0-3.もっと、もっと練習して

「もう目を開けてもいいよ……。身体の気怠さはとれたかな?」

「はい。とれました。レイさまありがとうございます」


 元気な返事に目を細めながらも、レイヴィスはシルフィースの前髪をかきわけ、少年の顔色を念入りに確認する。


「手を見せてくれるかな?」


 そう言われて、自分はまだレイヴィスに抱きついていたのだということに気づく。


「手をみせてくれる?」


 再度促され、シルフィースは背中に回していた手をほどき、おずおずと己の手をレイヴィスへと差しだす。

 シルフィースの小さな両の手のひらと甲は、赤く腫れあがっていた。

 その痛々しい様子に、レイヴィスの眉間にシワが刻まれる。


「今日は……キャセル夫人のマナー講座だったんだね」


 レイヴィスは目を閉じ、精霊に呼びかける短い歌を紡ぐ。


 赤く腫れた両手に、柔らかな気配がかぶさった。

 みるまに腫れがひいていき、それと同時にジクジクとした痛みも消えていく。


「レイさまありがとうございます!」


 痛みから解放されたことよりも、レイヴィスが自分のために心を痛め、精霊に回復を願ってくれたことがなによりも嬉しかった。


 レイヴィスが精霊を使役できるのは内緒だ。母方の能力を受け継いだらしい。


 そして、シルフィースが精霊を視ることができて、声が聞こえることも知られてはいけないと、父から言い聞かされていた。レイヴィスも父と同じことをシルフィースに言った。

 婚約者の王太子殿下や、この国の国王陛下にも知られてはいけないとだ。


 お互い他人に知られてはいけない秘密を共有している……ということに、幼いシルフィースは特別な『なにか』をレイヴィスから感じ取っていた。

 

 他に痛む場所はないのかと尋ねられたが、「今日は手を叩かれただけだ」と答えると、レイヴィスは「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれた。

