3、A Dream is a Wish Your Heart Makes

 月曜の正午、12時過ぎ。

 新規フィンテックサービスの要件定義が難航して、いつもより長引いた朝会がようやく終わった。わたしは会議室を出る前に、画面いっぱいに広がる管理画面の数字を再確認する。どこかミスがないとも限らない。この案件、予算規模が大きすぎる。


「いやあ~、タカミネさん、さすがっす。今日の資料も完璧でしたよ」

「ええ、どうも」


 同僚が声をかけてくる。愛想笑いを一つ返して、わたしは席に戻る。机の上のコーヒーはもう冷めている。スマートフォンには未読通知が溜まっていた。


「はぁ……」


 会議の緊張から解放され、ため息が一つ漏れる。せめてランチタイムだけは、仕事のことを忘れたかった。時計の針が12時20分を指している。スマートフォンを手に取り、無意識のようにSNSを開く。


「……え?」


 その時、目に飛び込んできたのは見慣れたハッシュタグだった。


『#ポリコレ姫』。


 『映画』『実写化』といった関連ワードと一緒に、トレンドの上位に躍り出ている。このタグは撮影が始まる前からずっと追いかけていた。アリシアの様子を気にかけてのことだ。でも、こんなに上位に来ることはなかった。むしろ、業界人か熱心なファンしか見ていないような印象があったのだが……?

 それと同時に、昨夜のことを思い出す。珍しくアリシアから電話があって、インタビューの報告をしてきたのだ。


「すごく良い感じだったよ!」


 電話越しからでもわかる、子供のように嬉しそうなアリシアの声。まさに希望に溢れていた。


「あとね、SNSに公式アカウントも出来たんだよ! 明日の朝、配信媒体のアカウントをフォローしておいてね!」


 ……なんて。

 そんな微笑ましい記憶と共に画面を眺めていたのだが、スクロールしていた指がピタリと止まった。

 画面に躍り出たのは、こんなタイトルだ。


【爆破】実写版ポリコレ姫、黒人レズ化確定で原作ファン激怒!マジかよ…監督のヤバすぎる発言まとめ


 そして画面の中央には、我らがアリシア=ブラック監督の写真が強調表示されている。

 車椅子に座る彼女の真摯な横顔。業界誌のインタビュー写真を、わざわざ表情の強張った瞬間で切り取ったような一枚。まとめサイトの記事は既に1万リツイートを超えていた。


「まさか……」


 わたしは居てもたってもいられなくなり、タイムラインを下にスクロールしてゆく。次々と溢れ出すのは、攻撃的なコメントの数々だった。



「またポリコレ案件か。今度は黒人です、障碍者です、レズです、はい私の話!……って。もう笑えないレベル。いい加減ファンを舐めるのやめろ #ポリコレ姫 #原作レイプ」

「誰も望んでないのに、何で改変すんの? オリジナルで作ればいいじゃん。50年続いた作品に何するかと思えば、自分語りかよ。害悪でしかない #ポリコレ姫 #炎上」

「完全に私物化。白人ヒロインを黒人にして、王子を女にして、原作解釈とか笑わせんな。監督のエゴでしかないだろ。クビにしろよマジで #ポリコレ姫 #boycottポリコレ姫」


 コメントを読むたび、胸が締め付けられる。これらの言葉の一つ一つが、わたしの知っているアリシアを切り裂いているような感覚。

 すぐさま、机の引き出しからスケジュール帳を取り出す。


「今日の予定は……」


 午後13時からは、わが社のプロジェクトの方向性を決める重要な打ち合わせ。その後も立て続けにミーティング。来週のプレゼンの準備もある。このまま帰るなんて論外だ。

 しかし、そう思う一方で、スマートフォンを握る手に力が入る。

 昨夜のアリシアの声が蘇ってくる。「やっと、わたしの『ポリコレ姫』を語れたの!」。その声は確かに弾んでいた。普段は映画の話で饒舌になりすぎることにため息をつくことも多かったのに、昨夜ばかりはその幸せそうな様子が愛しくて仕方なかった。

