すんすんっ

ななみん。

第1話

「いってきまーす!」


 今日も両親に満面の笑顔を向けたあと家を出る。

 特に何かやりたい事があるわけでもなく入った。

 両親からは「とにかく卒業だけはしておきなさい」と言われてそれに従っただけの都内某所の大学。

 だからそんなに期待なんてしていなかった。

 電車にがたがたと揺られて学校ではに寝る。友達ができればまあまあ遊んで、定期試験でそこそこの評価を取っていればあとは就活。ぐだぐだと論文を書いてわくわくと卒業の日を待つだけなのだと思っていた。


 けれど今はすごく感謝している。むしろここじゃなかったらと思うとぞっとする。

 楽しみにしているのは家から学校が近いから? 良い先生に出会ったから? 良い友達が出来たから? 学食のメニューが安くて豊富だから?

 半分くらいは当てはまるかもだけど正解とはほど遠い。


 さておいて本題に入ろうかな。


 講義室に入って一番奥の列、後ろから三番目の右端の席。

 その左隣が普段空いている事を私は知っている。たまたま同じゼミになったあの人の隣に座るのが私の最近の日課。

 いつも早めに来ているらしいのは把握済み。まだ講義が始まるまで四十分以上は時間がある。今日もやっぱり本を読んでいる。

 スカイブルーのブックカバーに覆われたそれからはタイトルを確認することはできないけれど、あれはきっとお気に入りの一冊に違いない。


 ここまで見られている事をきっとあの人は知らない。でも私は別にストーカーという訳ではない。

 そう! ただ観察をしているだけ。ただの『趣味:人間観察』なだけ。

 でもちゃんと会話もするし単なる不審者の類では決してない。


春咲はるさきさん、おはよう。隣空いてる?」

「あ、おはよう……」


 空いているのは調べがついてるけど一応聞くし、私の呼び掛けには一旦手を止めて微笑む事もわかっている。

 春咲さんは一見、なにを考えているのかわからないと言われてしまうようなミステリアスな雰囲気を漂わせている。それから長身。お互い立った時私の頭がちょうど彼女の顎のあたりくらいにくるくらいの身長差だ。


 ゼミ以外での春咲さんの事はわからないから、交友関係とかは不明。趣味や好きなものについても調査中。

 ここまで言うと春咲さんのこと好きなの? と思われるかもしれない。現に友達からは生暖かい目で見られている。

 どうして皆そんなに上辺の事が気になるんだろう。


「羽鳥さん?」

「はいぃっ?」

「前から思ってたんだけど……ちょっと顔というか体が、近いような気がして」


 ハスキーな声が私の耳に突き刺さる。


「あ、ごめんごめん! 私、なんかね。パーソナルスペースが狭いみたいでついつい近づきすぎちゃうのかな? 家族にもよく言われるんだけど自分ではよく分からなくてさ」


 というのは全部嘘で分かっててやっている。私はいつも自分の席の右半分しか使わない。春咲さんと体がギリギリでつくかつかないかの位置で座っているのだ。

 確信犯という言葉はこういう時に使うのは実は誤用だというのを最近何か知ったのだけれど、それでもこれ以上にこの場面に合っているだろう言葉を私は知らない。


「そうなんだ」

「もしかして迷惑だったかな……?」


 さすがにこれはやりすぎかなと思いつつ上目遣いで尋ねてみる。


「えっと……そういう意味で言ったわけじゃないから大丈夫。ちょっとだけビックリしただけ」


 春咲さんはどこか落ち着かない様子で顔を背けた。

 なるほど、これって効果あり? さっそく"メモ"に追加しておかなければ。

 それには誰かに見られたら社会的に死ぬかもしれないことが書かれている。家族にも親友にも見せてはいけない秘密のメモなのだ。


 こうして今日も穏やかに一日が過ぎていく。

 まるで小川のせせらぎのよう。


 ああ、私は本当に幸せだ。こんな近くにいられるんだもの。

 ――私、羽鳥芽衣子はとりめいこは彼女の匂いに心奪われている。

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