第3話 契約

 夢を見た。

 けれど、この夢を見るのは初めてじゃない。

 ”あの日”以来、私が何度も、何度も苛まれてきた夢。


 何度眠れなくなって、何度吐瀉物で布団を汚して、何度その身を震わせたか分からない夢。


 それは私が小さい頃。

 今日という日までは人生の中で最悪だったある一日の思い出。

 こんなのを見せつけられてから死ぬぐらいならそのまま死んだほうがマシだと思う。


 確かあれはそうだったね。もう香蓮と友だちになってしばらく経った頃の話だったと思う。

 あの頃の私はお花が好きで、将来の夢は真っ先にお花屋さんと答えるほどだった。

 そんな中でお花の図鑑片手に、一人寂しくお花屋さんごっこをしている時。

 四葉のクローバーを差し出してお花をかってくれたのが、鈴原香蓮だった。

 

 これが、私達の馴れ初め。

 とはいってもまだ幼稚園に入園したばかり。

 もっと新しい友だちを作ろうと必死で、でも上手く行かなくて。

 そんな最中で、お父さんたち4人に連れられていつもは行かない大きな公園に行った時。


 あの時は香蓮と一緒に砂場遊びをしていたんだったね。

 香蓮は「お家でおままごとがしたい」とかって文句言ってたっけ。

 

 一通り遊び終わってあたりを眺めた時、公園の外縁に生い茂っていた低木にの中に煌々と浮かび上がる風船を見つけたんだった。

 最初はそれとなく見てたけど、時間が経つごとに気になって、気になって仕方なかった。

 そして耐えきれなくなった私は、香蓮に最悪の提案をしたんだった。


 「ねえ、あれなんだろう、見に行こうよ!」って。

 香蓮はもちろん反対した。

 「危ないよ」「お父さんたちの見える場所であそばないと」って。


 けれど私は幼児ならではの好奇心を、その欲求を押さえつけきることができなかった。

 香蓮の手を無理やり引っ張って、ついにその手に届くところまで来た。


 その時だった。


 薮からいきなり大きな手が出てきて、私達を一網打尽にした。

 わけが分からなかった。

 ただ風船が気になって取りにいっただけなのに、口を塞がれて、拘束されて。

 なんとか死にもの狂いで抜け出して、急いで逃げようとして。

 

 けれども香蓮は男たちから逃れることができずにいた。

 男に圧倒される香蓮を見て、私の足は竦んでしまった。

 

 どうにかしなきゃ、助けを呼ばなきゃ。けど、声が出ない。どうしよう、どうしようと。

 人生の中で初めて経験した危機に、頭の中は堂々巡りになっていた。

 もう一人の男が私を捕まえようとしている手が見えなくなるまでに。


 結局私達はそのまま捕まって麻袋の中に入れられたうえで、車の中に投げ入れられた。

 後で分かったことだけど、身代金目的の誘拐犯だったらしい。

 そんなこと知りもしない私達は暖房もない車内で、麻袋越しにお互いの体温と体の震えを感じながら寒さを凌ぐしかなかった。


 しばらく車に揺られていると、車が何かにぶつかる音と共に「止まりなさい」だとか「止まらないと撃つぞ」だのという警告が聞こえてきた。

 車同士が体当たりしていたと思わしき車の揺れに2人でお互い怖がりながらも耐えた。耐えるしかなかった。


 ある時車がいきなり静止すると、麻袋の外側から私の体を触る感触があった。

 誘われるがままに麻袋から顔を出す。久しぶりの外の光に目を細めると、そこには覚えのない顔があった。


「怪我はないかい、嬢ちゃん。もう大丈夫だから」


 額に汗を垂らし、朗らかな顔をした男の警官の顔。

 きっと忙しい中通報を受けて駆けつけてくれた人。


 私はそんな人の顔を、ぶった。

 左腕で麻袋越しに香蓮を抱きかかえ、顔面を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにしながら、する必要のない抵抗をした。

 