 それが、たった半日でこの惨状だ。


「……」


 わたしはスマートフォンを置き、パソコンに向き直る。今は自分の仕事を片付けなければ。それに撮影中のアリシアに連絡したところで、きっと彼女は気丈に振る舞うに決まっている。

 だけど。


「……ふむ」


 すぐさまタスク管理ツールを開き、今日の予定を見直す。

 夜までかかる作業を前倒しにして、打ち合わせの合間にアリシアの帰宅時間を確認するLINEを入れよう。資料作りは持ち帰り、夜にでもやればいい。

 モニターに映る管理画面と、スマートフォンの画面を交互に見つめる。SNSでは憎悪に満ちたコメントが今も増殖を続けていた。まるで底なしの沼のように、次々と新しい悪意を湧き上がらせている。

 わたしの大切な人の夢が、今まさに言葉という刃に切り刻まれようとしている。

 その事実は変わらない。

 わたしはパソコンの画面に映る資料と、スマートフォンの画面に映る悪意の波を交互に見つめながら、静かに歯を噛んだ。



 結局その後の業務が立て込んでしまって、わたしが帰宅できたのは午後20時20分。いつもより1時間以上は早く切り上げたことになる。

 今日は残業を避け、出来るだけ早く仕事を切り上げてきた。カバンの中には、家で仕上げなければならない会議資料が詰まっている。

 自宅玄関に辿り着き、鍵を回してドアを開ける。


「……ただいま」


 声をかけてみるが、部屋は真っ暗で返事がない。玄関の片隅に、アリシアの外出用車椅子が置かれているのを確認する。

 昼過ぎに送ったLINEへの返信は最後まで来なかった。わたしの知るアリシアなら、いくら撮影中でもスタンプや絵文字一つくらいは必ず返してくるのに。


「アリシア、帰ってるの……?」


 そう声をかけながら居間の電気をつけようとして、手を止めた。廊下の突き当たり、アリシアの作業部屋から青白い光が漏れている。普段なら、こんな時間帯、撮影から帰ってきたアリシアは『ポリコレ姫』の話で饒舌になっているはずなのに。

 わたしは黙ってアリシアの作業部屋へ向かった。会議資料を入れたカバンが、歩くたびに重く感じられる。


「……アリシア?」


 ノックの返事を待たずにドアを開ける。

 案の定、アリシアはパソコンの前にいた。でも、作業をしている様子ではない。画面にはブラウザが開かれ、インタビュー記事とSNSのタイムラインが並んでいる。わたしが昼に見たまとめ記事も、そこにあった。

 車椅子の肘掛けには、いつもの『ポリコレ姫』のぬいぐるみの代わりに原作の童話が置かれている。アリシアが大切にしている初版本だ。この訳のバージョンは有名な作家さんが手掛けた奴で凄く出来がいいんだよ、とアリシアが自慢げに語っていたことがあるのでわたしも覚えている。


