第2章「雨の廊下に映る笑顔」

 雨が降り出したのは、翌日の昼休みだった。窓の外、灰色の雲が絡みつくように低く垂れ込め、校舎の屋根に細い雨脚が音を刻む。教室の空気は湿り気を帯び、窓際に置かれた鉢植えの花が、水滴を受けて艶めいている。瑛士は弁当箱を開きながら、時折窓を見やる。校舎裏の小さな中庭で、誰かが傘をさして歩いているのがぼんやりと見えた。


 クラスは文化祭の方向性についての雑談でざわついていた。まだ決定は先だが、有坂千紗の提案した映像作品のアイデアは、一部の生徒に興味を引き起こしているらしい。その一方で、豊橋麻里たちは、より派手な演劇かダンスショーを推していた。鷹野洋介は、気乗りしない態度のまま、興味なさげに机に突っ伏している。この不揃いな価値観が、どのように交差し、また衝突するのか——それを思うと、瑛士は奇妙な不安と期待を感じる。


 昼休み、瑛士は少し勇気を出して有坂千紗に声をかけた。

 「映像作品のことで、もう少し聞いていい? どんな内容を考えてるの?」

 千紗は雨に霞む窓ガラスを見つめていたが、瑛士の声に振り返ると、微笑んで机を軽く叩いた。

 「うん、まだ漠然としてるけど、クラスの日常を切り取るようなものが作れたらと思うの。例えば、何気なく過ぎていく毎日の中にも、小さなドラマがあるでしょ? 勉強、部活、友達関係、恋愛……そういう断片を組み合わせて、普段気づかない輝きを映像で表したいなって」

 彼女の声は、雨のささやきに溶け込むようにしっとりと響く。恋愛という言葉がさらりと出たことに、瑛士は少しだけ胸がざわめく。

 「なるほど、ただのドキュメンタリーじゃなくて、少し物語性をもたせるんだ」

 「そう。記録とフィクションの中間みたいな感じ。それに、みんなが協力してくれれば、いろんな視点から面白い素材が集まると思うの」

 瑛士は頷く。彼女が目指すのは、日常の再発見なのかもしれない。学校という閉じた舞台の中に、どれほどの物語が隠れているだろうか。彼自身も、その日常の一部として、これまで気づかなかった何かを見出せるかもしれない。そのプロセスは、まるで未知の泉を掘り当てるような行為だ。


 千紗はふと、窓の方へ目をやる。

 「雨、すごく静かでしょう? 廊下を歩いてみようよ。何かインスピレーションが湧くかもしれない」

 そう言って立ち上がる彼女に、瑛士は戸惑いつつも付いて行く。弁当箱を片づけ、廊下へ出る。外は雨音が校舎を包み込み、廊下は外光を柔らかく反射している。しんとした空気の中を二人で歩く。

 濡れた校庭が見下ろせる窓際を通ると、遠くで野球部が中止になった練習の代わりに室内トレーニングをしている様子が見える。廊下を曲がると、美術室前には小さな作品が並べられている。油絵の匂いが微かに鼻を掠め、ペンキや粘土、石膏の残り香が混じり合う。五感が研ぎ澄まされていくようだ。


 「映像作品には、音楽も必要かな?」

 瑛士が問いかけると、千紗は首を傾げる。

 「音楽は重要だよね。でも選曲が難しいな……著作権とかもあるし。自作の音源を作れる人がいればいいんだけど」

 「自作……誰ができるんだろう」

 「わからないけど、まずは人材探しだね。こうやって歩いてると、誰が何に秀でているか、少しずつ見えてくる気がする」

 彼女の言葉には、クラスを一つの生き物として捉える視点が感じられる。群体としてのクラス、その中の多様な才能と価値観が交差する様子を、彼女は映像で表現したいのかもしれない。


