桜ちゃんはまだ死ねない

ハセ

第1話 サラリーマン幸太朗


 改札周辺にごった返す人々に向けて、駅員がアナウンスを繰り返している。

「只今JR線は上下線ともに運転を見合わせております。復旧作業にあたっておりますが運転再開の目処は立っておりません。繰り返します……」

 近くの踏切で人身事故があり、更には走行中の別の車両内で火災が起きたらしい。月曜日の朝から難儀なことだ。

 入場記録を取り消すための列に並びながら、幸太朗はスマホで乗換案内アプリを開いた。全線平常どおりの運行となっている。更新が追いついていないのだろう。リアルタイム情報の投稿ボタンから「運転見合わせ」を押しつつ、迂回ルートを検索する。いずれも大回りになりそうだ。

 改札の若い駅員は辟易とした顔だった。受け取ったICカードを無言で機械に通し、返してくる。

「メトロは普通に動いてるんですか」

「メトロの窓口で聞いてもらえますか。すいませんけど」

「あ、はい」

 すみませんと返す頃には、駅員はもう背後の客の応対をしている。

 仕方ない、と幸太朗は思う。彼もトラブルに巻き込まれた側なのだ、溜め息もつきたくなるだろう。別の場所では二人の駅員が何やら怒鳴る男を相手していて、周囲はそれを遠巻きにしていた。朝からよくあんな大声が出せるものだとむしろ感心してしまう。

 遅刻連絡のために会社に電話をかけたが、まだ誰も出社していないのか、呼出音が続くばかりだった。取り急ぎスマホからチャットアプリを開いて、上司とチーム宛に連絡を投げてみる。暫く画面を眺めて待ったが、すぐには反応が返って来なかった。

 メトロの電車は動いていたが、JRの煽りを受けてかダイヤは大幅に乱れていた。この調子では同僚たちも巻き込まれているに違いない。窒息しそうなほど混雑した車内では、スマホを触るのもなかなかの芸当だ。斜め後ろの誰かが画面をスワイプする、その肘の動きが背中に響く。

 何度も一時停車しながら二駅が過ぎたとき、幸太朗は人の波に押されるまま、座席の前まで運ばれた。少なくとも胸の前からは他人の体温が消え、ようやく人心地つける。

 目の前の席に座っていたのは、セーラー服姿の少女だった。紺色の長袖シャツに臙脂色のスカーフ。膨らんだ黒いリュックサックを抱え、膝の間に真っ赤な傘を挟んでいる。その赤がとても目を引いた。

 雨は降っていないはずだった。車窓から見えるのは暗いトンネルの壁ばかりだが、周囲にほかに傘を持つ人間は見当たらない。すし詰めの車内で全員が濡れた傘など持てば、不快指数は三倍に跳ね上がったことだろう。

 ふと、少女が顔を上げた。幸太朗は目を逸らそうとして、できなかった。

 くっきりとした二重と、長い睫毛に縁取られた大きな瞳が、まっすぐに幸太朗を見つめていた。形の良い小さな鼻も唇も、あまりに美少女めいている。眉にかかる前髪と高めに結われたポニーテールは、緩やかに波打ちながら黒くつやつやと光っている。

「あ」

 彼女が驚いたような声をあげたのでどきりとした。何だろう、もしや知り合いだっただろうか。こんな美少女と仲良くなったことはないと断言できる。しかし不思議と、自分はどこかでこの子を知っているという気もした。

 彼女は手に持っていたスマホを素早くタップし、幸太朗に向けて画面を見せた。

『社会の窓あいてます』

「……うぇ」

 妙な声が出た。鞄で前を隠しながら、幸太朗は慌てて股間のチャックを上げた。あまりに急いだせいで、中を巻き込みそうになって悶えた。

 感謝と謝罪のつもりで一度大きく頭を下げ、そのまま俯く。恥ずかしい。かつて同じ失態を上司の男に笑われたときとは、ダメージのベクトルがまるで違う。できることなら彼女の前から去りたかったが、この混雑では逃げ場はなく、気まずいことこの上なかった。

「すみません、あの」

 呼びかけられて顔を上げると、少女は困ったような笑みを浮かべていた。

「ごめんなさい、急に。お伝えしたかったことは他にあって」

 喋り方は落ち着いていたが、声質のせいで幼く聞こえる。美少女は声まで可愛いのかとぼんやりしていた幸太朗は、続いた言葉に耳を疑った。

「あなたはお亡くなりになっています」

「……え?」

 赤い傘の柄を両手で握りながら、彼女は同じ言葉を繰り返した。

「石田幸太朗さん。あなたは、お亡くなりになっています」

 さらりとフルネームを呼ばれた。空耳だろうか。

「急に言われても困りますよね。でもほんとなんです。あなたは、生きていません。しんでいます」

 おまえはもう、しんでいる。

 古い漫画にそんなセリフがあったなと思う。

「……し、死? デス?」

「です、です」

「え、……えー……?」

 笑うべきところなのだろうか。

 咳払いが聞こえて見れば、幸太朗の隣には背の高い男が立っていた。サングラスに隠されて目元はよく分からないものの、幸太朗を睨んでいるように見えた。

 周囲に押されるまま、先程から左右に立つ人とは肩や腕が触れていた。重ねて何やら不可解な会話を聞かせられては、煩わしかったに違いない。幸太朗はほとんど反射のように謝罪しようとした。

「す、すみませ」

 しかし隣の男はそれを遮った。

「幸太朗さん」

 何故か今度はファーストネームを呼ばれた。にこりともせず、彼は響く低音で尋ねてくる。

「朝飯ってもう食いました?」

 一瞬、何を訊かれたのか分からなかった。

 孝太朗はまじまじと相手を見た。前髪長めの黒髪ツーブロックに、群青のサングラス。黒いイヤーフックをしていて、黒いVネックシャツのVが深い。パンツも靴も肩に掛けたトートバッグもすべて黒。対照的に肌は病的なほど白く、髭剃り跡などまるで見つけられなかった。

 会社勤めのサラリーマンとは、明らかに纏うオーラの種類が違う。朝飯って一体何の隠語だ、何を答えたら正解なんだと悩んだところで、答えは出なかった。

「……く、食ってない、です」

「そうですか。じゃ、次で降りて食いましょう」

「は?」

「どのみちこの電車、次の駅でしばらく止まるらしいですし」

 車内アナウンスを聞けば、確かにそのようなことを言っている。男は座席の少女にも短く告げた。

「降りるぞ桜」

「らじゃ」

 どうやら二人は知り合いらしい。小さく敬礼した少女は可愛らしかったが、幸太朗は怯えた。

 この美少女と恐いお兄さんの組み合わせは、きっと美人局的なあれなのだ。股間を開けっぴろげにしながら女子を眺め回していた幸太朗は、既に社会的に死んだのだ。所持金はいくらだっただろうか。朝食を奢る程度で済めばいいが。電車が復旧する頃までには解放してもらわないと、仕事の納期に差し支える──。


「つつもたせ? ないですないです!」

 美少女本人に笑い飛ばされ、幸太朗の妄想は霧散した。一方でこの状況への困惑は深まるばかりだ。所在なく紙コップのコーヒーを啜る。

 電車を降りると、男は迷う素振りもなく、改札内の喫茶店チェーンに入った。前払いのカウンターで彼が三人分の会計を済ませてしまったので、幸太朗は慌て、僕が奢るんじゃないんですかと尋ね、怪訝な顔をされた次第である。

 テーブルには三人分のモーニングセットが並んでいたが、飲み物以外には誰も手をつけていなかった。幸太朗にはもともと朝食を摂る習慣がなく、他の二人は先程から喋るのに忙しい。

「だから言ったのに。拓ちゃんそのサングラス似合ってないよ、ガラ悪いよって」

「悪いですか、これ、ガラ」

 水を向けられて、つい素直に答えてしまう。

「はあ。良くはないんじゃ」

「そうですか。それは、申し訳ない」

 男は素直にサングラスを外した。そのままシャツの胸ポケットに仕舞う。

 思わず息を飲んでしまう。現れた素顔は美しかった。

 彼は切れ長で涼やかな目元をしていた。少女とはタイプの異なる顔だが、どちらも凡人離れした美貌であることには違いない。肌にはやはり黒子一つなく、全身黒の服装と相まって、モノクロの絵のような美しさがあった。