「……おかえり、ミオちゃん」


 振り向きもせずに、声を返すアリシア。その声は、いつもの天真爛漫な声ではなかった。

 アリシアはわたしに訊ねた。


「ミオちゃん、仕事はどうしたの? いつもはもっと遅いはずじゃ……?」

「早退してきた」

「で、でも、こないだは大事なプロジェクトの大詰めだって……」


 すかさず振り返ったアリシアの目が、不安げに揺れている。いつもこうだ。自分のことより、わたしの仕事を心配する。本当に優しい人。

 だけどね。


「見たのよ」

「……!」


 その一言だけで、アリシアも感づいたようだった。

 すかさずわたしはアリシアの後ろに回り込み、その肩に触れながら続けた。画面には、アリシアを非難する言葉が並んでいるのが見える。

 アリシアは慌てて隠そうとしていたが、わたしはそれを遮った。


「全部見たわ。SNSの投稿も、まとめサイトの記事も、全部」

「あ、あの、ミオちゃん、わたしね……」

「そういえば、お昼は食べた? まさか朝も食べてないんじゃあないよね?」

「…………っ」


 わたしは目を離さずに訊ねた。アリシアから返事はない。案の定だ。

 ……やれやれ。わたしは溜息とともにカバンを置き、財布を取り出す。すぐに何か食べた方が良い。


「コンビニで何か買ってくるわ。それから話しましょう」

「でも、わたしは今……」

「お腹が空いてちゃ、まともに話もできないでしょう。それとも、このままネットの掃き溜めみたいなのを画面を見続けるつもり?」

「……そうだね」


 きっぱりと告げる。アリシアの瞳が、かすかに潤んだ。アリシアはこう見えてかなりの気遣い屋だ。きっと一日中、スタジオでは平静を装っていたに違いない。


「10分で戻ってくるから。何か食べて、お腹いっぱいになってから考えましょ」


 わたしが立ち去ろうとすると、


「ミオちゃん」


 アリシアの声が追いかけてきた。


「あのね、原作をもう一度読み返してみたの。人種のことも、王子様の呪いのことも、本当に読み方は間違ってないと思うんだ。それになにより、可愛いヒロインを二人出せばサイコーだと思った、ホントに、ホントにそれだけだったのに……!」


 儚げな表情を浮かべるアリシアの横顔が、パソコンの青白い光に照らされている。ぬいぐるみの代わりに抱えた原作本を、その褐色の指が強く握りしめていた。


「その話は、ご飯を食べながら聞くわ。ちゃんとね」


 わたしの言葉にアリシアは小さく頷いた。その表情には、まだ暗い影が残っている。でも、少なくとも、さっきまでの虚ろな色は消えていた。


「……ミオちゃん」

「何?」

「ありがとう。いつも、こうやって……わたしのわがままに付き合ってくれて」

「……どういたしまして」


 後は聞かなかった。

 コンビニへ向かう途中でスマートフォンを取り出すと、例の投稿への反応は更に増えていた。画面を埋め尽くす憎悪のコメント。

 スマートフォンの画面に映る無数の憎悪の言葉たち。それらはまるで、わたしの大切な人を引き裂こうとする刃物のようだった。しかし、今のわたしにできることは、暖かい食事とともにアリシアの元へ戻ることだけ。


「……待っていてね」


 そうつぶやきながら、わたしは足早にコンビニへと向かった。アリシアの好きなサンドイッチと、温かいスープを買って帰ろう。そして今夜は、彼女の話をゆっくりと聞いてあげよう。

 夜空には星一つ見えない。けれど、わたしの心は決まっていた。

 この嵐のような憎悪の渦の中で、アリシアの夢を守るために、わたしにできることをしよう――そう誓いながら、わたしは暗い街路を歩いていった。






【緊急スクープ】オズワルド社の極秘メールが大量流出!"黒人女性監督"起用の裏に衝撃の差別発言!『ポリコレ姫』実写化の真相を暴く!


 大手エンターテインメント企業・オズワルド=エンターテインメント社への不正アクセス被害で流出した内部メールから、実写版『ポリコレ姫』を巡る衝撃の事実が明らかになった。

 xx月xx日未明、外部からのサイバー攻撃でオズワルド社の社内システムに侵入されるという事件が発生。そんな中、流出データの中から監督アリシア=ブラック氏(28)の起用を巡る重大な内部メールが発見された。


・"才能ある新人"の正体とは――

 オズワルド社のハリー=オズワルド社長(57)は、ブラック監督の起用について「若いクリエイターの感性を尊重している」と公言してきた。しかし入手したメールには、全く異なる現実が記されていた。