 二人が廊下の曲がり角を曲がったとき、誰かがぶつかってきた。

 「あ、悪い」

 ぶつかってきたのは、鷹野洋介だった。彼は水滴のついたスポーツバッグを肩にかけ、不機嫌そうな眉間の皺を刻んでいる。

 「お前ら、こんな廊下で何してんだよ」

 その声には苛立ちが滲む。瑛士は少し怯むが、千紗は落ち着いた声で答える。

 「ちょっと、教室にないインスピレーションを探しにね。鷹野くんは?」

 鷹野は鼻を鳴らし、遠くを睨む。

 「雨で練習中止。退屈だから歩いてただけだ」

 「そうなんだ。ところで、文化祭の映像作品、もしやることになったら協力してくれないかな?」

 意外なほど直球で頼みこむ千紗。鷹野は露骨に嫌な顔をする。

 「俺は映像だの芸術だの興味ない。走ってるときが一番楽なんだ。どうせ無理強いするんだろ? そういうの、ほんとごめんだね」

 彼の価値観は単純明快。走ること、記録を更新すること、それ以外は意味が薄いらしい。

 「無理強いはしないよ、ただ、君の走る姿だって、クラスの一部なんだから」

 千紗は静かに言う。鷹野は苦々しい表情で、それを聞き流すように廊下を歩き去る。雨音に紛れて消える足音。その背中を見送り、千紗は小さく溜め息をついた。

 「やっぱり簡単にはいかないね」

 「まあ、全員が納得するのは難しいかも」

 瑛士が肩をすくめると、千紗は廊下の窓に映る自分たちの姿を見つめる。ガラス越しに揺れる影。その中で、千紗の横顔は少し沈んでいるようにも見えた。だが、すぐに彼女は首を振り、笑みを浮かべる。

 「でも、だからこそ面白い。価値観が違う人たちをどう紡いでいくか。それがこのクラスの物語になるんじゃないかな」


 雨の廊下を歩き、二人は食堂へと足を延ばしてみる。そこには普段あまり気にかけない光景が広がっていた。学食の窓には雨粒が細かく並び、外の景色が波打つように歪んで見える。購買でパンを買い求める下級生の列、試食コーナーの小さな匂い、揚げ物が揚がる音、スープが蒸気を立ち昇らせる湯気……すべてが五感を刺激する。こうした日常の断片を繋ぎ合わせて、映像作品にしたら、どんな世界が生まれるのだろう。瑛士は少し想像してみる。そして、その想像の中にいつしか有坂千紗の姿があることに気づく。彼女の存在が、日常を新鮮なフィルターを通して見せてくれるのだ。


 「さっきの鷹野くんみたいに、抵抗を示す人は他にもいるかもね」

 千紗は座席に座り、窓外を見つめながら言う。

 「うん。でも、彼にも何か思いがあるんだと思う。あんなに人に興味を示さないのは、何かしら理由があるんじゃないかな?」

 瑛士の何気ない推測。千紗は微笑んで頷く。

 「そうだね。人にはみんな物語がある。私たちが見ていないだけ。だから面白いんだよ。私、もっと知りたいな、みんなのこと」

 その瞳は、雨の色を映し込んでいるようで、淡く揺れる灰青色を帯びて見えた。彼女は決して多弁ではないが、一言一言が静かな熱を孕んでいる。それは小さな炎のような魅力だった。


 雨は放課後になっても止まなかった。その日は特別な用事もなく、二人は昇降口まで一緒に戻る。廊下には灯りがともり、雨音が校舎全体を優しく包んでいる。窓ガラス越しに見るグラウンドは水溜まりが広がり、小さな鏡のように天井の蛍光灯を反射している。