「我々は決して怪しい者ではないんですが、一般市民の方には多少混乱を呼んでしまうような仕事をしてまして。どうにも妙なオーラが出てると言われたので、これはそれを隠すアイテムのつもりだったんですが、失敗でしたね」

「は、はあ?」

 男は咳払いし、居住まいを正した。隣の少女も慌ててそれに倣う。

「改めまして。拓真といいます」

「桜です」

 二人は軽く頭を下げると、それぞれ名刺を差し出した。白地に黒文字のごくシンプルなもので、名前と連絡先が書かれている。

『回収人 山上 拓真』

『回収人 花丘 桜』

 何か作法でもあるのか名乗りはファーストネームのみだったが、名刺には苗字も印字されていた。

「……回収人」

「ええ。それがおれたちの仕事です」

 電話番号とメールアドレスの他に、LINEのIDも載っている。固定電話番号の横には『新宿分室第三業務執行係』の括弧書きがあった。ほかに組織らしきものの記載はない。

 幸太朗は黙って拓真の言葉を待った。拓真はともかく、制服姿の桜はどう見ても未成年だ。借金の取立てのようなものには向かないだろうし、幸太朗には何かを回収されるような覚えもない。

「結論から言います。あなたは先日、お亡くなりになりました。おれや桜も含め、我々は全員、生きた人間ではありません」

 にこりともしない拓真の横で、桜も神妙な面持ちで頷く。幸太朗は思わず周囲を見渡した。

「……電車の中でも言われたやつですよね、それ。死んでるんですか、僕」

「はい。もちろん、すぐには信じられないと思いますが」

「……あの、なんかの宗教とかならちょっと、勧誘する人を間違えてるかと」

「詐欺でも宗教でもありません。もちろん美人局でもないです。てことで、ちょっとおてて借りてもいいですか? 見てもらった方が早いと思います」

「手? 僕の?」

「はい!」

 桜は立ち上がった。テーブルに身を乗り出すと、そこに置かれていた幸太朗の手を握った。

 微かな体温が触れた、と思ったのは錯覚だった。次の瞬間、彼女の両手は、幸太朗の手の中を通り抜けていた。

「……え?」

「ね。あたしたちの体は、ないんです」

 桜はそのまま両手を行ったり来たりさせている。目の錯覚だと思った。

 幸太朗は、確かにその手が桜の肩から繋がっていることを確かめた。慎重に位置を見定め、それに触れる。視覚は確かに、指先が重なったことを伝えている。しかし皮膚には何の感触もなく、伸ばした手はやはり宙を掻いていた。

 恐る恐る、彼は桜の顔の方へ手を伸ばした。柔らかそうな頬は、そのまま、真っ直ぐに貫かれてしまう。

「……うわ、うわ! うわ!」

「大胆なことしますね。おれでも試しときます?」

 拓真は言い、横から幸太朗の腕をむんずと掴んだ。確かに人の肌の感触と温度があって安堵したのも束の間、彼はそのまま幸太朗の手を自らの胸に向けた。

 男の胸を触る趣味はないと訴える必要はなかった。なぜなら幸太朗の手は、やはり何の手応えもないまま拓真の体を貫いたからだ。

 彼の左手に正に腕を掴まれながら、彼の胸には触れられない。

「……て、じな、とか」

 桜は笑った。悪戯が成功して喜ぶ子供のような笑顔だった。

「種も仕掛けもないですよ。生きてない、ってこと以外」

「我々の肉体は外殻だけで、本来ここに存在しないものなんです。だからある程度の物理法則は、無視しようと思えば無視できる。透明人間みたいなものですよ。透明度合いは、我々よりもあなたのほうが高いんですが」

「……ちょっと、ちょっと待ってください」

 幸太朗は、目の前の紙コップを持とうとした。

 しかし掴めなかった。指は素通りした。

 つい先程までは普通に持ち上がり、飲めて味もしていたコーヒーが、どうしても掴めない。指先は確かにその器に触れる位置にあるというのに、何度試しても空を掴むばかりだ。

「なんで……さっきは普通だったのに」

「あなたが認識されたからです。それは本来持てるものじゃない、ってことを」

 心臓が冷える心地がした。そうだ、自分には動く心臓があるのだと思い出し、胸に手を置いてみる。自分の体には触れられる。しかしどれだけ意識を集中させても、鼓動のリズムを拾うことはできなかった。

「ご説明を続けても、構いませんか」

 返事はできなかった。

 拓真に手つきで促され、桜はリュックサックからタブレット端末を取り出した。ピンク色のカバーは桜の花の柄だ。今度は透けることなくスムーズに動くその指を、幸太朗は信じられない思いで見つめた。

「石田幸太朗さん。あなたは、急性心不全でお亡くなりになりました。死亡二十四時間前から後のことは魂に記録が残らないので、ご自覚がないのは不思議ではありません」

 鈴の鳴るような可愛らしい声が、何かの文章を読み上げていた。

 石田幸太朗は、土曜日の休日出勤中に会社のトイレで意識を失った。他にも出勤していた社員はいたが、幸太朗はいつの間にか帰宅したものだと思われて、探されなかった。月曜日の朝に発見され、救急車で病院に搬送されたものの、そのまま死亡が確認された──。

「つまり」と尋ねる声は震えた。「今の僕は、幽霊ですか」

「一般的な呼称を用いれば、そうです。今の幸太朗さんは、肉体から抜け落ちた剥き出しの魂です」

「たましい」

「どうぞ、こちらをご覧下さい」

 桜はタブレットをくるりと回して幸太朗に向けた。

 画面には「仏教」「神道」「キリスト教」「イスラム教」などと書かれたボタンが並んでいる。桜の指は「特定の信仰なし」を叩いた。

 抑揚が特徴的な機械音声とともに、動画の再生が始まった。ピクトグラムのような人型の絵が現れる。

──日本に居住し特定の信仰をお持ちでない方には、仏教をベースとした標準ルートでのご案内をいたします。

 亡くなった人間の魂は、通常七日以内に、この世の外へ向かうとされています。その後複数の審査を経て、魂は死後四十九日以内に回収され、次の生を受けるための準備期間に入ります。 

 生前に何かやり残したことや気掛かりなことがあり、強く思いを残している、あるいは死亡した事実を本人が認識できていない等の様々な理由により、死後肉体が失われても、魂はこの世に留まることがあります。

 肉体を持たない魂は、非常に脆く繊細です。回収が叶わなくなった魂は自我を失い迷走し、やがては生きている人間に害を及ぼすようになります。そのような魂の回収をお手伝いをするのが、『回収人』の務めです──

 動画ではあるが、中身はまるでパワーポイントで作成したプレゼン資料のようだった。音声に合わせて簡単なアニメーションが切り替わり、やがて消えた。暗くなった画面に『他の動画を再生する』というボタンが現れたのを確かめて、桜はタブレットの向きを戻した。

 今のは何だ、もしかしてYouTubeだったのか?と考える暇も与えられない。

「幸太朗さんは、ご自分の死を認識されないまま現世に留まっておられました。このままでは四十九日を過ぎてしまう恐れがあるので、あたしたちがご案内をすることになりました」

「……幽霊が、幽霊を回収、するんですか? 道連れってやつですか?」

「幸太朗さん」横から拓真が割り込んだ。「今日が何月何日かは分かりますか」

「え? え、えーと」

 尋ねられれば答えを探してしまうのが性である。

 幸太朗は習慣のままスマホを取り出し、ホーム画面を開いた。コップには触れなかったはずなのに、その一連の動作には支障がなかった──ということに気付いたのは、表示された日付を読み上げた瞬間だった。

「……4月22日」

 口にして強烈な違和感を覚えた。それは土曜日の日付だった。

 桜は、タブレットの横に自分のスマホを並べた。拓真も倣い、更に「さっきの会計分です」と言いながら、喫茶チェーンのレシートを広げた。いずれも、日付は6月2日と表示されている。金曜日だ。

「お分かりになりますか」

「……何を、ですか」

「あなたは先々月、4月22日にお亡くなりになりました。お体は火葬され、既にこの世にはありません。あなたは魂だけの存在となり、今日までに死後四十二日が経過しています」