企画部長A「LGBT配慮の時代。特に映画界隈では。それを考えると、黒人で障碍者で同性愛者の監督を抜擢するのは、SNSでの話題性も確実かと」

宣伝部長B「賛否両論あっても、それ自体が宣伝になる。まさに一石二鳥では?」

 さらに衝撃的なのは、以下のやり取りだ。

プロデューサーC「実際の演出はスミス助監督が中心で。ブラック監督は"看板"として前面に出す程度で十分かと」

企画部長A「その方が無難。素人に振り回されるリスクは避けたい」


"才能ある新人"の起用は、単なる"ポリコレ採用"だったのか――。


・ハッキング犯の意図は――

 セキュリティ専門家は「今回の不正アクセスは、明確な目的を持って行われた可能性が高い」と指摘する。実際、流出したデータの大半は『ポリコレ姫』プロジェクトに関するものだという。

 IT犯罪に詳しい専門家は「内部の人間による犯行の可能性も否定できない。オズワルド社の体質への"告発"を意図した可能性がある」と分析する。

 オズワルド社広報部は「不正アクセスによる情報流出の事実を確認しており、現在調査中」とコメント。しかし #boycottポリコレ姫のハッシュタグは既に10万投稿を突破。「差別を隠蔽するための偽善」「黒人監督を盾にした卑怯な商法」など、オズワルド社への批判が殺到している。


・見えてきた“仕組まれた抜擢劇”

 メールには興味深い人事の動きも記されていた。

人事部D「スミス助監督の配置は万全です。"面倒は見る"と確約済み。ブラック監督への過度な権限集中は避けられます」

 "才能ある新人の抜擢"の裏で、緻密な管理体制が整えられていたことが浮き彫りとなった。「若いクリエイターの感性を尊重している」というオズワルド社長の発言はいったいなんだったのか……?


・炎上商法"の代償

 この"仕組まれた抜擢劇"の悲劇は、当のブラック監督にも及んでいる。先日のインタビューで語られた「原作への新しい解釈」は、たしかに監督自身の切実な思いだったのかもしれない。しかしそれすらも、企業の打算的な策略に利用されていた可能性が高い。

 映画界の重鎮は本誌に対し「これは氷山の一角。エンタメ業界の闇は、まだまだ深い」と語る。「ブラック監督のアプローチが悪いわけではない。問題は、オズワルド社が作品外の事物を商業主義に利用している点だ」


 不正アクセスによって暴かれた“醜い企業体質”。そして翻弄される新人監督。“ポリコレ疲れ”の声も聞こえるようになった昨今、"多様性重視"を掲げる大手企業の欺瞞とその裏で蠢く打算的な企みの全容は、まだ見えていない。流出メールはこれが氷山の一角に過ぎないのではないか――。


 オズワルド社の“ポリコレ商法”の闇は、さらに深まるばかりだ。


【関連スクープ】

オズワルド社へのサイバー攻撃、"内部犯行"説が浮上

『ポリコレ姫』元スタッフが暴露!「最初から炎上待ちだった」

オズワルド社の"ポリコレ商法"の実態! 社内部署「D&I推進室」の怪

オズワルド社長の過去も掘り出し!「似たようなことを何度も…」

(文:デイリー・エンタメREAL/エンタメスキャンダル取材班)








「もう、我慢できない」


 “記事”を読んだその翌朝。わたしはスマートフォンを机に叩きつけるように置いた。画面には例のWebニュースの記事が表示されている。


プロデューサーC「実際の演出はスミス助監督が中心で。ブラック監督は"看板"として前面に出す程度で十分かと」


 ……この一文を読むたび、胸がムカムカするような気持ちになる。

 「監督のためでしたら!」なんて、まるで学生みたいな純粋さで近づいていたあの助監督の態度も、「期待してますよ」なんて鷹揚にのたまっていた社長の言葉も、なにからなにまで全て計算づくだったというのか。

 わたしはクローゼットからスーツを取り出した。会社には既に休暇のメールを送ってある。


「ミオちゃん、待って、お願い……!」


 アリシアが車椅子を漕いで近づいてきた。最近は車椅子の肘掛けから『ポリコレ姫』のぬいぐるみが消えている。代わりに抱えているのは原作の童話本。その表紙には今や皮肉めいて見える『愛と希望とハッピーエンド』の文字。


