第4章「夜の校舎と囁きのフィルム」
夏休み前の最後の数週間、クラスメイトたちへの撮影依頼が本格化した。だが、簡単にはいかない。昼休みにクラスで話し合おうとしても、皆、部活や塾、バイトの話で忙しく、なかなか真剣に耳を傾けてくれない。さらに気難しい鷹野は相変わらず協力的ではなく、麻里は「それ、本当にバズるの?」と茶化すばかり。いくつかの賛同者はいるものの、クラス全員を巻き込むのは容易ではなかった。
放課後、瑛士と千紗は試験的な撮影を始めることにした。誰もが帰り支度を始める夕暮れ時、校舎を巡り、何気ない光景をカメラに収める。窓から差し込む斜陽が廊下を薄赤く染め、掃除用具入れから漂う微かな漂白剤の匂い、遠くで音楽室から響くピアノ練習の音。五感に訴えるこうした断片を拾い集める行為は、思ったよりも楽しい。
「この影、すごく綺麗」
千紗が指差したのは、階段の踊り場に出来た窓枠の影。朝には気づかぬ光と影のコントラストが、今この時間、特別な模様を床に描いている。
「ほんとだ。あとで編集するとき、このシーンがどんな役割を果たすかな」
瑛士はスマホのカメラを向ける。ちょっとした手ブレがリアルな質感を残すだろう。プロではない、学生が撮る映像作品だからこそ、ありのままの息遣いを刻み込める気がした。
階段を昇ると、屋上に繋がる鉄の扉がある。普段は施錠されているが、今日は管理人が忘れたのか、こじ開けられそうな雰囲気だ。瑛士と千紗は悪いとは思いつつ、ほんの少し覗いてみる。
「上に行ってみる?」
千紗が小声で尋ねる。
「捕まらないかな」
「大丈夫、ちょっと見るだけ」
半ばスリルを味わいながら、二人は屋上へ上がった。そこからは校庭と街並みが一望できる。夕暮れは既に過ぎ、紫紺の空が広がり、遠くに灯る街明かりが宝石の粒のようだ。風が髪を揺らし、肌に心地よい冷たさを運ぶ。
「綺麗……」
千紗は柵に手をかけ、街のシルエットを見つめる。その横顔を瑛士はそっとカメラに収めた。彼女は恥ずかしそうに笑い、少し目を細める。
「勝手に撮っちゃダメだよ」
「ごめん、でも、今の表情すごく良かった。なんというか、何かを見つめている感じが映る」
瑛士は思わず率直な感想を口にする。彼女は頬を赤らめるが、嫌な顔はしない。
「撮るのは自由だけど、編集するときはちゃんと相談してね。私たちが撮るのはあくまでクラスみんなの日常で、私たち二人ばかり映しても仕方ないでしょ」
千紗の言葉はもっともだ。とはいえ、瑛士は心の中で、彼女との何気ない時間もフィルムの一部にしたい衝動を抑えられない。だが、その気持ちはまだはっきりと言葉にできない。
屋上で少し遊んだ後、二人は用務員が来る前に引き返す。校舎を降りる途中、真夜中の校舎を想像してみた。撮影許可さえ取れれば、誰もいない夜の教室を撮影するのも面白いかもしれない。光源は非常灯のみ、遠くで犬が吠える声が聞こえる深夜の校舎……日常の裏側に潜む静寂が、映像に不思議な深みを与えるだろう。
翌日、クラスで企画を再度説明した。プロットの仮案として、日常の断片を積み重ね、最後に花火大会をモチーフにしたシーンで収束するイメージを共有する。だが、何人かはまだ納得しない。特に麻里は「そんな地味な映像で、本当に盛り上がるの?」と首を傾げる。
「映像って、ただ撮るだけじゃつまらない。もっとキラキラした演出とか、ダンスシーンとか入れたら?」
彼女の意見は一理ある。日常をそのまま提示するだけでは退屈かもしれない。
「確かに、アクセントは必要だね。じゃあ、麻里さん、あなたが思う“キラキラ”なシーンって例えば何?」
千紗が柔らかく問い返す。
「うーん、たとえば私たち女子が放課後の教室でメイク研究とか、カフェみたいにデコレーションした特設スペースを作って、SNS映えする写真を撮るとか。そういう華やかな要素がないと、ただの地味な作品になっちゃう」
麻里は少し頬を膨らませる。
「なるほど、それも面白そう。映像全体が静かなわけじゃなくて、一部にそういう明るいシーンを差し込むことでバランスが取れるかもしれない」
千紗は即座に拒否せず、アイデアとして受け止める。その柔軟性は、クラスをまとめる上で重要な武器になりそうだ。
一方、鷹野は依然として態度が硬い。ホームルーム後、瑛士は思い切って彼に話しかけた。
「なあ、鷹野、映像のことなんだけど……」
鷹野は面倒くさそうに眉をひそめる。
「悪いけど、俺は走ること以外興味ないんだわ」
