父のつくる茶色い弁当

杏たま

父のつくる茶色い弁当

 ——死にたくない。死にたくない。死にたくない。


 脳裡に、両親と幼い妹の顔が浮かんでは消えていく。死に向かう戦闘機の操縦桿を握りしめる手は、血の気を失い、とうに冷たく痺れている。


 もはや爆弾と共に敵地に突っ込んだところで、戦況が大きく変わるわけがない。そんなことはわかっていた。


 表情を失ったまなこで万歳を叫んでいた仲間たちは、とうに正気を失っていたのだろう。


 死の恐怖から逃れるために。『お国のため』という大義を付与された自殺を強制される理不尽さから、目を逸らすために。


 それでも俺たちは死ににいく。もはやそれしか道はない。


 誰も彼も死にたくない。だが、おめおめと生きて帰ったところで、俺を迎える人間はだれもいない。大切な家族はとうに先の空襲で死んだのだ。


 だけど死にたくない。生きていたい。死ぬのが怖いが、生きることも等しく恐ろしい。


 戦場で戦う兵隊の命に重さなどない。国の威信だなんだと形のないものばかりにこだわるお国のお偉い連中には、戦地で恐怖と戦う兵隊などただの数字だ。ただの盤上の駒である。


 そんな奴らのために死ぬ。……否。

 俺は、俺たちは、国を守るために死ぬつもりだった。


 だけど、すでに敗北の色は濃い。これらの死に意味はない。


 ああ、死に場所が見えてきた。


 俺たちが突っ込むことで幾人もの敵兵も死ぬだろう。家族を祖国に遺し、蒼い海に骸を沈める敵国兵たちのことを、俺は憎いとは思わなかった。


 死ぬために生きている人間はいないのに。


 “戦争”という舞台で踊らされる俺たちの命は、等しく軽い。



 突撃の瞬間、まばゆい閃光が視界を包んだ——……





   

 俺は汗だくの体を跳ね上げて飛び起きた。


 夢? 違う、そんなあやふやなものじゃない。


 あれは確かに俺自身が経験したことだ。手袋の中でじっとりと冷たい汗をかいていたことも、曇った航空眼鏡に映る視界の中、仲間たちの飛行機が次々に玉砕していく大きな火花を見たことも、全て覚えている。


「あ……ああ、俺、生きてるんだ……」


 汗と涙で濡れた顔を両手でぺたぺたと触ってみる。


 これは現代で、ごく普通の男子高校生をやっている、俺だ。 


 清潔に洗われた服を着て学校へ行き、食事には困らず、ふかふかのベッドと布団に包まって眠る。それが当たり前だと思って生きてきた。


 かつてのように、命を脅かされて生きることもなく、ただ平穏に。


「やっと起きたか、大知たいち! 早く食わないと遅刻するぞ!」


 ワイシャツとスラックスを身につけた父さんが、弁当箱に残り物を詰め込んでいる。


 父さんの弁当はいつも茶色い。

 唐揚げ、肉巻き、肉じゃが、生姜焼き。この四品でローテーション。


 それは俺の好きなものばかりだけど、とにかく茶色い。


「ミニトマトでも入れてりゃ彩り面に関してはクリアだろ」といって、欠かさずミニトマトは入っている。

 

 だけど俺はミニトマトが嫌いだ。噛んだ瞬間ぷちっと弾ける感覚が生々しくて気持ち悪いから。


 中学に入ってから反抗期に突入していた俺は、父さんが作る料理に飽きていた。友達の前で、無骨な弁当箱を開くのも嫌だった。


 時間がないならお金をくれたらいい。そうすれば俺は、学食でパンでも買って食べるのに。カースト上位の派手な奴らの昼食は大体そんな感じだし、そもそも弁当を持っていくこと自体が恥ずかしい。


 だけど父さんは「こっちの方が安上がりだ」「パンより腹が膨れるし、体にいい」といって、欠かさず俺に無骨な弁当を持たせるんだ。


 ずっとそれが嫌だった。別に俺の茶色い弁当に何か言ってくる奴はいないけど、とにかく恥ずかしくて嫌だった。


「ん? どうした?」


 キッチンで弁当を詰める父さんの手元を見る。不意に近づいてきた息子の視線に戸惑う父さんの顔を、順番に見つめる。


 不器用なのに毎日家事をして、俺のためにご飯を作って、弁当まで持たせようとする父さんの顔を、久しぶりにきちんと見た気がする。


 弁当箱には生姜焼き。父さんとつまらないことで喧嘩になって、俺が食べなかった昨日の晩飯だ。


 分厚めの肉を使うからやたら硬いし、生姜は効きすぎているけれど、そのぶん脂身の甘さが引き立つ父さんの生姜焼き。詰められた白ご飯のど真ん中には、大きな梅干しが埋め込まれている。 


「……うまそう」


 ぽつり、と口から言葉が溢れる。


 戦況が悪くなるにつれ、どうせ死ぬ兵隊などに送る飯はないと言わんばかりに補給路を断ち、まともな飯が食えなかった時のひもじさと惨めさが蘇る。


 突然ぽろぽろと涙を流し始めた俺の頭に、父さんの手が乗った。


「喧嘩になっても、飯はちゃんと食えよ」

「うん……うん、ごめん」

「ほら、朝飯食え。遅刻するぞ」

「うん、いただきます。……ありがとう」


 面食らった顔をしたあと、父さんが笑う。そして「お前に食わせるのが俺の幸せなんだよ」と呟き、弁当箱を包んで俺に手渡す。


 ずっしりと重い弁当を、俺は強く胸に抱えた。





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