 つまり彼等の話を信じるのなら、四十九日までは残り一週間という計算になる。

「……四十二日って。ちょっと、時間経ちすぎじゃありませんか。その間僕は、何をしてたと?」

「特には何も。ご自宅から会社の前までを行ったり来たり」

 拓真の声に感情はない。ただ事実を述べているという調子だ。

 今も、幸太朗は会社への通勤途上にいる。今朝はいつも通り遅刻寸前の時間に起き、大急ぎで身支度をし駅まで走り、いつもと同じ時刻の電車に乗ろうとした、はずだった。

 開きっぱなしの乗換案内アプリに、遅延情報は反映されないままだった。送信完了したと思った社内チャットは、よく見れば、データ更新中を意味する円のアイコンがくるくると回り続けている。

「……死んだから、もう会社には行くなってこと、ですか」

 ぽつりとそんな言葉が零れた。桜は目を見開いた。

「行きたいですか、会社」

「……働きたい、わけでは、ないです。全く。でも、仕掛中のタスクとか、放り出せないことは色々」

「行くことはできますよ」

 拓真は言った。彼はまるで表情を変えない。

「ちょっと苦労するとは思いますけどね。タイミングさえ合えば」

「タイミング?」

「ええ。……行ってみましょうか。そのほうが、納得できると思います」

 拓真はそのまま席を立とうとした。「えっ」と声を上げたのは桜だった。「何かあったか」と拓真に問われ、躊躇ってから、彼女はテーブルの上を指さした。

「ホットサンドが、あるであります」

「……四十秒で食え」

「むり!」

 叫びながらそれを掴む。しかしかぶりつく一口は小さい上に、しっかり味わっているようで「うま」と呟いたりしている。拓真は感情の読めない顔のまま、頬杖をついてそれを見守る体勢になった。

「……食うんだ?」

 幸太朗はすっかり呆気にとられた。

「……食えるん、だ? 死んでるのに?」

「食えまふ。幸太朗はんらって、はっひコーヒー飲んでたれひょ」

「けど、もう、コップも持てないのに」

「持てまふ。……さっきは、持てないかもって思いながら持ったでしょ、その逆をすればいいんです。オレはこれを持つぞ、持てるぞ、これを飲むんだーって思うの」

 一体どんなからくりなのかと思いながら、従ってみる。持てないなんてことはありえないのだ、さっきは何かの仕掛けがあったのだ、そうに違いない、と己に言い聞かせる。

 すると確かにコップは持ち上がった。コーヒーを口にすることもできた。香りも味もした。やや薄めなのは元からだ。

「……やっぱり僕、何か騙されてますよね」

 拓真に向けて呟いてみる。彼は綺麗な顔に笑みを浮かべ、短く「いいえ」とだけ答えた。人を殺せそうな微笑みだった。


 目的地へ向かうには、ちょっとどころではすまない苦労を要した。

 電車の乗り継ぎを繰り返し、会社の最寄駅に着いたのは昼過ぎだった。途中、幸太朗は何故か上下線を逆に乗ったが、拓真も桜も間違いには気付かなかったという。

 エレベーターに乗れば突然扉が開かなくなり、押しても叩いても駄目、外に連絡もできないという軟禁状態になった。慌てふためく幸太朗をよそに、幸太朗も桜も「さもありなん」と悠長に構えていた。ついに助けは来なかったが、そのうち扉は勝手に開いた。

「さもありなん、です」と桜は繰り返した。

「死後、自分の死を知っている人に会うことはできません。幸太朗さんの同僚さんたちは、幸太朗さんが亡くなったことを知っています。だからもし同僚さんたちが近くにいると、幸太朗さんは強制的に足止めされたり、回れ右させられるんです」

「させられるって、誰に」

「え、誰にですか拓ちゃん」

「誰でもない。大いなる力的な何かに、ですよ」

 そのへんの設定は曖昧なのかと訊きたくなる。しかし法螺話にしては現実味がありすぎた。

 最寄駅の改札を出た途端、幸太朗は猛烈な頭痛と吐き気に襲われた。とても立っていられない。拓真の肩を借りるようにして離れた公園まで歩き、暫く休むと落ち着いた。しかし再び会社の方へ歩き出すと、また割れるような頭痛がした。そんなことを繰り返すうちに、あたりはすっかり暗くなっていた。

 ただの不運では片付けられまい。幸太朗はすっかり疲弊していた。

「……拓ちゃん、さん、が」

 幸太朗の呼びかけに二人は顔を上げた。

 公園の街灯の下、拓真はベンチに腰掛けスマホを触っていた。桜は傘の先で地面に絵を描いていた。有名な小動物のキャラクターたちが踊っている。なかなかの力作だ。

「言いたかったのは、こういうことですか。……四十二日間、僕はこれを、繰り返してたと。ただ会社に行こうとするだけで、一日が終わってたと」

「ええ。行けないんだからサボれよ、真面目かよって言いたかったですね」

 結局、歩き出しても頭痛がしなくなったのは、日付が変わる直前だった。『幸太朗の死を知る人』が近くにいなくなったということらしい。

 ようやく辿り着いた会社のビルは、しかし幸太朗にとっては、ただよく知った建物がそこにあるというだけのものだった。夜間通行口の暗証番号も指が覚えていた。

 自席のある三階までは階段で上がった。曰くのある男子トイレの前は素通りして、フロア前のパネルで二度目の暗証番号を入力した。押せない不安はなかったし、内鍵のロックはきちんと解除された。扉を開ければ瞬時にセンサーライトも反応した。室内が一気に明るく照らされ、その白さに目が眩んだ。

「入れましたね!」

 無邪気に喜ぶ桜の横で、幸太朗は、硬直した。

 一瞬、階を間違えたのかと思った。そこは見慣れたフロアではなかった。

 デスクやパーテーションの配置が、幸太朗の記憶のものとは様変わりしていた。チームごとに繋げたデスクの、四国だの離島だのと呼ばれていた固まりがなくなっている。デスク同士はより大きな単位で纏まり、幸太朗の島があった場所には、窓際から移動したと思しきシュレッダーと文房具棚が置かれていた。

 壁際の出先表を見遣る。そこには確かに見覚えのあるネームプレートが並んでいたが、その順序が違った。『石田』は消えており、最下段には知らない名前があった。

「……人が、変わってる」

「一ヶ月以上経ってますからね」と、拓真の抑揚のない声が応じる。

 幸太朗は手近な席のノートパソコンを立ち上げた。IDとパスワードさえ有効なら、石田幸太朗は、どの社内端末からでもログインができるはずだった。

 しかし無駄だった。何度試しても、画面には入力エラーのメッセージが表示される。業務のために持たされていた幾つかのサブアカウントも、同じエラーで弾かれた。

「……まじか」

 幸太朗は、もう一度フロアを見渡した。6月のカレンダーが目に入った。

 ああ、と唸る。

 チームを再編する話は、確かに噂されていた。

 休日出勤中に倒れたのだと言われても、全く心当たりはなかった。しかし、翌日の出勤を決めた金曜日のことは思い出した。フロアのモスグリーンの壁紙だけは、記憶の背景と一致している。

 朝のミーティングがあった。進行中のプロジェクトが複数あり、幸太朗が一人で抱えるタスクも膨らんでいたところに、新規の案件が降ってきた。

 それぞれ単体ならどうということはないが、同時進行していてはとても無理な納期だった。新規を受けた営業担当は、顧客と握ってしまった以上はとスケジュールを譲らない。上司は苛立ちを隠さず、何度か床を踏み鳴らしたが、リモート参加の営業にはその剣呑さがまるで伝わらない様子だった。

 だから幸太朗は、引き受けますと手を挙げた。

 無理の皺寄せは誰かが被るしかない。自分より余裕のある誰かがチーム内にいるのだとしても、その誰かを槍玉にあげるような手間と時間をかけたくない。予定外のコミュニケーションは摩擦とストレスを生む。この程度のことは、自分が呑み込んで収まるのなら、それでいいと思った。

 休日出てくんなよ、と上司は言った。おまえもう労基アウトだから残業つけらんないよ、と。分かりましたと答えた。

 そして翌日。同僚は、離席したままの幸太朗を探さなかったという。しかし責められないだろう。幸太朗のPCは何日も電源が入ったままで、出退勤の記録はめちゃくちゃになっていたはずだ。机の上も散らかっていた。袖机を開けて鞄の有無を確かめでもしない限り、本当に帰宅したのかどうかは分からなかったはずだ。

