第6章「夏の残像と新たな導き手」
夏休みに入り、学校は静まり返る。生徒の姿はまばらで、補習や部活で登校する者がちらほら。そんな中、瑛士と千紗は許可を得て校内での追加撮影を続けていた。消えたデータを埋めるため、二人は前より綿密な計画を立て、撮影対象とタイミングを明確にしている。
しかし、まだ撮れていない重要なピースがあった。それは鷹野洋介の姿だ。彼が走る瞬間を抑えることが、この作品にとって大きな意味を持つと千紗は考えている。鷹野はクラスの象徴的存在になり得る。その意思を示すかのように、ある日、彼女は瑛士に提案した。
「明日の朝、鷹野くんがいつも走ってるって噂の土手に行ってみない? こっそり遠巻きに撮影するだけでも、素材になるかもしれない」
「盗撮みたいで悪いけど……いいの? 本人に断りは?」
「後で許可もらおう。でも、まずは彼がどんな表情で走ってるのか知りたいの。それを見ないことには何も始まらない」
千紗の眼差しは真剣だった。表面的な合意を得る前に、まず相手の本質を見る。そうしないと、交渉材料も得られないというわけだ。
翌朝、夏の湿った空気が土手を覆う中、二人は早起きして現地へ足を運んだ。草いきれの香り、遠くで鳴く鳥の声、少し汗ばむ肌。太陽が昇る前の薄い光の中で、瑛士はスマホカメラを構える。しばらく待つと、遠方に小さな人影が見えた。鋭いスピードで土手の小道を駆け上がってくる。紛れもなく鷹野洋介だ。
「すごい……」
千紗が息を呑む。鷹野の走りは、教室で見せる無愛想な表情からは想像できないほど力強く、情熱的だった。体が空気を切り裂き、筋肉が躍動しているのが遠目にもわかる。汗が額を伝い、呼気が白く見えるほどの全力疾走。まるで、自分自身の限界を叩き破ろうとするかのような烈しいエネルギーを帯びている。
瑛士はシャッターを押す指に微かな震えを感じる。これが彼の本当の姿なのか。クラスでは無口で尖った態度しか見せない鷹野が、なぜここで、誰にも見られない早朝の土手でこんな必死に走っているのか。その理由を知りたい。彼の内在する物語に触れたいと強く思う。
「撮れた?」
千紗が耳元で囁く。瑛士は頷く。
「うん、少し遠いけど、あの力強いフォームははっきり分かるよ」
「あとで鷹野くんに見せよう。彼が嫌がるかもしれないけど、この姿を映像に残したいって思ってる気持ちを伝えたら、きっとわかってくれるんじゃないかな」
千紗は小さく笑う。朝の光が彼女の瞳を淡く染めている。失敗を乗り越えた二人の意志は固く、迷いは少しずつ晴れようとしていた。
数日後、二人は校内での追加撮影を続けている中、偶然「視聴覚室」で不思議な出会いをする。視聴覚室は普段使われないことが多く、カーテンが閉められ、薄暗い空間だ。瑛士と千紗がプロジェクタを試しに使ってみようと立ち寄ると、そこには中年の男性が背を向けて何か機材をいじっていた。
「えっと、先生ですか?」
千紗が声をかけると、男性は振り返る。その人物は南野(なんの)と名乗る非常勤スタッフで、視聴覚教材の管理を担当しているらしい。色褪せたベストを着込み、丸メガネをかけ、どこか昔の映写技師を思わせる風貌。
「君たちは? こんな時期に視聴覚室で何をするつもりだい?」
穏やかな声だが、そこには古いフィルムを扱う人間特有の落ち着いた雰囲気が滲む。
事情を話すと、南野は興味深そうに頷く。
「なるほど、文化祭で映像作品ね。データを消しちゃったのか、それは災難だ。でも、映像ってのはそういうものさ。カタチがない分、失われやすい。だからこそ、残せたときにその価値が際立つんだ」
まるで映像の本質を知り尽くしているかのような口ぶりに、瑛士と千紗は惹きつけられる。
「南野さん、もしかして昔、映写技師とかやってたんですか?」
瑛士が尋ねると、南野は笑う。
「そうだね、君たちぐらいの歳の頃は自主映画を撮ってたよ。昔はフィルムでね、一度撮ったら編集もままならない、取り返しがきかない世界だった。デジタルの君たちは恵まれてる。失ったら撮り直せるんだから」
彼は懐かしむように古いフィルム缶を取り出して見せる。
「でもね、撮り直せるからといって、適当に撮っていてはダメだ。そこに込めた意志がなければ、ただの連続する画像に過ぎない。君たちが何を伝えたいのか、それを明確にすることが大事なんだ」
その言葉に瑛士と千紗はハッとする。南野はまるで彼らの迷いを見透かすかのようだ。物語性や方向性に悩み、ただ日常の断片を集めていただけでは不十分だという警句に聞こえる。
「私たちは、クラスのみんなの日常を花火のような輝きとして残したいんです」
千紗が言うと、南野は微笑む。
「花火か、それはいいね。刹那の美を捉えるには、日常との対比が必要だ。でも日常を並べるだけでは、観る人の心を揺さぶれない。そこに“人”が必要なんだ。彼らが何を思い、何に悩んでいるのか、その内側を映さないとね」
人の内面を描くこと。千紗と瑛士は同時に鷹野の姿を思い浮かべた。彼の走りにはドラマがあるはずだ。そして、麻里の求める華やかさも、彼女が本当に求めているものを映せれば、単なる派手好きな人間像から一歩踏み込めるかもしれない。
「南野さん、参考になります。もしよかったら、編集や機材の使い方で困った時、アドバイスしてくれますか?」
瑛士が頼むと、南野は肩をすくめる。
「オレにできることならね。昔取った杵柄、どれほど役に立つかわからないけど。若い君たちが何を作るのか、ちょっと興味が湧いてきたよ」
その眼差しは優しく、懐かしさと期待が入り混じっているように見えた。彼はまさに終盤に出会う“マスター”のような存在かもしれない。失敗に打ちひしがれた彼らが、新たな視点を得て飛び立つための助言者——その予感が胸を満たす。
こうして、南野という新たな導き手を得た瑛士たちは、より明確なストーリー性を作品に与えるべく、再度構成を練ることにした。人々の内面へ近づくこと、それを花火で包み込むこと。それが今、見えてきた共通のゴールだ。
放課後、視聴覚室を出た二人は、蒸し暑い廊下で顔を見合わせる。遠くでクーラーの効いた職員室から教員の話し声が響き、汗ばむシャツが背中に張り付く。何となく、世界が少しだけクリアになった気がした。
「まず、鷹野くんに正面から話してみよう。朝の土手で撮った映像もあるし、彼に見せて、『あなたを理解したいから撮らせてほしい』って素直に伝えよう」
千紗が言うと、瑛士は力強く頷く。
「うん。麻里さんに対しても、単に映えじゃなくて、彼女が何を本当に求めているかを聞いてみたい。もしかすると、彼女なりの世界観があるのかもしれない」
小さな歩みだが、確かな前進だ。この夏の残像は、いつか揺るぎない一枚のフィルムへと結晶する。そのために、彼らは走り出す。
新たな導き手を得て、失敗を糧に、再構築する勇気を手にした二人は、クラスの物語に更なる深みを与えようとしている。
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