男爵邸が燃え落ちる

ペンのひと.

男爵邸が燃え落ちる

 ここに、アマンドラ王国の女なら誰もが胸ときめかす1枚の絵画がある。


 後に巨匠となる宮廷画家ラケルスが、まだかけだしの頃に描きあげた初期作。


 珍しく画家が自ら付けたとされるその題名は、「男爵邸が燃え落ちる」。


 夜ふけの丘を構図の手前やや右寄りに置き、丘から見渡せる王都が画面の奥までいっぱいに広がっている。


 ぼうとした夜闇。しかしその一郭ではたしかに、題にとられているであろう男爵邸が大火に包まれ燃え落ちようとしている。


 そして、その火焔の輝きを見下ろすようにして、丘にたたずみ身を寄せ合う1組の男女。


 男は夜警の制服姿でひしと女の肩を抱き、抱かれる女の方は薄着のまま燃えるように赤い長髪を夜風になびかせている。


 いわく言いがたい切なさが、官能が、ロマンスの芳香がこの絵にはある。


 ――「男爵邸が燃え落ちる」。


 この絵に描かれた赤髪の女性は実在の人物であり、そして何を隠そう、私の母だ。


 母は求められでもしない限り、けして自分の過去についてひけらかすタイプではない。

 伝統的なアマンドラの女らしい、つつましさと誇りを持っているのだ。


 だから母がこの絵にまつわる物語をはじめて聞かせてくれたとき、私は自分が娘としてあらためて認められたような、女として祝福されているような、そんな気分になったものだ。


 あの日、私が結婚を許される歳を迎えた記念にと、母は静かに、そしてゆっくりと語りはじめた。


『これはまだ、私がちょうどあなたくらいだった頃、つまり、いまよりずっと若かったころの話――』



        ♢


 

 これはまだ、がいまよりずっと若かったころの話――。


「お前との婚約は破棄させてもらう。卑しき女サラよ、その醜い火傷跡の残る乳房を早くしまって、どこへなりと出ていくがいい」


 婚約者のムゼリク男爵閣下にそう言い放たれ、私は惨めな思いで胸もとをかきあわせた。


 その夜、はしたなくも婚礼の儀を待たず体を求めてきたのは、彼の方だったというのに。

 男爵閣下ははじめて私の胸の火傷跡を見るなり、人が変わったようにまなざしを冷たくした。

 彼の目はこう宣言していた。


 鍛冶産業経営の成功で一代にして財を成したこの俺に、傷物の女など釣り合わない。

 地方男爵でありながら王都にこの豪邸を構えるまでに昇りつめてきたのだ。

 つい、いたずら心で侍女に手を出しかけもしたが、戯れの恋愛ごっこからはじまったつまらぬ婚約であれば、この際切って捨てるに限る、と。


 それが、身分差ゆえに断るすべを持たず、地方の男爵領から王都の新邸宅まで好き放題に引き回され続けた元侍女である私の、旅の終わりだった。

 いえ、はじまりと言うべきかしら。


 私はその夜のうちに豪奢なムゼリク男爵邸を追い払われ、着の身着のままに王都の街路へとひとりさまよい出たのだから。



        ♢

 


 行く当てなんてなかった。


 ムゼリク男爵の言いつけで、私は平民の出であることを隠すために故郷の両親家族とはとうに縁を絶たされていた。

 かといって、王都につてなどあるはずもない。

 男爵の庇護なしには生きていけぬ状態にされたあげく、造作もなく放り出された。

 この胸にある火傷の跡、ただそれを理由に。


 完全に、途方に暮れていた。

 文字通り、路頭に迷っていた。

 それでも私が足を止めなかったのは、単にその夜の王都が、その石だたみの街路が、じっと立ちつくすにはあまりに冷え込んでいたせいかもしれない。


 寝衣にも等しい薄着の私はとにかく寒くて、あてどなき者に特有の投げやりさでただやみくもに歩みを進めた。黙々といくつかの街区を渡り、孤独な靴音を空しく鳴らし続け、そしてふいに、交叉路の物陰から現れた誰かとぶつかった――。


「⁉」


「これは、失礼を。お怪我はありませんでしたか、素敵なお嬢さん?」


 黒づくめの制服に身を固め、顔の上半分を銀製の仮面で覆った夜警がそう言った。



        ♢



「これは、失礼を。お怪我はありませんでしたか、素敵なお嬢さん?」


 黒づくめの制服に身を固め、顔の上半分を銀製の仮面で覆った夜警がそう言った。


「しかしこんな夜ふけに女性がそのような薄着で、いったいどこへお出かけです。何かお困りであれば、私めにお聞かせ願いたい」


 夜警というのは普通、もっと高圧的な態度で尋問じみた話し方をするものだ。

 けれど私が鉢合わせたその男は、どこか滑稽なまでに礼儀正しかった。

 スラリと背が高く、肩幅は広いがやや細身で、いかにも年若な声音には夜の世界に不似合いな清々しさがある。


「いずれにせよお嬢さん、あなたのようなお人を留めおくには、この辺りの街区はいささか物騒のようだ。どうぞ、あちらまでご同行を――」 


 夜警が指し示す方角には、小高い丘があった。


 