 キーボードに触れ直した指は、四角いプラスチックも、デスクの天板すらも通り抜けて膝に落ちた。

 あ、と声が出た次の瞬間には、幸太朗は床に尻餅をついていた。椅子は元の位置にある。己が肉体の枠を失って通り抜けたのだと分かった。

 さすがに床は突き抜けないのか、と思う。笑ってしまう。

「幸太朗さん」

「……理解しました。やっと」

 助けを借りながら、幸太朗はのろのろと身を起こした。初めて掴んだ桜の手は、思ったとおり華奢で、ひんやりと冷たかった。すぐに放す。

「……すみません。ごめんなさい」

「え? いいえ?」

 己の無駄な足掻きを、理解し、恥じた。

 無理の皺寄せは結局、幸太朗でない他の誰かに行ったのだろう。終電前に全員が退社しているのだ、プロジェクトも無事に進んでいるに違いない。自分がいなくても会社は回る。社会は回る。ずっと前から知っていたことだ。

 むしろ、世界は回りやすくなったのかもしれない。

 自己主張が下手な幸太朗は、幼い頃からなんとなく自分は周囲に疎まれていると感じていた。あからさまなイジメに遭い、面と向かって「お前はいないほうがいい」と言われたことも一度や二度ではない。就職し転職し、やっと居場所を得たような気でいたが、結局、彼等の言葉は正しかったのだろう。

 動揺を晒すまいと、彼は深呼吸した。

「……会社で、少しは騒ぎになりましたか、僕のことは」

「亡くなられたんですから、それは、もちろん」

 その答えは少しだけ幸太朗を満足させた。自分にも多少の存在感はあったのだという気がした。

「トイレで、誰が見つけたんですか」

 拓真は促すように桜を見た。彼女は取り出したタブレットで、何やら調べてから答える。

「救急車を呼んだのは、ハラダマサミさん、警備会社のアルバイトさんです。その前に幸太朗さんを発見したのは、タナカリョウコさん。トカイクリーニング……ビル清掃業者の、パートさんです」

 上司や同僚を期待したが、出てきたのは聞き覚えのない名前だった。言われてみれば当然だが、ビルには社外の人間も出入りしているのだ。

「……申し訳ない。その人たちの夢には絶対出ないようにします」

 冗談を言ったつもりはなかったが、拓真は低く笑った。

「そうしてください」

「……僕の、葬式とかは」

「執り行われました。喪主は社長さんでした」

「……ああ。そうなるのか」

「お骨は、都内の曹洞宗のお寺で預かられています。今、会社の方が、ご親族を探されています。もしどなたとも連絡がつかず、引き取り手がないようなら、お骨はそのままお寺の共同墓地に埋葬される予定です」

 会社に届け出ていた緊急連絡先は、五年前に亡くなった母親のままだった。

 引き取り手はないだろう。父方も母方も、親以上の世代は母親を最後に全員死んだ。歳の離れた従兄弟が三人ほどいるはずだったが、もともと親戚付き合いのない家系だったので、名前すら曖昧だ。

「もし、幸太朗さんにご希望があるようなら、こちらからお寺に伝言することはできますが。……どうされたいですか? ご先祖のお墓はありますよね」

「どう、だろう。よく知らなくて。母親が死んだときも、病院に紹介された業者で葬式して、やっぱり共同墓地に入れて」

「沼津の墓地ですね。そこに一緒に埋葬してもらうこともできると思いますが」

「……いいです。遠いし。たぶんもう混ざっちゃって、どれが母親とか分からないだろうし。良きように、してもらえれば」

「分かりました」

「……そうか、沼津か。浜松な気がしてたけど、それは病院の場所か。……すごいなそのタブレット、本人の記憶より正確ですね」

「それは、ないです」

 タブレットに何かを入力しながら、桜は笑った。

「ここにあるのは、お役所の書類に載るような情報だけです。生前の人が心に秘めていたようなことは、絶対に載りません。……本人が話さない限り分からないことって、すごくたくさんありますよ」

「……訊いてもいいですか」

「はい」

「桜ちゃんて、何歳?」

 場合によってはセクハラになりそうな質問に、彼女は笑顔で元気に答えた。

「十四歳と一ヶ月で死んじゃいました」


 いつの間にか拓真がアプリで呼んでいたタクシーに乗り、一行は幸太朗の自宅へ向かった。

 己の死を確信したからといって、魂はすぐさま成仏するというものでもないらしい。多少外殻が柔らかくなった程度で、幸太朗は人間の外観のまま存在を続けるのだという。目的地までの移動には電車や車を必要とした。

 深夜に制服姿の桜を見て、運転手は何か言いたげな顔をした。「お兄ちゃんやだよう、あたし家に帰りたくないよう」「うるせえこの不良妹」という美形兄妹の下手な芝居に効果があったのかどうかは怪しいが、何も言われることはなかったので助かった。幸太朗が二人の血縁を演じるには無理がある。

 都心から埼玉のアパートまで、タクシー代は結構な金額になったが、これも拓真が全額を支払った。必要経費なので気にしなくてよいという。往路の苦労が嘘のように、幸太朗はすんなりと自宅に戻れた。

「このアパートの賃借人はまだ幸太朗さんになっています。ここには救急車もパトカーも来ていないので、ご近所さんは幸太朗さんの死を知りません。管理会社には連絡が入りましたが、今日まで色々保留にされてますね。家賃も引き落とされ続けてます」

 さもありなん、である。幸太朗は隣人の顔も知らない。例え今鉢合わせたところで、相手も仏の顔を見たとは思わないだろう。管理会社の杜撰さは、入居時の対応から心当たりがあった。

 幸太朗が玄関の鍵を開けると、桜も拓真も当然のように室内に上がり込んだ。

 カーテンレールに洗濯物は干しっぱなし、ベッドの敷布は人が脱皮したかたちのままだった。ローテーブルの周囲には物が散乱していたが、拓真がまとめて脇に避けた。狭いワンルームになんとか三人座れるスペースが空く。

「綺麗にされてますね」と拓真が言ったのは、しかし決して皮肉ではないらしい。

「回収人なんかやってると、結構な確率ですごいのに出会うので。桜もゴキブリ見たぐらいじゃ何も言わなくなりました」

「強くなっちゃいました」

 桜は可愛らしくガッツポーズしている。

「あたし幸太朗さんのおうち好きです。いい生活感で、落ち着きます」

 幸太朗は落ち着かなかった。桜はこの部屋に入った初めての女子だ。そして確実に最後になる。

 猫の額のような玄関には、赤い傘が立て掛けられていた。それは『回収人』の仕事道具なのだという。

 フィクションで語られる死神が大きな鎌で魂を刈るように、回収人が魂を運ぶ際には必ず傘を使う。

 特別な役目を持つその傘を差せば、どんなに晴れた日であっても、空からは必ず雨が降る。その雨は、傘を差す者の足元に小さな川をつくる。雨の川はいわゆる三途の川に繋がり、不安定な魂はそれを渡ることで、この世の外へと送られる。

 桜の説明に今度は動画はなく、タブレットはリュックサックの中に仕舞われたままだった。これが詐欺や芝居だとすれば、よくこんな長台詞を暗記したものだと感心するところだ。

「魂はその後、閻魔様とか呼ばれる人から、地獄に行くか天国に行くかみたいな審査を受けることになってます。死後長くこの世に留まった魂は大遅刻ですから、回収人が渡した傘は、特急の審査許可証にもなります」