 今考えればそんなことする必要はなかったと思う。

 けれどあの時の私は、そのまだ見ぬ顔が、知らない顔の人が怖くて怖くてたまらなかった。


 結局これと言った怪我もなく事件は解決した。

 近所のアパートのベランダで洗濯物を干していた住人が犯行現場を見ていて、そしてすぐに通報してくれたらしい。


 事件の事後処理もほどほどに、私と香蓮の両一家はすぐに日常に戻った。

 香蓮はその向こう一年ぐらいは大人の男の人が怖かったらしいけど、逆に言えばそれぐらいだった。


 けれど、私は違った。

 その心を、欲求を、関係を、硬い固い殻で包んで閉じこもってしまった。

 後ろのあの子が、幼稚園の先生が、道で通り過ぎたおじさんが裏にどんな顔を隠しているのか分からない。

 それが、たまらなく怖かった。


 何より私が好奇心を曝け出した結果、たった一人の友だちを危険な目に遭わせてしまった。

 それに対する必要のない贖罪の意識が、硬い固い殻を外側から更に覆い、包んだ。


 今でこそ多少はマシになったと思う。

 義務感からと言えど他人と関係は持つようになったし、勉強にその意識は支障をきたしていない。

 

 けれど、新しい場所に行く時、新しい環境に身を置く時。

 罪と義務の意識が、私の後ろ髪を引く。

 何より、私自身がその意識を肯定している。


 中学二年の時だってそうだ。

 香蓮のことを盗撮した男子のスマホから無理やりその写真を消させたことは記憶に新しい。

 それだって元はと言えば、香蓮が通っている塾のことを口にしてしまったのが原因だ。

 その結果私はクラスでハブにされて苦労した……けれど、私の苦労だけで香蓮や若菜が楽になるならマシだ。


 どんな代償を払っても、友達を、親を危険に遭わせるよりはマシ。

 仮にこの考え方が社会で生きていくうえで邪魔になったとしても、どうにかなる。だって、社会は広いんだから。

 こんな私でも身を置ける場所が1つや2つぐらいあるはずだ。

 きっと。


 それにだよ。

 香蓮からの提案とは言え、新しいことに挑戦してみた結果こうなった。

 私だけじゃなくて、香蓮を危険な目に遭わせてしまった。

 こうなるぐらいなら、いつも通り香蓮や若菜と買い食いでもしながら帰れば良かったんだ。


 もし私があそこで死ななくてそのまま人生が続いたとしても、きっと私はこうし続けたと思う。

 なにか大きな壁にぶち当たっても、私はこうし続けなきゃいけないんだ。こうし続けなければならないんだ。


 ……それにしても、私の人生ここで終わりか。

 今はただただ、香蓮のことが心配だな。


 正直、未練だらけの人生だったな……。

 そうして私の頭の中で広げられていた夢は、光が一点に収束するようにして終わった。

 私の意識は、真っ黒な光に包まれた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 目が覚めると途方もなく広く、天と地の境目。地平線が無い真っ白な空間にいた。

 冷たく、冬の終わりに出た霧の日のような空気。

 

「……?」

 

 まださっきの夢がまだ終わっていなかったの?

 けれど、そんな感じはしないんだよね……。

 体が自由に動くし。

 夢だとか、走馬灯の類じゃない気がする。

 きちんと意識がある。

 

 そう思った瞬間、私はタコ男の体から滑り落ちたことを思い出した。

 ぼんやりとした意識が一転、視界がクリアになる。

 それと同時に、とっさに自分の身体を触った。

 腰、腕、首。

 どこを確認しても、血は一滴も出ていないどころかかすり傷すらなかった。

 痛みもない。

 

 となるとこれがあの世なのかな……?

 意識があるのも変な話だけど、あの高さから落下して無事なはずがないし。


 もしかすれば、今にもこの地平線の向こうから閻魔様が出てきてこれから極楽行きか地獄行きかの裁判が始まるのかもしれない。

 ま、そんなことないか。

 

 ならここはどこなんだろう?

 っと、いつまでも尻もちをついていても仕方がない。

 手をついて立ち上がろうとすると、手のひらにひんやりとした感触が。

 床は巨大な一枚の石英のみたいだ。

 

 今のところ、この場所に心当たりはない。

 けれど、なんとなくだが死んだ感じがしない。

 落下の「瞬間」だけ、明確に憶えがないんだよね。

 

「……さい。……来てください」

 

 な、何!?

