紫陽花 雨希

 彼女は当たり前みたいに愛されていて、当たり前みたいに人を愛することができた。

 私が人を傷付けるのはこの世界では当たり前とされていて、けれど私はそれを当たり前のこととして受け入れることができなかった。

 漆黒の空に一筋の光が弧を描く。それは鋭い槍となって、今灯りを落としたばかりの家々の屋根へと落ちてゆく。断末魔すら残すことなく、人々は夢を見たまま潰れてしまう。後に残るのは、ただ静かな、誰一人生きた者のいない町。

 私は構えていた洋弓を下ろし、星も月もない天球を見上げた。吸い込まれてしまいそうな闇。あの空の先にはきっと、何もない。銀河も宇宙の果てもブラックホールも全部、前時代の人類が夢見た妄想にすぎない。この世界が小さな四角い箱一つにおさまっていて、その外には何もないということは、既に数十年前に科学的に証明されている。

「今日もよく働いたね。寮に帰ったらさっさと寝るんだよ」

 傍らに立つ上司が、そう言って私の弓を取った。空っぽの両手を胸の前で合わせて、私は目をつむる。

「何やってるの?」

 上司が、本当に理解できないというような声を出した。

「みんな、天国に行けるようにって」

「天国なんてない。人は消えたら終わりだよ」

「それでも、私は信じてるから……」

 目を開ける。誰も通る者のない道路の信号が、ぱちぱちと点滅している。そして、鮮血のような赤に切り替わった。胸がすうっと冷えて、引き攣るように痛んだ。

「そっか、君はまだ子どもなんだね」

 上司が呟く。

「子どもだから、まだ感情が磨耗してないんだ。矢を放てば放つほど、心は減ってゆく。だって、矢は使い手の心でできてるからね。全て使い果たしたら人は大人になって、ようやく社会の一員として認められるんだ」

 私は彼女の顔を仰いだ。その口元には微笑みが浮かんでいたけれど、彼女の言うことが本当ならば、ただの動作にすぎず、その奥に喜びや愛しさはないのだろう。

 私はとぼとぼと、小高い丘に作られた階段を下りていった。


 水曜日の午後の教室。今日の音楽の授業は合唱のパート練習だ。アルトパートの生徒達がピアノに合わせて歌う中、声を出さずに口をぱくぱくさせながら、私は窓際に集まっているソプラノの少女達の方を見ていた。その中でも一際目立つ癖毛の生徒。友だちと楽しそうに雑談している彼女。

 彼女はいつも、人に囲まれている。明るくて誰に対しても親切で、ノリも良くて活発で、嫌いな人なんて誰もいないみたいで、彼女を嫌う人も誰もいない、そんな天使みたいな女の子。

 ふと、彼女の視線が私の方に向いた。一瞬だけ、笑顔がかげる。そして、何事もなかったように自然に楽しげな会話に戻っていった。

 私の胸に、どろりとした感情が広がってゆく。鈍く痛む胸を、左手でかきむしった。

 当たり前みたいに愛し愛されている彼女が、誰に対しても優しい彼女が、私にだけはなぜか冷たい。嫌われているのだろう、と思う。どうして? なぜ? 分からないが、彼女の博愛は私には向けられない。

 苦しい。理不尽だと思った。自己嫌悪と憎しみが、ざわざわと騒いだ。

 私だって愛されたい。優しくされたい。

 それが叶わぬならいっそ――

 ――彼女を射貫きたい。


 放課後、トイレで手を洗っていたら、ちょうど個室から彼女が出て来た。彼女は私を認めて不機嫌そうな表情になる。肩をいからせて、雑に手を洗って出て行こうとする。胸の奥の茂みがざわざわと揺れ、中なら猛獣が顔を出した。

「ちょっと待ってよ」

 鏡の中で、彼女が私の方に首を向けた。

「あ?」

「ねえ、そんなあからさまに嫌いって態度しなくても良いんじゃない?」

「は?」

 彼女は軽蔑するように吐き捨てた。

「だって、あんたには価値ないもん。あんたに好かれたって、何の意味もない。だからわざわざ、心を削ってやる必要ない」

 思いがけない彼女の言葉に、私は呆気にとられた。

「……あなたも、心削ってたんだ」

「何言ってんの、バカ。素であんな優しい人間いるわけないじゃん」

「心って、削るとなくなるんだよ?」

 彼女がきょとんとする。それは一瞬のことで、すぐに満面の笑みを浮かべた。振り返り、彼女といつも仲良くしているクラスメイトが入ってきたことを知った。

 私は深くため息をついた。

 ようやく気付いた。私は彼女に嫉妬していたのだ。愛し愛されている彼女に。でも、今はもう……


 この夜、私と上司はこの辺りで一番高いビルの屋上に立っている。

「世界のストレージはあと少ししか残っていない。少しでも空き容量を増やすために、今日は人間を一万人削除する。それが命令」

「はい」

 私は弓を構える。人工の、星の海に向かって。

「ねえ、一つ聞いても良いですか?」

 上司は小さくうなった。

「……感情を失ったら、楽ですか?」

「楽かどうかも、私にはもう分からないよ。ただ体が勝手に笑うだけ」

 私は弓を振り絞った。放とうとした瞬間、ささやきが私の耳をかすめる。

「今のうちに、愛しておきな」


 教室の真ん中で楽しそうに笑っている彼女を横目で見ながら、指先でペンを回す。

 彼女を愛するということはきっと、彼女が私に冷たくするのを受け入れることだ。

 思わず、笑い声が漏れた。

 これが、愛か。

 本物の、愛だ。

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紫陽花 雨希 @6pp1e

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