0-4.きみという子は……

 約束どおり、シルフィースは宝飾品を持ちだすことは二度としなかった。


 だが、おやつの時間に美味しいお菓子を食べると、どうしてもこれをレイヴィスにも食べて欲しくなる。


 その想いはどんどんふくらんでいき、とうとう我慢できなくなってしまった。


 シルフィースはメイドたちにみつからないように、こっそりとお菓子を紙ナプキンに包んで、上着のポケットに忍ばせた。


 翌日、また怒られてしまうのだろうかと、ドキドキしながらシルフィースはレイヴィスの前でポケットから紙ナプキンを取りだすと……。

 紙ナプキンで包まれていたかわいい形のチョコレートたちは、シルフィースの体温でドロドロに溶けてしまっていたのである。


 無惨なチョコレートの姿に、シクシクと泣きはじめたシルフィース。

 つぶらな菫色の瞳が濡れ、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。


「シル……。きみという子は……」


 レイヴィスは「仕方がないなぁ」と苦笑しながら、ドロドロになったチョコレートを指ですくうと、ペロリと舐めた。

 指についたチョコレートを美味しそうに舐めるレイヴィスを、シルフィースはぽかんとした顔で見上げる。


「うん。すごく美味しいね。たしかに、ひとりで食べるよりも、誰かと一緒に食べたくなる美味しさだよね」


 悪戯が成功したときのような、いつもとは少し違う笑い方をしたレイヴィスに、シルフィースの鼓動が早くなる。

 レイヴィスの細い指と、それに絡まる赤い舌が脳裏に焼きついて離れない。


 おそらく、この日を境に、シルフィースがレイヴィスに対して抱く思慕の念は、よりはっきりとした恋慕になったのだろう。


 その日以降、王城でお妃教育がある日は、必ずポケットの中に残しておいたおやつを入れるようになった。


 シルフィースのポケットに入るまでのお菓子なら、レイヴィスは苦笑しながらも受け取ってくれて、食べてくれる。

 そんなルールがいつの間にかできあがっていた。


 それだけではなく、日持ちがする焼き菓子の場合は、後で母親と一緒に食べたい、とまで言ってくれるようになっていた。





 シルフィースがグランツ王太子の婚約者となったのは六歳のとき。

 レイヴィスともその日に会った。


 その日以降、シルフィースは王太子妃となるべく教育を受けている。

 一週間のうちの三日は王城で。

 残りの日も、自邸で父が手配した家庭教師から様々なことを学んでいた。


 お妃教育はとても厳しかったが、王城にはレイヴィスがいるのだ。


 同じ敷地内に彼がいるだけで嬉しい気持ちになる。毎回とはいかなかったが、小精霊たちがシルフィースをレイヴィスの元へと案内してくれる日もあった。


 小精霊ができることには限りがあり、レイヴィスと話せる時間は半刻もない。

 それでも、いや、その時間こそがシルフィースの唯一の楽しみとなり、辛い日々を乗り越える心の支えでもあった。


 あっという間に一年が過ぎ、シルフィースは七歳になった。


 レイヴィスと出会って一年。

 実際に言葉を交わした時間は短くても、シルフィースにとっては宝物のような時間だった。


 出会って一年の記念にと、シルフィースは手作りのクッキーを贈ることにしたのである。

 自分のために用意されたおやつではなく、レイヴィスのために用意したお菓子を食べて欲しい。とシルフィースは思ったのだ。


 レイヴィスとこっそり会っているのは、誰にも知られてはいけないことだ。レイヴィスから口止めされていたし、されなくても話すつもりはなかった。自分専属のメイドや侍従、父や兄にも内緒にしている。


 なので、みなにはグランツ王太子にクッキーを贈りたいと相談した。

 実際に、なにかグランツ王太子に贈った方がいいのではという話がでていたので、反対されることなくクッキー作りは順調に進んだ。


 いきなり作ったものを贈るのではなく、シルフィースはなんども練習した。

 最初は失敗してしまったが、その頃と比べるとずいぶん進歩したと思う。

 父や兄、クッキーづくりの師であるパティシエも「これなら食べても問題ない」と言ってくれた。


 クッキーはより綺麗にできたものを渡したくて、多めに作った。


 透明の袋に入れ、自分の瞳の色と同じ菫色のリボンで封をする。

 ラッピングしたものはふたつ用意した。

 王太子に渡すものと、予備としてと説明すれば、疑う者は誰もいなかった。


 婚約者の王太子に渡したら「こんな不格好で不味そうなものなど食べられるものか」と床に叩きつけられて、踏み潰されてしまった。


 レイヴィスに渡したくて作ったものなので、王太子が受け取りを拒否しても平気だ。

 とはいえ、さすがに食べ物を踏み潰すという行動にでられると、シルフィースも泣きはしなかったが、少なからず傷ついてしまった。


 王太子の粗雑な振る舞いにはいつも幻滅させられるが、クッキーが入った袋を大事そうに抱えるレイヴィスの姿を見ていると、そんな出来事もどうでもよくなってくる。


 シルフィースはレイヴィスの膝上で幸せを噛みしめる。

 この時間が永遠に続けばいいのに……とまで思った。

 しかし、幸せな時間は唐突に終わりを告げる。





「シル……もう、ここには来ないでほしいんだ」


 いつもとは違うレイヴィスの冷たい声。


「え……。どうしてですか? どうしてダメなのですか?」

「だめな理由はわかっているだろう?」


 レイヴィスはついとシルフィースから視線を逸らす。

 いつもは目を見て話すのに、珍しい反応だった。

 

「会う回数が多いのですか? 週に三日がだめなら、一週間に一回だったら……」

「ちがうよ。問題なのは回数じゃない。シルは王太子殿下の婚約者だよ。わたしはシルの婚約者ではない。だから、これからは会ってはいけないんだ」

「今まで会えてました!」


 大声で叫ぶ。

 大きな菫色の瞳からは、大粒の涙が次々とこぼれ落ちていく。

 小精霊たちがなにか話しかけてくるが、全く耳に入ってこない。


 ただただ、幼い少年はレイヴィスへとすがりつく。

 離れたくなくて、離してほしくないという一心で、レイヴィスに抱きついていた。


 世間知らずな子どもの癇癪。

 ただのわがままだとはわかっているが、王太子に嫌われているという自覚があるシルフィースにとって、レイヴィスは大きな支えになっていた。

 

 レイヴィスは突き放すことなく、シルフィースを柔らかく抱きしめてくれる。

 だが、最初から最後までそれは兄とかわらぬ優しさだ。


「わたしの嫁ぎ先が決まったんだ」

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