「なんで止めるの? あなたをここまでコケにしてるのよ?」

「でも、契約は……」

「契約なんて関係ないでしょう!」


 思わず声が大きくなった。アリシアが小さく肩を震わせる。


「黙って見過ごせるわけないでしょうが。あなたの才能を利用して、挙句の果てには『看板』だなんて。あの社長の『若いクリエイターの感性を信じる』だの『好きに撮ってくれて構わない』だのって言葉、全部ウソだったのよ!」

「……そんなの、分かってるよ」


 アリシアの声が震えていた。でも、その目は真っ直ぐだった。


「分かってるけど、でも……わたしの思い出の『ポリコレ姫』をこれ以上駄目にしたくないの」

「……!」


 その言葉に、胸が締め付けられた。

 そうよね。あれだけ大好きな『ポリコレ姫』だ。この騒動の中でも、アリシアは原作との向き合い方を少しも間違えていなかった。それがこんなことで嫌いになってしまったら、一番つらいのはアリシア自身だろう。


「子供の頃のわたしが、『このままのわたしでいい』って思えた物語なの。だから、だから……っ!」


 アリシアの褐色の頬に、一筋の涙が伝う。かつて入院生活の中で『魔法の靴』のエピソードに救われた少女が、今また同じように苦しんでいる。


「お願い、ミオちゃんまで巻き込まれないで。これは、わたしが決めたことだから」


 ……ホントに、バカね。

 わたしは静かに手を差し出し、アリシアの目元に浮かんだ涙をぬぐった。


「……あのさ、覚えてる? あなたが最初にアイデアを思いついた夜のこと。『自分が好きな気持ちを映画にすれば?』って言ったの、このわたしよ」

「そ、そうだけど……」

「だから、あなたの『ポリコレ姫』は、わたしの物語でもあるってこと。わたしはわたしの責任と権利でもって、わたしがムカついたから文句を言いに行くの。つまりアリシア、あなたがどうこう言おうが関係ないわけ」

「ミオちゃん……」


 わたしはスーツのジャケットに袖を通しながら、朝日が昇る窓の外を見た。


「見過ごすわけにはいかないわ」


 まだ街は眠っている。けれど、空の端が少しずつ白んでいくように、きっと道は開けるはず。たとえそれが、『愛と希望とハッピーエンド』とは正反対の、醜い泥仕合になろうとも。

 そして、わたしはオズワルド社を訪れた。


「ハリー=オズワルド社長にお目にかかりたいんです」


 オズワルド社の受付で、わたしは冷静を装って告げた。早朝にもかかわらず、ロビーはマスコミで溢れかえっている。メール流出騒動の渦中にある会社の玄関で、カメラのフラッシュが明滅していた。


「申し訳ございませんが、アポイントなしでは……」

「タカミネ=ミオと申します。アリシア=ブラック監督の件で」


 その時、エレベーターの扉が開いた。ハリー=オズワルド社長が、疲れた様子で降りてきた。いつもの威厳に満ちた紺のスーツ姿だが、今朝は明らかに瞳の奥に陰りが見える。

「取材は全てお断りしております」


 報道陣に向かってそう告げた彼の視線が、わたしと重なった。一瞬、その表情が強張る。


「……タカミネさんですね」

「ええ。オズワルド社長、話があります」

「私も、あなたとお話ししたいと考えていました」


 応接室に案内された。朝日が窓から差し込み、机の上に広げられた朝刊を照らしている。一面には「オズワルド社 差別的人事の闇」の文字。その下には、アリシアが撮影現場で車椅子に座る写真が配されていた。


「昨夜から緊急の取締役会を開いておりました」


 オズワルド社長はソファにかけながら、静かに切り出した。


「例のメールに関わった幹部は全員、厳正な処分を下しました」

「クビですか?」


 わたしが食って掛かると、オズワルド社長は重々しく続けた。


「降格と戒告、そして減給処分です。解雇はしていません。彼らの判断は差別的で、決して許されるものではありません。ですが、これは会社の体質が生んだ問題でもある。わたしは幹部からの推薦でブラック監督を抜擢しましたが、知らなかったでは済まされない。経営者である私の責任です」