 

 どこからか声がする。

 回りをキョロキョロと見回しても、その声の主は見当たらない。

 

 けれどよくよく考えてみると、私はあの声が……?

 耳で聞いたんじゃなく、脳みそに直接情報が流し込まれた……みたいな。

 まるで強制的に他人の脳内の中身を見せつけられているような不快な感覚。

 な、なんだこれ……気持ち悪い……。

 

 にしても来てくださいって、いったいどこに?

 どこかを指し示す目印があるわけでもないし……。


 そこで私は周囲を囲む霧の中に、一際暗い部分があることに気がついた。

 まるで何かが、あそこにあるみたいな。

 行く宛もない。ここで座り込んでいても仕方がない。

 私はそこめがけて向かっていくことにした。

 

 

 霧の中を進んでいると、霧の奥にぼんやりとした巨大な影を見た。

 その影に取り憑かれたように更に進む。

 

 その影の輪郭がある程度見えてきた時、目の前に透明な壁があることに気がついた。

 今はこれより先には進めないみたい。

 

「……来たようですね」

 

 また脳内に言葉を流し込まれた。

 けどなんでだろう。

 この「影」が私に語りかけてきていることだけはよく分かる。

 

「あなたは誰?ここはどこ?」

 

 影は黙ったままだ。

 

「閻魔様か何かなら、私を天国行きにしてもらわないと困るわ。あんな最期だったのに、死後まで地獄なんてのは御免だわ」

 

 強がるために放ったこの言葉は「……まずは、自己紹介をしましょう」という言葉の前に掻き消されてしまった。

 

「……私は……」

「そうじゃなくて、あなたは何者なのかってことが知りたいの」

 

 影はまた黙りこくった。

 私が話を遮ってしまったのは分かるが、私は不安だった。

 見知らぬ場所。

 見知らぬ影。

 見知らぬ感覚。

 いち早くこの「恐怖」を解消したかった。

 こいつの名前など知っても、この恐怖を紛らわすことなどできない。

 

「……私の名前なぞどうでもいいだなんて、酷いですね」

 

 まあ、確かにそれは言いすぎたかもしれない……ってあれ?

 私は今、何も言葉を発していなかったはず。

 無意識の隙に口から漏れたのかな……?

 

「……安心してください。私は、あなたが何を考えているか分かるだけです」

 

 影のその言葉は、私に「こいつはいよいよ只者ではない」と確信させるには十分すぎた。

 影は混乱する私を尻目に、「本題に戻りましょう」と囁いて語りを続ける。

 

「……私のすべてを明かすことはできません。けれど、今はとある”概念”であるとだけ言っておきましょう」

 

 概念……?

 概念って、どんな概念だろう?

 例えば生や死?他には感情だとか、言葉だとか……?

 そんなことを頭の中で思っていたけど、それは軽々と無視された。

 

「……ここがどこかも気になるということでしたね。ここは私とあなたの精神世界の境目。あなたと私の間に掛けられた、架け橋の上のようなものです。しかし、今はそのようなことはどうでも良いのです」

 

 そして影はまた話をそらす。

 ……けれど、影はここが精神世界と言った。

 なら、私は死んでいない。

 香蓮を助けに行けるはずだ。


「私の友達が危険な目に遭ってるの。どうにかして帰りたいんだけど……どうしたら良いの?」

「……私がその気になれば今すぐ帰すことも出来ますが……しかし、今戻ってどうするというのですか?今無策に戻ってもあそこで体がバラバラになって死ぬだけですよ?」

 

 ……なんか、私の弱みをこれでもかと言うほど強調されているような感じがして、言葉を流し込まれる感覚と重なって気分が悪い。

 

「……私はあなたの弱みに漬け込むつもりはありません。安心してください。私はあなたの味方です」

 

 そう言われても、私の不安は晴れない。

 逆にこの状況でこいつを信頼できる人間がいったいどれほどいるかという話だ。

 

