0-2.目を閉じて……

 口では来るなと言っているが、正妃から疎まれ孤立している第一王子は、人との交流に飢えていた。

 無邪気に慕ってくれる幼い子どもの手を振り払うことができず、ついつい懐に招き入れてしまう。


 綺麗な金色の瞳が、幼いシルフィースを捕らえる。

 それだけでシルフィースの心はどうしようもなく踊った。


 シルフィースの喜びを小精霊たちは敏感に感じ取り、輪になって踊りはじめる。


 今日の勉強は王族マナーだった。

 マナー講師はとても厳しく、少しでも失敗したら、閉じた扇でピシャリと両手の甲や、ダメな場所を叩いてくる。

 将来、自分が恥をかかないために学んでいるとはいえ、幼い身には辛い時間だった。


 その辛いお妃教育を頑張れるのは、こうしてレイヴィスに会うことができるからだ。


 石の上に座っていたレイヴィスは、シルフィースの兄よりふたつ年下だ。

 つまり、シルフィースとは五歳の年の差がある。

 兄と同じく、いや、もしかしたら兄よりも聡明で凛々しい王子様だ。


 もちろん兄と同じではないところもある。

 レイヴィスの背は兄より低く、身体はガリガリに痩せていた。

 手首などは驚くほど細く、少し力が加われば折れてしまうのではないかと思えるほどだ。


 幼いシルフィースに難しいことはわからなかったが、一年間も王城に通っていたら、様々なことが耳に入ってくる。


 第一王子は正妃の嫌がらせで、生母とともに城の敷地内の隅に追いやられ、食事も満足に与えられていない状態にあるそうだ。

 輿入れのときに同伴した使用人たちはひとり、またひとりと行方不明となり、誰もいなくなったという。

 第一王子たちに好意的だった使用人は解雇され、今は正妃の意を汲む者しか残っていない。


 食事はもちろん、身の回りや教育も満足に受けられない状態だ。

 第一王子だというのに、着ている服は、下男の日常着のような簡素なもの。

 それを何度も繰り返し洗っては着つづけているようで、服は色褪せ、生地には痛みがみえはじめている。


 人々はみすぼらしい姿だと言うが、シルフィースはそうとは思わなかった。


 レイヴィスの内面からにじみでている輝きが、他の人とは全く違うのだ。

 着ている服は貧しいものでも、レイヴィスは決して卑屈になることなく、凛とした姿勢を保っている。

 気高く美しい。


 それこそ、兄が着ている服……はおそらくブカブカで着ることはできないだろうが、兄のような豪奢な服を着れば、レイヴィスは王国で一番の貴公子になるにちがいない。


 兄も素晴らしい人なのだが、シルフィースが好きになってしまった人は、とてもとても素晴らしい人だった。


 精霊たちにもそれがわかるのだろう。

 王城に住まう精霊たちは、みんなレイヴィスのことを『アルジサマ』と呼んで、慕っている。


 小精霊の『アルジサマ』は、幼い頃より苦労が多く、今まで様々な嫌がらせを受けてきたせいか、美しい容貌には少し影がある。同年の子どもたちに比べて達観した空気をまとっており、はるかに大人びていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。レイさま。でも、でも、どうしても、ぼく、レイさまにお会いしたく……て」


 早く会いたくて、少しでも近づきたくて、シルフィースはレイヴィスに駆け寄ったが、足がもつれて転びそうになる。

 小精霊たちに生気をとられてしまい、本当は歩くのも、立っているのも辛いのだ。


「あぶない!」


 レイヴィスが素早く立ち上がり、転びそうになっている少年に手を伸ばす。

 シルフィースの周囲で風が舞い、身体がふわりと宙に浮く。次の瞬間にはレイヴィスの腕の中にいた。

 きゅっと力をこめて抱きしめられる。

 レイヴィスがまとう風はとても温かく、小精霊たちと同じ花のような香りがした。


 小精霊たちが[ヒューヒュー][アルジサマ、かっこいい!]と騒ぎたてる。


 貧血のシルフィースを抱きかかえたまま、レイヴィスは今まで座っていた石に座りなおす。

 

 これはレイヴィスに会うたびに繰り返されること。

 幾度となく体験してきたことなのに、ドキドキが止まらない。


 シルフィースはレイヴィスの膝上に座らされる。

 ふたりの距離がぐっと縮まり、煌めく金色の瞳が間近に迫る。

 シルフィースは小さな腕を懸命に伸ばして、レイヴィスの背中に腕を回した。

 ぴたりとくっついて思いっきり甘えると、レイヴィスは優しく背中や頭を撫でてくれるのだ。


 レイヴィスはとても礼儀正しくて優しかった。そして、己の立場をよく理解していた。


 もう、ここには来てはいけないよ……と言いつつも、シルフィースが王太子妃教育で挫けそうになる心を労り、励ましてくれるのだ。兄のように……。


 レイヴィスはシルフィースのことを弟のようにかわいがってくれた。


 幼くてもシルフィースにはわかっていた。

 自分がレイヴィスに向ける『好き』と、レイヴィスが自分に注いでくれる『好き』は全く違う種類のものであることを。


 服越しに伝わってくる今にも折れてしまいそうな細い身体に、シルフィースの心が一瞬だけ苦しくなる。


 その様子をどう勘違いしたのか、レイヴィスの金色の瞳が悲しみに曇った。


「こんなに生気を奪われて……。苦しいだろうに……」

「そ、そんなことありません! ぜんぜん、苦しくなんかありません!」


 慌てて抗議の声をあげるが、レイヴィスはゆっくりと首を横に動かす。


 額と額がコツンと音をたててぶつかった。

 眼前に迫る美しい顔に、シルフィースの心臓が破裂しそうになる。


「目を閉じて……」


 レイヴィスに言われたとおり、シルフィースは目を閉じる。


「わたしが『いい』というまで目を開けてはいけないよ? 約束は守れるよね?」


 耳元で聞こえるレイヴィスの声に、シルフィースはしっかりと頷き返す。

 毎回、同じことを言われる。


 しばらくすると唇に柔らかなものが触れた。

 触れるだけ。

 小さな唇を少し開ければ、そこに温かな気配が流れ込んでくる。


 それはゆっくりと、ゆっくりと、シルフィースの中へと入り、全身へと広がっていく。

 小精霊たちに生気をとられて、冷たくなっていた手先、足先に暖かさが戻ってくる。

 

 春の日差しの中にいるような、ぽかぽかした穏やかな空気に包まれたみたいだ。


 体の中心が熱くなり、とろけてしまうような感覚に、シルフィースの頭がクラクラしてきた。


 目をしっかり閉じ、この幸せな瞬間をシルフィースは懸命に記憶しようと全神経を集中させる。


 しかし、その幸福な時間は長く続かない。

 そして、続きがないことも。

 温かな気配が遠のくと同時に、唇に触れていた柔らかな感触もなくなった。

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