 その言葉には、ただの責任逃れとは違う重みがあった。きっと、本当にトカゲの尻尾切りで済ますつもりはないのだろう。そういう誠実さが、この人の口ぶりからは感じられた。

 だが、今のわたしにとってそんなことなどどうでもよかった。クズどもがどうなろうが、知ったことじゃあない。肝心なことは、これだ。


「それで、アリシアはどうなるんですか?」


 “政治的なPolitical意図で採用された監督”。その真相が明るみになった今、アリシアもただで済むわけがない。

 一瞬の沈黙。窓から差し込む朝日が、オズワルド社長の深い溜め息を照らし出す。


「……スポンサーからの圧力が強まっています。SNSでの批判も収まる気配がない。このままでは……」

「やっぱり切り捨てる気なのね」


 わたしは感情を抑えきれず、机を叩いた。応接室に響く音に、オズワルド社長は目を伏せる。


「アリシアは本気だったんです! 『ポリコレ姫』は、あの子にとって特別な作品だったんですよ! 子供の頃、長い入院生活の中で、この作品に救われて……あの子の解釈は、ちゃんと原作に向き合った上での……それなのにあなたの会社は、それを都合のいい『看板』にして……!」

「ええ、わかっています」


 しかし、オズワルド社長は言うのだった。


「ですが、この業界で生き残るには、それだけでは足りない」

「……っ」


 その表情には、どこか疲れたような影が差していた。


「……かつて、私も似たような経験をしました。純粋なクリエイターの想いとファンの期待、そしてビジネスの論理は、時として相容れない。その結果、作品も、関わった人も、傷つくことになる」


 そう語るオズワルド社長の表情には、どこか個人的な悔恨が滲んでいるように感じられた。


「残念ながら、私たちの業界は非情です。才能や情熱だけでは生き残れません」


 ……まったくどの口が、と思わないでもないがまさにぐうの音も出ない現実だった。

 わたしだって社会人だ。夢見がちのクリエイターがなんでもかんでも思い通りに出来るわけじゃあないことくらい、ちゃんとわかっている。

 そしてオズワルド社長には作品以上に、社員や会社を守る責任がある。たかが映画一本のためにすべてを投げ捨てられるような立場ではないのだ。

 けれど。


「だからって、このままじゃ……」

「ええ。ですから」


 オズワルド社長は机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。


「将来的な成長を見込んでいる、知人の映画会社です。今は小さな会社ですが、作家のクリエイティビティを大切にする良い会社です。ブラック監督の新たな一歩として」

「要りませんよ、そんな御情けなんて……!」

「慈悲ではありません。私なりの、償いです」


 はっきり言い切るオズワルド社長の言葉に、わたしは返す言葉を失った。目の前の社長は、本当に悪人なのか。それとも、ビジネスという非情な世界で生きる大人なのか。

 ……きっと両方だ。そしてオズワルド社長は、それらを使いこなす大物だった。


「もちろん、これはブラック監督の意思次第です。彼女の新たな一歩の、選択肢の一つとして」


 帰宅後、わたしはアリシアと再び話をした。

 わたしがオズワルド社へ行ったのと入れ違いでアリシアの方にも連絡が行っており、すでに話は通っていた。


「……それで、まさか、その提案を受けるつもりじゃないでしょうね?」


 わたしは机の上に置かれた名刺を睨みつけた。オズワルド社長から受け取ったそれは、たった一枚の紙切れなのに、まるでアリシアの未来を決定づける魔法の札のように思えた。

 アリシアの作業部屋には、もう『ポリコレ姫』のぬいぐるみは戻っていない。代わりに原作本だけが車椅子の肘掛けに鎮座している。その表紙の『愛と希望とハッピーエンド』の文字が、なんとも皮肉に見えた。