 影は「……そうですよね、不安ですよね。ですけど、私に任せてください。大丈夫です」と語りかけてくるが、どう言われても不安なものは不安だ。

 

 第一、今からじゃどうしようもない。

 こいつに私の状況をどうこうできる力があるようにも思えないし。

 

「……私ならば、あなたのあの危機的状況を救えます」


 その言葉に、私の耳がピクリと動く。

 あなたを救える。影は、私に対してそう言った。


 あの、ものの数秒も経てば四肢がバラバラになっていてもおかしくないほどの危機的状況から、私を救える。

 それが本当なら魅力的にもほどがあるけど、どうにも胡散臭い。

 確かにこの影はどこか不思議な雰囲気を纏っているけれど、私はこいつが何をできるのか知らない。

 

 仮にこれが本当だったとして、何かひどい代償がつきまとうかもしれないし。

 それは嫌だ。

 そう思案すると、影は曖昧な返事を返してきた。

 

「……捉えようによっては、タダとも捉えられますし、酷い代償を背負わされるとも捉えられます」

 

 何を言ってるの……?

 まるでイエスとノーが両立するかのように。

 

「……どういうこと?」

 

 その滅茶苦茶な発言に対して、思わず発する必要のない言葉を発した。

 けれども影はそれを無視して説明を始めた。

 

「……あなたも、あの男から聞いたでしょう。あなたは選ばれたのです」

 

 あの男……?

 ルイのことかな。

 選ばれただのなんだのと知らないけど、私はそんなものに応募した覚えはない。

 

「……当たり前でしょう。なんせ、あなたは私から選んだのですから、あなたが選ばれたことを知らないのも当たり前です」

 

 ……嘘でしょ?

 勝手に選ばれたって?

 勝手に選びはじめて、私が選ばれて、その上で追われて死にかけて。

 迷惑にも程があるでしょ……。

 

「……それは謝罪しましょう。私も声をかけるのが遅すぎました」

 

 私はいつしか、この影との会話に声を発しなくなっていた。

 頭の中を読まれるのは少し不快だけど、私が頭の中で思ったことに対してあちらが即座に返事をするので言葉を発する必要がない。

 

「……ふん、便利でしょう?」

 

 影はどこか誇らしげだ。別に褒めてはないんだけど。

 

「……話を本題に戻しましょう」

 

 そして影は話を続ける。

 

「……つまるところ、代償がタダとも大きなものとも取れるのは、あなたが生きている限りはその義務からは逃れられないからです」

 

 ……ていうと?

 

「ルイのようにあなたを味方に引き込みたい者、そしてあなたを殺したい者。そういった者は今後どんどん増えていきます」

 

 どちらにしろ受ける代償なのだから、今負っても後から負ってもそう対して変わらない、ってこと?

 

「そのとおりです。話が早くて助かります」

 

 ちょっと上から目線なのはきっと気のせいだろう。うん。

 

「むしろ、今背負っていたほうが良いまであります。あの男は、きっと頼りになる。このゲームで、手放しに信頼できる数少ない人物です。ならば、今このタイミングから”代償”を負うのは最適なタイミングでしょう」

 

 とは言ってもね……。

 まだ関わり始めてそう時間が経ってないし、彼のこともよく知らない。

 何より、彼のことは信頼できるかも私には分からない。

 

「……しかし、私の命も終わりが近いです。……もっとも、あなたたち人間の寿命で考えると、ずっと、ずっと遠い未来の話ですが」


 すると、影は私を差し置いて自分語りを始めた。

 さっきは自分を概念だと称していたけれど、それなら寿命が数千、数万、あるいはそれ以上あるのも納得だ。

 

「……そのとおりです。話が通じる相手で嬉しいですね」

 

 褒められたが、相変わらず良い気はしない。

 

「……早い話、あなたを危機的状況から救う代わりに私の延命処置をしてもらいたいのです」

 

 と、影は助ける代償を出してきた。

 考えてみれば、私が負うのは「義務」であって、こいつになにかメリットがあるわけでもない。

 と考えれば、影が代償を求めてくるのも当たり前の話。

 

「……しかし、あなたに特に何かをしてもらいたいというわけではありません。今はただ、生き延びる。それだけで良いのです」

 

 生き延びる。それが、私に課される代償。

 私は死にたくない。だから私が生き延びるということに関しては特に不満はないけれど、それによって影にどんなメリットがあるのだろう?


