第19話
締め切った小屋の中は夕暮れ時にもかかわらず濃い闇に包まれていたが、なによりも隙間風一つないため異様に蒸し暑い。椅子に拘束され座っているだけだというのに湿気が肌に張り付き、肉の奥底から生暖かい汗を絞りあげていく。
身動き一つとれぬまま優人が考えたのは、ここから脱出する方法でも、ましてやどうやって村人たちに仕返しをするかという下らないことでもない。
脳裏に浮かんだのは、この村に〝鐘〟を持ってきた張本人――〝幸人〟と讃えられ続けた僧侶・浄優のことである。
先程、村長・葛城たちに向かって本能的に啖呵を切った優人だったが、そこに反射的に出てきた〝幸人〟という存在に、自然と意識が向いてしまう。思えば、これまで優人はこの村に隠された〝鐘〟を追い求め続けてきたが、一方でそれをもたらした僧侶については資料に残る背景を調べ上げた程度である。
かつて、数々の災厄に苦しんでいた小さな集落を、海を渡り大陸へとやってきた僧侶・浄優は訪れた。彼は飢餓や疫病、時代ゆえの無益な争いに苦しむ人々を見て、それを救おうと尽力したはずだ。
結果、彼はこの村を救い、人々から〝幸人〟と讃えられた。それ故にこの地に多くの教えを根付かせ、やがては未来永劫、この村の人々が幸福になるための〝鐘〟を残したのである。
どんな顔をしていたのか、どのような性格で、どのような立ち振る舞いをする人物だったのか、その一切が謎に包まれている。だがそれでも、優人はいまさらながらにその太古の僧侶の人柄について、深く思いを巡らせてしまった。
この村の裏を探れば探るほどに、なんだか浄優という人物のことが分からなくなってくる。言い伝えによれば、彼は人々を幸福にすることを望み、村のために真摯に尽くしてきた人間だったはずだ。
だが、この村で起こっていることは、彼が望んだ〝幸せ〟とは程遠いように思う。どういう理屈かはさっぱり分からないが、あの〝鐘〟が鳴ることで悪しきものが排除され、その度にどこかで人が死ぬのだ。
無論、亡くなった人間は皆、なんらかの悪意を抱き、時には悪行にまで手を染めていたのだ。部外者からすれば誰も彼も、いなくなってしまった方がいい人間だと認識されるのかもしれない。
(だがそれでは、あまりにも……非情じゃあないか……)
優人にとって真名がそうであったように、亡くなった誰しもに根強い〝縁〟を持つ人間がいたはずだ。
佐久間一茂には妻の曜子が、動画配信者の戸倉にも彼を慕っていたファンが大勢いたのである。
どこまでいっても、亡くなったのは自分ではなく他人だ。だが、人というのは常に誰かとの繋がりを作り、その強固な鎖の感触を頼りに生きている。
どれほどの月日が経とうが、優人は真名がいたという過去を捨て去ることなどできない。早く忘れた方がいいなどという知った風な口を利く人間を、彼はこれまで徹底的に排除し、敵対すらしながら生きてきた。
そんなことを、正しいなどと思いたくない。かつての誰かが消え去り開いた穴をすっぽりと埋めることができる思い出など、存在はしないのだ。
その唯一のわがままが、優人の肉体を滾らせる。暗闇の中でなお、恐怖などよりも圧倒的な熱意が思考を前へ前へと進ませていく。
浄優が――〝幸人〟がしたかったこととは、何だったのか。
そして、彼が残した〝鐘〟を鳴らしているのは、一体。
そこまで優人が考えたと同時に、再び目の前の閉ざされていた木戸が開く。突如、差し込んだ強烈な茜色に、彼は思わず目を細めてしまった。
村人たちが戻ってきたのかと思い、優人は反射的に威嚇しようと歯を食いしばった。しかし、夕焼けを背負って立つその細いシルエットに、「あっ」と声を上げてしまう。
「あんた――」
唖然とする優人に、細身の彼女はため息をついてみせる。逆光で影となったスーツ姿は茜色を切り取り、世界そのものに濃く張り付いていた。
