最終話

 青々とした野山の香りが肉体を包み込み、奥底へと浸透していく。沸き出る汗の滴に、吐き出す呼気や唾液にすら、青臭さが染み込んでいるようにすら感じられた。


 湿った肌に雑草や木葉が張り付いていたが、優人はそれを取り払うことすら忘れ、ひたすらに斜面を上っていた。待ち構えているのは田舎の原風景などではなく、立ち入ったものを無造作に飲み込む底無しの暗闇だった。


 もはや、背後から鳴り響いていたクラクションの音は聞こえない。距離が離れたというのはもちろんだが、それ以上に肉体を蝕む疲れが五感を鈍らせ、意識を混濁させていく。


 山を進めば進むほどに、如実に感覚が狂う。大気が重さを増し、呼吸する度に酷く体力を消耗した。手足に刻まれていく傷の痛みすら、今ではまともに感じることができない。


 まるでここは異界だ。


 見た目こそ人の手が入っていない野山のそれだが、踏み込んだものを拒むかのように自然そのものが働きかけてくる。


 風が、土が、草木が、水が――密接に絡み合い構築されたそれらを前に、優人はまるでなにかの体内に入り込んでしまったかのような、おぞましい錯覚を抱いてしまう。


 野山の自浄作用が肉体を蝕むが、それでも優人が足を止めることはない。何度も立ち止まり、呼吸を整え、滝のような汗を拭い、足を前に運び続ける。


 方向感覚などとうの昔に狂っていたが、肉体を突き動かす直感のみを頼りに上を目指した。


 不思議な感覚である。禁足地そのものは優人を拒絶しているが、一方でその奥底に鎮座する〝なにか〟は、こちらを強く惹きつけ、導いているように感じてしまう。


 それが純粋なる救いなのか、巧妙に仕組まれた罠なのかは分からない。だが少なくとも、今の優人はその唯一の感覚を頼りに、進み続けるほかなかった。


 もはやそれは、完全なる賭けだった。愛する人を失い、仲間を失い、一切の協力者を失った優人にとって、自身を導く〝なにか〟だけがこの異界を進むための道標になりえるのである。


 孤独を抱きしめ、苦痛を生の頼りとして突き進む。一つ、また一つと木の根をまたぎ、滑り落ちそうになりながらも斜面を上った。


 そうしてようやく、優人は無意識ながらにたどり着く。気が付いたときには視界が開け、彼は明らかな人工物の上に立っていた。


 目の前には、山頂に向かって石段が続いている。切り出され整形した石を組み上げたそれは、風化こそしていたが堅牢な感触を足裏に伝えてくれた。


 立ち止まったまま深呼吸を繰り返すと、なぜか急に意識が研ぎ澄まされてくる。これまでとは違い、どこか鮮明で混じりけのない空気が一帯を包んでいた。


 この場に宿った神聖な気配が、疲弊し打ちのめされた優人の肉体を癒してくれる。振り返ると随分と高い位置にいるようで、夕暮れ時の村の様子がまざまざと見下ろせた。


 夕日が随分と傾き、すでに夜の気配が近づいていた。空には紅と黒の境界が浮かび、遠くの野山は輪郭のみを残して、濃い影で塗りつぶされている。


 優人にとって忌むべき村の風景が、そのときばかりは酷く幻想的に見えてしまった。徐々に意識が覚醒していくなか、彼は再び目の前の石段へと向き直る。


 やはり、確証などない。もはや理屈ではなく、細胞そのものに訴えかけてくる感覚のみを頼りに、優人は一歩一歩、着実に石段を登っていった。


 風が頬を撫で、汗を振り払う。冷ややかな大気は火照った体から熱を奪い、狂った体内のリズムを整えてくれる。


 一歩、体を進ませる度に、疲弊していた肉体に奇妙な活力が沸き上がってきた。ぼやけ、歪んでいた景色は研ぎ澄まされ、目の前に広がるあらゆるものを克明に意識に焼き付けていく。


 なおもここが異界であることには代わりがない。だがそれでも、先程までの混沌とした世界ではなく、全く異質な透明感が一帯を支配していることを理解してしまう。


 着実に、ゆっくりと山頂が近付いてくる。石段のその先――岩肌にできた裂け目へと、優人の意識が吸い寄せられていった。


 その洞穴の奥に、たしかに〝それ〟はいた。一瞬、思いがけない展開に息をのむ優人だったが、それでも近付く足は止めない。


 一歩、石段を踏みしめるごとに〝それ〟との距離は近付き、その輪郭が、形が、姿があらわになっていく。対峙する存在を注視したまま、優人は気が付いたときには洞穴の入り口までたどり着いていた。