「別に無理やり撮るつもりはないんだ。でも、あんたが一瞬でも走る姿を映せたら、この映像の中で、単なる“日常”がひとつのドラマになるかもしれないって思ったんだ。俺たちにとって、鷹野はクラスの中で唯一無二の存在だから」
不器用な説得だが、瑛士は必死だった。鷹野は唇をかむように下を向く。
「唯一無二? そんな大げさな……俺はただ走ってるだけだろ」
「でも、走る姿を記録することで、あんたが何を目指してるのか、他の人にも伝わるかもしれない。俺たちの映像は、クラスメイト一人ひとりが持ってる小さな物語を浮かび上がらせたいんだ」
鷹野は無言のまま、窓外を見つめる。夏の陽光がまぶしく、運動部の掛け声が遠くから聞こえる。その背中は、何か重いものを背負っているように見えた。
その日、瑛士は一度試しに夜の校舎を撮影してみたいと千紗に提案した。許可なく夜中に入るわけにはいかないので、完全に現実的ではない案だったが、まずはイメージだけでも共有したかった。
「夜の校舎? どうして?」
「日常がない時間帯こそ、日常を際立たせる背景になるかもしれない。普段人が溢れてる廊下や教室が、誰もいないと、そこには『人がいた痕跡』だけが残る。その対比が面白いんじゃないかと思って」
千紗は微笑む。
「興味深いね。でも管理人さんに相談しないと無理だね。あるいは下校時間ギリギリに残って、夕闇の中で撮るとか。工夫すれば近い雰囲気は出せるかも」
彼女は手帳を取り出し、思いつく限りのアイデアを書き留める。その仕草は、まるで細やかな刺繍を布に施す職人のような真剣さがあった。
やがて日が傾く。下校時間間際の廊下は人がまばらで、床には長く引きずる人影が伸びている。瑛士はカメラを回しながら、その影の揺らめきを撮る。誰だかわからない生徒が歩いて行く後ろ姿、かすかな足音、かばんについた小さなマスコットが揺れる。そんな些細な映像の中に、後から意味や物語を与えるのが、この作品の醍醐味になるだろう。
翌週、少しずつ撮影素材が増えてきた。購買でパンを奪い合う男子生徒、図書室で黙々と読書する女子、理科室で試薬を前に頭を抱える化学部員。カメラを向けると、みんな少しだけ警戒した顔をするが、すぐに慣れてくる。中には「私も映してよ!」と積極的な者も現れる。そうした一つ一つが、映像のパレットに新たな色彩を加えていく。
だが、依然として難しいのは、鷹野と麻里の立ち位置だ。麻里は派手な演出を求め、鷹野は協力を拒む。クラス内には微妙な温度差が漂い、まとまりに欠ける。物語はまだバラバラのピースで、花火に包まれるクライマックスへと至る道筋が見えない。
「瑛士くん、一度ここで編集の仮組をしてみよう」
千紗が提案する。
「まだ素材が少ないけど?」
「少なくてもいい。今の段階でどんな雰囲気になるか、一度可視化すれば、クラスメイトにもわかりやすくなるかもしれない」
その言葉に瑛士は頷く。カメラだけでなく、編集という行為を通して、彼らは日常から意味を抽出しようとしている。深夜、瑛士は自分の部屋で、撮った映像をスマホとノートPCに取り込み、簡単なカットを繋いでみる。案の定、まだ脈絡はないが、雑然としたシーンが連なり、そこに校内放送で流れた軽音部の演奏音源を仮挿入するだけで、なんとなく“物語”の胎動が感じられる。
編集作業に没頭するうち、彼は自分自身がこの作品に何を求めているかをぼんやりと考え始める。クラスという集合体は、ひとつの生き物のように多面的で、矛盾を抱える。花火という象徴を得たものの、まだ芯は定まっていない。そして、千紗への想いはどうするのか? 作品を介して彼女に近づくほど、自分の中で小さな恋心が芽生えているのを感じる。しかし、その恋心が作品にどう影響するのかは、まだわからない。
夜の校舎を夢想しながら、モニタ越しに流れる映像の断片に見入る。廊下に落ちる影、屋上から見た街の灯り、花壇で揺れる花の蕾、笑うクラスメイトの横顔、その裏には語られぬ気持ちが潜んでいる。瑛士は知っている。説明できないものこそ描写に価値があるのだと。
こうして、じわりと作品は形を帯び始める。だが、そこにはまだ数多の障壁が立ち塞がる。価値観の差、協力を拒む者、華やかさを求める声、静謐さを重んじる声、それらをすべて抱き込み、青春という一度きりの季節をフィルムに焼き付けるために、彼らは試行錯誤を続ける。
夜が更け、ディスプレイの光に照らされた瑛士の顔には、不安と期待が入り混じっている。彼は自分が発した企画の芽が、どんな花を咲かせるのか知る術を持たない。ただ、歩み続けるしかないのだ。
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