女探偵・荒木双葉は、なおも凛とした眼差しのまま、ボロボロになった優人を見下ろす。
「待たせちゃったわね。どこか、怪我は?」
「あ――いや、大丈夫だ。けれど、なんでこの場所が……」
双葉はふっと笑い、すぐさま優人の拘束を解いてくれる。やっと両腕が解放され、立ち上がることができたのだが、なおも優人は不思議そうに双葉を見つめるしかなかった。
「あまりにもあなたの帰りが遅いものだから、寺に連絡を入れてみたの。けれど反応がなかったので、嫌な予感がしてね。大急ぎで駆けつけたら、ちょうど気を絶したあなたが運び出されるところだったわ」
「そうだったのか……し、しかし、この場所の鍵はどうやって手に入れたんだよ?」
「こんな旧式の錠前、鍵なんてなくても楽勝よ。私も、仮にも探偵なんでね」
言いながら、彼女はポケットから小さなヘアピンを取り出した。どうやら正式な鍵を使わず、ピッキングで解錠してしまったらしい。
彼女の思わぬしたたかさに、優人の口から「はぁ」とため息が漏れてしまう。そんな呆けている優人に、なおも双葉は真剣な眼差しを向ける。
「川嶋さんも相変わらず見つからない。しかもさっき、〝鐘〟が鳴ったのよ。もしかしたら、事は最悪の方向に動き始めてしまったのかもしれないわ」
「なんだって、〝鐘〟が? じゃあ、まさか川嶋の奴――」
違うとは信じたかったが、今となってはその可能性は否定できなかった。川嶋は冷静沈着に見えて、どこか好奇心に憑りつかれ暴走する危険性もはらんだ男だ。そんな彼が消えた矢先、〝鐘〟が鳴ったとすれば、あるいは――その先を優人が想像するなか、やはり双葉が思考を一手先へと進ませていく。
「このままだと私たちも危険よ。今度また村人に捕まったら、それこそ生きてこの村を出ることは叶わないかもしれないわ」
「だな……けれど――」
緊迫した状況でありながら、優人はどうにも言葉を詰まらせてしまう。双葉が言いたいことは理解できていたし、実際、それが得策だということも承知の上だ。
いまや優人や双葉にとって、この村の中に安全な場所などどこにもない。集落の人間は村長・葛城を中心に結託し、あらゆる情報を共有しあっている。誰を頼ろうが、結局はその情報が筒抜けになり、追いつかれてしまうだろう。
川嶋の行方を捜すべきなのかもしれない。だが一方で、二人の身もまるで安全とは言い難い状況に追い込まれてしまっている。このまま村が夜を迎えれば、それはなおさらだろう。
(まるで、あの日と同じだな……)
かつて真名と共にこの村を訪れ、車がエンストした際に感じたものと同じ焦燥感が優人の奥底に湧き上がってくる。
得体の知れない〝なにか〟が蠢くこの地で、夜を迎えるということの無謀さを、優人は直感的に理解してしまった。
ならばまずは、安全を確保するために村から距離を取るべきなのだ。一旦、退避して好機をうかがい、村そのものの隙を見定めるべきなのである。
優人にだって、それは良く分かっていた。だがそれを理解してなお、彼は素直に双葉と共にこの小屋から去ることができない。
拳を握りしめ、歯を食いしばりうち震える優人を、しばし双葉は見つめていた。しかし、彼から返事がないことを確認し、あまりにもあっさりと彼女は告げる。
「このまま、おめおめと逃げるつもりはない――そうでしょう?」
意表を突かれた一言に、優人はなおも「えっ」と間抜けな声を上げてしまう。すぐ目の前に、冷静でありながら、どこか物悲しさも秘めた双葉の細い眼差しがあった。
「これまで、ずっとこの村に――いや、かつての〝彼女〟の死にこだわってきたあなただもの。ここまで来て、辿り着こうとしている真実から遠ざかる気はないんじゃあないの?」
「それは、その……」
「いいのよ、否定なんかしないわ。私にだって、あなたの気持ちは分かる。だからこうして、助けに来たんだしね」
