第3章「花火に溶ける輪郭」
梅雨が過ぎ、夏が近づく頃、校舎の中庭では蝉の声が微かに聞こえ始めていた。あの雨の日からしばらく経ち、瑛士と千紗は、文化祭で映像作品を作る方向性を仮決定としてクラスに提示する段階に入っていた。まだ正式な合意ではないが、クラスメイトたちはぼんやりと「映像かな」という空気を受け入れつつある。だが、その中身は依然として漠然としたままで、筋書きも完成像も定まらぬまま、時間だけが刻々と過ぎてゆく。
汗ばむような放課後、窓の外には高い青空と、遠くに浮かぶ入道雲。ふと視線を下ろせば、校庭には夏期講習前の部活生たちが散り、少しずつ減った外での練習が夕暮れの影を長く落としている。教室内は、放課後ならではの緩んだ空気が流れ、机と机の隙間を抜ける風が首筋を撫でる。そんな中、瑛士は千紗と向かい合わせに座っていた。二人の間には小さなノートが開かれ、そのページにはメモ書き程度の企画案がちらほらと記されている。
「映像作品のテーマ、そろそろ絞り込まないとね」
千紗が言う。その声には微妙な焦りが混ざっている。
「うん、何かこう、物語性が欲しいんだけど、ドキュメンタリーみたいなのと、フィクションが中途半端に混ざるとぼやけるかもしれない」
瑛士はペン先でページの片隅を軽く叩く。
「みんなの日常を切り取るって言っても、撮れるものが多すぎて選びきれないしね」
「何か特別な“象徴”が欲しいかも」
千紗は考え込む。彼女の黒髪が、夕陽を受けて金の縁取りを浮かべている。ふとした瞬間、彼女はバッグから押し花を閉じ込めた栞を取り出し、光に透かすように眺めた。その繊細な花弁は色褪せていないが、何か儚い匂いをはらんでいる気がした。まるで、今この瞬間の青春を視覚化したような、淡い命の印。映像作品にも、そんな象徴が欲しいのだろう。
その日の帰り道、二人は偶然、駅前商店街で張り出されているポスターに目を止めた。夏祭りの花火大会が近いのだ。そこには「来週末、河川敷で夏の花火祭開催」と書かれていた。
「花火か……」
千紗は小さく呟く。その横顔は、何かひらめきを孕んでいるようだった。
「花火って、一瞬で消えちゃうでしょ。でも、その一瞬がすごく綺麗で、みんな笑顔になる。それって、私たちの日常にも似てると思わない?」
千紗はゆっくりと瑛士を振り返る。その瞳は透き通り、夕暮れのオレンジに溶け込んでいるかのようだ。
「なるほど、クラスのみんなの日常が、打ち上がっては消える花火みたいなものか……そういうイメージで映像を繋ぐのは面白いかも」
瑛士も頷く。象徴が見つかった気がした。花火大会をクライマックスのような存在に据え、その周辺で日常を切り取り、最後に一瞬の輝きとして放出する。青春という時期は、まるで花火のように一瞬で過ぎてしまうけれど、その一瞬は瞼に焼き付く——そんな構成を心に描き始める。
しかし、問題は山積みだった。誰がどんな役割を担うのか。撮影、編集、音楽、脚本、出演、撮影許可やスケジュール調整……特に、鷹野洋介や豊橋麻里のような、価値観が異なるクラスメイトたちをどう巻き込むかが大きな課題となる。麻里は「映え」を求め、鷹野は「無干渉」を求める。その両極をどのように織り込むか、瑛士たちは頭を悩ませた。
週末、花火大会が開かれる河川敷には、多くの屋台や人々が集まる予定だった。まだ開催前だが、瑛士と千紗は下見もかねて、夕暮れ時にその場所へと足を運んだ。川面は穏やかで、風が草を揺らし、遠くで子どもたちが水面に小石を投げては遊んでいる。露店の設営が始まり、提灯がつるされ始める。その灯りが増えるにつれ、世界は柔らかな暖色で滲んでいく。
「ここから花火が上がるんだよね」
瑛士は河川敷に腰を下ろす。地面に広がる草の青い匂いが、鼻孔をくすぐる。川面に映る夕空は茜色で、やがて闇が訪れれば、そこに火の雨が降り注ぐように花火が咲く。
千紗はそっと隣に座り、髪が微かに瑛士の肩先に触れる。その触感は極めて軽やかで、まるで蝶が羽ばたいたかのように繊細だ。
「花火をクライマックスとして、日常を断片的に紡ぐ。例えば、部活に打ち込む姿、教室でのちょっとした口論、屋上で風に吹かれる人影、購買でパンを買い損ねて悔しがるあの子……そんな細々したシーンを集めて、最後にドーンと花火で一つに包み込む感じかな」
千紗の声は少し上ずり、興奮を滲ませる。彼女がこの企画に抱く情熱が、瑛士の胸にも伝わる。
「うん、そのイメージ、すごくいいよ。俺、その映像を見たときに感じるかもしれない。ああ、これが僕たちの青春なんだって。何気ない瞬間を集めたら、あんなに眩しくなるんだなって」
瑛士はそう言いながら、千紗の横顔を見つめる。その瞳はすでに遠くの花火を見ているかのように、淡く輝いている。
夜になり、まだ花火大会本番には早いものの、何組かのカップルが河川敷に集まっていた。照れくさそうに手を繋ぐ二人、ベンチに並んで月を見上げる少年少女。遠くの家々からは生活音が微かに響き、風が運ぶ匂いは、川岸の湿り気を含んだ涼しさに満ちている。