 天然の洞穴の中には、自然をそのまま利用した祭壇があった。壁際には木や縄、なにかを記した札のようなものが並び、ぐるりと取り囲んでいる。


 その中央――石段の終着点に位置する岩の上に、今もなお〝それ〟がいた。


 洞穴の頭上にはわずかな亀裂があり、そこから差し込んだ夕焼けがわずかに、〝それ〟の姿を浮かび上がらせる。


 はじめはそれが、人形なのだと思っていた。線が細く、一切の体毛がない乾いた肌をした人形が、あぐらをかいた形で岩の上に鎮座している。異様な光景ではあったが、一方で優人には不思議と恐れはない。


 だが、至近距離でまざまざと観察し、彼はそれが造形物などではないということ悟る。あまりにもか細い肉体と、水気を失い張り付いた皮膚の〝それ〟を前に、優人は呼吸を止めてしまった。


 それは、人間――永い時の流れのなかであらゆるものを削ぎ落とし、それでもなお残り続けた、一人の人間がそこに座っている。


 あぐらではない。〝彼〟は死してなお、座禅を組んだ形でたしかにそこにいた。自身の抱いた祈りをそのままに、変わらぬ形でこの洞穴の中にいたのである。


 それは、一人の僧侶のミイラであった。


 その浮世離れした存在を前に、優人は多くを悟ってしまう。汗こそ沸き上がりはしなかったが、静かな洞穴の中で己の鼓動の音がことさら強く響いた。


 目の前に鎮座する〝彼〟は、かつて災厄に蝕まれる村を救った。その上でなお、〝彼〟は決めたのだ。


 自身が救済したこの場所を――『幸人村』と名付けられたこの地を、未来永劫、守り続けると。


 人の命は無限ではない。それでも彼は、神や仏に祈るのではなく、自身の力で弱き者たちを守護することを決意したのだ。


 これは、〝即身仏〟――優人は呼吸を止め、目を閉じかすかにうつむいたままの彼の穏やかな顔を見つめた。


 人々を救い、死してなおこの地を浄化し続ける一人の男が――人々から〝幸人〟と讃えられ、語り継がれる存在がそこにいる。


 かすかに肉体を震わせながら、優人は僧侶・浄優と対峙する。数百年の時を経て、この村の起源となった存在に向き合った。


 優人の体内で、どくどくと鼓動が加速する。血が全身を巡り、更なる段階へと意識を覚醒させていった。


 優人の目は自然と、ミイラの目の前に置かれた〝それ〟を見つけ出す。瞬間、今度は電流のような衝撃がその肉体を貫いた。


 小さな物体だった。両掌におさまる程度のそれはくすんだ青銅色をしており、長い年月ゆえか錆や欠けが見える。しかし、ここに置かれた年月を考えれば、驚くほどに風化していない。


 もはや疑いなどしない。想像したものより遥かに小さなそれは、それでも間違いなく優人が思い描いた形状をしていた。


 〝鐘〟がそこにある。ミイラとなった浄優の目に前に、それは鎮座していた。


 優人はまばたき一つせず、〝鐘〟を見つめる。あの日からずっと、この〝鐘〟を追い求めてきた。愛する存在を奪われたあの時から、ここにたどり着くために生きてきたのだ。


 〝幸人の鐘〟――気が付いたときには、優人はその小さな物体にゆっくりと手を伸ばしていた。


 いざ対峙したそれを、どうすべきかは分からない。奪い去るべきなのか、はたまた粉々に破壊してしまうべきなのか。


 一切が分からないまま、それでも優人は本能から動いていた。とにかく、自身が見つけたその〝鐘〟に触れたくなってしまったのだ。


 優人の指先が近付く。その先端があともう少しで触れようとした瞬間、突如として〝それ〟は起こった。


 目に見えない不可視の力が、前方から津波のように押し寄せ、優人の肉体を中心に渦巻く。風も吹き込まない洞穴内の空気そのものが生き物のように呼吸し、鳴動していた。


(なんだ、これは――)