 「今日はありがとう。なんだか、ただ話をして歩いただけなのに、少し作品のイメージが広がった気がする」

 千紗が笑う。その笑顔はどこか艶やかで、雨に濡れた花のようにみずみずしい。

 「俺も面白かったよ。こんな風に学校を歩き回るなんてあんまりないし」

 「ね。そうだ、もし映像作品を本格的に作ることになったら、瑛士くんにはカメラを回す役とかお願いできるかな?」

 瑛士は一瞬戸惑う。カメラの扱いなんて詳しくは知らない。だが、彼女からの信頼を感じて、断る理由が見つからない。

 「いいよ。俺、勉強してみる。スマホで撮るだけでもいいかもね」

 「ありがとう」

 千紗はカバンから小さなメモ帳を取り出し、何かを書きつける。雨音が静かな伴奏になり、二人の間には、会話とは別の言葉にならない交流が生まれているかのようだった。


 そのとき、昇降口に現れた意外な人物がいた。豊橋麻里だ。彼女は派手なピンクの傘を握りしめ、スマホを片手に見せびらかすように揺らしている。

 「あら、二人仲良しね。もしかして恋仲?」

 軽い茶化し。麻里の口調には悪意はないが、瑛士は赤面し、千紗は苦笑する。

 「そんなことないよ。文化祭の企画の話をしてただけ」

 「ふーん、まあいいや。で、その映像作品、本気でやるつもり? 私はもっと派手なことしたいけど、あんたらが面白く仕上げられるなら、考えてやってもいいけど?」

 彼女は上から目線で、スマホの画面をくるくると操作する。その表情は、クラスメイトを見下すというより、自分が中心でいたい願望を滲ませている。

 「魅力的な動画ができれば、SNSでバズるかもしれないわね」

 「バズりたいの?」

 千紗が静かに問い返すと、麻里は肩をすくめる。

 「まあ、目立って悪いことはないでしょ。注目を集めれば、それだけ将来の選択肢も広がるし」

 「そっか。みんなが納得する形を作るのは難しいけど、私たちなりに頑張ってみる。もし、結果的に華やかさが出せるなら、それも悪くないよね」

 千紗の柔軟な返答に、麻里は少し不満げだが、強く反論もせず、パチパチとまつげを瞬かせている。


 「私もさ、別に悪意で言ってるわけじゃないのよ。ただ、文化祭なんだから思いきり楽しみたいだけ。それだけ。クラスメイトがみんな真面目すぎると、つまんないじゃない?」

 麻里はそう言い残すと、さっさと靴を履き替え、ピンクの傘を開いて校門の方へ消えていく。雨粒が傘に跳ね、校舎の外では世界が少し暗く、湿り気を含んだ風が通り過ぎる。


 千紗は溜め息混じりに笑う。

 「バランスを取るのは難しいね。でも、彼女なりの理屈はあるんだろうし、私たちが見えない価値観を持っている。そういう人たちをどう映し出すか、そこが腕の見せどころだね」

 瑛士は頷く。

 「うん、いろんな人がいるね。俺、なんだか少しわくわくしてきた。上手くいくかはわからないけど」

 「わからないけど、やってみよう。そうそう、カメラの勉強とか、映像編集も少しは知っておくといいかもね」

 千紗は真剣な目つきで言う。その瞳には雨空が映り込んでいて、陰影のある輝きを宿していた。まるで、世界の曖昧さをその中に受け止めているような、そんな深い色合いだった。


 帰り道、瑛士は濡れたアスファルトを踏みしめながら考える。文化祭はまだ先だが、何かが動き始めた気がする。彼女と出会い、その提案に巻き込まれ、自分の立ち位置が少し変わりつつあるような感覚。その変化は、まだ小さな芽に過ぎないが、やがて何らかの花を咲かせるかもしれない。


 雨雲の下、通学路には傘を差す生徒たちがまばらに散らばっている。友人同士、笑い合い、ふざけ合う声、路地裏から漂うパン屋の甘い匂い、雨で清められたような淡い景色。五感が敏感になり、瑛士は自分が生きているこの瞬間のかけがえなさを感じる。青春の恋が、まだ確固たる形をとらないまま、その匂いと色彩だけを漂わせている。千紗との関わりは、単なるクラスメイトのそれを超え、瑛士の心を細かく揺らしながら、彼を次の段階へ誘っていく。


 これから訪れる困難は多いだろう。クラスの価値観はバラバラで、目標も定まらない。鷹野や麻里、その他のクラスメイトとの衝突や妥協が待ち受けているはずだ。さらに映像作品を仕上げるには撮影や編集のスキル、ストーリーの構成力、そして皆を巻き込むコミュニケーション能力が必要になる。果たして瑛士は、その困難を乗り越え、何かを完成させられるのだろうか。


 彼は自分でも知らないうちに、外的な目標(文化祭の映像作品の完成)と内的な目標(自分の生きる意味や存在意義への問いかけ)を心に宿し始めている。千紗との距離が縮まるほどに、彼は自分の内側に揺らめく感情に気づかざるを得なくなるだろう。


 雨はしとしとと降り続ける。空は曖昧な灰色のまま、夕暮れに向かってゆっくりと色を変えていく。その中で、瑛士は自分自身が変わり始めていることを、まだはっきりと意識してはいなかった。ただ、千紗の笑顔と優しい声が、心の中で弱く光を放ち、ほんの少し勇気をくれる。それは青春という、不確実で儚い季節の中で芽生える、小さな奇跡のような予感だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る