「ところで、もしこれを本格的にやるなら、クラスメイトに撮影協力してもらわなきゃね」
瑛士が言うと、千紗は苦笑する。
「そうなんだよね。鷹野くんには今日、ちょっと話をしてみたんだけど、軽く無視されちゃったよ。あの人、自分が走る姿を撮られるのが嫌なんだって」
「なんでだろう……あれだけのアスリートなのに」
「私もよくわからない。でも、拒絶には拒絶の理由があるはずだから、あまり強引に迫らず、少しずつ理解してみようと思う」
千紗の声には、諦めでなく、むしろ探求心が混ざる。彼女は人の内面に潜む物語を知りたいのだろう。花火のように打ち上がる派手な瞬間だけでなく、人が秘める静かな闇や葛藤にも興味を持っている。その柔軟な姿勢が、瑛士にはまぶしく映る。
翌週、花火大会の本番の日が来た。と言っても、映像製作の方はまだ準備段階。千紗と瑛士は、ひとまず個人的なリサーチとして、二人で花火を見に行くことにした。「デートみたい」と麻里にからかわれたが、彼女のことは気にしない。二人とも浴衣は着ていないが、少しだけおしゃれをして、待ち合わせ場所へ向かった。
人混みの中、提灯の明かりが揺れる。金魚すくい、射的、かき氷、綿菓子……祭り独特の匂いと音が五感を刺激する。背後ではどこかの屋台から昭和歌謡らしきBGMが流れ、遠くで子どもの笑い声が跳ねている。千紗はかき氷のブルーハワイ味を買い、瑛士は焼きそばを頬張る。二人は河川敷へと続く土手に腰を下ろした。
「もうすぐ始まるね」
千紗は空を見上げる。星はほとんど見えないが、闇は深く、期待だけが胸を膨らませる。やがて、一発の花火が夜空を裂く。白い閃光が一瞬走った後、ドォンという腹に響く音が広がった。そして、闇を背景に、色とりどりの花弁がこぼれるように咲き乱れる。赤、青、緑、金、紫……次々と打ち上がる光の花。人々は歓声を上げ、ざわめきが風に乗って耳をくすぐる。
千紗はその瞬間をまばたきせず見つめている。瑛士も無言で見上げる。その光景は圧倒的で、一瞬で、刹那で、だが心に刻みつけられる。
「……これだよ」
千紗がぽつりと漏らす。
「何が?」
「私たちが撮りたいのは、こういう輝き。一瞬で消えるけど、その間に人々の心に強く残る光。それを映像に閉じ込めたいんだ、クラスのみんなの日常を、こんな風に記憶に残る花火みたいにね」
その言葉を受けた瑛士は、胸の奥に暖かい炎が宿るのを感じる。彼女の想いは明確だ。日常の断片を拾い上げ、それをクライマックスの花火で包み込み、一つの輝きに仕立て上げる。そのアイデアに賛同する生徒もいれば、首をかしげる生徒もいるだろう。でも、この一瞬の美をフィルムに焼き付けることができたら——そう想像するだけで、彼の心は躍る。
花火が次々と上がるたびに、千紗は微笑み、瑛士はその横顔を心に焼き付ける。彼女の輪郭が、花火の閃光に溶け込み、揺らめく光の粒となって瑛士の視界に舞う。遠くで誰かが拍手をし、恋人たちが肩を寄せ合い、友人たちがはしゃぐ中、この二人は新たな物語の輪郭を手に入れた。
花火はやがて消える。空には再び闇が降り、煙が薄く残る。だが、その余韻は強く残った。打ち上げられた光は、人々の記憶に焼き付いたまま、それぞれの帰路へと散っていくようだ。
河川敷を歩きながら、千紗は言う。
「ねえ、これから本格的にクラスのみんなに声をかけて、撮影を始めよう。最初は小さなことからでいい。例えば、通学路、部活の練習風景、放課後の教室、何気ない仕草、笑顔、泣き顔……そういうのを少しずつ集めていこう。花火みたいなクライマックスに結実させるために」
瑛士は頷く。既に頭の中でカメラワークや編集の流れを思い描き始めている。彼はまだ何者でもない平凡な生徒だったが、この映像制作を通じて、自分が何を求めているのかを知りたいと思うようになっていた。それは、他者を理解し、そして千紗に近づくことで、自分自身の価値を再発見する行為かもしれない。
夏の夜風が袖を揺らす。遠くで最後の一発が遅れて打ち上がり、その小さな閃光が二人の背中を照らし、すぐに消える。その刹那、瑛士は自分の心が不可逆的に動き始めていることを感じた。千紗の存在は、静かな導き手のように、彼を未知の世界へ誘っている。
クラスの価値観の差異は依然として大きく、その先には困難が待ち受けている。誰もが自分の世界を持ち、その世界を他者と共有することに躊躇いを抱いている。それでも、花火に溶けた輪郭が教えてくれる。求めるものは、束の間の輝きの中に隠されている。日常という茫漠たる空間に、カメラを通して光を見出し、それを一編の映像詩へと編む。その挑戦は、瑛士と千紗をさらなる深みへと導くに違いない。
花火の余韻を背に、二人は闇に溶けるように家路へと向かう。視界にはもう花火はないが、その記憶が心の中でゆらゆらと光る。こうして、彼らは次のステップを踏み出した。青春を切り取る大胆な試みが、確実に始まっている。
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