 優人がそれを理解する前に、洞穴に――否、この祠に存在していたなにかが、一気に体の奥底に染み込んできた。


 わずかに優人の意識が途切れる。しかし、彼は自身の足で立ったまま、突如として脳内に流れ込んできた無数の光景に、言葉を失ってしまった。


 色を持たない、モノトーンの映像が目の前に広がっている。荒れ果てた大地の上には事切れた人間たちの骸が点在し、凄まじい熱波によってじりじりと焼かれていた。


 右へ、左へと、歩きながら視線を走らせる。死体には蛆がわき、蝿が音をたててたかっていた。肉が崩れ、腐りきったおぞましい臭いが、そこら中に立ち込めている。


 そこにはまだ、村と呼べるものは存在していなかった。路頭に迷い、各地から流れ着いた弱き者たちがぼろ小屋を建て、身を寄せあって暮らしている。


 立ち寄った〝彼〟は、その悲惨な現状に心を痛めた。それゆえに旅の足を止め、まずは自分の出来る限りを尽くし、人々を救おうと決心する。


 とはいえ、飢饉や疫病に対する知見など持ち合わせているわけでもない。あくまで僧侶としての修行しか積んでこなかった〝彼〟にとって、すべて一から学び、考え続ける他なかったのである。


 勉強し、悩み、時には遠方まで出向き専門家に教えを乞う。幾度となく頭を下げ、拒絶されてもなお食い下がった。その身にいかなる痛みを刻まれようと、苦しみあえぐ弱き民を思い、立ち向かい続ける。


 大地を開墾し、作物を実らせ飢えを凌ぐ。死体を観察することで疫病を特定し、然るべき治療方法を確立させていく。一つ、また一つと災いを取り除き、集落は豊かになっていった。


 日照りが続けば雨乞いを行った。人間同士の衝突があれば仲裁した。理不尽な言葉と痛みを刻まれようとも、ただひたすらに耐え、解決策を模索した。


 長き年月が過ぎた頃、荒れ果てていた土地は豊かさを取り戻し、人々はかつてない活力に満ち満ちていた。集落には人が集まり、文明が栄えていく。災いの消え去った土地で、誰も彼もが心からの幸福に笑顔を浮かべている。


 人々はその偉業を讃え、彼を〝幸人〟と呼んだ。その名を冠した村を形成し、その教えを誰しもの心に刻んでいく。


 良かった――どれだけ疲弊しようとも、彼は幸せそうに笑う人々の姿を見て、随分と報われたのだ。これまで歩んできた日々が、無意味ではなかったのだと分かった。未熟な自分が、それでも誰かを幸せにできるのだと、心から安堵したのである。


 村が生まれ、人々は平穏を手にいれた。


 しかし、その安寧は一時のものであった。


 幾度となく争いが起こり、世界には戦火が生まれた。人が人を襲い、奪いあい、殺しあう。命が尊いものだと分かっていながら、それでもあまりにもあっけなく人は人を殺めていく。


 世界の混乱は、着実に村をも蝕んでいった。飢えや病を乗り越えたはずなのに、外からもたらされた暴力に――あるいは、内側から膨れ上がった憎悪によって、いつだって人間同士の衝突が引き起こされる。


 その度になおも〝彼〟は尽力し続けた。己のできる限りをもって、目の前で起こるいさかいを鎮め、壊れかける村のバランスを調整し続けていったのだ。


 不幸を祓うたびに、そこには確かな幸福が生まれた。だが一方で、彼の奮闘とは裏腹に、またどこかで不意に新たな不幸が生まれる。


 肉体と精神が摩耗するなか、ついに彼は考えてしまう。はたしてこの幸と不幸の連鎖に、終わりはやってくるのか、と。


 諸行無常にして、盛者必衰の理が変わることはない。人というものは無限に生きることができず、いずれは彼もまた老い、朽ち果て、骸となって土に還るのだろう。その時までに、この小さな世界にはびこる悪しきものを取り除き、真なる幸福など作り上げることができるのか、と。