        ♢



 いまにして思えば、いくら相手が夜警とはいえ、言われるがまま初対面の男に付き従ってあの夜半の丘へ登った自分の素直さが、妙におかしくもある。


 私自身の若さゆえか。あるいは婚約破棄の憂き目からくる投げやりさがそうさせたのか……。


 けれど一番の要因はおそらく、うやうやしく私の手をとって歩く夜警の後ろ姿から、人を導くことに慣れた者特有の強引さと、それでいて他人をけして不快にさせない心遣いのようなものが同時に感じられたせいだろうと思う。


 何しろたがいに軽く息を弾ませて丘の頂上へと登りきる頃にはもう、不思議な親密さが2人の間に生まれはじめていた。


 夜ふけの丘。

 ――そこからは、王都の夜景を一望のもとに見渡すことができた。

 アマンドラの城影とその城壁、貴人街、平民街、貧民街、その間を縫ってはりめぐらされる石だたみの入り組んだ街路。

 そのすべてに等しく降りる、茫とした夜闇。砂金のようにチラつく街灯の火。

 

「さて、ここまで来れば他聞をはばかる必要もないでしょう。無理にとは申しませんが、お嬢さん、よければご事情を聞かせてはくれませんか。お力になれるかもしれない。何しろ私は、夜警ですから」


 彼はそう言いしな、少しおどけたように敬礼をして見せた。

 夜警のそれというにはどこか格式の高すぎる敬礼だったので、私は図らずも笑ってしまい、惨めなその夜の境遇を気付けばありのまま彼に話してしまっていた。


 自分が、胸の火傷の跡を理由に婚約を破棄され、ムゼリク男爵邸を追われる身となってしまったことを。


 私が話している間、夜警の相づちはやさしい夜のそよ風のように心地よかった。 

 それで私はつい自然と、もっと過去のことまで話してしまった。話したくなった。


 この胸にある火傷の跡が、理由なき、生まれつきのものであることまでも。

 

「故郷では、医術師や薬師の先生方にも、私のこの胸にある火傷の跡を処置するすべがないようでした。無理もありません。原因すら誰にもわからないのですから、手の施しようがなかったのです。その小さな村では珍しい赤髪でもあった私を、彼らは『火に呪われたおな』と――あるいは本名をとって『火に呪われたサラ』と呼んで首を振った。以来、なるべくこの胸の火傷の跡が誰かの気分を害さぬよう、私は胸もとを隠すようにして生きてきたのです。でもけっきょくは、こんなことになってしまいましたのね」


 私は王都の夜景を見おろしながら、肩をすくめてうまく笑おうとした。

 他人が聞かされて心楽しい話ではないと思うから。

 けれど――。


「何ということだ……。ああ、何と」


 感に打たれたようなその声に顔をあげると、すぐそばで私を見守りたたずむ背の高い夜警の姿があった。


「――そうか、君だったのですか、サラ。……ずっと――ずっと君を探していました」


 そう言いざま、礼儀正しいはずの夜警がガバと私を抱き寄せる。


「ちょっ⁉ 夜警さん?」


「ああ、やっと見つけました……。火の聖女よ。我が運命の人よ! 何という巡りあわせか。何というぎょうこうか。『求めるものを得たくば、夜ごと夜警に扮し、夜闇の底をさらえ』――宮廷占星術師の予言も、今回ばかりはでなかったということですね」


「や、だからちょっ、どうなされたのですか急に」


「? ああ、すみません。私としたことが、喜びにすっかり浮き足だってしまったようです――」


 腕の中でモゾモゾもがく私にようやく気付いたのか、夜警はそっと身を離したかと思うと、その顔の上半分を覆う銀仮面を取り去った。

 あらわになった金髪が夜風になびく。


「申し遅れました。我が名はルイス・アマンドラ。この国の第一王子が、常に面覆いを取らぬ神出鬼没の変わり者であることは国中の民がうわさしているようですから、おそらくあなたもこの名くらいはご存じでは? もっとも、こうして素顔をさらすことは滅多にありませんが」