 とか、だの、みたいな、だの、肝心なところで説明がふんわりとしている。

「閻魔様って、本当にいるんだ」

「いるんですか拓ちゃん」

「さあね。的な、大いなる力的な何か、は、確実に存在すると思うけど」

 拓真は幸太朗を見上げた。

「答えは、幸太朗さんは、これから知れるんじゃないですか」

 幸太朗のスマートフォンは、深夜零時を超えても日付が変わらなかった。時刻の表示だけが変わり、つまりは4月22日の零時に戻った。その瞬間ばかりは鳥肌が立った。

 長い一日を生きたと思った。

「……僕が、桜ちゃんの傘を借りて成仏すれば、お二人の仕事は終わるんですか」

 尋ねれば二人は「はい」とユニゾンする。

「そうですか」と呟いて、幸太朗は胡座から正座に足を組み直した。

「どうも、お世話になりました。色々お手数をおかけしました。疑ってすみませんでした」

 膝に手をつき頭を下げる。あとは最期を待つのみだ。しかし介錯人たる桜は慌てていた。

「待って、待ってください。今すぐ行こうとしてますか」

「……あ、またタイミングの問題とかありますか」

「いえ、傘は開いてしまえば、邪魔は絶対に入りません。なので逆です、今すぐじゃなくていいんです。タイムリミットまではまだ一週間近くあります」

 拓真も加勢する。

「行くのは、本当に心残りがないぞと思ってからでいい。最後にしたいことや、気になることがあれば仰ってください。それをできる限りサポートするのもおれたちの仕事です」

「心残り」

 幸太朗は逡巡した。桜はメモをとろうとタブレットを抱く。

「……家を、死ぬ前にちゃんと片付けたかったとは思いました」

「はい! それやりましょう。ほかには?」

「それさえ済めば、もう、別に」

「え。ほんとですか。最後に食べたいものとか、行きたい場所とか、誰かに会いたいとか」

「特には」

「ないの? ほんとのほんとに?」

「……ほんとに」

「えー」

「えー」

 拓真も桜を真似た。口だけで、桜のように困った顔はしなかったが。

「……ないと、何かまずいですか」

「よくはないですね。家の掃除だけじゃ。できれば何かしら捻り出していただきたい」

「えー……」

 そう言われても困ってしまう。

 物理的に頭を捻った。狭い部屋の中を見渡す。

 片付けに、時間はかからないだろう。価値のある物はゼロに近く、自分は死んだと分かっていれば未練もなかった。むしろ今まで物を抱え込んできたのが不思議だった。ベッド下の段ボール箱など、前回の引越しから一度も開けなかったというのに。

「……あ」

「お?」

「いや、……あと一週間、でしたよね。なんでもないです。たぶん、間に合わない」

「間に合いませんか」と桜は勢い込む。「6月10日の、20時まで、時間はあります」

「20時」

 幸太朗は低く繰り返した。タイムリミットが死亡からきっかり四十九日なのだとすれば、つまり自分は土曜日の20時頃に死んだのか。

 その呟きを、桜は嘆きに受け取ったらしい。

「……あの、ぶっちゃけちゃいますと、幸太朗さんの場合は死亡時刻が推定なので、便宜上20時です。ちょっとくらいなら過ぎても何とかなります。誤魔化せます」

 拓真がわざとらしく咳払いした。桜は口を噤んだ。失言だったのだろう。

 4月22日を生き続けるスマートフォンを開いてみる。凍ったネットの海からでも、最低限必要な情報は拾えた。

 たっぷり躊躇ってから、幸太朗は口を開いた。

「……一つ、イベントが、あって。それがちょうど、10日でした。行けるなら行きたい、かもしれません。20時前には終わると、思います」

「場所は」

「ええと、東京ビックサイト」

「それ見てもいいですか」

「え? え、うん」

 画面を向けるより早く、桜は幸太朗の背後に回っていた。小さな画面を覗き込むので、愛らしい顔が近距離に迫る。心臓に悪いと思ってから、そんなものはとっくに止まっているのだと思い直した。

「何のイベントですか」

「スパティアの握手会!」

 拓真の問いかけには桜が答えた。彼女は一瞬画面を見ただけで、しかも切り取られたページにその固有名詞はなかったのに。

「ああ。アイドルか」

「知ってるんですか」

 予想しなかった反応に幸太朗は驚いた。狼狽えたというほうが近い。

「大好きです! あたしパイオニアです!」「おれは全く知りませんが」と、二方向から正反対の返事がある。 

 桜のボリュームに片耳を抑えながら、拓真は反対の手で彼女を指さした。

「こいつ相当オタクなんですよ。アイドル全般、引くくらい詳しいです」

「全般なんておこがましいよ拓ちゃん。全世界に、日本だけだって何人アイドルいると思ってるの」

「……そう、なんですか。意外」

「意外ですか? 見たままじゃないですか?」

 見たままなら、桜はむしろ、アイドルそのものであるのだが。

 拓真は桜のタブレットで検索をかけていた。ウィキペディアを開いて「これか」と呟く。

──スパイスフロンティア(通称スパティア、スパイス)は、日本の女性アイドルグループである。中学生から三十代までの幅広い年齢層のメンバーで構成される。ファンネームはパイオニア。グループ名のスパイスは、結成時のメンバー全員のニックネームにちなんで名付けられた──

 それである。どう説明したものかと悩んだのに、イベントの日時を伝えただけですべてが通じてしまった。

「あたしも握手券持ってます! すごくいいです! 行きましょ、絶対行きましょ!」

 桜は飛び跳ねんばかりに喜んでいる。ただ話を合わせているのではありえない盛り上がりようだ。本当に好きなのだろう。

「ね、ね、幸太朗さん誰推しですか。あっ待ってください当てさせてください、……しなもん!」

「え、いや、その。なつめぐを、応援してて」

「えーほんとですかあたしも好きです、くるみんの次に推し! 拓ちゃんほらほら、見て見て」

 蚊帳の外になりかけた拓真を、桜がシャツの袖を引いて巻き込む。液晶画面にはアーティスト写真が拡大されている。

「なつめぐこの子ね、でこっちがくるみん、しぇりー、しなもん、みかんちゃん、」

「くるみもりんごも全員同じ顔に見えるよ、おれには」

「りんごいないよ。んもう、おじさん!」

 写真のメンバーは今より一人多かった。古い時期のものなのだろう。これほど荒い画像で見分けがつくほうがおかしいのだと、幸太朗は思う。思わず口にしていた。

「……僕の方がよっぽどキモいおじさんでしょう」

「いいえ!」

 桜の返事は明瞭だ。

「違うんです。拓ちゃんこんなですけど、現世歴長いんです。ほんとにおじさんなんです」

 拓真は「事実ですよ」と応えて憤慨する様子もない。しかし桜の眩いばかりの顔を、幸太朗はまっすぐには見られない。

「……けど実際、僕はもう四十も見えてきたおじさんなので。それにこんな見た目なので、今まで、握手券は全部捨ててました。僕みたいなのがファンじゃ、なつめぐが可哀想だと思って。……ライブもイベントも現地行ったことないし、行くつもりもありませんでした。スパティアは昔から知ってはいるけど、パイオニアだとか名乗れるほどじゃない」

 桜はきょとんとしている。

「こんな見た目って?」

「……まんま、キモオタの陰キャ」

「えっ。幸太朗さん全然キモくないですよ! 落ち着いた大人って感じです。眼鏡もスーツも似合ってます。ねえ拓ちゃん」

「骨格に恵まれてますよね、鍛えたらすぐ筋肉つくタイプ」

「……なんか拓ちゃんの褒め方って微妙」

「生まれ持ったものが良いってことですよ」

 幸太朗は笑えない。仕事が仕事なのだ、彼等は人を貶さないのだろうと分かっていた。それなのにわざわざ自己否定を口にして、否定の否定を待ったようなものだった。いい歳して恥ずかしいと思うのはこういう部分も含めてだ。

「大体ですね、ルッキズムってよくないです。人を見た目で判断する人の方がよっぽどかっこ悪いです」

「おまえが言っても説得力に欠けるけどな」

 あなたもですよ、と幸太朗は声に出さずに拓真に言う。

「あたしのは、違うよ、自分がかわいくなきゃ許せないだけで、人は中身が全てだもん。アイドルだって、ただ顔が可愛い子だけの子には興味ないし」

「そうかよ」

 憤慨する桜を軽くあしらってから、拓真は幸太朗に向き直る。

「それで幸太朗さんは、だけど、本当は行きたいと」

「捻り出せと言われたら、それかな、と」

「いや、よかった。行きたくないなら捻り出てもこないでしょう。いいことです。そういうのどんどん言ってください」

「……言ったら、引かれるだろうとは思いました」

「なんでですか。そんなの、あたしも引かれちゃうじゃないですか」

「おれはさっきから若干、おまえの音量に引いてはいる」

「……わあーー!」

 耳元で叫ばれて拓真は仰け反る。桜は満足気だ。

「ガキかおまえは」

「ガキだもん。聞いちゃいましたからね、幸太朗さん。10日、絶対お連れしますからね。最後の一日に推しに会えるチャンスがあるなんて運命です、神様が行きなさいって言ってるんですよ」

