を擽る。紛れもなく父の匂いだった。
「これだけは覚えておいてくれ……。お前がどんな決断をしても、お前は儂の息子であるということを……。」
絞り出すようなローレルの震えた声を聞き、アインは視界が滲んでいくのを感じた。
「はは……ずりぃぞ、親父……」
その時、アインは初めて父親の胸の中で静かに泣いたのだった。
煌国のマジェスティ みささぎ @solne1952
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