 礼節深きその夜警は、実はこの国の若き第一王子ルイス・アマンドラだった。

 私はまずそのことに驚くべきだったのかもしれない。

 けれどそれ以上に、私の目をとらえて離さないものがそこにあった。


 仮面をはずしたルイス王子の美しい目もとに浮きたつ、


「私たちは出逢ったんです、サラ。生まれつき火傷の跡を持って、火の精霊の加護を授かって。今宵、この時に、巡りあえた」


 彼の腕が、再び私を強く抱き寄せる。


 たがいの火傷の跡が、呼応するかのように静かな赤光を放ちはじめる。そんな気がした。


「――ともに生きさせてください、サラ。それとも、まだ何か説明が必要でしょうか?」


 ……たしかにもう、何の説明もいらないのだ。


 私は少し、ほんの少しだけ泣いて、それから彼を抱きしめ返した。


「私も、あなたと生きたい。――生きていきます」


 私は自分のそのささやきを、彼の首筋にうずめる。


 

 ボウッ――。



 王都の夜景の、とあるその一郭で大きな火の手が上がる。

 遠く丘の上からでも見覚えのある豪奢な邸宅が、一瞬にして業火に包まれていく。


 私たちはかたく肩を寄せあい、それを眺める。

 

 男爵邸が燃え落ちる。



        ♢


 

 ここに、アマンドラ王国の女なら誰もが胸ときめかす1枚の絵画がある。


 後に巨匠となる宮廷画家ラケルスが、まだかけだしの頃に描きあげた初期作。


 珍しく画家が自ら付けたとされるその題名は、「男爵邸が燃え落ちる」。


 夜ふけの丘を構図の手前やや右寄りに置き、丘から見渡せる王都が画面の奥までいっぱいに広がっている。


 茫とした夜闇。しかしその一郭ではたしかに、題にとられているであろう男爵邸が大火に包まれ燃え落ちようとしている。


 そして、その火焔の輝きを見下ろすようにして、丘にたたずみ身を寄せ合う1組の男女。


 男は夜警の制服姿でひしと女の肩を抱き、抱かれる女の方は薄着のまま燃えるように赤い長髪を夜風になびかせている。


 いわく言いがたい切なさが、官能が、ロマンスの芳香がこの絵にはある。


 ――「男爵邸が燃え落ちる」。


 この絵に描かれた赤髪の女性は実在の人物であり、現王妃、そして何を隠そう、私の母サラ・アマンドラだ。


 母は求められでもしない限り、けして自分の過去についてひけらかすタイプではない。

 伝統的なアマンドラの女らしい、つつましさと誇りを持っているのだ。


 だから母がこの絵にまつわる物語を、そう、我が父にして現君主ルイス・アマンドラ王との馴れ初めをはじめて聞かせてくれたとき、私は自分が娘としてあらためて認められたような、女として祝福されているような、そんな気分になったものだ。


 いま、結婚を許される歳をすでに迎えた私の背中には、母や父と同じ火の精霊の加護が――生まれつきの火傷の跡があり、それは時にほのかな赤光を放つ。


 両親の物語を知る私にとって、生まれつきのこの火傷の跡は誇るべきものであり、背のあいたドレスを着ることにさえいささかの躊躇もない。

 心無い何者かが後ろ指を指し、私に「火の呪いを背負う女」という誹りを浴びせることなど、恐れるに足りぬ小事であろう。


 ただ私は時々想うのだ。


 ――「男爵邸が燃え落ちる」。


 この1枚の絵画を眺めながら。


 私の火傷の跡は、さあ、これから私をどんな物語へいざなってくれるかしら……と。


 でもそれはきっと、また別のお話。



        ♢



 -追記-


 アマンドラ王国のルイス第一王子が火の聖女をめとったその夜の詳細は、永らく王家のかぎられた者のみに知られるエピソードであったようだ。


 宮廷画家ラケルスの名画「男爵邸が燃え落ちる」が、当時早くから国民的人気を博していたことを思えば、やや意外である。


 若き日の巨匠ラケルスに絵の制作を依頼したルイス王子夫妻が、各所へ何らかの理由で口止めを行ったものだろうか?


 しかし数百年あまりもたつと、歴史家たちは夫妻の娘であったアイラ妃が書き残したと思しき手記からその夜の真実を掘り起こし、いっせいに世に広めた。

 いくつかの史実を照らし合わせ、いまでは夫妻が出逢った正確な日付まで明らかになっている。


 以来、この夜の物語は後々まで続く王国発展の大いなるきっかけとして語り継がれ、民は毎年その日が来ると王都あげての祝祭に興じるのが風習となった。


 一説によればその祝祭は、火の聖女が王太子妃となったときの名が、かの火の精霊の名と瓜二つであることから、こう呼ばれているのだという。


 サラ・アマンドラ妃のお祭り。


 火の精霊サラマンダー祭、と。

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