 神様なんてほんとにいるのかと訊きたくなったが、幸太朗は黙っていた。的な大いなる何かは存在しますよ、と返されるに違いない。


 すっかり空になったワンルームを見て、拓真は苦笑していた。

「急に事件性を孕みましたね。突然死した人の荷物が綺麗に消えた」

「まずかったですか」

「いえ。だけど、こんなに徹底的にやる人は珍しい」

 部屋の清掃は大いに捗った。ベッドや布団を粗大ゴミに出してしまうと、残ったものは鞄一つに収まった。

 拓真は桜と共に、あるいは一人だけで毎日幸太朗の部屋を訪れた。淡々と物の処分を進める幸太朗を手伝ったり、膝上にノートパソコンを広げて何か作業していたり。付き合わなくていいのに、という趣旨のことを遠回しに言えば、「あなたを一人にはできないので」と返された。「桜とあなたを二人きりにもできませんし」と続いたので、それはそうかと思わされた。男手が二人なのは何かと便利で、ありがたくもあった。

 そうして迎えた死後四十九日目の朝である。

 アパートの呼び鈴は早朝に鳴らされた。バケツをひっくり返したような雨を背景に、桜は満面の笑顔だった。

「おはようございます! いい天気ですね!」

「……土砂降りだけど」

「はい、過ごしやすくて快適です」

 彼女のセーラー服は夏服になっていた。冬服とは白と紺の配色が入れ替わったようなデザインで、つまりスカートまで白い。隣の拓真もまた、白い麻のセットアップを着ていた。揃えたような驚きの白さだ。この雨天ではいかにも泥跳ねしそうだと思えば、二人の足元はごつごつとした黒い雨靴でしっかりガードされていた。

 件の赤い傘は閉じられたまま、桜は拓真が差した大きな黒い傘の中に収まっていた。定員オーバーの相合傘を譲られるわけにはいかず、幸太朗は最寄りのコンビニまでビニール傘を買いに走った。元々部屋にあった傘は数日前に捨てていた。

「ね、ね、幸太朗さん今日お洒落ですね! かっこいいです!」

「……ありがとう」

 手放しで褒めてくる桜に礼を返せる程度には、幸太朗は、落ち着いていた。

 物は全て捨てた代わりに、服と靴は新調したものを身につけた。ビッグシルエットの黒Tシャツと細身のブラックジーンズの組み合わせは、拓真に影響を受けた感が否めない。蓋を開けてみれば拓真は全身ホワイトに変化していたが、同じような格好で並ぶより見劣りせずに済む、とむしろ安堵する。

 桜がネットで予約した、いかにもお洒落なヘアサロンにも行った。普段の千円カットとは勝手の異なる空間に居心地の悪さを覚えていたところ、椅子に案内されたところで周囲に悲鳴を上げられた。何かと思えば鏡に映る己の姿が透けており、幸太朗も同じように叫んでしまった。当然それは目の錯覚で処理されたが、その後はスタイリストのホラー映画トークが続いた。幸太朗は相槌に徹したが、それなりに興味深い時間だった。

 そんな幸太朗の報告を桜は楽しそうに聞いていた。

 素材が素材であるので、仕上がりは拓真のような麗しさには到底及ばない。それでもそれなりの清潔感を取り戻した自負があった。

「よかった、今日雨天決行だしめぐちゃんも参加です!」

 SNSをチェックしていた桜が言う。見せられた画面の中に一つ、お知らせと題した告知があった。

──本日の握手会につきまして、夏井めぐは椅子に座っての参加とさせていただきます。ご了承ください──

「ラッキーですよ幸太朗さん、上目遣いのめぐちゃんです!」

 めぐは、五日前と三日前のイベントを体調不良で欠席していた。本調子でないメンバーが椅子に座りながら握手することは珍しくない。大事をとったかたちだろう。昨日の生配信には参加していたので、今日は来るはずだと桜は力説していたが。

「……なんか」と幸太朗は呟いていた。「行くなって、言われてる気がしてきました」

 桜は一拍遅れて叫び、拓真は眉を上げた。

「えっ」

「なぜ」

「なぜって……めぐが体調不良なら、相手するのは一人でも少ない方が、いい気がして。だからって僕が他の子のところに行くのは、もっと違う気がするし」

「でも、来るんですよめぐちゃん。ファンに行かない方がいいなんて思われたら、悲しいと思います」

「けど、性格的になつめぐ、無理してそうで」

「んもう」

 桜は、唸った。可愛らしい眉間に皺を寄せ、腰に両手をあてた仁王立ちの格好になる。

「往生際が悪いです」

 正に言葉どおりの意味だった。

「幸太朗さんは、めぐちゃんすごく好きですよね。スパティアがバズる前から、デビュー前から応援してましたよね。ぶっちゃけ人に言うの恥ずかしいくらい、あたしたちにも隠しちゃうくらい、大好きだったんですよね?」

「えあ、う、はい」

 幸太朗はしどろもどろである。何故バレているのか。あのタブレットにはそんなことまで書かれていたのか。心に秘めていたことは分からないと、桜は言っていなかったか。

 もっとも、今更かもしれない。幸太朗の狭い部屋には、いかにもなアイドルグッズはなかった代わりに、CDやブルーレイは何十枚とあった。特典目当てに同じものを複数買うのは全くおかしなことではないのだ、と桜は拓真に力説していた。

「あたしは、その気持ちは伝えないより伝えた方が、めぐちゃんは元気になれると思います!」

「桜もとても楽しみにしてたんですよ。今日のこと」

 拓真が言う。彼の笑うツボもタイミングも、幸太朗にはよく分からないままだった。しかしその笑顔の種類は、的確に使い分けられているのだろうと思う。彼は薄い微笑みを浮かべていた。

「と、いうのを聞いて、行かないというのは後味が悪くありませんか。桜とだって、あなたは今日が最後なんですから」

 無論、それは拓真とも同じことだった。幸太朗の今日に、延期の文字は存在しない。


 ざわざわとした喧噪の中に、拡声器の呼び掛けが行き交っていた。

「前の方に続いてお進み下さーい、間隔を空けすぎないで下さーい」「お手洗いは会場外のものもご利用いただけまーす」「高木奈子、午前の部配布終了しましたあー」

 どよめきと拍手が沸き起こったかと思えば、すぐに別の声がそれを消しにかかる。

「本間花音は午前の部残り少なくなっておりまーす」「研究生鈴木森山は只今すぐのご案内可能でーす」

 耳の休まる暇がない。当然のことながら聞こえる名前はよく知ったものばかりだった。

 イベント会場は広かった。中央付近に白いパーテーションが並び、アイドル達はその壁の奥で待機していた。握手を待つファンは列を作り、奥のブースまでの道をベルトコンベアの要領でじりじりと進む構造だ。

 CDに封入されていた握手券は、予めメンバーごとに設けられた受付で当日の整理番号と引き換える。桜はめぐの列に並んだ。幸太朗のためだと思えば違った。彼女はしっかり自らの分も一枚、幸太朗よりも一つ早い番号を得ていた。

「くるみちゃんじゃなくてよかったの」

「もちろん。今日のあたしはなつめぐ単推しです!」

 めぐの待機列は長くはなかった。全員がただ握手をするためにやってきたのだと思えば、呆れるほどに充分多い。しかし左右のメンバーの待機列は明らかにそれを上回っていた。

 個々のブース前に列が作られるので、握手待ちの人数の差は一目瞭然だ。人数枠の残りを知らせるアナウンスは会場全体に響いている。その場にアイドル本人がいる限り、ファンの数は少ない方がいいということは、ないだろう。

 やがて桜はブースに吸い込まれていった。

「次の方ー」

 幸太朗に声を掛けたスタッフは、めぐのメンバーカラーである水色のTシャツを着ていた。促され、手荷物の鞄とビニール傘をカゴに預ける。別のスタッフからは注意事項の説明を受ける。

「時間のカウントはブースに入った瞬間からスタートすします。握手できなくても時間が過ぎれば終了しますので、ご注意ください」白いパーテーションの中から、桜とめぐの笑い声が聞こえた。そう思った次の瞬間には、幸太朗の背中が押された。「一分です、どうぞー」

 転び出た先に、めぐがいた。

「こんにちはー」

 長机を挟んでパイプ椅子に腰掛け、幸太朗に手を振っている。

「はじめまして、めぐでーす。お名前教えて?」

「……い、石田です。石田、幸太朗」

「こうたろうさん? こうちゃんね! 覚えた!」

 母親の声が脳裏を掠めた。五年ぶりに聞いた呼び名だった。同時に山のような情報が押し寄せる。目の前に夏井めぐがいる。右手がめぐの両手に包まれる。柔らかい。温かい。アクセサリーの金属だけが僅かに冷たい。顔色は悪くない、よかった。髪型を変えたらしい、似合っている。