「……私とあなたは一蓮托生。そういう運命なのです」


 なんとなく話が読めてきた気がする。

 延命処置、一蓮托生。

 私が生きている限り、この影が死ぬことはない。

 ただ、私はどれだけ頑張っても百年生きられない。

 そこはどう頑張っても約束を守れそうにない。


「……それは、あなたが考えることはありません。それをどうするか、考えるのは私の役目です」

 

 ふーん、そういうものなのか。

 なんか裏がある気もするけれど、今気にしてもしょうがない。

 

 そして影は、「しかし」とまた1つテンポを置いて話し始める。

 

「……先ほども言った通り、あの場で危機から救ってもジャンから追われているという状況は変わらないでしょう」

 

 ジャン……タコ男のことだったか。

 そういえばそんな名前だったかな。

 

 それはごもっともだ。

 元はと言えば、私がこんな状況に陥ってるのもタコ男から追われていることが原因だ。

 

「……そこでです。先程からあなたを救うと言っていますが、厳密には危機から救うのは副産物に過ぎません」

 

 どういうこと?

 話が見えてこないのだけど。

 

「……あなたに力を与えましょう」

 

 力……というと、ルイが使っていたようなあの光を飛ばすのだとか、タコ男みたいに姿を異形のものに変えるような力を私に与えるということ?

 姿が変わっちゃうようなやつは嫌だな。

 タコとかきもいし。

 

「いいえ、違います」

 

 ああ、なんだ。

 なら良いんだけど……。

 

「あの力は、その者の精神世界や生前の行いを具現化したものです」

 

 精神世界や生前の行いを具現化したもの……?

 よくわからないけど、その人特有の力ってことは分かる。

 

「……私の力を貸しましょう。しかし、貸すだけです。もし私の意向にそぐわないような行動ばかりするなら、没収するほかありません」

 

 やけに含みのある言葉。

 こいつを信じていいのか不安でしかたない。

 第一、さっきは「生き延びるだけでいい」って言ってたのに、それじゃまるで後から私に何かをやらせようとしているように思える。


「……この期に及んで、私を信頼できないと?」


 さっきまでとは一転、すこし威圧的だ。

 たしかに、今の私は四の五の言っている場合じゃないのは分かる。

 

 けれどそれとこいつを信頼できるかどうかというのは別の話だ。

 私が死ねば影もいずれ死ぬというのは、話を聞いている限りは本当なんだと思う。

 だとしてもあまりに尊大な態度なうえ言う事に含みや嘘らしき言葉がところどころに混じっている。

 

 しかし、こういう状況にあるからには信用する以外に、選択肢はない。

 

「わかりました。とりあえずだとしても、今この場で私を信頼してくれるのでしたらありがたいです」

 

 と、私が仮の信用を置いた事に大して影は喜々としていた。

 しかし、私としてもこれをそのまま呑むわけにはいかない。

 

「その代わりひとつ条件をいい?」

 

 そう久々に言葉を発し、こいつを信頼するのにひとつ条件を追加する。

 

「今後、また私の前に姿を表すことがあったら、あなたがいったい何者なのか、すこしずつでも良いから教えてちょうだい。それがあなたを信用する条件よ」

 

 何もわからずに結局良いようにされただけ、となっては私のプライドが許さない。

 あくまで、「対等な」関係を装わないと今後に支障が出る気もする。


 私は影の延命処置をして、影は私のことを助ける。

 

 そもそも今後があるのかも分からないけれど、念の為だ。

 

「……わかりました。しかし、私があなたに直接何かを教えなくとも、私が何者なのか、あなたが乗せられた運命のレールをたどっていけば分かるでしょう」

 

 答えになっているのかなっていないんだか微妙な気が……。

 まあ、いいか。

 分かるって言ってるんだから、そのうち分かるんでしょう。

 

 影は、気のせいか少しだけ上機嫌になっているように見えた。

 当たり前だ。

 なんせ、私は影が提案した条件をほぼそのまま丸々呑んだのだから。

 今更ながらこの条件を呑んで良かったのか不安にも思うけれど、時既に遅しだ。


「……ひとつ、余談にはなりますが」


 思慮に耽っていたのを一転、影の方に向き直る。


「……さきほどあなたは、私のことを”知りたい”と言いましたが……はてさて、それがあなたの本心なのですね」


 ……どういうこと?