 多くの人に慕われながら、それでも彼は孤独だった。人々を導き、諭す者として、この遥かな命題に立ち向かう時、彼は常に一人きりで苦悩し、眠れぬ日々を送り続けた。


 その果てに、ついに彼は気付く。あまりにも当たり前で、そしてあまりにも無情な事実に。


 人とは〝光〟であり、〝影〟でもある。


 どれほど、世界を輝きで満たそうとしても、その光が強ければ強いほどに濃い影が生まれる。蝋燭の灯火であろうが、太陽の輝きであろうが、その理は変わらない。


 彼は救済の果てに、気付いてしまったのだ。これまで歩んできた道――その原点こそに、間違いがあったのだと。


 修行を重ねる日々のなかで、彼は常に願い続けてきた。世界を幸福で満たすことを。この世のありとあらゆる人間に、然るべき幸せを授けたい、と。


 その崇高な思想が、ただの理想だったと気付いたのだ。人間という存在から、闇を取り除ききれると慢心し続けてきた自身を酷く恥じた。


 人の命が輝き続ける限り、影は覗く。朝と夜が絶え間なく巡るが如く、人から悪意そのものを消し去ることなど、できはしないのだ。


 優人の肉体に感覚が戻ってくる。祠の生温い空気を、喉元から溢れでる嗚咽が揺らしていった。


 なぜだか、悲しくてしかたがない。体に流れ込んできたそれは、目の前に鎮座する〝彼〟が辿った、旅路の記憶そのものだった。〝彼〟のこれまでを追体験したからこそ、どうしようもない物悲しさが優人の胸を締め付け、両の眼から涙を溢れ出させる。


 ようやく、優人はすべてを理解してしまう。この祠に座したまま、今日まで村を見守り続けてきた僧侶の思惑を、言葉ではなく感覚で受け止めた。


 〝鐘〟を鳴らしていたのは、〝彼〟だったのだ。〝彼〟は今までずっと、この祠から村を見つめ、そして然るべき時に〝鐘〟を鳴らしたのである。


 人々を幸福にすべく、旅のさなかにこの地を訪れた僧侶・浄優――目の前に座る〝幸人〟の穏やかな顔を見つめ、頬を涙でぐっしょりと濡らしたまま、優人は悟る。


 この村を包む不可解な現象を、一時期は呪いだとすら考えていた。不可思議な力によって、土地のどこかで悪しきものが命を刈り取られる。その現象を、太古から土地に根付いた呪縛だと考えていたのだ。


 だが、その本質はもっと複雑で、物悲しい。きっとこれは、浄優が辿り着いた最後の答えだったのだろう。すべての人間を救済するという理想を現実で砕かれてしまった彼が、最後の最後に施した、〝願い〟だったのだ。


 すべての人間を救うことはできない。だからこそ彼は、せめてこの村だけでも――彼が救おうとしたこの小さな〝世界〟だけでも、守り続けようと決めたのである。


 己の命を賭けて。己を即身仏とし、強烈な念を土地そのものに固着させて。


 過去と今では、人間というものの価値観は異なる。だがそれでも、優人は流れ込んだ記憶を手繰り、かの時代を必死に生きた一人の僧侶の思いに、体を打ち震わしてしまった。


 〝幸人〟とは、崇高な神でも、ましてや土地を呪った悪霊などでもない。


 彼はただの不器用な、人間だったのである。他人の幸福を願い、そのために身をなげうってでも奔走し続けた、ただただ純粋な優しさを秘めた、孤独な人間だった。


 かつて世界を浄めようと奔走した僧侶の優しさは、永き時を経て、恋人を失った優しき一人の人間へと受け継がれてしまう。


 どれだけ時代が異なっていても、どれだけ価値観が違っていても、それでも今の優人は〝彼〟を理解できてしまうのだ。


 目の前の僧侶は、出会った世界の人々が綺麗な存在であってほしいと願った。そして優人は、共に歩んだ美しき彼女が正しい存在であってほしいと願った。


 打ちひしがれ、微かに震えながら優人はうずくまる。涙の確かな熱さを感じながら、目を閉じた暗闇の中で、彼女の名を呼んだ。


「――真名」


 その呼びかけに、応える者はいない。


 彼女はこの土地の――この小さな世界のルールに則り、逝ってしまったのだから。


 認めたくなどなかった。とことん、最後の最後まで否定し続けたかった。だがそれでも、今の優人は真名がやってきたことのすべてを――彼女が隠していた影を知ってしまっている。