「前の子、妹ちゃんだった?」

 黙り込んだ幸太朗の代わりに、めぐが話しかけてくる。前の子とはつまり、桜のことだ。

「すーごくかわいい妹ちゃん。後ろのお兄ちゃんは、今日初めて来て、めぐちゃんが大好きで、喋れたら死んじゃうんですって言われたよ」

「あ、はい。今日で死にます」

 なぜかするりと言葉が出た。当然冗談だと思ったのだろう、一拍遅れて、めぐは笑った。

「えー! やだ、死なないでー! また来てー!」

 幸太朗は、泣きそうになった。

 何故、来ない方がいいと思っていたのだろう。

 めぐは優しいのだろうと思っていた。インタビュー記事や動画は、内容を記憶してしまうほど何度も見た。芸人からのセクハラに激怒する様子がテレビで流され、軽く炎上したことも知っている。めぐは幼少期にいじめを受けたこともあり、容姿弄りや人の悪口が大嫌いなのだと話していた。だから好きになったのに。決してファンを厭うようなアイドルではないと知っていたのに。

「……あの、僕」

 声が掠れた。体が透けてはたまらないと、幸太朗は手に力を込める。自分の存在を強く意識する。

「デビューのときからずっと、なつめぐのこと応援してました。大好きでした。……もう会えなくても、この先なつめぐが卒業しても、結婚してもお母さんになっても、絶対、ずっと応援してます」

「……うわ、待って待って、今の刺さっちゃった。まじやばい、嬉しい。ありがとぉ〜」

 光を反射して、めぐの瞳はきらきらと輝く。

「けど、もう会えないなんて言わないでこうちゃん。指切りしよ」

「お時間です」と背後のスタッフが声をかけた。見るからに若い、おそらく学生アルバイトの男子は、めぐが「ちょっとだけ待って」と言うと素直に引き下がった。

 細い指に小指を掬われる。

「また会おうね、指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーますっ」

 それがあまりに早口だったので、幸太朗は笑ってしまった。めぐは笑みを深くした。そっと指が離れる。

「またねー!」

 幸太朗がブースを出る最後まで、めぐは手を振り続けていた。

 光の鱗粉のような余韻を引きずる。

 暫くは地に足が着かず、はたと我に返った。

 先にブースを出た桜の姿はすぐに見つかった。彼女は壁際で、スーツの男と何か会話していた。

 首からスタッフパスを下げたその男は、何かの映像で見た顔だった。めぐたちアイドルの、チーフマネージャーだかプロデューサーだか。「君の顔ならすぐにセンターに」という声が聞こえて幸太朗は震撼した。これは、スカウトというやつか。

「顔ですかあ」と桜は何やら舌っ足らずに答えていた。

「うん、本橋杏奈ちゃんに似てるって言われない?」

「あっそれは、そうなんですう。あたし杏奈ちゃんになりたくて、でも整形とかできないから、神様にお願いしてえ」

「うんうんいいね可愛いね、とにかく一度さ、レッスン見学に来てみない? スパティアにも会えるよ」

「え、それは正直かなり心惹かれますうー……」

 目が合った。桜は小さく舌を出した。

「けどごめんなさい、だめなんです。あたし今お仕事してるんです」

 ちょこんと男に頭を下げ、幸太朗の方へ駆け寄ってくる。男は尚も追い縋った。

「えっ。ち、ちなみにどこの事務所ですか」

「新宿」

 幸太朗の背後から低い声が答える。いつの間に現れたのだろう、拓真だった。ガラの悪いサングラスをかけている。抱き寄せられた桜はひっしと拓馬にしがみつき、しかし笑いを堪えていた。その場に縫い付けられたようになったスーツの男に、幸太朗は少しばかり同情した。


「めぐちゃん最高でしたね、こうちゃん!」

「え。……聞こえてた?」

「回収人は地獄耳なんです」

 相合傘状態の拓真越しに、桜は満面の笑みを向けてくる。確かにめぐの声ははきはきとしてよく通ったが、応える幸太朗の声が外に漏れることはなかっただろう。幸太朗はぎこちなく笑顔を返した。

「うん……来てよかったと、思った。もっと早く来てればよかったと、思ったよ。なつめぐにもまた来てねって指切りされて。約束が果たせないのは、心残りだなって」

「なるほど。それじゃ死ねませんね」

「死んでますけどね」

 幸太朗は上機嫌だった。拓真の冗談にも笑って返せる。

「桜はいい仕事しましたね。おかげで幸太朗さんはこの世に未練が残った」

「そうですね……今になって色々思って。……なんて、ごめんなさい。桜ちゃんには感謝してます」

「よかったです。あなたは殺さずに済みそうだ」

 拓真は微笑んでいた。目元はサングラスで隠したまま、控え目に口角を上げる。映画俳優のようなビジュアルの持ち主が、映画の台詞のようなことを言ったと思った。

「……どういう意味です?」

 背後から誰かの傘をぶつけられた。幸太朗が急に立ち止まったので、一行は往来の邪魔をしていた。それを迷惑そうにしながら、人々が横を通り過ぎていく。

「もう、僕は、死んでますよね。……一週間ほとんど飲まず食わずで動けてるんです。流石にもう、ドッキリでも手品でも無理がありますよ」

「肉体は、確かにお亡くなりになりました。けど魂はまだ生きてる。あなたはまだここにいるでしょう」

「……それが、今日が最終日、なんでしょう。僕は今日回収されて……それがなくなるってことですか?」

「いいえ。我々は今日中にあなたを回収しないといけません。四十九日までに旅立てなかった魂は、とても悪質なものになりますから。まあ、ちょっとぐらいなら遅れても大丈夫ではありますが」

 視線を投げられた桜が顰め面する。いやみぃ、と呟いている。

「大事なのは被回収魂魄の保存状態……要するに、肉体から抜けたあとの魂の状態なんです。幸太朗さんの場合は、今はそれが、前よりも少し良い。……そのへんはまた、ご説明の動画もあります」

「はあ」

「けどこの雨だし、出すの手間ですね。おれが喋るんで構いませんか」

 幸太朗は頷いた。彼等の声を聞くのは苦ではなかった。すべてを消してしまうような雨音の中にあって、桜の声は高く通り、拓真の言葉はゆっくりと深く耳に響く。

「人の死に様は様々です。死に方それ自体には、魂はさほど影響を受けません。死の受け止め方もそれぞれです。ですが人が死を自覚したとき、思うことが多ければ多いほど、その魂は健やかであるとされています」

 走馬灯は長ければ長いほどいい。生前の思い出を振り返って懐かしく思うのもいい。後悔や未練があるのもいい。もう少し生きたかったと思うのも、次はもっといい生き方をしたいと思うのもいい。

「幸太朗さんの魂は、少し、拗れて悲しいものでした。死んだことを認識せずに彷徨っているのに、決して生き続けることを望んではいなかった。死んだと聞かされて、あなたは驚いたでしょうけど、自覚されたあとはこう思ったでしょう。……終わった、そうか、終わったのか。それならもう、それでいいやと」

 幸太朗は返事しなかった。否定しないのは肯定だ。

「幸太朗さんだけじゃ、ありません」

 桜が口を挟む。

「疲れ切って、何も考えたくないって人は、います。生きるのが辛くて、もっと積極的に、死にたいって思っちゃう人もいます。それで……ああよかった、やっと死ねたって。次は幸せになろうって思えればいいけど、そうじゃない人はやっぱり、います。決して少なくはない数です」

「そういった負の面が著しく強い魂は、回収後も輪廻転生の流れには戻されません。もう生きなくていい、生まれ変わりたくないと願っているものを無理強いして生まれさせるほど、神様は、大いなる力的な何かは、無慈悲ではないわけです」

「……殺すって言うのは、そういう」

「ええ。……おれ個人は、もう生きたくないと思うのも、尊重されるべき意思であるとは思いますよ。ただね」

「あたしは」

 続きを奪った桜の声は硬い。

「それは、すごく悲しいことだと思います。生まれ変わってもずっとずっと不幸が続くなんてないと思うから。なるべくなら次に進んで、次はちゃんと幸せになってほしいです」

「そう、おれらの雇用主のポリシーもそれなんです。自主的に終わりへ向かう魂は致し方なしとして、彷徨える魂は回収人の手を介する以上、必ず次に送り届けられるべしという」