 話が見えてこない。それがどうしたと言うの?


「……私は、あなたの人生のすべてを見てきました。あなたが見てきたもの、考えてきたもの。あなたの心情。それが、この”橋”を通じて私の元へやってくるのです」


 だからなんだって言うの……?


「……もっと、自由に生きても良いのではないのですか?」

「もっと……自由に……?」


 自由にって言ったって、すでに私は自由に生きて……。


「……いいえ、あなたはあなた自身を見えない鎖で雁字搦めにされています。それはあなたと周りの人間を守るための鎧でもありましたが、これからはその鎧でけではあなたを、あなたの大切なものを守れなくなっていくでしょう」


 私が私自身を雁字搦めに……?

 そ、それに私は今のままで上手くやっていけるし……。


 などと取り繕ってはいるけれど、動悸の加速が止まらない。

 心臓の鼓動が、吐息の間隔がどんどんと狭まっているのがありありと分かる。


「……しかし、今回の惨事もそこに原因があると賢明なあなたならば分かっているのでしょう?私が言っていることは間違ってはいな――」

「分かった!分かったから!ちゃんとルイの言うことを聞けばいいのね、そうするから……。そうするから……!」


 ……なぜかな。

 ただ自由に生きろと言われているだけなのに、言いようのない焦燥感が湧いて出る。

 なにか晒け出してはいけないものをほじくり出されようとしているような気さえする。


「……自らを押さえつけるのは苦痛でしょう。あなたが一刻も早く、その束縛から自由になれることを心から望みます」

 

 その瞬間、影の後ろから後光が差し始めた。

 私の向かい風になる形で突風が荒れ吹く。

 

「私は自由を与え、守護する者。デモクラス。あなたを現世に返し、そして危機から救い、力を与えましょう」

 

 突風によって霧が晴れ始め、影の輪郭がくっきりし始める。

 後光が眩しくよく見えなかったが、また遠のき始める意識のさなかで、その姿がくっきりと見えた。

 そして、私はデモクラスの発する言葉の違和感の正体に気がついた。

 デモクラスは私の耳に対して、音で、声で会話をしてきていた。

 

「あなたが目を覚ましたとき、あなたのそばには頼りになる味方がいます。その者を助け、そして時には助けてもらってください」

 

 その言葉の含みもさることながら、それよりも影のその形が明らかになった。

 大きく口を開け、カーテンのような翼を下ろした巨大な怪鳥の像。それが、デモクラスの正体。

 勝手に人の形をしていると思ってけれど、それは思い込みだったみたい。


「これは私とあなたの間の契約です。私はあなたを救う代わりに、力を与えます」

 

 契約。デモクラスはそう口に出した。

 私が力をもらう代わりに、あれの延命措置を手伝う。

 私が提供するものはタダ同然だけれど、どうにもそれだけだとは思えない。

 

 心の中では日常が戻ってくる可能性を信じているけれど、私はこの時点でなんとなく取り返しのつかない選択をしていたことを感づいていた。

 理由はないけれど、私の中の腹の虫がそうやって警鐘を鳴らしている。

 あのタコ男、ルイの存在、彼が戦っている「敵」、そしてあの怪鳥。

 私の身の回りが日常のそれとは大きく逸れていく。

 

「あなたに、栄光があらんことを」

 

 デモクラスのその言葉を最期に、私の意識はこの空間から消失した。

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2024年12月16日 08:00
2024年12月17日 08:00

孤高のリヴァイアサン ヘロドトスの爪の垢 @ARIKAMI

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