暁に揺れる花影

マイステラー

第1章「風が揺らす校門前」

 校舎の正門前には、まだ朝露を孕んだ光が、柔らかな金の線を描いていた。初夏へと移ろう季節、空は遠く淡い水彩画のような薄青色で、その中を割って吹く風が、人々の肌を優しく撫でていた。切り揃えられた校庭の芝生は、夜の間にうっすらと湿り、淡い緑の匂いを漂わせている。時計台の下には数人の生徒たちが雑談を続け、まだ半袖のシャツに慣れないのか腕をこすっている生徒もいる。この風景は決して特別ではない——地方の進学校、坂道を上った先にあるこの校舎は、決して名門校ではないが、地域でそれなりに知られた学問重視の高校だ。ただ、その朝の空気は、まるで特別な前兆を孕んでいるかのように、微かな震えを帯びていた。


 主人公・瀬尾瑛士(せお えいじ)は、校門の脇の古びたベンチに腰掛けている。彼は中背で、少し髪が伸び放題になった前髪を指先で払いのけながら、小さく息を吐く。入学してから一年が過ぎ、二年生となったこの春、新しいクラス編成の中での自分の立ち位置や、これからの自分の方向性に迷う気持ちを抱えながら、何気なく校門を眺める。その視線の先に、静かな動きがあった。正門の向こう側、小さな花壇の横には、校外から細身の影が近づいてくる。それは、一人の女子生徒だった。


 彼女の名は有坂千紗(ありさか ちさ)。瑛士とは同じクラスになったばかり。長い黒髪を低い位置で束ねている。校則は厳しくはないが、彼女はどこか規律を尊重し、同時にそれを利用して自分の世界を守っているような静けさを漂わせている。脚はすらりと長く、淡色のカーディガンを羽織った制服姿が、朝日の中で柔和な輪郭を描く。彼女のまなざしは遠く、校門前の世界より少し先の、見えぬものを探るように空を見上げていた。彼女が歩くたび、かすかな花の匂いが、あるいは彼女自身が纏う香りが、風に乗って微かに漂ってくる気がする。その匂いは、揺れる花影のような淡い面影を瑛士の中に残した。


 彼女は瑛士の存在に気づく。小さな会釈。思えばクラス替えからまだ数週間しか経っていない。瑛士は声をかけるべきか迷う。その一瞬、価値観の違いが心をかすめる。クラスの中で、瑛士は特別なポジションを持っていない。平凡な成績、平凡な交友関係、これといった目標も定まらず、部活も退屈な文化部で惰性のように続けている。彼女はどうだろう。クラスで大きく目立つわけではないが、彼女が教科書や参考書を開く姿には一途な集中力があり、時折発言する声は清澄な鈴音を思わせる。彼女は内に何か強い軸を持っているのではないか、と思わせる雰囲気がある。瑛士はその軸が何なのか知りたくなり、けれども何を聞けばよいのかがわからない。


 「おはよう、瀬尾くん」

 意外だった。彼女から先に話しかけてきた。柔らかい声が朝の風に混じる。その声はどこか、透明なガラスを指先でなぞるような繊細な響きを持っていた。

 「おはよう、有坂さん」

 自然と笑みが零れる。こうして言葉を交わしたのは初めてだった。「同じクラスになったね」そんな陳腐な言葉を付け足そうとして、思わず舌を噛む。彼女はふわりと笑う。

 「今日、先生たちが発表するって言ってたけど、文化祭のテーマ、どうなるんだろうね」

 話題は意外な方向へ転がる。今度の文化祭は秋。まだ時間はあるが、クラスで何をするか決める必要がある。彼女がそんな先の話をするのは少し意外だ。それを機に、彼女もこれからの学校生活に何か小さな期待や不安を抱いているのだろうか、と瑛士は思う。外的目標というには曖昧なテーマだが、クラスの演劇や展示をどう形にするかは、個々人の小さな価値観をぶつけ合う場にもなり得る。

 「そうだね、演劇か映像作品とか、うちのクラスはいろいろ案が出てたけど、最終的にどうなるやら……」

 「なんだか、まとまりそうにないよね」

 ふ、と有坂千紗は微笑む。その微笑みには、諦観というより、むしろ面白がる余裕が感じられる。


 チャイムが控えめに鳴り、ホームルームの時間が近づく。

 「じゃ、教室行こっか」

 彼女は先に歩き出す。動くたびに揺れる髪、その髪先が朝日を掠めて細く光っている。瑛士は彼女の後ろ姿を追いながら、心に小さな違和感と期待を芽生えさせていた。自分とは違う何かを持つ人が、同じ景色を見る場所にいる。そのことが、次第に瑛士の内部で揺らめく感情へと転じていく。


 新しいクラスは、幅広い個性の交差点となっていた。教室に入ると、窓際には背が高くシャープな印象の男子、鷹野洋介(たかの ようすけ)が腕組みをして窓外を見ている。運動部で知られ、校内記録をいくつも持つスプリンターだが、性格は無骨で、周囲と打ち解けにくいらしい。彼は外界の風景を睥睨するように見つめ、気怠げな空気を纏っている。その視線の先には校庭で走る一年生たちがいる。彼はなぜか、そんな光景に冷たい目を向けている。