「雇用主?」

「ええ。神様よりずっと利己的な存在です」

 もちろん生きた人間ではないのだろう。尋ねたところでそれ以上の答えが得られるとは思えなかった。

「おれもね、自分の手に触れた誰かの命を断つことは、やっぱり遠慮したいんです。勝手ですがね。だから幸太朗さんも、できれば輪廻転生の輪には戻ってほしかった」

「……今の僕は、戻れると」

「戻れます。今なら」

「魂の色が、あるんです。赤とか白とかそういう分かりやすい色じゃないんですけど。朝ちょっと明るくなってて、今はもっと明るくなってます。めぐちゃんに会ったときピークで、なんかこうきらっきらのスパークルな感じでした」

「……今はちょっと濁った?」

「ちょーっとです、誤差の範囲です!」

 そういう桜の魂の色は、きっととても明るいのだろう。拓真はどうだろう。何色であれ、まっすぐに澄んでいそうだ。

 桜の赤い傘が目に入る。

 幸太朗は言葉を探した。

 雨は飽きることなく振り続け、周囲には色とりどりの傘が行き交っている。コンビニ傘から見透せる視界は雨粒に覆われている。

「……今になって色々思うって、言ったでしょう。例えばね、一週間あったのに、僕は、母親の墓参りにも行かなかった」

「え! あっ、えっと!」

「今からなら、時間的にはたぶん何とか」

 瞬時に桜も拓真もスマホを取り出すのがおかしかった。沼津までの道程と所要時間を検索しているのだろう。彼等の道案内はきっと正確だ。

「いえ、いいんです。今から行きたいとかやっぱり同じ墓に入りたいとか、そういう気持ちではなくて。行ってもよかったなと思った。それだけです。そういうのが、ほかにも色々あった気がして」

 何かと言われると具体的には思い出せない。思い出せば他の感情が引きずり出されて、心が咎めてしまうのかもしれない。

「……だから今、そういうのが全部くすむ前に、僕は行った方がいいんだと思います」

 人生をやり直したいとは思わない。楽しい人生だったとは思わない。しかし自分は確かに死んだ。もし次の人生を生きなさいと言われるのなら、それが拓真や桜の仕事の成果になるのなら、それはそういうものなのだとして、受け入れるしかないと思った。

「こうちゃん」

 桜の呼び名は定着してしまったらしい。

「次は、スパティアのライブ一緒に行きましょうね」

「……うん」

 実現すれば、それはきっととても楽しいに違いない。

 桜は赤い傘を広げ、幸太朗に差し向けた。幸太朗は受け取ってその柄を握る。

 途端、もう片方の手にあったビニール傘は風に攫われた。周囲から人の姿が消え、勢いを増した雨の音は次第に小さくなる。

 黒い大きな傘の下で、手を振る二人の姿が見えた。


 

 夏井めぐの卒業が発表されたのは、それからひと月も経たない月末のことだった。

 セレモニーなしの即日卒業はグループ結成以来初めてのことだったが、ファンの間ではそれほど大きな衝撃なく受け止められた。体調不良による欠席が続いていたこと、握手会で涙を流す姿が見られたこと、月末でデビュー十周年が満了することなどから、めぐの卒業はある程度予測されていた。

 彼女が一躍時の人となったのは、その翌日のことだった。

 彼女がかねてより歳上の男性アイドルと交際していたこと、現在妊娠三ヶ月であり結婚を控えていることなどを、週刊誌が複数の写真や医師の証言とともに報じたのである。

 相手の男性アイドルは、何年も紅白出場を続けているメジャーグループの一員だった。近くソロデビューが決定しており、そのプロモーションのために広くメディアに出演していた最中のことだった。報道は過熱しネットは荒れ、翌日にソロデビューは延期が発表された。

 夏井めぐは一般人として無言を貫き、男性側がコメントを発表したのはその五日後のことだった。メディアの報道や世間の反応に苦言を呈したその内容は、一部には擁護もされたが、一部の過激派には格好の餌となった。世間のほとんどには刺激的なエンタメとして受け入れられた。

「ううーーああーーがあーーっ!」

 リビングのソファで膝を抱えて、桜は奇声を上げていた。ぼすん、ばすん、とクッションを殴りつける音がそれに混じる。

「やめろ。埃が舞う」

「拓ちゃあん」

 横を通り過ぎようとした拓真だったが、シャツの裾を強く引かれて捕まった。

「ねえ、みんなひどすぎるよ。お腹刺せとか流産しろとか、どんなひどい頭してたらそんなこと言えるの? 悲しくて悔しくて意味分かんない」

 手にはスマホが握られている。拓真はそれを取り上げた。

 目に飛び込んできたのは、めぐと相手男性へのSNSの反応がまとめられたページだった。スクロールするたびに卑猥な漫画の広告が追いかけてくる。内容そのものの醜悪さは言うまでもない。

「こんなもの見るなよ。フィルタリングかけられたいか?」

「スパティアもケント君のグループも、恋愛禁止してないんだよ。なのにアイドルなんだから弁えろとか、アイドルに自分の幸せは許されてないとか、人権侵害じゃないの? 憲法違反じゃないの? なんなの?」

 言いながら感情の昂りを抑えられなくなったようで、桜はいよいよ涙を零した。

 名前を隠した個人の、特にセンセーショナルな意見ばかりがまとめられているのだろうが、それが世の中に放たれた言葉であることは確かだった。

 拓真は桜の隣に腰掛けた。ティッシュの箱を押しやる。

「頭のおかしい連中に、おまえがそんなにグズグズ泣かされるのもおかしいだろうよ」

「だってぇ」

「石田幸太朗の回収後でよかっただろ」

「……こうちゃんは、怒んないよ。絶対めぐちゃんの味方だよ。そう言ってたもん」

「そうじゃない。彼女がこんなに叩かれてる状況が、耐えられなかっただろう。下手したらあの人の最後は変わってた」

 まとめサイトにはSNSのリンクも貼られている。拓真は開かれたページを適当に眺めたあと、検索タブからとあるアカウントを呼び出した。

 フォロワーもフォロイーもなし、アイコンは白い玉子のものだ。日付が新しくなるほど投稿のペースは落ちていて、4月からはぱたりと更新が止まっていた。再読み込みをしてみたところで、やはり、新しい投稿はない。

「……あたしだってむり。悪霊になりそう」

「桜」

「ごめんなさい」

 拓真は嘆息し、取り上げたスマホを桜に返した。桜はすっかり萎れ、クッションに顎を埋めている。

 十五歳の少女を慰める方法を、拓真は多くは知らなかった。「桜」と呼びかけると、彼女は大きな瞳だけ動かしてこちらを見る。

「パンケーキ焼いたら、食うか」

「食う」

 即答である。拓真はソファを立った。

 ずびすびと鼻を噛む桜は美少女も形無しだった。相手が誰であれ、人が涙するところは見たくない。

「牛乳使い切るけどいいよな?」

「うん。あとでコンビニ行く」

「明日でよければおれがスーパーで買う」

「優しい」

「違う。差額何十円が惜しいんだよ」

「……ね、拓ちゃん」

 声は僅かに明るさを取り戻す。

「こうちゃん、めぐちゃんの赤ちゃんになれたりはしないのかな。バズったアニメでそういうのあったじゃん」

「三ヶ月じゃ無理だろ。もう胎児にはとっくに魂が宿ってる」

「そうなの? ……え、じゃあ、三ヶ月よりも前に、あたしたちが会った誰かだったりする?」

「天文学的な確率で、或いは、な」

「そっか」

 桜がこれまでに回収した魂の数は多くない。分子が小さい分、可能性は限りなく零に近かった。しかし完全な零ではないので、桜が笑顔になるのは正しい。

「……拓ちゃんが、待ってる人に会える確率は、もうちょっとは、高いの?」

 拓真は聞こえなかったふりをした。

 インターフォンが鳴らされた。桜は乱暴に目元を拭って「はあい」と駆けていく。モニターに顔を覗かせた郵便配達員は、赤いレターパックを手にしていた。

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桜ちゃんはまだ死ねない ハセ @haseichico

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