重ね重ね、自身の心の奥底を的確に読み取られてしまい、優人は開いた口が塞がらない。戸惑ってしまう彼の前で、双葉は小屋の外を警戒しながら続けた。
「あなた、かつて言ったわよね。正しいかどうかじゃあない。俺はただ〝納得〟したいだけなんだ、って。私もそう――姉の死に〝納得〟したいから、こうしてあなたについてきたの。あなたという存在は私にとっても、自分の過去に決着をつけるための鍵の一つだった」
「俺があんたにとっての……鍵……?」
「ええ。あなたのその純粋な熱意なら、真実までたどり着ける――私はそれに賭けたのよ」
きっとそれが、荒木双葉という女性が優人に協力しようと決めた、きっかけだったのだろう。思わぬ真実に、優人はただ口を開いたまま、スーツを身にまとった彼女の姿を目に焼き付ける。
差し込む夕日が、彼女の左半身だけを染め上げた。一方で、もう半身には濃厚な影が張り付き、景色の上で塗りつぶされてしまう。
村へと視線を走らせる彼女の横顔に、迷いはなかった。とっくの昔に、彼女はこれから起こる出来事に対する〝覚悟〟を決めてきたのだろう。
揺るがぬ意志が、優人の背中を押していく。双葉はようやく視線を合わせ、静かに告げた。
「あなたが行くと言うなら、止めはしない。その代わり、私の思いも背負ってほしいの。必ず、〝鐘〟を見つけて。誰かを失った過去に、〝納得〟するために」
彼女の言葉はまっすぐに優人の体を貫く。鋼のような堅牢さと、奥底に秘められた熱が、優人の鼓動に力を与えた。
それ以上、二人は多くを語りはしなかった。双葉に背中を押されるまま、優人は監禁されていた小屋を飛び出し、動き出す。
どうやら寺の裏にあった物置小屋に押し込められていたようで、夕暮れに染まる境内の姿が目の前に広がっていた。
双葉は「こっちは任せて」という短い一言を告げ、そそくさと歩き出してしまう。小さくなっていく彼女の背中に、それでも優人はなんとか言葉を絞り出した。
どうしてもそれだけは彼女に――ここまでついてきてくれた仲間に、告げたかったのだ。
「ありがとう――必ず、見つけ出すよ」
双葉は振り返らなかった。彼女は背筋を伸ばしたまま、颯爽と歩いていく。ただ一度だけ、左手を高らかに掲げ、女探偵は優人に応えてみせた。
そんな些細なことで、十分だった。優人は強い眼差しのまま、すぐに行動に出る。彼の目の前には、寺の裏に位置する野山への入り口が――侵入者を防ぐための門が立ちはだかっていた。
その門に手を伸ばし、迷うことなくよじ登っていく。恐れや迷いを振り払い、ただ肉体に宿る熱のみを頼りに、彼は突き進んだ。
優人が門の向こう側に降り立ち、目の前に広がる傾斜を眺めていると、遠くから甲高い音が響き渡る。なぜか車のクラクションがしきりに鳴らされ、右へ左へと慌ただしく動き回っているようだった。
その正体を、優人は息をひそめたまま直感的に理解してしまう。
間違いなくそれは、双葉が鳴らしているものだ。彼女は村人たちの注意を引き付けるため、あえて自身の車に乗り込み、村中で騒ぎを起こしているのである。無論、状況がまずくなればそのまま、車の機動力を頼りに逃走することまで見越して。
(つくづく、したたかな女性だな)
遠くで奮戦する彼女に感謝しながら、優人は一気に駆け出す。左右から伸びた雑草を振り払い、彼は躊躇することなく獣道の奥へと進んだ。
この先にきっと、答えがある。
これまで引きずり、追い求め続けてきたすべての答えが。
草木と土の濃厚な香りに包まれながら、優人は荒々しく、力強い一歩を繰り出し続ける。背後から鳴り響くクラクションの音が、その度に自身の背中を押してくれているかのようであった。
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