 だからこそ、どうしても優人は抗い続けることができない。浄優という僧侶が遺したその祈りを突っぱねることができずにいた。


 すべてを知り、そのうえで優人は〝納得〟してしまっている。


 かつて引きずり続けた彼女という過去が――その死には、然るべき意味があってしまったのだと、悟ってしまったのだ。


 だからこそ、優人はそれ以上、なにもできない。〝鐘〟に向けて伸ばしかけた手を戻し、ただただ頭を抱えて涙を流す。


 悲しくてしょうがなかった。やりきれなくて仕方がなかった。


 優人にとって幸福の象徴であった彼女は、その生き様のどこかで他人に不幸を与え続けてきた。その果てに、かの〝鐘〟の音が鳴ったのだ。


 行き場のない悔しさが肉体の内側で暴れ狂い、体の奥底が波打つ。だがそれでも、優人はとうの昔に答えを出してしまっていた。


 だからこそ静かに、言葉一つ発さずに立ち上がる。頬の涙はそのままに、目の前で座る〝幸人〟と、その目の前に置かれた〝鐘〟を見つめてしまった。


 これからもこの土地には、幸福が訪れ続けるのだろう。悪しきものが取り除かれ、そこには然るべき幸せだけが残る。


 どれだけいびつでも、それこそが答えなのだ。それだけが、この村にとっての真実に他ならないのである。


 優人は〝鐘〟に指一本触れなかった。彼は踵を返し、これまで上ってきた石段を一歩、また一歩と力なく降りていく。


 祠から出ると、野山を駆け抜ける生暖かい風が肌を撫でつけた。涙がパッと散り、茜色を受けて微かに輝く。


 そこからは眼下に広がる集落の様子が一望できた。きっとこれこそが、背後に座している〝幸人〟が見守り続けてきた、小さな世界の姿なのだろう。


 ため息をつき、ゆっくりと優人は山を下りていく。〝鐘〟にたどり着き、自分なりの答えを手にしてしまった彼に、もはや闘争心などは宿っていない。


 心の奥底に開いた、真名という穴は埋まらない。だがそれでも、その穴に〝納得〟をしてしまう自分がいる。だからこそ、たとえ情けなくても、涙にまみれたみっともない姿でも、優人は一歩を踏み出すことができるのだ。


 真名という〝光〟は、もうどこにもいない。彼女は優人のなかに焼き付いた〝影〟として、これからも心の中で生き続けるのだろう。


 彼は足を出し、しっかりと足裏で石段を踏みしめた。だがその瞬間、鳴り響いた〝音〟が魂そのものを激しく震わせる。


 ごぅぅん――目を見開き、優人はたまらず振り返った。祠の入り口からは、なおも座禅を組んだままの〝幸人〟のミイラと、彼の目の前に置かれた〝それ〟が鎮座している。


 また一つ、〝鐘〟が鳴った。その突然の事態に驚きこそしたが、それでも優人はすぐさま〝納得〟してしまう。


 彼は涙をぬぐい、前を向きなおした。眼下に臨む『幸人村』を前に、改めて一つ、悟る。


 〝鐘〟が鳴れば、誰かが死ぬ――それがこの村に宿った、たった一つの理だ。


 きっとまたどこかで、悪しきものが消え去ったのだろう。運命が流動し、その命は〝幸人〟によって連れていかれる。


 この小さな村が――この世界が〝幸福〟で満たされるために。


 優人はしっかりと足裏の感触を確かめながら、なおも石段を下りていく。夕暮れから夜へと移り変わろうとする村を見つめ、もはや怒りや迷いすら感じず、淡々と道を戻っていった。


 逢魔が時を迎えた村に、夏の夜風が吹き込んでくる。微かな熱を帯びたそれは優人の涙をさらい、山頂の祠にまで吹き込んだ。


 風を受けてもなお、それが鳴り響くことなど決してない。


 悲しき願いが込められた〝鐘〟を背にしたまま、一歩、また一歩と優人は山を下っていった。打ちひしがれ、疲弊し、それでもなお透き通った輝きを秘めた眼差しのまま。


 錆付き、固まりかけていた優人の人生の歯車が、少しずつ、軋みながらも回り始める。小さな世界で得た悟りが、彼の心を穏やかなものへと変えていた。


 ほんのわずかに見上げた空には、まだ星は見えなかった。その大空に向けて放ったため息は夜風にさらわれ、どこか遥か遠くへと消えていってしまった。

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幸人の鐘 創也 慎介 @yumisaki3594

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