第1話 二人の高校生
しんしん。しんしんと、雪は降り続ける。肌を突き刺すような寒さで鼻を赤くさせている。ゆっくり深呼吸をすると、空気が澄んでいて、新鮮な空気が身体中を巡り、巡っていく。寒いけれど、朝に弱い夏樹の目を覚ましてくれるありがたい季節だ。
ここは雪国。東北の中でも一際、雪の降る町、山形県津南町。昔ながらの町。雪と聞くと、北海道をイメージするだろうが、実は違う。山形県が一番雪が降る、いわゆる豪雪地方だ。
そんな町に生まれ育った夏樹。名前が夏だということから、豪雪地方生まれのくせに寒がりなのだ。厚着しないと外に出られないほどの寒がりであった。
薄らと目を開ける。カーテンの隙間から、雪が降っているのが見える。雪が降っている日は、不思議と眩しい。ボーッと窓の外を布団から眺めている。
変な夢を見た。自分が海の中にいて、溺れていて、誰かに助けを求めている。そんな夢。妙にリアルな夢だったので、予知夢か?と夏樹は笑う。
なかなか布団から出られないでいる夏樹に怒声が下から飛んでくる。父である。母は早くに亡くしており、男手ひとつで育ててくれた父。厳格な性格ではあったが、夏樹のすることを一度も否定したことはなかった。
夏樹にとってよき理解者であった。厳しくも、強い父を尊敬していた。父のようになりたい。自分が目指すべき大人の在り方は父なんだと、幼少時から感じていた。
慌てて布団から飛び出て、学校に行く支度をする。寝癖をなおさずにリビングへ向かう。
「朝ごはんできてるぞ」
「うん。ありがとう。いただきます」
川口家にはいくつかのルールがある。その一つが、必ず朝食は一緒に食べるということだった。
父は刑事で、夏樹は朝練がある。なかなか時間が取れない二人が唯一、一緒にいられる時間。それが朝食だった。この時間が夏樹は好きで、思わず口元が緩んでしまう。ファザコンだと思われるかもしれないけど、父と一緒にいられることが嬉しいのだ。
「夏樹。寝癖、直せてないぞ」
「えっ!嘘!」
「学校行くまでには直しておけよ」
「はーい」
夏樹は父よりも先に家を出る。寝癖は直した。忘れ物もない。よし。行くか。
ローファーを履き、振り返る。
「ネクタイが曲がってる」
困ったようにそう言って、父は夏樹のネクタイを直した。夏樹は恥ずかしさで耳を赤くさせた。
そして、
「行ってきます!」
高校に行く道中、とあるポスターが目に入った。そのポスターを見て、夏樹は深いため息を吐いた。ここは田舎だから、あっという間に情報が広まる。この町は居心地が悪い。プライベートがない。何があれば、すぐに噂となり町中に広がる。それを苦にして、この町を出た人たちを何人か知っている。
ここは生きづらい。けれど、夏樹はこの町から出ようとは一ミリも考えていない。…いや、想像できないのだ。この町で生まれ育ってきたから、ここ以外の場所がどんな世界なのか想像できないのだ。
よくみんなは「東京に行きたい」と憧憬の色を浮かべるが、俺はそうとは思わない。
この町が好きだとは言わないけど、いいことだってあるんだ。例えば…
「おー、夏樹」
低い声が夏樹を呼んだ。振り返ると、白い空に映える漆黒の黒髪をした男がそこにいた。厚着な夏樹とは反対で、マフラーをしない男に夏樹は困ったような顔をした。
「相変わらず、寒そうな格好していますね。裕介さん」
「雪国育ちのやつはそんなもんだよ。お前がおかしいんだよ」
しんしん。しんしんと、雪は降り続ける。止む気配のない空模様に、夏樹はため息を吐いた。
「こんなところでぼーっとして、どうしたんだ?」
そう尋ねられ、夏樹はポスターに指を差した。それをみた裕介は「あぁ!」と納得した。
「万引きしたってやつか」
「ええ。本当に小さな町だから、こんな些細なことでも話題になるんだなって」
同じ高校に在籍する万引きをした男子高生の顔写真がプリントされているポスターをニ人はただ、見ていた。
「俺はいつか、出るよ。この町を」
裕介から想定外の言葉に、夏樹は目を大きく見開いた。
「どうしてです?」
「世界は広いだろ?この目で見てみたいんだよな」
そう話す裕介の横顔は、キラキラと眩しく輝いていた。確かに、裕介にこの町は似合わない。伝統や村のしきたりをこだわる町に裕介は似合わない。彼はいつだって、自由で。楽しいことが好きで。何ものにも囚われることなく、生きている。そんな人だ。
「ーーーあなたにこの町は似合いませんね」
そんな言葉を呑み込み、夏樹は顔を見られないように、マフラーを巻き直した。
てっきり、裕介さんは俺と一緒で町に残るもんだと思っていた。けど、違った。俺は変化を恐れていて、裕介さんは恐れていない。変化を受け入れ、世界に羽ばたこうとしている。
ちくり、と胸が痛んだ。これは凍えるような空気を吸い込んだからなのか、裕介がこの町を出るというショックからなのは分からない。ただ、ちく、ちく、と鈍い痛みが胸の中心で燻っている。
「…寒い中、弓引くのいまだに慣れません」
話題を変える。二人が所属しているのは弓道部。昔からある伝統的な競技。かつて、天下統一した徳川家康は弓の名手だったという。小学校の時、歴史の授業でそんな話を聞いた。刀ほど派手ではないが、強かで遠くから敵を討つ。そんな戦い方を美しいと思ったのだ。
昔の弓は今みたいに軽くはない。鉛のように重かったそうだ。それをいとも簡単に引き、矢を打つ。体幹はもちろん、腕力や背筋が必要不可欠だ。それでいて、十キロもある鎧を纏い、馬に乗り、戦場を駆ける。なんて、荒々しくも、美しいんだろう。
今は平和だが、弓道を嗜むと冷静な判断力と集中力を鍛えることができる。嗜んで損はない。弓を引いている時間だけが、自分だけの世界に入り浸れる。静寂を切り裂くような鋭い矢の音が心地良い。
弓道という競技を夏樹は心から愛していた。中学生から所属し、真面目に部活に取り組み、そのおかげで大会で多くの賞を受賞した。彼のことを皆はこう呼ぶ。『美しい射手』と。なぜなら、彼は恐ろしいほど整っている顔をしているからである。雪国生まれらしい色白に、太陽の日差しで反射する色素の薄い髪や瞳。どこか儚い雰囲気を持つ夏樹。華奢な体から放される矢は誰よりも早く、長く、鋭く飛ぶ。その矢の軌道は美しい。
「なぁ、夏樹」
「はい?」
「お前、大会に行くたびに周りになんで呼ばれてるか知ってるか?」
夏樹は苦笑いをした。
「知ってますよ。男につけるあだ名じゃないですよね」
二人はけらけらと笑った。そんな幸せな日常がこれからも変わらず、続いていくとこの時夏樹は、信じて疑わなかった。
白い町 氷魚 @Koorisakana
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