「うん、受けるつもり」


 そう答えたアリシアの声は、意外なほど冷静だった。却ってわたしの方が激昂する。


「なんで!? せっかくの『ポリコレ姫』を諦めて、こんな小さな会社なんかに……!」

「諦めてなんかないよ、ミオちゃん。それに小さな会社なんて言ったら失礼だよ」

「いや、でも、あなたの夢は……!」

「そうじゃないの。違うんだってば」


 アリシアは静かに首を振った。パソコンの青白い光に照らされた横顔に、迷いの色は見えない。むしろ、どこか晴れやかな表情すら浮かべていた。


「わたしね、この数日、ずっと考えてたんだ。実は社長さんから話が来るよりも前にね」

「え……?」

「ずっと考えてたんだ。今のわたしにできることは何なのか、これからのキャリアをどう作っていけばいいのか……」


 わたしは息を呑んだ。アリシアは子供っぽいように見えてその実、ちゃんと未来のことを考えていた。思い通りにならなくてキレるばっかりだったわたしなんかよりも、遥かに真剣に。

 そしてアリシアは作業机の上の原稿用紙の束を手に取りながら、言葉を続けた。


「オズワルド社の社長は、わたしのことをちゃんと考えてくれてるんだよ。この業界で生きていくためには、今は一歩引くべきなんだって」

「でも……!」

「ミオちゃん」


 アリシアは原作の童話本を開きながら、穏やかな声で言った。その指先が、大切そうにページをめくってゆく。


「覚えてる? 『魔法の靴』のエピソードで、ポリコレ姫が魔法の靴を手放すシーン。ポリコレ姫はこう言うんだ。『この靴は素敵だけれど、わたしはわたしの足で歩いていく』って」


 その瞳には、かつて入院生活を送っていた頃の少女の輝きと、一人のクリエイターとしての覚悟が混ざり合っていた。


「『ポリコレ姫』は、わたしの一歩目。これは変わらない事実。でも、きっとそれだけじゃないはず。たとえ小さな映画からでも、一歩一歩、自分の作品を作っていきたいの」


 アリシアの指が、原稿用紙をめくってゆく。そこには既に次の企画のアイデアが、びっしりと書き込まれていた。そう、この子は既に前を向いていたのだ。


「……ごめんね、ミオちゃん。わたしのためにオズワルド社まで行ってくれたのに。でも、ありがとう。わたしの夢を守ろうとしてくれて、本当に嬉しかった」


 アリシアは微笑んだ。少しの寂しさと、大きな期待と、そして確かな決意が混ざったような笑顔。


「『ポリコレ姫』は、"このままのわたしでいい"って教えてくれた。わたしの人生を変えてくれた。だからこそ、次は自分の力で、新しい物語を作り出していけたらいいな、って」


 ……なんて逞しいんだろう。わたしには、今のアリシアの姿がとてもまばゆく輝いて見えた。夢を諦めさせられたはずなのに、もう次の夢を探している。

 だから、わたしはこう答えた。


「……もう、好きにすれば?」


 わたしがそう言うと、アリシアは久しぶりに、いつもの天真爛漫な笑顔を見せた。


「だって、ミオちゃんが教えてくれたんでしょう? 自分の好きな気持ちを映画にすればいいって。だから思うんだ、これからもずっと、わたしの好きな映画を作っていこうって!」


 その無邪気な笑顔に、わたしの胸の中の重いものが、少しずつ溶けていく。

 結局、わたしに出来ることなんか何もなかった。アリシアは自分の力で、アリシアなりの道を選んだのだ。それを認めないわけにはいかない。


「……そう。じゃあ、次の映画も必ず観に行くわよ」

「うん! 今度は絶対に、最後まで撮り切ってみせるからね!」


 わたしの言葉に、アリシアが力強く頷いた。その褐色の頬には、もう涙の痕はなかった。

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ポリコレ姫 ~大好きなアニメの実写版監督に抜擢されたけど、実はポリコレ採用だった件~ ヨーダ=レイ @Yoda-Ray

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