 褒められるのは嬉しい。

 父や兄に褒められたらとても誇らしい気持ちになれるが、レイヴィスが褒めてくれると、身体の奥底がほわほわとして、とってもドキドキしてくる。


 できればずっとこうしていたいのだが、眠っている護衛や講師が起きる前に戻らなくてはならない。


 シルフィースはパンパンにふくれあがった上着のポケットから、綺麗にラッピングされたクッキーをとりだしてレイヴィスへと手渡した。


「これをレイさまに食べていただきたくて」

「クッキーかな?」


 菫色のリボンで結ばれ、透明な袋に入っていたクッキーは形が少し不揃いだ。だが、一枚も割れていない。

 そのことにシルフィースは少し安堵する。


「はい。ぼ、ぼくが……焼いたので、ちょっと形が変なのですが、味見はしたので大丈夫です!」

「ありがとう。嬉しいな。ひとつ、貰ってもいいかな?」

「はい」


 シルフィースがじっと見守る中、レイヴィスはクッキーをとりだして口にする。


「驚いた。すごく美味しいよ。シルはクッキーも作れるんだね。すごいよ」


 レイヴィスに笑顔が浮かぶ。

 この笑顔が見たくて、シルフィースはパティシエに作り方を教わった。


 もちろん表向きは、婚約者にプレゼントしたい……と言って焼いたものである。


「その……もっと、もっと練習して、美味しいクッキーが焼けるようになります!」

「今のでも十分に美味しいと思うけど。一気に食べてしまうのがもったいないな」


 そう呟くと、レイヴィスはほどいたリボンをもう一度、丁寧に結び直す。そして、大事そうにクッキーが入った袋を眺める。


「あの……よろしければ、レイさまのお母様にもそのクッキーを」

「ありがとう。きっと喜ぶと思う」


 レイヴィスの生母も正妃からの嫌がらせを受けており、その心労からか数年前から病に伏せっているという。


 どんな病を患っているのかはわからない。

 おやつの残りや手作りのクッキーではなく、レイヴィスの生母を治療する薬を渡したいと思うのだが、幼いシルフィースには薬を手に入れる手段がない。


 レイヴィスと出会って間もない頃、シルフィースは自分の宝飾品を持ちだして彼に渡そうとしたことがあった。

 すると、レイヴィスは喜ぶどころか、シルフィースを大声で怒鳴りつけたのである。

 その怒りはとても激しいもので、シルフィースは肝をつぶし、大声で泣いて許しを請うた。


 怯えて泣きじゃくるシルフィースの姿にレイヴィスはうろたえ、心から謝罪した。

 悪いのはシルフィースだったのに、レイヴィスは「怖がらせて悪かったね」と心から謝ってくれた。


 世間を知らないシルフィースは、宝飾品を売った金で、薬や食べ物を手に入れたら問題が解決すると思ったのだ。


 正妃に憎まれ、王国から側妃へ支給される支度金が行き渡らない状態でも、親子が生きながらえていられるのは、輿入れ時に持参した身の回りの品を処分し、それを食材に変えているからだと噂好きな王城の使用人たちは話していた。


 だが、その品も残り少なくなる頃だ。

 それだけでなく、人の目を盗んで貴重品を交換していた忠臣もぷつりと姿を消した。おそらく殺されたのだろう、と使用人たちは語っていた。

 今度こそ第一王子たちは飢え死にするのではないだろうか……そんな声がシルフィースの耳に入ってきたのだ。


 だったら、自分のモノを困っているレイヴィスにあげればいいんだ、とシルフィースは思った。


 綺麗なブローチなら、きっと高い値段で売れて、レイヴィスはお腹いっぱい食べることができ、お母様の病を治す薬だって手に入るはずだ。

 そう考えてしまうのは自然なことだ。


 シルフィースが選んだブローチは、純度の高い紫晶石が埋め込まれた小ぶりなもので、小さな子どもの小さなポケットに入るくらいのものだった。屋敷にはこのようなブローチがたくさんあった。

 小さなブローチがひとつなくなったくらいでは、誰も困らないだろう……と軽く考えたのである。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ゆるして。ゆるして」

「これは、シルのものであって、シルのものではないんだよ……」


 シルフィースが泣き止むのを待ってから、レイヴィスは優しく語りかけてくる。


 装飾品はシルフィースの父親が、シルフィースに必要なものと判断して購入したものだ。

 ブローチを購入するときに支払われたお金は、領民が税として納めたもの。あるいは、シルフィースの父親が様々な投資や交易などで得た配当金だ。

 誰かが必死に働いてうみだされた利益の一部だ。

 それをシルフィースの都合で、勝手に手放してはいけない。


 それに、シルフィースが持ちだした装飾品は特注品で、台座には彼の家の家紋が刻まれていた。

 わかる者にはそのブローチが、筆頭公爵家の品であることがわかる。

 そのような貴重なものが市井に流れ、悪用されることがあれば、迷惑を被るのはシルフィースの父や領民たちになる。


 また、屋敷には宝飾品を管理する者がいる。

 ブローチの数が合わないということはすぐにわかるだろうし、そうなると『誰か』がその『責任』をとらなければならない。

 その『誰か』とは、シルフィースではない別の『誰か』になるだろう。

 

 そういったことをレイヴィスは、幼いシルフィースにもわかるように、一言、一言、噛み砕きながら語って聞かせた。


 シルフィースは自分のしでかしたことを反省し、もう二度とこんなことはしないと誓った……。


 ……成人した今ならわかるが、本当にあのときの自分は愚かだったと、シルフィースは苦みと一緒に、怒られた日のことを思い出す。


 レイヴィスは口にしなかったが、シルフィースが行おうとしたことは、いわゆる『施し』にあたる。


 筆頭公爵家の子息とはいえ、ただの子どもが第一王子を憐れんで、内緒で持ちだした宝飾品を換金しろと示唆したのだ。


 苦境のなか、それでもまっすぐに生きようと闘っていたレイヴィスを、シルフィースは侮辱したのだ。


 幼い子どもの無邪気な善意は、レイヴィスを深く傷つけたにちがいない。

 謝罪したくても、もう彼はどこにも存在しないのだ。


 そのことを無念に思いながら、シルフィースはひとり過去へと思いを馳せるのであった。

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