 また、後ろの席では、派手めの髪飾りをつけた女子生徒、豊橋麻里(とよはし まり)が、自分のスマホをこっそり覗き込むように笑っている。教科書に挟んだスマホから流れる小さな音。ルール違反すれすれの行為だ。彼女は周囲に馴染みやすく、友人も多いが、その内面を探ろうとすると、どこか平坦で浅い感情しか見せないような印象がある。価値観の違いを内包しながら、不安定に揺れ続けるクラスという空間。その中で有坂千紗は、静かな微笑みで席につく。彼女の机上には小さな押し花を閉じ込めた栞が置かれていて、その細工は繊細で、紙越しに花の香りが漂うような錯覚を呼ぶ。


 担任の山之内先生が入ってくる。白髪が混じり始めた中年の男性で、理系科目が得意らしく、いつも物理室に籠っている印象がある。

 「おはよう、今日は文化祭のテーマ案をみんなで確認するぞ」

 淡々と言うと、黒板にチョークで仮案を書き出す。演劇、合唱、映像作品、カフェ、ミニ講義、インスタレーションアート……どれも取り留めがなく、ある意味、どんな価値観の生徒も引き込めるが故の混沌だった。

 「多数決で決める前に、皆の意見を聞こう。どれが面白そうか、何がやりたいか、自由に言ってくれ」

 教室内に沈黙が落ちる。手を挙げる者は少ない。だが、その中で有坂千紗が、小さく手を挙げる。

 「映像作品を作ってみたいです。物語を紡ぐような、映像と音楽と、少しの語りで、私たちの日常を表現するのはどうでしょう?」

 その声は小さくとも意志を帯びていた。クラスメイトたちは意外そうな顔をする。普段あまり目立たぬ彼女から、具体的な提案が出るとは思わなかったのだろう。瑛士は隣の席から彼女を見つめる。彼女は決して派手な存在ではないが、その言葉には何かしらの「核」を感じさせる。彼女が映像という媒介を通じて伝えたいものは何なのか。その意図を知りたい気持ちが、瑛士の胸の奥を擽る。


 「なるほど、有坂の案は、身近な日常を素材にする映像作品か……」

 山之内先生が顎に手を当てる。周囲からはパラパラと軽い賛同が聞こえるが、即座に「それって地味じゃない?」という声も上がる。豊橋麻里は軽い口調で「キラキラしたいのに、なんか地味すぎる~」と笑いながら言い放つ。彼女の価値観はより派手で、わかりやすく目を引くものを求めているようだ。


 ここで瑛士は迷う。意見を言うべきか。このままでは有坂千紗が勇気を出した意見が埋もれてしまうかもしれない。彼は、これまで自分が目立った発言をしたことはないが、何となく有坂の言葉を後押ししたくなる衝動を感じる。

 「あの……俺は、映像作品もいいと思う。普段見えていない日常を、違う角度から切り取るっていうのは、むしろ意外性があるかもしれない」

 声が少し震える。周囲から興味なさげな視線もあるが、有坂千紗は振り返り、柔らかな笑みを瑛士に向けた。その笑顔には、確かな感謝の色が混じっていた。


 鷹野洋介は鼻で笑う。

 「勝手に撮影されるのは鬱陶しいな」

 彼は単純な不快感を示すが、それは彼が映像や人目にどう映るかを嫌う、自分の存在を乱されることを嫌う性質によるものだろうか。価値観の衝突が小さく芽吹く。


 いつしかホームルームの時間は過ぎ、休み時間に移行している。先生は最終決定を次回に持ち越すと言い残し、去っていった。クラスは再び緩い雑談の渦に戻る。有坂は自分の机に戻り、栞の入った教科書を手に取る。そのとき、瑛士は何か言いたくて、けれどうまく言葉にならない。何故か彼女が提案した映像作品というアイデアの行方が気になってしまう。自分は何を求めているのだろう。クラスの中で、目指すものは何なのか。全てが曖昧で、とりとめのない感覚が、胸の中で雑然と揺れている。


 窓から校庭を見下ろすと、季節は確実に前へ進んでいる。青葉は繁り、ふとした瞬間に匂う草の香りが、初夏への入り口を示しているようだ。その香りが、瑛士の心にある微かな期待を呼び覚ますような気がした。その期待とは、クラスメイトたちとの関わり合いの中で、自分がこれから紡いでいく何か——例えば青春という名の儚く移ろう熱。それは果てしなく不確かなものだが、有坂千紗との出会いが、その不確実性を心地よい刺激に変えつつある。


 その日、一日の授業が終わる頃、瑛士は昇降口で有坂千紗を見かける。遅くまで残って参考書を読み、帰り支度をしているようだった。

 「さっきはありがとう、意見を後押ししてくれて」

 そう言った彼女の声は、教室と違う静かな放課後の光に溶け込んで、柔らかく響いた。

 「いや、俺は別に……ただ、面白そうだと思ったから」

 「もし、協力してくれるなら、嬉しいかも」

 そう言って笑う彼女。淡い夕日が、昇降口のガラスに微細な埃を浮かび上がらせ、オレンジの光が二人の影を長く引っ張る。瑛士の五感は、その一瞬を鮮明に記憶する。埃っぽい光、窓の外に微かに聞こえる運動部の掛け声、かすかな汗の匂い、そして彼女の優しい眼差し。全てがこれまでの平凡な日常を、違う色合いで塗り直していく。


 こうして、静かに物語は動き出した。まだ具体的な外的目標は定まらず、ただ文化祭への一つの提案が浮上しただけ。しかし、この小さな揺らめきが、やがて大きな渦を生み、彼らの価値観と人生観を変えていくことになる。青春の中の恋は、時に不安定な足場の上で花開く。その蕾はまだ固いが、確かに存在している。光が揺らす校門前、瑛士と千紗は、互いの声を交わし、見えぬ何かに手を伸ばし始めていた。

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